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2015年10月28日 (水)

母成峠~戸ノ口原古戦場

旅の2日目。
いよいよ、この旅最大の目的である母成峠を目指します。

朝7:30に会津若松の宿を出発し、まずは本宮市の安達太良神社を訪れたのですが、そちらはまた次の記事でご紹介します。

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南方、石莚口から見遥かす母成峠の山塊

慶応4年7月29日、二本松城を陥落させた新政府軍の攻撃目標はいよいよ会津へと移り、猪苗代湖北岸から会津城下へと迫る母成峠を、その主な進軍経路に定めます。
8月20日、母成峠を守備する同盟軍は二本松から迫る敵軍への先制攻撃を目論み、伝習隊を中央に、右翼に仙台・会津兵を、左翼に二本松兵を備えて進発しますが、いざ戦闘になると両翼の兵はろくに戦わず退却し、残された伝習隊は包囲される形となり、奮戦するも大きな損害を出してしまいます。

そして迎えた翌21日、ついに新政府軍が母成峠への攻撃を開始します。

母成峠周辺の地形図(以下:地形図)
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(大鳥)は大隊並びに二本松の兵を師いて勝岩の上に登り北方の敵に当たれり。(中略)我れに胸壁あり彼には無ければ甚だ防ぐに便なりければ、味方死傷も無く戦いを為したり、勝岩の下方には第一大隊新撰組合併の人員にて防ぎたりしが、余心元なく思い少し下りて之を見るに、
(大鳥圭介「南柯紀行」)

福良(三代口)から開戦直前に合流した新選組は、大鳥圭介率いる伝習隊と共に、東の間道からの敵(新政府軍右翼)に備えて石莚川の急崖上、銚子ヶ滝近くの勝岩付近に配備されていました。
その防衛ラインは地形図に紫のラインで示した部分になります。

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我々もまずは、この防衛ラインの踏査から開始します。

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銚子ヶ滝への山道入口
ここまでは舗装路で登って来れますが、この先は本格的な登山道になります。

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しかし周辺一帯は国有林になっており、整備も行き届いて比較的歩き易かったです。
熊の出没には勿論注意が必要ですが、シーズンであれば登山客も多く、それ程の不安は感じませんでした。

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しばらく歩くうちに…見えてきましたね。分かりますか?
※実はこの直後、私は目の前にチラついている遺構に気をとられ、坂を下り始めた途端、転がっていた細い丸太に足を乗せてしまい、仰向けにそっくり返ってしまいました。
しかも運の悪いことに背中をその丸太か岩のような硬いものに強打し、暫くは呼吸もできずに悶絶していました・・・。
いくら整備されているとはいえ、山はやはり危険。皆様も足元への注意は怠らないでください。

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これは凄い・・・!
地形図a地点に残る胸壁です。

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前週の長篠に引き続き、モデルはサイガさん(笑)
写真右手、胸壁の先は暫くはなだらかな下りですが、すぐに石莚川の急崖が落ち込んでいます。

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このような胸壁ラインが延々と1km以上も続いているのです。

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更に進むと、土塁状のものが垂直に接する不思議なポイントもありました。

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銚子ヶ滝の崖上付近には、大鳥圭介が築いた砲台堡塁も残っているはずだったのですが・・・いくら探し回っても発見に至らず、断念。(>_<)

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勝岩付近に続く胸壁
写真は地形図b地点から、崖下に銚子ヶ滝のある南西方向を向いています。緩やかな下りになっています。
新選組は勝岩の下方に配備されていたとのことですが、まさか本当に勝岩の下(崖下)で戦うはずもないので、或いはこうした傾斜の下の方にいた、ということなのかもしれません。
大鳥の記述によれば勝岩周辺での戦闘は当初、地勢や胸壁を活かして優勢に進めていたようですが、正面の守備隊が第一戦線を突破され、更に新政府軍の右翼部隊に大きく東方を迂回されるに至り、大鳥らも峠の本営(第三台場)まで後退せざるをえなくなります。
そもそも兵力を母成峠に集中させられなかった会津藩は、伝習隊や他藩兵などの応援部隊を含めても総勢800程度(新政府軍は2,200~3,000)と少なく、その程度の兵数で勝岩方面を含む、これほどの長大な防衛線を維持するのも難しかったものと思われます。

