長篠設楽原古戦場めぐり
五月十四日、岡崎に至りて御着陣。次の日、御逗留。十六日、牛窪の城に御泊り。
※信長公記 巻八「三州長篠御合戦の事」より抜粋。以下、特に注記ない場合は同様。
天正3年(1575)5月、長篠城を武田勝頼の軍勢に包囲された徳川家康は、同盟関係にある織田信長に援軍を要請しました。
家康の援軍要請を受けた信長は岐阜城を発し、岡崎城を経由して5月16日に伊那街道沿いの牛久保城へ入ります。

牛久保城古絵図

牛久保駅近くに建つ牛久保城址の碑
現在では宅地化も進み、殆ど城の痕跡を留めてはいませんが、駅の周辺一帯が本丸だったものと推定されています。
きっと信長も長篠へ向かう前、この付近に泊ったことでしょう。

周辺には「城跡」や、

「城下」といった地名が残されています。
また、電柱の奥を見ていただくと地形が上がっているのがお分かりになるかと思います。これも城が築かれていた段丘の名残、つまり、この坂の上が牛久保城域となります。

牛久保駅の西に鎮座する熊野神社

熊野神社前を横切る線路の向こう、森の中に気になる地形が見えています・・・

これはどう見ても堀跡でしょう?

位置関係や周辺の地勢から、古絵図★部分の堀跡と思われます。
古絵図では熊野権現は完全に城域外となりますが、この神社前の森は先ほどの「城跡」交差点の角に位置していますし、これはフォロワーさんからご指摘いただいたのですが、同じく古絵図にある上善寺との位置関係からしても、古絵図に描かれた熊野権現はもっと南西の別の場所にあり、熊野神社前の森にあったものはやはり堀跡だと考えられます。

ところで、こちらも古絵図に載っていますが、牛久保城跡には大聖寺というお寺があります。
永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討死した今川義元。
当然その首は織田軍にとられますが、胴は家臣が背負って牛久保まで逃れ、こちらのお寺に葬ったと云われています。

今川義元胴塚
義元嫡子の氏真は、実際に大聖寺で義元の三回忌法要を営んでいます。
桶狭間で明暗分かれた織田信長と今川義元。
奇しくもその15年後のほぼ同じ時期、この牛久保の地でニアミスしていたのですね・・・或いは信長は、義元の墓前に詣でたりしたのでしょうか。
※織田信長は長篠設楽原の戦い2ヶ月前の天正3年3月には、京の相国寺にて出仕してきた今川氏真と対面し、蹴鞠を披露させています。偶然は重なるものですね。

同じく大聖寺に建つ一色刑部少輔時家のお墓
彼は足利一門で、この地に最初に城郭を築いた人物と云われています。

古戦場周辺図(以下:周辺図)A
※織田・徳川連合軍が布陣した南北に連なる台地のうち、家康が布陣した南端部分のみを「弾正山」と呼ぶのかもしれませんが、本記事では便宜上、台地全体を「弾正山」として記載させていただきます。
十七日、野田原に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷、極楽寺山に御陣を据ゑられ、菅九郎、新御堂山に御陣取り。
牛久保城から伊那街道伝いに野田を経由した信長は5月18日、いよいよ武田軍が包囲する長篠城の南西5㎞地点にある極楽寺山に着陣します。(周辺図A、①)

極楽寺山のすぐ南に建つ平井神社

平井神社は極楽寺山に着陣した信長の旗本陣跡とされ、それを示す石碑も建っていました。

そして平井神社背後の・・・極楽寺山
織田信長着陣地

こちらは信長の嫡男・信忠が着陣した新御堂山
武田軍の包囲する長篠城に対し、信長本陣(極楽寺山)の前面に位置しています。(周辺図A、②)

こちらにも石碑がありました。

新御堂山、織田信忠本陣跡
代ゝをへん 松風さゆる 宮居哉
信忠はこの時、この句を社殿の羽目板に書き残しているそうですが…今はどこに保管されているのでしょう?是非拝見してみたいものです。

新御堂山麓から北東~東方向の眺め。
左に信長が戦地本陣を置く茶臼山、右は織田・徳川連合軍が布陣する弾正山(断上山とも。信長公記では「高松山」)
※なお、信長本陣の極楽寺山から主戦場となる設楽原(信長公記では「あるみ原」)方面は、北より迫る山塊の影になって見通すことができませんでした…これも作戦のうちか。
極楽寺山~新御堂山を訪れたのは旅の2日目(10月11日)、前記事でご紹介した知多方面から戻った夕暮れ迫る時間帯。
本格的な古戦場踏査を翌日に控え、雨上がりの夕暮れが否が応にも決戦前夜の雰囲気を醸し出してくれました。
そして旅の最終日(10月12日)
この日はいよいよ長篠設楽原古戦場を、主に織田軍の視点でじっくりとめぐります。
まず最初に目指したのは、織田信長が決戦時の本陣を置いたとされる茶臼山!

