城友会2015…①伊賀
城友会2015、初日は伊賀のお城をめぐります。
■敢國神社

まずは伊賀國一宮、敢國神社にお参りです。

敢國神社拝殿
(天正9年)九月十日、伊賀国さなご嶺おろしへ諸手相働き、国中の伽藍、一宮の社頭を初めとして、悉く放火侯
(信長公記 巻十四「伊賀国、三介殿仰せつけらるゝ事」より)
天正9年(1581)9月、5万近くもの織田の大軍が四方から伊賀へ攻め寄せた第2次天正伊賀の乱。
この時、敢國神社も戦火に巻き込まれて焼失しています。

裏参道

また、敢國神社裏手には浅間社を祀る南宮山という高い山が聳えていますが・・・
十月十日、一宮に至りて御参着。暫時の御休息も御座なく、一宮の上に、国見山とて、高山あり。則ち、御登山侯て、先づ、国中の様子御覧じ計らはる。御座所御殿、滝川左近結構に立て置き、中将信忠御座所、其の外、諸勢残る所なく拵へ置き、珍物を調へ、御膳上げ申し、御馳走斜ならず。
(信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」より)
織田信雄(以降も名称は織田信雄で統一する)を総大将とした織田軍が伊賀を平定した後、織田信長が伊賀の視察に訪れます。
伊賀に入った信長は真っ先に一宮、即ち敢國神社へ向かい、国見山に登って国中の様子を眺めたとあるのですが、この国見山こそ南宮山のことなのです。

境内に祀られている桃太郎岩
南宮山(国見山)山上の浅間社から遷したと伝えられている霊岩です。

国見山遠景
いつ頃から国見山と呼ばれるようになったかは不明ですが、或いは他国のことで山名など知らなかった織田の将兵たちが、「上様が登って国中を見た山」として国見山と呼んだのを、牛一が書き留めていたものか・・・
はたまた、「国見山という山がある」と聞いたからこそ、信長は「ならばわしも登って国を見てやろう」と思い立ったものか・・・
実際のところは分かりませんが、いろいろと想像をかき立てられて楽しくなります。
さて、それではお城めぐりのスタートです。
まず1城めは・・・
■福地氏城

柘植の福地氏城です。
柘植の福地御赦免なされ、人質執り固め、其の上、不破彦三を御警固として、当城に入れ置かる。
(信長公記 巻十四「伊賀国、三介殿仰せつけらるゝ事」より)
第2次天正伊賀の乱の際、福地氏は織田方に寝返り、伊賀侵攻の手引きをして赦免されました。
しかし、それがために伊賀の国人の恨みを買い、翌年の本能寺の変で信長が横死すると伊賀国人の攻撃を受けて逃亡する憂き目に遭っています。

主郭西側の帯曲輪下、切岸に残る石積み

主郭と帯曲輪の間の横堀

主郭虎口

石垣が綺麗に残っていました。

主郭
なお、松尾芭蕉はこの福地氏一族の出身と云われていることから、主郭には芭蕉の句碑などもありました。

主郭にあった井戸

土塁(の上に建っていた何か?)へ上がるための通路か?

それを土塁の上から

同じく、主郭土塁上から見下ろす帯曲輪

城山下(北西)の長方形型の曲輪(居館跡か?)は田圃に・・・

しかし曲輪をグルッと取り巻く土塁と横堀は、三方に残っていました。(南西面は消失)

まぁ三方のうち、二面は凄いド藪でしたけど…(笑)

これでもか!と行く手を阻む倒竹・・・

ようやく藪を抜け出してきた場所…写真中央、藪が僅かに暗く開けている箇所から出てきました(笑)
遺構の残存状態もいいし、規模もそれなりに大きくて楽しめるお城でした。
■竹島氏城

2城めは竹島氏城です。ここでも芭蕉押し(笑)
それもそのはず、竹島氏13代の妻は芭蕉の姉だったのだそうです。

石積みらしき痕跡

主郭はかなりの広さがありました。

主郭を取り巻く土塁

参加者の身長と比べても、その高さは歴然です。
サクッと楽しめるお城でした。
■柏野城

3城めは柏野城
獣害対策のフェンスが物々しい…(^_^;)

