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2015年10月29日 (木)

白河口の戦いと福良宿

旅の3日目。
最終日は会津若松から白河街道(国道294号)を南下し、白河口の戦い関連地をめぐりながら帰路につきます。
※一つ前の記事で取り上げた母成峠~戸ノ口原の戦いと、実際の歴史では時系列が前後しますのでご注意ください。

白河口の戦いとは、慶応4年閏4月20日に会津藩が新政府軍の進攻に備えて白河城(小峰城)を占拠したことに始まり、同年7月14日の戦闘を最後に会津・奥羽越列藩同盟(この期間中の5月に成立)軍が白河口の戦線を放棄して撤退するまでの約4ヶ月間、主な戦闘だけでも都合8度に渡って繰り広げられた戊辰戦争の一つです。
会津藩の白河城占拠の際、新選組にも白河口への出動命令が下り、山口二郎こと斎藤一率いる約130名の隊士は前藩主・松平容保に拝謁した後、白河へ赴き、7月までの白河口戦線に加わっています。

まずは、白河口戦線に於ける会津軍の後方基地とされた、白河街道の福良宿へ。

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福良の千手院
千手院は当時、会津軍の野戦病院に充てられていました。

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千手院からの福良宿の眺め

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夫婦モミ越しに千手観音堂

此戦ニテ我輩手負ヒ福良村病院ニ行ク
(島田魁「日記」)

5月27日の白河口での戦闘で負傷した島田魁もここ、千手院で療養しています。

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本堂
三つ葉葵紋(会津松平家?)も見えています。

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千手院前の街道沿いには、福良一里塚跡の碑もありました。
しかし、現在の白河街道は千手院の手前で山を大きく切り通しており、当時の街道とは少し位置がずれているように思われます。

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きっと本来の白河街道はあちらの山を越えて・・・

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現在の国道の脇を通り・・・

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こうして、やはり宿場の方へ繋がっていくこちらの道だったのではないでしょうか。

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現在の福良宿の町並み
あの鉤折れの道なんか、いかにも宿場町の名残を思わせますね。

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そして、こちらの住宅の隙間をお邪魔して奥へ進むと・・・

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福良御本陣跡の碑があります。
6月3日には新選組の面々も、福良に出陣してきた会津藩主・松平喜徳に呼び出され、

直様当村(福良)ニ罷リ出、拝謁ス。公、賜ニ金若干ヲ以ス。
(中島登「覚書」)

すぐさま福良へと駆けつけ、喜徳に拝謁して金を拝領しています。
この時の様子を、白河城下から福良へ疎開していた「山城屋」の荒井治良右衛門(福良村本陣武藤家からの養子)は;

新選組、三代口より戻、福良泊。
一統御本陣に於、御目見懇命これ有。隊長山口次郎・中隊安富才助・大将土方歳三殿・中隊長近藤早尾是は歩兵頭、小原右衛門殿隊、御本陣前にて足並三兵之芸これ有。
石橋上え御出座御覧これ有拝見。
(慶応日記)

と伝えています。
怪我の療養をしていた土方歳三も、福良へ来ていたのですね。この本陣前では、藩主御前での閲兵も行われていました。
藩主に随行していた白虎隊と、土方ら新選組との出会いのエピソードなども伝わっています。

当村病院ニテ我輩若君ヨリ自カラ廿五両金ヲ賜ハル、
(島田魁「日記」)

なお、千手院で療養中だった島田魁は、藩主自らの見舞いを受けて金25両を拝領しています。

ところで…福良を訪れた際、私は新選組が滞在していたという御用場跡を別の場所と間違えていたため、写真を撮り損ねました…(>_<)
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正しくは上写真に写る茅葺き屋根のお宅の真向かいで、黒い車が停まっている手前のスペースになります。
twitterでも誤った場所の写真を上げていたので、訂正してお詫びいたします。

さ、それでは白河へ移動します。
福良から白河へは、そのまま白河街道伝いに勢至堂峠を越えるのが一般的でしょうし、会津軍や新選組もそうしたのでしょうが、我々は馬入峠越えのルートを選択し、峠に残る堡塁跡を見に行くことにします。

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峠に差し掛かる直前、馬入新田の口留め番所跡
さぁ、いよいよ峠越え!と思った矢先・・・