…のはずでしたが、通りすがりにこちらの看板が目に入り、ちょっと寄り道(笑)
徳川家康の嫡男・信康の本陣跡です。(周辺図A、③)

どことなく雰囲気のある石段

石段を登り切った先は綺麗に削平され、やはり小さな社殿がありましたが、決戦地を望む東面には土塁らしき土盛りや・・・

切岸と、その下に犬走り状の細い削平地も見受けられました。

更に、社殿の奥にも広い削平地が。
拝殿や本殿の裏にあたり、神社のためのスペースとも考えづらいし・・・或いはこの辺りが本陣だったのでしょうか。

信康本陣跡から真東の方角には、父・家康が本陣を置いた弾正山の南端が見えています。

織田信長戦地本陣…茶臼山(周辺図A、④)

茶臼山の背後には新東名高速道路の長篠設楽原PAが建設され、すっかり様相が変わってしまっています・・・。
しかもこの日は、開通前記念の一環として高速道路ウォーキングイベントも開催されており、設楽原一帯に多くの人・車が集まっていました。

さ、気を取り直して…我々はこちらから茶臼山へアタック開始!

登山道を20分ほども登ったでしょうか…茶臼山頂上、織田信長戦地本陣跡に到着。

織田信長歌碑
きつねなく 声もうれしく きこゆなり 松風清き 茶臼山かね
出典や根拠はよく分かりませんが…新御堂山の社殿に残されていた信忠の句にも「松風」が詠み込まれていました。
この辺りはやはり親子、といったところでしょうか。

本陣虎口の土塁
数十年前から存在を確認されていた、れっきとした戦国遺構です。

虎口から本陣内を覗き見ると・・・

広めの削平地と、右手に櫓台があります。
今度間近く寄り合せ侯事、天の与ふる所に侯間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損せず侯様に、御賢意を加へらる。
決戦前、織田信長はここから戦場を見渡し、作戦を立案して配下の将へ指示を下していたことでしょう。
或いは酒井忠次に、自らの馬廻鉄砲衆500を添えて南の山中を迂回させ、武田軍の長篠城包囲拠点の一つ・鳶の巣山砦へ向かわせる決定を下したのも、ここでのことか。

反対に、虎口から外を見ると・・・
高速が開通すると、PAから簡単に本陣跡に来れるようになるみたいです。

本陣虎口に繋がる古道も、PAから下る新しい階段に分断されていました・・・。
お願いだから、これ以上はもう壊さないでください。
茶臼山を下り、少し前線へ出てみます。

織田・徳川連合軍が布陣した弾正山北端、その西麓に鎮座する石座神社(周辺図A、⑤)
相当に古い由緒のある神社で、決戦前には織田信長・徳川家康も戦勝祈願したことが伝えられています。

石座神社の神馬
足元を見てみると・・・

草鞋を履いていました。
現在では蹄鉄を打ちますが、当時はこうして馬の蹄を守っていたのですね。

石座神社前から弾正山の尾根筋(南方向)を見る。
志多羅の郷は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段ゝに御人数三万ばかり立て置かる。
「信長公記」には信長が、武田軍から見えないように弾正山背後の窪地に兵を配置した様子が記録されています。大軍勢を隠し、武田軍の油断を狙ったか・・・
まさにここが、敵がたへ見えざる様に、段ゝに御人数三万ばかり立て置かれた場所でしょう。

次は大宮前激戦地と呼ばれるポイントへ。
正面奥に見えているのは、真田信綱・昌輝兄弟が陣取った丸山(周辺図A、⑥)
手前は今でこそ道路に分断されていますが、織田軍の主力鉄砲隊らが布陣した弾正山です。戦場の北端付近に位置します。

長篠合戦図屏風に見る丸山と大宮前激戦地の様子
丸山から攻め掛かる真田兄弟の対面には、前田・佐々・塙らの織田鉄砲隊が描かれています。
同行のサイガさんによると、彼ら織田鉄砲隊が布陣した辺りの弾正山中腹に「凄いものが残っている」というので、まずは藪を掻き分けてそちらを目指します。

その「凄いもの」…弾正山中腹、丸山と対峙する位置に築かれた織田軍の胸壁ライン。
胸壁の前(武田側に面した東側)は切岸になっています。

分かり易いよう、サイガさんに鉄砲(木の枝)を構えていただきました(笑)
関東衆、馬上の功者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ侯。身がくしとして、鉄炮にて待ち請け、うたせられ侯
迫り来る武田軍(ここでは真田勢)に対し、織田軍は馬防柵(馬防ぎの為、柵を付けさせられ)に加え、こうした身がくしの陣地を構築して鉄砲で待ち受け、次々と討ち果たしていきました。