主郭の土塁と、土塁上に城址碑がありました。

城址碑の裏には、天正伊賀の乱に於ける柏野城の顛末が簡単に書かれていました。

虎口らしきものが2つ並んでいます。

主郭西側の堀切を土塁の上から

また、主郭北西下には三方向に伸びる土橋らしき痕跡もありました。

主郭北側へ回り込む横堀

主郭西側の堀切
単郭方形のシンプルな造りで、典型的な土豪・国人居館といったお城でしたが、堀切や横堀が綺麗に残っていて見応えありました。
■中出山城・永井氏城
引き続き、一つの丘陵上に連なる中出山城・永井氏城へ

近くの公民館に車を置かせていただき、城山へ向かっていると遠くの方に・・・猿軍団(;´・ω・)
しかも彼ら、我々が向かおうとしている城山を根城にしているのか、山中で幾度となく姿を見かけました。
※こばたかさんは単独行動にはしったため、猿に威嚇されていました(笑)
ますは丘陵先端付近にあるはずの中出山城を目指しますが・・・

窯?のような痕跡や・・・

石列などが残っていましたが、どことなくお城というよりは神社やお寺のような痕跡にも思え、肝心の目指す中出山城の痕跡が一向に見当たりません・・・。

それでも皆であーでもないこーでもないと話し合いながら、ようやく探り当てた主郭虎口

虎口から主郭内側の土塁

横堀的な?
そのまま永井氏城を目指し、尾根を奥へ進みます。

行く手を堀切に遮られましたが、躊躇することなく攻めかかるメンバーたち(笑)

堀切の底から

永井氏城主郭・・・土塁が高い!

中出山城が消化不良だったこともあり、永井氏城もあまり期待はしていなかったのですが、主郭の土塁は見事でした。
いい意味で想定外の規模。

主郭虎口

中出山城・永井氏城遠景
手前に中出山城、そこから尾根伝いに奥へ永井氏城があります。
■百地丹波守城
6城めは百地丹波守城です。

百地丹波守城縄張図
伊賀の有力国人・百地丹波守の居城と考えられています。
第2次天正伊賀の乱の際に落城したと伝わりますが、丹波守は他の国人衆と共に名張の柏原城に籠って最後まで抵抗し、そこで戦死したとも、落ち延びたとも云われ、その後の消息は不明です。
近年の研究では百地三太夫とは別人と考えられているそうです。
なお、三太夫の子孫は現在も名張市滝口に住んでおり、屋敷も残っています(三太夫屋敷)。

城跡に隣接する青雲寺は百地丹波守の菩提寺
墓地には百地家累代之墓もありました。

郭DとCの間の横堀

主郭(郭C)の南虎口

主郭に入ると城址碑が建っていました。

主郭
奥に北虎口

主郭と郭Bの間の堀切

郭A

郭Aの土塁には虎口らしき痕跡もありました。
さすがは百地丹波守のお城、一つ一つの遺構も規模があり、見応えのある城跡です。
■井上氏城

伊賀市中村の辻堂古墳の駐車場に車を停め、次に向かうは井上氏城です。

主郭背後、東側に残る薬研状の横堀

主郭
北側(写真左)の土塁は二段構成に築かれていました。
たまたま居合わせた地元の方から聞いたのですが、先日(訪城時より)近くに住む井上さんのお宅で法事があり、その際、家の歴史を教えてもらったのだそうです。それによると、その井上さんのご先祖は集落背後のお城を守備していたと伝わっているのだとか・・・。
つまり、城主・井上氏のご子孫ということになりますね・・・今もその土地に息づいている歴史に触れることができました。
■丸山城
丸山城は天正6年(1578)、伊賀侵攻を目論む織田信雄が、その橋頭保として家臣の滝川雄利に築城(古城の修築)を命じたお城です。

南側の麓から神社の参道跡のような遊歩道をしばらく登っていくと・・・

割とあっさり本丸に出ました。天守台も見えます。
ところで、滝川雄利による丸山城修築開始を知った伊賀の国人たちは驚き、丸山の西隣にある天童山に物見を出します。
この時、物見が目にした丸山城の様子が伊賀旧考に残っているのですが、それには天守台について;
三層の殿主あり天守台六間四方台の高さ三間四方石垣なり
と書かれています。

丸山城天守台
六間(約11m)四方、台の高さ三間四方(約5.5m)
高さは足りない気もしますが、幅はほぼその通りのサイズに思えます。
ここに三層の天守が乗り、天守台は四方を石垣で固められていたのですね。