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峠に建つ母成峠古戦場の碑

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土方歳三の名もありますが・・・

福良宿本陣の武藤家から白河城下、蝋燭・油問屋「山城屋」へ養子に入っていた荒井治良右衛門は、白河口での戦火を逃れて福良に避難していた日々を綴った「慶応日記」8月19日条に;

内藤様、土方様、中地より本家へ御入り

と記しており、土方は母成峠の開戦直前の時点でもまだ、福良に滞在していたことが確認されています。
“新政府軍が石莚口(母成峠)から攻めてきそうだ”となった段階で、新選組は猪苗代へ移動して母成峠の守備隊に合流しますが、土方自身は福良に留まったようです。

ところが、母成峠での会津軍敗走直後には、

土方雉小屋脇胸壁出張、防戦す。(中略)須賀埜村に兵を集め、土方率して一戦。敗れて猪苗代に行く
(「谷口四郎兵衛日記」)

という行動が確認されていることから、福良で母成峠開戦の報を聞いた土方は急ぎ駆けつけ、母成峠後方の木地小屋で迫りくる新政府軍と戦い、峠から敗走してくる味方の兵を助けようとしていたのではないかと思われます。
彼はこの夜(21日)、猪苗代から会津藩首脳部へ兵の増強を求める手紙を認めています。

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母成峠からの眺め

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峠の駐車場近くに残る旧道…今は廃道となり、荒れ放題・・・。
この旧道の両脇に、第三台場の遺構が残されています。(地形図地点)

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まずは旧道東側から
山中の土の遺構は写真が難しいですよね…高い土塁(塁壁)の前にも並行して低い土塁(胸壁)が築かれ、銃兵陣地のようになっていました。(肉眼では明瞭)

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その塁壁の裏側

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銃兵用の塹壕

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続いて旧道西側へ
こちらの銃兵陣地は、写真でもある程度分かり易いかな?
正対すると高低2つの土塁が重なっている感じがお分かりいただけるかと…(^_^;)

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この銃兵陣地の土塁、旧道を登ってくる敵兵に正対する面(写真右手前方向)と、そこから90度に折って旧道に並行する面(写真奥)とがありました。

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その折れているコーナー部分

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旧道に並行する面はこうして、旧道を進んでくる(であろう)敵兵に横矢を掛けるための設計だったのではないでしょうか。
写真奥、土塁のようなもの(旧道を舗装する際に削られた土の盛土と思われる)が横切っている先に旧道が通っています。

さて、この第三台場まで退いた大鳥でしたが、激しい砲撃に踏み止まる兵も少なく、更には・・・

表面より敵攻め来り、防戦中、後ろ横の高き山より決死隊顕れ
(近藤芳助書簡)

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東方を迂回していた新政府軍右翼部隊に後方の山頂(勝軍山)を獲られて抗戦も叶わず、潰走するに至りました。
山上には会津藩が築いた砲台もあったはずなのですが・・・対応できなかったのでしょう。

なお、新政府軍左翼部隊は母成峠の本営後方に出て、会津軍を挟撃する作戦だったものと思われますが進軍が遅れ、到着した時には既に会津軍が敗走した後だったようです。

母成峠を突破した新政府軍は翌22日には会津藩が放棄した猪苗代城を収め、更に西へ進んで日橋川に架かる十六橋に迫ります。

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猪苗代まちのえき「まるしめ」
こちらに新政府軍の銃で撃ち抜かれた、猪苗代城の喚鐘があるとの情報で訪れました。
・・・が見当たらず、職員の女性に訊いても知らないとのこと。それでも親切にも方々に連絡を取ってくださり、ようやく現在の展示場所が判明しました。
「まるしめ」の女性職員の方、本当にありがとうございました。

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その喚鐘は現在、奇しくも猪苗代城跡下の猪苗代町図書歴史情報館「和みいな」にありました。

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銃弾痕が残る猪苗代城の喚鐘
反対側へ貫通している弾痕もありました。

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猪苗代では戦闘らしい戦闘はなかったかと思いますので、これは新政府軍兵士が戯れに発射したものと考えられます。

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母成峠から猪苗代、十六橋、戸ノ口、そして会津若松にかけての地形がよく分かる図面も展示されていました。
これ…欲しいなぁ

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戸ノ口原周辺地図(以下:地図)

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8月22日の夕刻、新政府軍が押し寄せた十六橋

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この時、会津藩の奇勝隊らが敵の進軍を阻むため、十六橋の破壊を試みていましたが、母成峠からの敗走兵の収容に手間取ったこともあって間に合わず、新政府軍の襲撃を受けて突破を許してしまいます。

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橋の脇に気になる痕跡が・・・

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こちらは…古い欄干?