胸壁下の切岸
切岸下にも土塁のようなものがありました。或いは二段構えの胸壁ラインが築かれていたのかもしれません。

胸壁ラインが築かれていた弾正山北端付近
ここで鉄砲隊の指揮を執っていたのは・・・前田利家あたりか。

連吾川を挟んで対峙するは、丸山に布陣した真田兄弟。
写真は織田軍陣地の麓から丸山を撮っています。いかに至近距離だったかがお分かりいただけるかと思います。

弾正山北端。この部分には本来、谷戸が食い込んでおり、武田軍の進撃を食い止めるための土塁が築かれていたそうです。
今や見る影もなく・・・

丸山の山頂にて
先 佐久間信盛、後 馬場信房 陣地
とあり、現地説明板にも初めに織田方の佐久間信盛が丸山に布陣したが、後に武田方の馬場信房が奪い取った、と書かれていました。が、「信長公記」に;
御敵入れ替へ侯へども、御人数一首も御出でなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るなり。
と書かれている通り織田軍は、武田勢が向かってきているうちは馬防柵や胸壁で構築された陣地から出ることなく戦っています。
これは当然、信長の作戦・命令であり、そのような中で丸山のようなポツーンと前線に突出した場所に、織田方の将兵が布陣する理由もメリットもありません。
そもそも丸山に佐久間が布陣したら、後方の織田鉄砲隊が鉄砲を使いづらくなるじゃないww

丸山から見る織田軍陣地
左に橋が写っていますが、その下を流れるのが連吾川です。
また、この付近からは上州沼田産の矢立硯が発見されているそうです。
…真田兄弟に率いられた上州武者がこの地で戦い、力尽きていったことを物語っているかのようです。
やはり合戦図屏風に描かれた通り、丸山に布陣していたのは真田兄弟だったのでしょう。

設楽原北方から眺める古戦場
左:武田軍(信玄台地)、右:織田・徳川連合軍(弾正山)
連合軍は手前に織田、奥(南)に徳川が布陣していました。

ところで、大宮前激戦地の近くには
高森恵光寺快川
なる人物のお墓がありました。
現地説明板に「武田方の謎の武将」と書かれていましたが、「信長公記」には討ち捕る頸の見知る分、として山県三郎兵衛、さなだ源太左衛門、馬場美濃守らと共に、恵光寺と挙げられていました。
太田牛一が見知ると書いているので、記録は乏しくとも当時は名の通った人物だったのでしょう。

観光用?に復元された馬防柵

実際はこんな感じで柵が築かれていたのではないか、という一つの説として。

この馬防柵、兵が追撃に移る際の攻口の作り方を、織田と徳川でちゃんと変えてあります。
上写真は北側の織田軍のもので・・・

こちらが南側の徳川軍のもの。
織田軍のは馬防柵を斜めにずらしながら立てているのに対し、徳川軍のは敵に対して平行に立てた馬防柵を、前後で喰い違いに組んでいます。

これは、長篠合戦図屏風の描写を参考に復元されたそうです。
確かに違いますね。

馬防柵の後ろ、弾正山の斜面には犬走りのような細い削平地が水平に通っていました。

きっとここにも、織田の鉄砲隊が銃を構えていたのでしょう。

そのまま弾正山を南に移動し、徳川家康が布陣した辺りを目指します。

徳川家康物見塚(周辺図A、⑦)
家康が陣頭指揮を執った場所と伝わります。

物見塚の碑は弾正山南端の中腹に置かれていましたが、家康が実際に立った場所は弾正山上に築かれた「断上山古墳」のピーク上だったと思われます。
信長は、家康陣所に高松山とて小高き山御座侯に取り上られ、敵の働きを御覧じ、
そして戦闘に入ると信長もまた、家康の陣所に来て共に観戦しました。

家康物見塚からの眺め
眼下に広がるのは、徳川勢と山県昌景の軍勢が激突した竹広激戦地(周辺図A、⑧)。対面の丘(信玄台地)の中腹に山県の陣所がありました。
家康ばかりか、織田信長もこの光景を見ていたのですね。

物見塚の真裏、弾正山西麓へ降りると家康の本陣跡もあります。
戦場からは完全に死角となり、後方陣地といったところでしょう。

ところで長篠合戦図屏風には、弾正山南端から更に南、豊川(のりもと川)の辺りまで馬防柵が築かれていた様子も描かれています。(⇒部分)

弾正山南麓から南の方向を見た様子
ほぼこの道路に沿うように、その防衛線は築かれていたものと思われます。

竹広激戦地
この後は山県昌景の陣跡に向かいます。

武田軍陣跡側から弾正山を見た様子
麓に田圃があって分かりづらいですが、弾正山に向かって緩やかな上りが続いています。
連吾川を底部とした窪地で、攻めづらい地形だったことでしょう。