微かに石垣らしき痕跡もありました。

天守台上に建つ城址碑

この城址碑の土台に使われている石、もしかしたら天守台から崩れた石材かも・・・などと話しながらめぐりました。

天守台脇には天正伊賀の乱に於ける両軍戦死者を供養する宝篋印塔が建てられていました。
焼災神社佛閣 伊陽郷士一族郎党
為天正兵乱伊陽全域犠牲者各霊追善菩提也
殉難社司僧尼 織田方将士横死者
と刻まれています。

本丸東側の斜面に残る二重の土塁と横堀

本丸から尾根伝いに西へ進み、途中竪堀(写真)などを見ながら・・・

最後は西の先端から細い山道を下って行きました。
…ん?この山道・・・

ずーっとクネクネ九十九折れになっている・・・!?

麓より二の丸へ越登道九折にして六十九間(伊賀旧考)
伊賀旧考に書かれていたのは、この道のことだったのですね!
六十九間とは約125m。麓まで大体そのくらいだったように思います。こうして古文献と、訪れた地の遺構が重なる瞬間は本当に興奮を覚えます。
※ところで伊賀旧考の記述は、天守台の大きさや登城道のことなど、明らかに隣の山から眺めているだけでは測れないお城内部の詳細にまで及んでいます。
きっと国人衆の斥候は築城人足に扮して紛れ込んでいたのでしょう…さすが忍者!
丸山城の様子を探った伊賀衆は、城の完成前に攻撃することを決め、滝川雄利らを追い出します。
この事件が翌天正7年の第1次天正伊賀の乱へと繋がっていくのですが・・・結果は周知の通り(^_^;)
■滝川氏城・桜町中将城
伊賀の城めぐり、ラストは名張市下小波田の滝川氏城・桜町中将城です。

まずは滝川氏城から
滝川氏城は、第2次天正伊賀の乱に於ける伊賀国人衆最後の砦・柏原城攻めのための拠点として、滝川雄利によって築かれました。柏原城の北に位置します。
そして柏原城が降服開城し、伊賀平定を終えた後・・・
十月十一日、雨降り、御逗留。
十月十二日、三介信雄御陣所、筒井順慶、惟住五郎左衛門陣所、奥郡、小波多と申す所まで、御家老衆十人ぱかり召し列れられ、御見舞。さて、塞ゝ、御要害仕るべきの在所仰せ付けらる。
(信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」より)
伊賀視察のため10月10日に伊賀一宮へ到着した織田信長は、翌11日は雨だったのでそのまま留まり、明けた12日に小波多まで足を運んで御見舞=将兵を労っています。

小波多とは名張市の小波田のことで、この時に信長が訪れた場所こそこの滝川氏城だったと考えられます。

今ではグラウンドになっていて往時の雰囲気を感じ取るのは難しいですが、広大な敷地を取り囲む土塁は見事です。

主郭外側の土塁と横堀

馬出は畑に・・・

引き続き桜町中将城へ
桜町中将とは織田信雄のこと、即ち彼の滞在拠点として築かれたお城になります。

主郭周辺は全く太陽の光が届かず、日中でも驚くほどの暗さでしたが・・・

方形型の主郭を取り巻く二重の土塁と横堀は本当に綺麗な造形で、それは見事の一言に尽きます。

横堀の中から

土塁上から横堀を見下ろす。

同じく主郭側を・・・

主郭
ここで日没時間も迫り、城友会初日・伊賀のお城めぐりはこれにて終了です。
この日1日でめぐったお城の数、なんと10城!…さすがに疲れました。

最後は滝川氏城・桜町中将城近くにあった喫茶店で休憩。

車を停めていた滝川氏城からの眺め
夜は宿のある上野市駅前で居酒屋での1~2次会を経て、城友会恒例のカラオケへ。
結局午前1時過ぎまで遊び歩き、もうフラフラ・・・(^_^;)
■第2次天正伊賀の乱と信長公記の記述について
■敢國神社

