大内宿~会津西街道を辿る
10月16~18日の3日間、母成峠の遺構踏査を主な目的とした会津~白河への旅に出かけました。
初日は東北自動車道を白河ICで下り、まずは会津西街道(会津では「下野街道」「南山道」とも)の宿場町・大内宿へ向かいます。

大内宿南側の駐車場に車を停めて歩き始めると、早速イザベラ・バードが通って来たという道が迎えてくれました。
■イザベラ・バード
イギリスの女性旅行家。明治11年(1878)に来日し、同年6月から9月までの3ヶ月をかけて日光から会津を抜け、東北各地~北海道を旅していますが、この旅の途中で大内宿にも泊まっています。

早速、大内宿のメインストリートへ・・・

大内宿の町並み
中央を通るのは勿論、会津西街道です。

脇本陣富屋

大内宿の本陣は幕末頃までには衰退して現存していませんが、跡地に同じ会津西街道沿いの川島宿や糸沢宿の本陣を参考に復元されました。
現在は「町並み展示館」として営業しています。

そしてこちらが、イザベラ・バードが泊った名主・阿部家の美濃屋。
幕末期には衰退した本陣に代わり、こちらの美濃屋が通行する大名の休憩宿にもなっていたようです。
私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。 村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。
(イザベラ・バード「日本奥地紀行」)

今でも〒マークが♪
200円で屋内も見学できます。

イザベラ・バードの泊ったお部屋
こちらのお部屋の片隅に、予想もしなかったものが展示されていました・・・

戊辰戦争で使用された砲弾
(右の薬莢は上海事変でのものだそうです)
現在は大内ダムになっている辺りから回収されたのだとか・・・確かに大内峠でも戦闘がありました。宿場は幸いにも戦火を免れましたが。

こちらは・・・弓矢!?

イザベラ・バードが書いているように、運送所を営んでいた当時の棟札の数々

囲炉裏

山間の宿場での人々の営みが感じられ、とてもいい体験になりました。

ちょうどお昼時だったので、美濃屋の分家でお蕎麦を・・・

大内宿といったら、やはりこれでょう!ねぎそば☆
葱でも意外とちゃんとすくえますし、薬味代わりにかじる葱も優しい味でした。
何よりもお蕎麦が美味しい♪

腹ごなしに見晴台へ登り、定番の一枚☆
慶応4年(1868)4月23日の宇都宮城攻防戦で足を負傷した土方歳三は、島田魁や中島登らに伴われ、今市を経て会津西街道を北上し、怪我の療養のため会津へ向かっています。
(4月)廿六日会ノ領内田島陣屋ニ至ル、(中略)大内通リヨリ廿九日会津城下七日町清水屋ヱ着ス、
(島田魁「日記」)
その道中、ここ大内宿も経由していました。
また、旧幕府脱走軍の総督・大鳥圭介も同年7月、やはり会津へ向かう道中、大内宿に泊ったことをその手記「南柯紀行」に記しています。

大内宿を抜け、北へと続く会津西街道
間違いなく、土方歳三や大鳥圭介らも通った道

街道沿いには櫻木姫のお墓もありました。
治承4年(1180)、全国の源氏に平家追討の令旨を発し、自らも源頼政と共に挙兵した以仁王。
しかし挙兵は失敗に終わって以仁王は討たれますが、大内には以仁王が密かに都を脱して大内に数日間滞在し、越後を目指して旅立っていったという伝説が残されているのだそうです。
櫻木姫はその以仁王を慕って大内まで辿り着きますが、長旅の疲れで力尽き、18歳の若さで世を去ったと伝えられています。

更に北へと伸びる会津西街道
しかし現在では、写真右奥に見えているダム(大内ダム)に分断され、街道はその湖底に沈んでしまいました。

宿場に戻って・・・

この後は車でダムの北側まで移動し、会津西街道の旧道を辿ります。
地図

大内宿を北へ抜けた会津西街道は、先ほども触れたように一旦大内ダムに分断されます(地図点線部分)が、ダム湖の先から再び続いて、その痕跡を留めているのです。

ダム湖畔の駐車スペースに車を置き、あちらの紅白のポールが立っている場所へ行くと・・・

こうして会津西街道の山道がしっかり残っていました。
まずは大内の一里塚を目指します。

歩き始めてすぐの地点で後ろを振り返ると・・・
街道脇(写真左)に気になるスペースがありました。藪に覆われていますが、じっくり調べてみると土塁らしきものに囲まれています。
街道の見張り所のようなものかもしれませんが、今はダムの湖底に沈む鞍部から大内峠に差し掛かる戦略的要地でもあり、実際に先ほどの砲弾も見つかっていることから、或いは戊辰戦争時の遺構かも・・・などと思いを巡らせました。