山県昌景陣地跡

山県の陣跡近くには彼の墓所もあります。

山県昌景墓所から見る弾正山、徳川家康物見塚方面
この距離…きっと家康の馬印も視界に捉えていたことでしょう。

あちらは小幡信貞の墓所

柳田前激戦地(周辺図A、⑨)

柳田前激戦地に架かる柳田橋
そういえば、これまで見てきた大宮前、竹広、そして柳田前、いずれの激戦地にも橋が架けられていました。
きっと当時も連吾川を渡河しやすい地点だったのでしょう。それが激戦に繋がった・・・

柳田前激戦地から見る馬防柵

真田兄弟のお墓(周辺図A、⑩)
真田源太左衛門尉信綱
真田兵部丞昌輝

脇には真田家臣らのお墓も。

真田兄弟墓所の東側に広がる田園一帯の地名(字名)は「甲田」
文字通り、田圃から兜がたくさん出てきたのがその名の由来だとか・・・鳳来寺山方面へ敗走する武田軍将兵が、次々と討たれていく様子が目に浮かぶようです。
敗走する武田軍の中で殿を務め、織田軍の追撃を必死に食い止めたのは馬場美濃守信房(信春)でした。
我々も最後に、馬場美濃守が奮戦した地へ向かいます。
(武田軍将兵は)何れものきなされ候、但し馬場美濃守殿は、のきはのき給へ共、長篠橋場にて少し跡へ返し、高き所にあがり馬場美濃にて有ぞ、討て、おぼへにせよと尋常にことはり、敵四五人にて鑓をもつてつきおとすに、刀に手をかけず此歳六十二歳にて生害なるは、(以下略)
(甲陽軍鑑より抜粋)

この地で壮絶な殿(しんがり)戦が繰り広げられたことを示す…橋詰殿戦場碑
「橋詰」の橋は当然、甲陽軍鑑に出てくる長篠橋場、寒狭川(豊川)の渡河点に架かっていたであろう橋のことです。
周辺図B

①が碑のある地点です。
川沿いの断崖上、鳳来寺道と呼ばれる道路沿いに建っているのですが、周辺の地勢を見渡しても、いまいちイメージが湧いてきません。こんな場所でどのように戦ったのだろう・・・?
ところが案内板をよ~く見てみると・・・

ん?…この上?!
別の案内板にも「ここから右へ行った所にある道から登った上に~云々」とありましたので、兎にも角にも道路沿いに右へ行ってみると・・・

確かにありました…「上」への道。
半信半疑で登り始めたのですが・・・

なんと、明らかに旧道を思わせるものが山中に残っているではないですか!?
やはり現在の鳳来寺道(寒狭川沿いの車道)は急峻な断崖上にあり、当時はとても道を通せるような地勢ではなく、武田軍が鳳来寺山方面へ撤退するには、この山道を通るしかなかったものと考えられます。
そのルートは周辺図Bに書き入れた赤のラインになります。

武田軍が敗走し、それを織田軍が追撃した山道・・・
殿を務める馬場美濃守の一隊は写真左の高き所にあがり、追撃する織田軍を待ち受けて防戦に努めたものと思われます。
その高き所に登ってみると・・・

馬場美濃守討死之地碑がひっそりと建っていました・・・。

その碑から足元の山道を見下ろした様子。山道の先は切り立った崖です。

展開された殿戦のイメージ図
写真だけでは伝わりづらいかと思い、サイガさんにイラストを作成していただきました。
①馬場美濃守 ②武田軍 ③織田軍 ④両軍の負傷者 ⑤撤退する武田勝頼 ⑥寒狭川(豊川)
一人でも多くの味方将兵を逃がすため、必死の防戦が展開されたことでしょう。
その奮戦ぶりは、織田方の太田牛一にも;
中にも、馬場美濃守手前の働き、比類なし。
と讃えられています。

武田軍の撤退方向へ下って行くと、山道はやがて寒狭川沿いに出ます。

その先に見えている、あちらの滝近くに渡河地点(長篠橋場)があったようです。
「甲陽軍鑑」にも出てくるように、馬場美濃守はあちらから山の方へ少し跡へ返し、高き所にあがって織田軍を迎え撃ち、そして散っていった・・・。
或ひは山へ逃げ上りて飢死、或ひは橋より落され、川へ入り、水に溺れ、際限なく侯。
武田軍の撤退は最後まで混乱を極めました。
山、橋、そして川、、、「信長公記」の記述もまた、撤退戦がこの地で展開されたことを証明しているかのようです。

付近には馬場美濃守信房の墓所もありました。(周辺図B、②)
(左は馬場彦五郎勝行)