まずは伊賀國一宮、敢國神社にお参りです。

敢國神社拝殿
(天正9年)九月十日、伊賀国さなご嶺おろしへ諸手相働き、国中の伽藍、一宮の社頭を初めとして、悉く放火侯
(信長公記 巻十四「伊賀国、三介殿仰せつけらるゝ事」より)
天正9年(1581)9月、5万近くもの織田の大軍が四方から伊賀へ攻め寄せた第2次天正伊賀の乱。
この時、敢國神社も戦火に巻き込まれて焼失しています。

裏参道

また、敢國神社裏手には浅間社を祀る南宮山という高い山が聳えていますが・・・
十月十日、一宮に至りて御参着。暫時の御休息も御座なく、一宮の上に、国見山とて、高山あり。則ち、御登山侯て、先づ、国中の様子御覧じ計らはる。御座所御殿、滝川左近結構に立て置き、中将信忠御座所、其の外、諸勢残る所なく拵へ置き、珍物を調へ、御膳上げ申し、御馳走斜ならず。
(信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」より)
織田信雄(以降も名称は織田信雄で統一する)を総大将とした織田軍が伊賀を平定した後、織田信長が伊賀の視察に訪れます。
伊賀に入った信長は真っ先に一宮、即ち敢國神社へ向かい、国見山に登って国中の様子を眺めたとあるのですが、この国見山こそ南宮山のことなのです。

境内に祀られている桃太郎岩
南宮山(国見山)山上の浅間社から遷したと伝えられている霊岩です。

国見山遠景
いつ頃から国見山と呼ばれるようになったかは不明ですが、或いは他国のことで山名など知らなかった織田の将兵たちが、「上様が登って国中を見た山」として国見山と呼んだのを、牛一が書き留めていたものか・・・
はたまた、「国見山という山がある」と聞いたからこそ、信長は「ならばわしも登って国を見てやろう」と思い立ったものか・・・
実際のところは分かりませんが、いろいろと想像をかき立てられて楽しくなります。
さて、それではお城めぐりのスタートです。
まず1城めは・・・
■福地氏城

柘植の福地氏城です。
柘植の福地御赦免なされ、人質執り固め、其の上、不破彦三を御警固として、当城に入れ置かる。
(信長公記 巻十四「伊賀国、三介殿仰せつけらるゝ事」より)
第2次天正伊賀の乱の際、福地氏は織田方に寝返り、伊賀侵攻の手引きをして赦免されました。
しかし、それがために伊賀の国人の恨みを買い、翌年の本能寺の変で信長が横死すると伊賀国人の攻撃を受けて逃亡する憂き目に遭っています。

主郭西側の帯曲輪下、切岸に残る石積み

主郭と帯曲輪の間の横堀

主郭虎口

石垣が綺麗に残っていました。

主郭
なお、松尾芭蕉はこの福地氏一族の出身と云われていることから、主郭には芭蕉の句碑などもありました。

主郭にあった井戸

土塁(の上に建っていた何か?)へ上がるための通路か?

それを土塁の上から

同じく、主郭土塁上から見下ろす帯曲輪

城山下(北西)の長方形型の曲輪(居館跡か?)は田圃に・・・

しかし曲輪をグルッと取り巻く土塁と横堀は、三方に残っていました。(南西面は消失)

まぁ三方のうち、二面は凄いド藪でしたけど…(笑)

これでもか!と行く手を阻む倒竹・・・

ようやく藪を抜け出してきた場所…写真中央、藪が僅かに暗く開けている箇所から出てきました(笑)
遺構の残存状態もいいし、規模もそれなりに大きくて楽しめるお城でした。
■竹島氏城

2城めは竹島氏城です。ここでも芭蕉押し(笑)
それもそのはず、竹島氏13代の妻は芭蕉の姉だったのだそうです。

石積みらしき痕跡

主郭はかなりの広さがありました。

主郭を取り巻く土塁

参加者の身長と比べても、その高さは歴然です。
サクッと楽しめるお城でした。
■柏野城

3城めは柏野城
獣害対策のフェンスが物々しい…(^_^;)

主郭の土塁と、土塁上に城址碑がありました。

城址碑の裏には、天正伊賀の乱に於ける柏野城の顛末が簡単に書かれていました。

虎口らしきものが2つ並んでいます。

主郭西側の堀切を土塁の上から

また、主郭北西下には三方向に伸びる土橋らしき痕跡もありました。

主郭北側へ回り込む横堀

主郭西側の堀切
単郭方形のシンプルな造りで、典型的な土豪・国人居館といったお城でしたが、堀切や横堀が綺麗に残っていて見応えありました。
■中出山城・永井氏城
引き続き、一つの丘陵上に連なる中出山城・永井氏城へ