江戸期には、ここを多くの人々が行き交っていたのですねぇ・・・会津のお殿様も。

振り返ると大内ダム。その向こう(左奥)に大内宿があります。

切通し状の旧道
しばらく歩いているうち、旧道上に熊の落し物が置かれているのに気づいてしまいました。それも点々と三ヶ所も・・・完全に旧道が熊の通り道にもなっているようですね・・・。
これはさすがに引き返すべきかとも思いましたが、せめて一里塚だけでも見ておきたいと思い、慎重に歩を進めました。

ダム湖畔の車道から4~500mも歩いたでしょうか・・・ようやく開けた場所が見えてきました。

大内一里塚
全国的にも珍しく、街道を挟んで対で残っています。

一里塚の先にも街道は続きます。

その先には復元された峠の茶屋がある筈なのですが、熊の落し物に挫かれた我々は、安全を優先して引き返すことにしました。

一旦車に戻り、更に移動して次のポイントへ。

旧街道の丁寧な案内板がありました。
会津西街道は、会津側から見ると下野(今市)へ向かう道、になりますので「下野街道」と呼ばれます。

会津西街道、氷玉峠に残る…三郡境の塚
現在でも会津若松市・会津美里町・下郷町の境界に当たるそうです。大内宿からは約一里の地点。

この辺りの旧道もいい風情です。

会津西街道に残る石畳

この先も街道は、会津へ向けて続いていきます。
我々は車で移動しますが、その道中も地図と照らし合わせながら、会津西街道の旧道をなぞるようにして会津若松へと向かいました。
山から下りるとその殆どは舗装されていますが、しっかり残っていますよ♪

会津若松のホテルに着いて、少し周辺を散策…大町四辻
白河・二本松・米沢・越後、そして会津西街道・・・これら会津五街道の起点です。

古い道路元標も建っていました。

会津西街道を運ばれてきた土方歳三が療養した七日町清水屋旅館
我々も途中からですが同じルートを辿って来ただけに、感慨も一入です。

阿弥陀寺に残る、鶴ヶ城から移築された御三階

当然、藤田五郎(斎藤一)さんにもご挨拶。

同じく、阿弥陀寺に眠る黒河内伝五郎のお墓
勿論、東軍墓地にもお参りさせていただきました。

阿弥陀寺から少し南へ進み…長命寺へ。
戊辰戦争時の銃弾が残る土塀・・・の復元。
こちらでも「戦死墓」の東軍墓地にお参りさせていただきました。

道すがら、何かの発掘調査現場にも行きあいました。

最後に…鶴ヶ城天守、紅葉のライトアップ♪
この後はホテル近くの居酒屋で一杯☆
翌日は母成峠~戸ノ口原の古戦場へ向かいます。
初日は東北自動車道を白河ICで下り、まずは会津西街道(会津では「下野街道」「南山道」とも)の宿場町・大内宿へ向かいます。

大内宿南側の駐車場に車を停めて歩き始めると、早速イザベラ・バードが通って来たという道が迎えてくれました。
■イザベラ・バード
イギリスの女性旅行家。明治11年(1878)に来日し、同年6月から9月までの3ヶ月をかけて日光から会津を抜け、東北各地~北海道を旅していますが、この旅の途中で大内宿にも泊まっています。

早速、大内宿のメインストリートへ・・・

大内宿の町並み
中央を通るのは勿論、会津西街道です。

脇本陣富屋

大内宿の本陣は幕末頃までには衰退して現存していませんが、跡地に同じ会津西街道沿いの川島宿や糸沢宿の本陣を参考に復元されました。
現在は「町並み展示館」として営業しています。

そしてこちらが、イザベラ・バードが泊った名主・阿部家の美濃屋。
幕末期には衰退した本陣に代わり、こちらの美濃屋が通行する大名の休憩宿にもなっていたようです。
私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。 村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。
(イザベラ・バード「日本奥地紀行」)

今でも〒マークが♪
200円で屋内も見学できます。

イザベラ・バードの泊ったお部屋
こちらのお部屋の片隅に、予想もしなかったものが展示されていました・・・

戊辰戦争で使用された砲弾
(右の薬莢は上海事変でのものだそうです)
現在は大内ダムになっている辺りから回収されたのだとか・・・確かに大内峠でも戦闘がありました。宿場は幸いにも戦火を免れましたが。

こちらは・・・弓矢!?

イザベラ・バードが書いているように、運送所を営んでいた当時の棟札の数々

囲炉裏

山間の宿場での人々の営みが感じられ、とてもいい体験になりました。

ちょうどお昼時だったので、美濃屋の分家でお蕎麦を・・・

大内宿といったら、やはりこれでょう!ねぎそば☆
葱でも意外とちゃんとすくえますし、薬味代わりにかじる葱も優しい味でした。
何よりもお蕎麦が美味しい♪

腹ごなしに見晴台へ登り、定番の一枚☆
慶応4年(1868)4月23日の宇都宮城攻防戦で足を負傷した土方歳三は、島田魁や中島登らに伴われ、今市を経て会津西街道を北上し、怪我の療養のため会津へ向かっています。
(4月)廿六日会ノ領内田島陣屋ニ至ル、(中略)大内通リヨリ廿九日会津城下七日町清水屋ヱ着ス、
(島田魁「日記」)
その道中、ここ大内宿も経由していました。
また、旧幕府脱走軍の総督・大鳥圭介も同年7月、やはり会津へ向かう道中、大内宿に泊ったことをその手記「南柯紀行」に記しています。