とても古そうな墓石もひっそりと・・・
武田四郎秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段乗り心ち比類なき駿馬の由侯て、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付けられ、
五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。
完。
※信長公記 巻八「三州長篠御合戦の事」より抜粋。以下、特に注記ない場合は同様。
天正3年(1575)5月、長篠城を武田勝頼の軍勢に包囲された徳川家康は、同盟関係にある織田信長に援軍を要請しました。
家康の援軍要請を受けた信長は岐阜城を発し、岡崎城を経由して5月16日に伊那街道沿いの牛久保城へ入ります。

牛久保城古絵図

牛久保駅近くに建つ牛久保城址の碑
現在では宅地化も進み、殆ど城の痕跡を留めてはいませんが、駅の周辺一帯が本丸だったものと推定されています。
きっと信長も長篠へ向かう前、この付近に泊ったことでしょう。

周辺には「城跡」や、

「城下」といった地名が残されています。
また、電柱の奥を見ていただくと地形が上がっているのがお分かりになるかと思います。これも城が築かれていた段丘の名残、つまり、この坂の上が牛久保城域となります。

牛久保駅の西に鎮座する熊野神社

熊野神社前を横切る線路の向こう、森の中に気になる地形が見えています・・・

これはどう見ても堀跡でしょう?

位置関係や周辺の地勢から、古絵図★部分の堀跡と思われます。
古絵図では熊野権現は完全に城域外となりますが、この神社前の森は先ほどの「城跡」交差点の角に位置していますし、これはフォロワーさんからご指摘いただいたのですが、同じく古絵図にある上善寺との位置関係からしても、古絵図に描かれた熊野権現はもっと南西の別の場所にあり、熊野神社前の森にあったものはやはり堀跡だと考えられます。

ところで、こちらも古絵図に載っていますが、牛久保城跡には大聖寺というお寺があります。
永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討死した今川義元。
当然その首は織田軍にとられますが、胴は家臣が背負って牛久保まで逃れ、こちらのお寺に葬ったと云われています。

今川義元胴塚
義元嫡子の氏真は、実際に大聖寺で義元の三回忌法要を営んでいます。
桶狭間で明暗分かれた織田信長と今川義元。
奇しくもその15年後のほぼ同じ時期、この牛久保の地でニアミスしていたのですね・・・或いは信長は、義元の墓前に詣でたりしたのでしょうか。
※織田信長は長篠設楽原の戦い2ヶ月前の天正3年3月には、京の相国寺にて出仕してきた今川氏真と対面し、蹴鞠を披露させています。偶然は重なるものですね。

同じく大聖寺に建つ一色刑部少輔時家のお墓
彼は足利一門で、この地に最初に城郭を築いた人物と云われています。

古戦場周辺図(以下:周辺図)A
※織田・徳川連合軍が布陣した南北に連なる台地のうち、家康が布陣した南端部分のみを「弾正山」と呼ぶのかもしれませんが、本記事では便宜上、台地全体を「弾正山」として記載させていただきます。
十七日、野田原に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷、極楽寺山に御陣を据ゑられ、菅九郎、新御堂山に御陣取り。
牛久保城から伊那街道伝いに野田を経由した信長は5月18日、いよいよ武田軍が包囲する長篠城の南西5㎞地点にある極楽寺山に着陣します。(周辺図A、①)

極楽寺山のすぐ南に建つ平井神社

平井神社は極楽寺山に着陣した信長の旗本陣跡とされ、それを示す石碑も建っていました。

そして平井神社背後の・・・極楽寺山
織田信長着陣地

こちらは信長の嫡男・信忠が着陣した新御堂山
武田軍の包囲する長篠城に対し、信長本陣(極楽寺山)の前面に位置しています。(周辺図A、②)

こちらにも石碑がありました。

新御堂山、織田信忠本陣跡
代ゝをへん 松風さゆる 宮居哉
信忠はこの時、この句を社殿の羽目板に書き残しているそうですが…今はどこに保管されているのでしょう?是非拝見してみたいものです。

新御堂山麓から北東~東方向の眺め。
左に信長が戦地本陣を置く茶臼山、右は織田・徳川連合軍が布陣する弾正山(断上山とも。信長公記では「高松山」)
※なお、信長本陣の極楽寺山から主戦場となる設楽原(信長公記では「あるみ原」)方面は、北より迫る山塊の影になって見通すことができませんでした…これも作戦のうちか。
極楽寺山~新御堂山を訪れたのは旅の2日目(10月11日)、前記事でご紹介した知多方面から戻った夕暮れ迫る時間帯。
本格的な古戦場踏査を翌日に控え、雨上がりの夕暮れが否が応にも決戦前夜の雰囲気を醸し出してくれました。
そして旅の最終日(10月12日)
この日はいよいよ長篠設楽原古戦場を、主に織田軍の視点でじっくりとめぐります。
まず最初に目指したのは、織田信長が決戦時の本陣を置いたとされる茶臼山!