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なんと…馬入峠は工事で通行止め!?
まさか日曜日も工事をしているとは思えないけど、休工日については何も書かれていないし・・・行ってみて駄目でしたでは泣くに泣けないので、ここは涙を呑んで諦めました。(>_<)

で結局、勢至堂峠越えで白河へ…(^_^;)

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白河口の戦い、その攻防の舞台となった白河(小峰)城
未だ震災の爪痕を残し、石垣修復工事が続けられています。

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青空に映えますね~♪

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白河城から東に細く伸びる台地
今でこそ宅地化されていますが、往時は広大な三の丸の北辺を守る重要な防衛構造を担っていました。

続いて城下町散策へ。

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古絵図に残る白河の城下町
下が白河城で、古絵図は上が南になっています。

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古絵図の中央に大きく描かれたクランク状の街道(奥州道中)…の今。
この先に・・・

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脇本陣柳屋

(閏4月)晦日夕七ツ時仙藩ニ右関門渡シ当隊ハ夫ヨリ本町本陣柳屋ニテ休陣ス
(島田魁「日記」)

白河口戦線に加わった斎藤一(この時点では山口二郎)率いる新選組は、こちらの脇本陣柳屋に滞在していました。

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また、明治14年の東北巡幸の折には、明治天皇も柳屋の蔵座敷にお泊りになっています。
ちなみにこの石碑の文字は東郷平八郎の筆によります。

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今は老朽化が進み、見学することも叶いません。

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これが蔵座敷かな?

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確かに老朽化は凄いけど・・・

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実は現在、柳屋の建物群を修復する計画が進んでいるのだそうです。
現場には、その完成イメージ?らしきものが貼り出されていましたが・・・どう見ても、左上に書かれてあるような「復元」(元に復する)には思えないのですが…(・・;)

※心配だったので少し調べてみましたが、白河市が工事請負業者選定のために公示した指名競争入札の書類では、工事名が「旧脇本陣柳屋旅館建造物群修復工事」となっており、あくまでも「修復」工事になるようです。
また、指名競争にした理由として;
「工事にあたっては、木造の軸組や、土壁、建具など高い歴史的価値を維持する必要があり、高度な技術力を有する伝統建築に精通し施工実績に優れている業者と契約すべき」
と書かれていましたので、きっと歴史遺産を大切に活用していけるような修復になる、と信じたいと思います。

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脇本陣柳屋の向かいには本陣もありました。
こちらはもう、何も残ってはいません。

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白河戊辰見聞館では白河口の戦い展を見学しました。
新選組の白河口の戦いでの行動がよく分かる資料本もGET☆

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少し西へ移動・・・

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こちらのクランクも古絵図に描かれています。

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この通り、●現在地と書かれたすぐ右の部分です。

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関川寺館跡の土塁と堀
関川寺の境内地は中世の居館跡とされていますが、残っている土塁の高さからして戦国期以降の改修が加えられているものと考えられています。

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関川寺境内の内側から見る土塁
墓石やサイガさんの背丈から推し測っても、その高さが分かります。

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白河駅

さて、閏4月20日の白河城占拠後、続く25日の戦闘では新政府軍の攻撃を退けた会津軍でしたが、迎えた5月1日、新政府軍は本格的な白河城奪還に動きます。
奥州道中を南方から北上し、東西にも迂回部隊を回して三方から攻め寄せる新政府軍に対し、仙台藩や二本松藩などからの増援部隊を加えた会津藩総督・西郷頼母は白河城の南、奥州道中が稲荷山に当たって鉤型に折れる松並(稲荷山の丘陵上)に主力部隊を配して新政府軍を迎え撃ちます。

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同盟軍が布陣した稲荷山と奥州道中
写真は南から撮ったもので、まさに新政府軍の目線になります。

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同じ場所の古写真
街道が右に折れている様子など、今と全く同じですね。

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この5月1日の戦闘での会津藩戦死者を弔う戦死墓と、左は銷魂碑
写真では見えませんが、「銷魂碑」の三文字は松平容保によります。

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会津藩士・田邊軍次の墓
田邊は白河口での敗戦を、白坂宿の大平八郎が新政府軍の道案内をしたことが原因と思い込み、明治3年に大平を惨殺して自害しました。