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その裏。残念ながら不勉強のため、いつの時代のものかは分かりません。

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安積疏水の開削と、十六橋水門の建設に功績を残したオランダ人土木技師ファン・ドールンの銅像

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戸ノ口堰

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十六橋の架かる地点は戊辰戦争時に限らず、会津防衛の要所でした。
付近には旧二本松街道(上道)を遮るように、堀跡のような窪みと・・・

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それと並行する土塁もありました。
いつ築かれたものかは分かりませんが、戸ノ口堰とは垂直の角度(つまり違う目的で築かれた?)で、何らかの軍事的意図を以て築かれたのではないかとも思えます。

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十六橋、猪苗代方向を望む

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十六橋を越え、更に西へと続く二本松街道

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そのまましばらく西へ進むと・・・

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やがて現在の越後街道(国道49号)と交差しますが、

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旧道は更にその先へ伸びています。

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戸ノ口原へと続く二本松街道

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戸ノ口原古戦場碑
※実際に戦闘があった場所とは少し離れていると思います。

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古い絵も展示されていました。
白虎隊は塹壕に拠って戦っている(但し平地ですが)ものの、新政府軍兵士は何故か、遮るもののない原っぱに全身を晒して戦っていたかのように描かれています・・・。
これだと結果は違いましたよね?きっと…(^_^;)

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明治後期の古い道標も

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古戦場碑近くには、会津藩戦死者の墓群がありました。

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墓石側面には戦死した日付が刻まれています。

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会津藩兵(白虎隊含む)らが拠っていた陣地は、更に西へ進んだ先にあります。

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旧道好きには堪らない雰囲気・・・

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地図地点、旧道を挟んだ南北両側の小高い丘に塹壕陣地を築き、会津藩兵は布陣していました。
しかし藪がひどく、登り口も分からなかったのでここでは踏査を断念・・・。

ところが少し進んだ先の南側に、藪も少なく登り易そうな小丘があったので調べてみると・・・

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ありました、街道東方向に向いた塹壕跡と覚しき痕跡。

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構えているのは銃ではありませんが・・・こういうこと(笑)
サイガさんの腰が沈んでいるので、窪みになっていることをお分かりいただけるかと思います。

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もう一つ別の塹壕(らしき)跡の上から。写真では窪みも分からないので心の目で見てください(笑)
私の愛車が写っている辺りを旧道が通っています。完全に街道を狙っています。

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こちらは白虎隊(士中二番隊)が露営していたと云う菰土山
この後、飯盛山での悲劇へと繋がっていくのです・・・。

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会津藩二十二士の墓
戦後、辺りにうち捨てられていた遺体は近隣の人々によって集められ、6人・16人とに分けて手厚く葬られました。

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戸ノ口原を振り返って・・・
磐梯山は頭が雲に隠れてしまいました。

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更に進むと・・・

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強清水に至ります。
二本松街道はこの先、滝沢峠を経て会津城下へと続きますが、車では越えられないので今回はここまで。

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滝沢峠北側の山から会津の街を見渡す。

母成峠を突破され、城下への新政府軍本隊の侵攻を許した会津には、方々から続々と新政府軍の後続部隊が迫り、戦局は泥沼の籠城戦へと移っていくのでした・・・。


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夜はこちらのお店で慰労&反省会。
怪我というアクシデントがあり、また母成峠や戸ノ口原では回り切れなかった遺構、すっかり忘れてスルーしてしまった場所(母成峠の東軍戦死者埋葬地)もあり、個人的には収穫と同時に反省も多い一日となりました。
いずれ必ず再訪したいと思います!

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コメント

検索していて発見。懐かしいですね!猪苗代に住んでた時に2回母成の土塁を調査しました。たくさん残ってるので興奮しましたね。戸ノ口は山頂の政府軍の塹壕は発見しましたが白虎隊のは篠竹に阻まれて無理でした。

投稿: さかいさん | 2016年5月 8日 (日) 08時47分

さかいさん>
ご訪問ありがとうございます。稲苗代に住んでらしたのですね。私もこの時は全然回り切れていないので、また近いうちに再訪したいと思います。

投稿: しみず@管理人 | 2016年5月24日 (火) 08時54分

これだけたくさん残ってるのですから、整備して史跡公園として保存して欲しいと思います。

投稿: さかいさん | 2016年6月 5日 (日) 20時40分

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