…のはずでしたが、通りすがりにこちらの看板が目に入り、ちょっと寄り道(笑)
徳川家康の嫡男・信康の本陣跡です。(周辺図A、③)

どことなく雰囲気のある石段

石段を登り切った先は綺麗に削平され、やはり小さな社殿がありましたが、決戦地を望む東面には土塁らしき土盛りや・・・

切岸と、その下に犬走り状の細い削平地も見受けられました。

更に、社殿の奥にも広い削平地が。
拝殿や本殿の裏にあたり、神社のためのスペースとも考えづらいし・・・或いはこの辺りが本陣だったのでしょうか。

信康本陣跡から真東の方角には、父・家康が本陣を置いた弾正山の南端が見えています。

織田信長戦地本陣…茶臼山(周辺図A、④)

茶臼山の背後には新東名高速道路の長篠設楽原PAが建設され、すっかり様相が変わってしまっています・・・。
しかもこの日は、開通前記念の一環として高速道路ウォーキングイベントも開催されており、設楽原一帯に多くの人・車が集まっていました。

さ、気を取り直して…我々はこちらから茶臼山へアタック開始!

登山道を20分ほども登ったでしょうか…茶臼山頂上、織田信長戦地本陣跡に到着。

織田信長歌碑
きつねなく 声もうれしく きこゆなり 松風清き 茶臼山かね
出典や根拠はよく分かりませんが…新御堂山の社殿に残されていた信忠の句にも「松風」が詠み込まれていました。
この辺りはやはり親子、といったところでしょうか。

本陣虎口の土塁
数十年前から存在を確認されていた、れっきとした戦国遺構です。

虎口から本陣内を覗き見ると・・・

広めの削平地と、右手に櫓台があります。
今度間近く寄り合せ侯事、天の与ふる所に侯間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損せず侯様に、御賢意を加へらる。
決戦前、織田信長はここから戦場を見渡し、作戦を立案して配下の将へ指示を下していたことでしょう。
或いは酒井忠次に、自らの馬廻鉄砲衆500を添えて南の山中を迂回させ、武田軍の長篠城包囲拠点の一つ・鳶の巣山砦へ向かわせる決定を下したのも、ここでのことか。

反対に、虎口から外を見ると・・・
高速が開通すると、PAから簡単に本陣跡に来れるようになるみたいです。

本陣虎口に繋がる古道も、PAから下る新しい階段に分断されていました・・・。
お願いだから、これ以上はもう壊さないでください。
茶臼山を下り、少し前線へ出てみます。

織田・徳川連合軍が布陣した弾正山北端、その西麓に鎮座する石座神社(周辺図A、⑤)
相当に古い由緒のある神社で、決戦前には織田信長・徳川家康も戦勝祈願したことが伝えられています。

石座神社の神馬
足元を見てみると・・・

草鞋を履いていました。
現在では蹄鉄を打ちますが、当時はこうして馬の蹄を守っていたのですね。

石座神社前から弾正山の尾根筋(南方向)を見る。
志多羅の郷は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段ゝに御人数三万ばかり立て置かる。
「信長公記」には信長が、武田軍から見えないように弾正山背後の窪地に兵を配置した様子が記録されています。大軍勢を隠し、武田軍の油断を狙ったか・・・
まさにここが、敵がたへ見えざる様に、段ゝに御人数三万ばかり立て置かれた場所でしょう。

次は大宮前激戦地と呼ばれるポイントへ。
正面奥に見えているのは、真田信綱・昌輝兄弟が陣取った丸山(周辺図A、⑥)
手前は今でこそ道路に分断されていますが、織田軍の主力鉄砲隊らが布陣した弾正山です。戦場の北端付近に位置します。

長篠合戦図屏風に見る丸山と大宮前激戦地の様子
丸山から攻め掛かる真田兄弟の対面には、前田・佐々・塙らの織田鉄砲隊が描かれています。
同行のサイガさんによると、彼ら織田鉄砲隊が布陣した辺りの弾正山中腹に「凄いものが残っている」というので、まずは藪を掻き分けてそちらを目指します。

その「凄いもの」…弾正山中腹、丸山と対峙する位置に築かれた織田軍の胸壁ライン。
胸壁の前(武田側に面した東側)は切岸になっています。

分かり易いよう、サイガさんに鉄砲(木の枝)を構えていただきました(笑)
関東衆、馬上の功者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ侯。身がくしとして、鉄炮にて待ち請け、うたせられ侯
迫り来る武田軍(ここでは真田勢)に対し、織田軍は馬防柵(馬防ぎの為、柵を付けさせられ)に加え、こうした身がくしの陣地を構築して鉄砲で待ち受け、次々と討ち果たしていきました。