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長州大垣藩戦死六名墓
こちらは閏4月25日の戦いで戦死した長州藩士3名、大垣藩士3名のお墓です。

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同盟軍が布陣した稲荷山へ登ります。

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稲荷山から北、白河城下町方面の眺め

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稲荷山の南側には、塹壕らしき痕跡も残っていました。

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稲荷山南方の眺め
この方角から、新政府軍の主力部隊は攻め込んできました。

兵力では同盟軍2,500に対して新政府軍は約700と同盟軍が圧倒していましたが、結果は新政府軍の圧勝に終わります。
会津藩副総督・横山主税も稲荷山で戦死し、白河城は新政府軍の手に落ちました。

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稲荷山に建つ戊辰之碑と戦死者名を刻んだ銅板
この日の新政府軍戦死者は13~せいぜい20名だったのに対し、同盟軍は324名(一説には700名以上とも)にも上りました。

この後、白河口の戦いは白河城の再奪取を目指して攻撃を繰り返す同盟軍 vs それを守る新政府軍とに図式が変わりますが、その中で今回は6月12日の攻防を取り上げます。

6月12日両軍布陣図(以下:布陣図)
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:同盟軍、:新政府軍
白河城の北方、阿武隈川北岸に展開する山々に防衛陣地を構築する新政府軍に対し、同盟軍はその更に北側に布陣して攻め寄せます。

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新政府軍の防衛ラインが展開された山々
写真中央の浅い切通しは、布陣図部分になります。

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新政府軍防衛ラインから北の方角
正面の山には同盟軍の仙台藩が布陣し、左手前には新政府軍の最前線陣地が置かれていました。

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この辺りは「女石」という地名で、奥州道中(右)と白河街道(左)の追分も残ります。(布陣図
なお、布陣図(古絵図)には「会津街道」とありますが、これは白河から見た場合に会津へ向かう道になるためで、会津からここまで辿ってきた白河街道のことです。つまり、ここが白河街道の起点。

写真左、奥羽越列藩同盟軍の旗印「五芒星」の幟が見えている場所には・・・
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仙台藩士戊辰戦歿之碑
同盟軍は左右両翼の部隊を撃破され、中央の最も高い山に布陣していた仙台藩部隊は戦場に取り残されてしまいます。
事態に気付いた時には新政府軍に包囲されつつあり、慌てて撤退を開始するものの殲滅されてしまいました。

この碑は明治23年、戊辰戦争に於ける仙台藩戦死者の慰霊のため、旧藩主・伊達宗基によって建てられました。

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こちらは明治2年建立の戦死供養塔
右側面には;
慶應四戊辰年戦死
と彫り込まれていました。

こうして6月12日の同盟軍による白河城奪還作戦は失敗に終わりました。
この後も幾度か、同盟軍による白河攻略作戦が決行されますが奪還には至らず、7月、大きな犠牲ばかりを残して遂に同盟軍は白河口の戦線を放棄することになります。

同盟軍の白河口放棄により、新政府軍は更に北上して仙台藩や二本松藩らの同盟軍が拠点を置く本宮を攻略します。
これに動揺した周辺の三春藩らは降伏し、新政府軍は二本松城へと迫っていきました。

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本宮市にある安達太良神社
小高い丘の上にあり、同盟軍の拠点が置かれていました。

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安達太良神社から阿武隈川を望む。
眼下を阿武隈川に沿って奥州道中が通っており、この街道を押さえるために新政府軍は阿武隈川を渡河し、本宮を攻略しました。
※ちなみに、下に停まっている青いトラックは除染作業車でした。こちらは歴史ではない、今起きている現実。

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安達太良神社本殿の柱に残る銃弾痕
私は初め、これらは戦闘による弾痕だと思い込んでいました。しかし・・・

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こうして見ると他の場所には一切なく、ある一点に集中しています。
高さはおよそ人の頭部くらい。それが意味するものとは・・・。

本宮を攻略し、二本松城をも陥落させた新政府軍はいよいよ会津攻撃へと舵を切り、母成峠へと迫っていくのでした。
※母成峠の戦い関連記事はコチラ


さて、これにて2泊3日に及んだ会津・白河の戊辰戦争めぐりの旅レポも終了です。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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