大内宿を抜け、北へと続く会津西街道
間違いなく、土方歳三や大鳥圭介らも通った道

街道沿いには櫻木姫のお墓もありました。
治承4年(1180)、全国の源氏に平家追討の令旨を発し、自らも源頼政と共に挙兵した以仁王。
しかし挙兵は失敗に終わって以仁王は討たれますが、大内には以仁王が密かに都を脱して大内に数日間滞在し、越後を目指して旅立っていったという伝説が残されているのだそうです。
櫻木姫はその以仁王を慕って大内まで辿り着きますが、長旅の疲れで力尽き、18歳の若さで世を去ったと伝えられています。

更に北へと伸びる会津西街道
しかし現在では、写真右奥に見えているダム(大内ダム)に分断され、街道はその湖底に沈んでしまいました。

宿場に戻って・・・

この後は車でダムの北側まで移動し、会津西街道の旧道を辿ります。
地図

大内宿を北へ抜けた会津西街道は、先ほども触れたように一旦大内ダムに分断されます(地図点線部分)が、ダム湖の先から再び続いて、その痕跡を留めているのです。

ダム湖畔の駐車スペースに車を置き、あちらの紅白のポールが立っている場所へ行くと・・・

こうして会津西街道の山道がしっかり残っていました。
まずは大内の一里塚を目指します。

歩き始めてすぐの地点で後ろを振り返ると・・・
街道脇(写真左)に気になるスペースがありました。藪に覆われていますが、じっくり調べてみると土塁らしきものに囲まれています。
街道の見張り所のようなものかもしれませんが、今はダムの湖底に沈む鞍部から大内峠に差し掛かる戦略的要地でもあり、実際に先ほどの砲弾も見つかっていることから、或いは戊辰戦争時の遺構かも・・・などと思いを巡らせました。

江戸期には、ここを多くの人々が行き交っていたのですねぇ・・・会津のお殿様も。

振り返ると大内ダム。その向こう(左奥)に大内宿があります。

切通し状の旧道
しばらく歩いているうち、旧道上に熊の落し物が置かれているのに気づいてしまいました。それも点々と三ヶ所も・・・完全に旧道が熊の通り道にもなっているようですね・・・。
これはさすがに引き返すべきかとも思いましたが、せめて一里塚だけでも見ておきたいと思い、慎重に歩を進めました。

ダム湖畔の車道から4~500mも歩いたでしょうか・・・ようやく開けた場所が見えてきました。

大内一里塚
全国的にも珍しく、街道を挟んで対で残っています。

一里塚の先にも街道は続きます。

その先には復元された峠の茶屋がある筈なのですが、熊の落し物に挫かれた我々は、安全を優先して引き返すことにしました。

一旦車に戻り、更に移動して次のポイントへ。

旧街道の丁寧な案内板がありました。
会津西街道は、会津側から見ると下野(今市)へ向かう道、になりますので「下野街道」と呼ばれます。

会津西街道、氷玉峠に残る…三郡境の塚
現在でも会津若松市・会津美里町・下郷町の境界に当たるそうです。大内宿からは約一里の地点。

この辺りの旧道もいい風情です。

会津西街道に残る石畳

この先も街道は、会津へ向けて続いていきます。
我々は車で移動しますが、その道中も地図と照らし合わせながら、会津西街道の旧道をなぞるようにして会津若松へと向かいました。
山から下りるとその殆どは舗装されていますが、しっかり残っていますよ♪

会津若松のホテルに着いて、少し周辺を散策…大町四辻
白河・二本松・米沢・越後、そして会津西街道・・・これら会津五街道の起点です。

古い道路元標も建っていました。

会津西街道を運ばれてきた土方歳三が療養した七日町清水屋旅館
我々も途中からですが同じルートを辿って来ただけに、感慨も一入です。

阿弥陀寺に残る、鶴ヶ城から移築された御三階

当然、藤田五郎(斎藤一)さんにもご挨拶。

同じく、阿弥陀寺に眠る黒河内伝五郎のお墓
勿論、東軍墓地にもお参りさせていただきました。

阿弥陀寺から少し南へ進み…長命寺へ。
戊辰戦争時の銃弾が残る土塀・・・の復元。
こちらでも「戦死墓」の東軍墓地にお参りさせていただきました。

道すがら、何かの発掘調査現場にも行きあいました。

最後に…鶴ヶ城天守、紅葉のライトアップ♪
この後はホテル近くの居酒屋で一杯☆
翌日は母成峠~戸ノ口原の古戦場へ向かいます。
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