胸壁下の切岸
切岸下にも土塁のようなものがありました。或いは二段構えの胸壁ラインが築かれていたのかもしれません。

胸壁ラインが築かれていた弾正山北端付近
ここで鉄砲隊の指揮を執っていたのは・・・前田利家あたりか。

連吾川を挟んで対峙するは、丸山に布陣した真田兄弟。
写真は織田軍陣地の麓から丸山を撮っています。いかに至近距離だったかがお分かりいただけるかと思います。

弾正山北端。この部分には本来、谷戸が食い込んでおり、武田軍の進撃を食い止めるための土塁が築かれていたそうです。
今や見る影もなく・・・

丸山の山頂にて
先 佐久間信盛、後 馬場信房 陣地
とあり、現地説明板にも初めに織田方の佐久間信盛が丸山に布陣したが、後に武田方の馬場信房が奪い取った、と書かれていました。が、「信長公記」に;
御敵入れ替へ侯へども、御人数一首も御出でなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るなり。
と書かれている通り織田軍は、武田勢が向かってきているうちは馬防柵や胸壁で構築された陣地から出ることなく戦っています。
これは当然、信長の作戦・命令であり、そのような中で丸山のようなポツーンと前線に突出した場所に、織田方の将兵が布陣する理由もメリットもありません。
そもそも丸山に佐久間が布陣したら、後方の織田鉄砲隊が鉄砲を使いづらくなるじゃないww

丸山から見る織田軍陣地
左に橋が写っていますが、その下を流れるのが連吾川です。
また、この付近からは上州沼田産の矢立硯が発見されているそうです。
…真田兄弟に率いられた上州武者がこの地で戦い、力尽きていったことを物語っているかのようです。
やはり合戦図屏風に描かれた通り、丸山に布陣していたのは真田兄弟だったのでしょう。

設楽原北方から眺める古戦場
左:武田軍(信玄台地)、右:織田・徳川連合軍(弾正山)
連合軍は手前に織田、奥(南)に徳川が布陣していました。

ところで、大宮前激戦地の近くには
高森恵光寺快川
なる人物のお墓がありました。
現地説明板に「武田方の謎の武将」と書かれていましたが、「信長公記」には討ち捕る頸の見知る分、として山県三郎兵衛、さなだ源太左衛門、馬場美濃守らと共に、恵光寺と挙げられていました。
太田牛一が見知ると書いているので、記録は乏しくとも当時は名の通った人物だったのでしょう。

観光用?に復元された馬防柵

実際はこんな感じで柵が築かれていたのではないか、という一つの説として。

この馬防柵、兵が追撃に移る際の攻口の作り方を、織田と徳川でちゃんと変えてあります。
上写真は北側の織田軍のもので・・・

こちらが南側の徳川軍のもの。
織田軍のは馬防柵を斜めにずらしながら立てているのに対し、徳川軍のは敵に対して平行に立てた馬防柵を、前後で喰い違いに組んでいます。

これは、長篠合戦図屏風の描写を参考に復元されたそうです。
確かに違いますね。

馬防柵の後ろ、弾正山の斜面には犬走りのような細い削平地が水平に通っていました。

きっとここにも、織田の鉄砲隊が銃を構えていたのでしょう。

そのまま弾正山を南に移動し、徳川家康が布陣した辺りを目指します。

徳川家康物見塚(周辺図A、⑦)
家康が陣頭指揮を執った場所と伝わります。

物見塚の碑は弾正山南端の中腹に置かれていましたが、家康が実際に立った場所は弾正山上に築かれた「断上山古墳」のピーク上だったと思われます。
信長は、家康陣所に高松山とて小高き山御座侯に取り上られ、敵の働きを御覧じ、
そして戦闘に入ると信長もまた、家康の陣所に来て共に観戦しました。

家康物見塚からの眺め
眼下に広がるのは、徳川勢と山県昌景の軍勢が激突した竹広激戦地(周辺図A、⑧)。対面の丘(信玄台地)の中腹に山県の陣所がありました。
家康ばかりか、織田信長もこの光景を見ていたのですね。

物見塚の真裏、弾正山西麓へ降りると家康の本陣跡もあります。
戦場からは完全に死角となり、後方陣地といったところでしょう。

ところで長篠合戦図屏風には、弾正山南端から更に南、豊川(のりもと川)の辺りまで馬防柵が築かれていた様子も描かれています。(⇒部分)

弾正山南麓から南の方向を見た様子
ほぼこの道路に沿うように、その防衛線は築かれていたものと思われます。

竹広激戦地
この後は山県昌景の陣跡に向かいます。

武田軍陣跡側から弾正山を見た様子
麓に田圃があって分かりづらいですが、弾正山に向かって緩やかな上りが続いています。
連吾川を底部とした窪地で、攻めづらい地形だったことでしょう。

山県昌景陣地跡

山県の陣跡近くには彼の墓所もあります。

山県昌景墓所から見る弾正山、徳川家康物見塚方面
この距離…きっと家康の馬印も視界に捉えていたことでしょう。

あちらは小幡信貞の墓所

柳田前激戦地(周辺図A、⑨)

柳田前激戦地に架かる柳田橋
そういえば、これまで見てきた大宮前、竹広、そして柳田前、いずれの激戦地にも橋が架けられていました。
きっと当時も連吾川を渡河しやすい地点だったのでしょう。それが激戦に繋がった・・・

柳田前激戦地から見る馬防柵

真田兄弟のお墓(周辺図A、⑩)
真田源太左衛門尉信綱
真田兵部丞昌輝

脇には真田家臣らのお墓も。

真田兄弟墓所の東側に広がる田園一帯の地名(字名)は「甲田」
文字通り、田圃から兜がたくさん出てきたのがその名の由来だとか・・・鳳来寺山方面へ敗走する武田軍将兵が、次々と討たれていく様子が目に浮かぶようです。
敗走する武田軍の中で殿を務め、織田軍の追撃を必死に食い止めたのは馬場美濃守信房(信春)でした。
我々も最後に、馬場美濃守が奮戦した地へ向かいます。
(武田軍将兵は)何れものきなされ候、但し馬場美濃守殿は、のきはのき給へ共、長篠橋場にて少し跡へ返し、高き所にあがり馬場美濃にて有ぞ、討て、おぼへにせよと尋常にことはり、敵四五人にて鑓をもつてつきおとすに、刀に手をかけず此歳六十二歳にて生害なるは、(以下略)
(甲陽軍鑑より抜粋)

この地で壮絶な殿(しんがり)戦が繰り広げられたことを示す…橋詰殿戦場碑
「橋詰」の橋は当然、甲陽軍鑑に出てくる長篠橋場、寒狭川(豊川)の渡河点に架かっていたであろう橋のことです。
周辺図B

①が碑のある地点です。
川沿いの断崖上、鳳来寺道と呼ばれる道路沿いに建っているのですが、周辺の地勢を見渡しても、いまいちイメージが湧いてきません。こんな場所でどのように戦ったのだろう・・・?
ところが案内板をよ~く見てみると・・・

ん?…この上?!
別の案内板にも「ここから右へ行った所にある道から登った上に~云々」とありましたので、兎にも角にも道路沿いに右へ行ってみると・・・

確かにありました…「上」への道。
半信半疑で登り始めたのですが・・・

なんと、明らかに旧道を思わせるものが山中に残っているではないですか!?
やはり現在の鳳来寺道(寒狭川沿いの車道)は急峻な断崖上にあり、当時はとても道を通せるような地勢ではなく、武田軍が鳳来寺山方面へ撤退するには、この山道を通るしかなかったものと考えられます。
そのルートは周辺図Bに書き入れた赤のラインになります。

武田軍が敗走し、それを織田軍が追撃した山道・・・
殿を務める馬場美濃守の一隊は写真左の高き所にあがり、追撃する織田軍を待ち受けて防戦に努めたものと思われます。
その高き所に登ってみると・・・

馬場美濃守討死之地碑がひっそりと建っていました・・・。

その碑から足元の山道を見下ろした様子。山道の先は切り立った崖です。

展開された殿戦のイメージ図
写真だけでは伝わりづらいかと思い、サイガさんにイラストを作成していただきました。
①馬場美濃守 ②武田軍 ③織田軍 ④両軍の負傷者 ⑤撤退する武田勝頼 ⑥寒狭川(豊川)
一人でも多くの味方将兵を逃がすため、必死の防戦が展開されたことでしょう。
その奮戦ぶりは、織田方の太田牛一にも;
中にも、馬場美濃守手前の働き、比類なし。
と讃えられています。

武田軍の撤退方向へ下って行くと、山道はやがて寒狭川沿いに出ます。

その先に見えている、あちらの滝近くに渡河地点(長篠橋場)があったようです。
「甲陽軍鑑」にも出てくるように、馬場美濃守はあちらから山の方へ少し跡へ返し、高き所にあがって織田軍を迎え撃ち、そして散っていった・・・。
或ひは山へ逃げ上りて飢死、或ひは橋より落され、川へ入り、水に溺れ、際限なく侯。
武田軍の撤退は最後まで混乱を極めました。
山、橋、そして川、、、「信長公記」の記述もまた、撤退戦がこの地で展開されたことを証明しているかのようです。

付近には馬場美濃守信房の墓所もありました。(周辺図B、②)
(左は馬場彦五郎勝行)

とても古そうな墓石もひっそりと・・・
武田四郎秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段乗り心ち比類なき駿馬の由侯て、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付けられ、
五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。
完。
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