近くの公民館に車を置かせていただき、城山へ向かっていると遠くの方に・・・猿軍団(;´・ω・)
しかも彼ら、我々が向かおうとしている城山を根城にしているのか、山中で幾度となく姿を見かけました。
※こばたかさんは単独行動にはしったため、猿に威嚇されていました(笑)
ますは丘陵先端付近にあるはずの中出山城を目指しますが・・・

窯?のような痕跡や・・・

石列などが残っていましたが、どことなくお城というよりは神社やお寺のような痕跡にも思え、肝心の目指す中出山城の痕跡が一向に見当たりません・・・。

それでも皆であーでもないこーでもないと話し合いながら、ようやく探り当てた主郭虎口

虎口から主郭内側の土塁

横堀的な?
そのまま永井氏城を目指し、尾根を奥へ進みます。

行く手を堀切に遮られましたが、躊躇することなく攻めかかるメンバーたち(笑)

堀切の底から

永井氏城主郭・・・土塁が高い!

中出山城が消化不良だったこともあり、永井氏城もあまり期待はしていなかったのですが、主郭の土塁は見事でした。
いい意味で想定外の規模。

主郭虎口

中出山城・永井氏城遠景
手前に中出山城、そこから尾根伝いに奥へ永井氏城があります。
■百地丹波守城
6城めは百地丹波守城です。

百地丹波守城縄張図
伊賀の有力国人・百地丹波守の居城と考えられています。
第2次天正伊賀の乱の際に落城したと伝わりますが、丹波守は他の国人衆と共に名張の柏原城に籠って最後まで抵抗し、そこで戦死したとも、落ち延びたとも云われ、その後の消息は不明です。
近年の研究では百地三太夫とは別人と考えられているそうです。
なお、三太夫の子孫は現在も名張市滝口に住んでおり、屋敷も残っています(三太夫屋敷)。

城跡に隣接する青雲寺は百地丹波守の菩提寺
墓地には百地家累代之墓もありました。

郭DとCの間の横堀

主郭(郭C)の南虎口

主郭に入ると城址碑が建っていました。

主郭
奥に北虎口

主郭と郭Bの間の堀切

郭A

郭Aの土塁には虎口らしき痕跡もありました。
さすがは百地丹波守のお城、一つ一つの遺構も規模があり、見応えのある城跡です。
■井上氏城

伊賀市中村の辻堂古墳の駐車場に車を停め、次に向かうは井上氏城です。

主郭背後、東側に残る薬研状の横堀

主郭
北側(写真左)の土塁は二段構成に築かれていました。
たまたま居合わせた地元の方から聞いたのですが、先日(訪城時より)近くに住む井上さんのお宅で法事があり、その際、家の歴史を教えてもらったのだそうです。それによると、その井上さんのご先祖は集落背後のお城を守備していたと伝わっているのだとか・・・。
つまり、城主・井上氏のご子孫ということになりますね・・・今もその土地に息づいている歴史に触れることができました。
■丸山城
丸山城は天正6年(1578)、伊賀侵攻を目論む織田信雄が、その橋頭保として家臣の滝川雄利に築城(古城の修築)を命じたお城です。

南側の麓から神社の参道跡のような遊歩道をしばらく登っていくと・・・

割とあっさり本丸に出ました。天守台も見えます。
ところで、滝川雄利による丸山城修築開始を知った伊賀の国人たちは驚き、丸山の西隣にある天童山に物見を出します。
この時、物見が目にした丸山城の様子が伊賀旧考に残っているのですが、それには天守台について;
三層の殿主あり天守台六間四方台の高さ三間四方石垣なり
と書かれています。

丸山城天守台
六間(約11m)四方、台の高さ三間四方(約5.5m)
高さは足りない気もしますが、幅はほぼその通りのサイズに思えます。
ここに三層の天守が乗り、天守台は四方を石垣で固められていたのですね。

微かに石垣らしき痕跡もありました。

天守台上に建つ城址碑

この城址碑の土台に使われている石、もしかしたら天守台から崩れた石材かも・・・などと話しながらめぐりました。

天守台脇には天正伊賀の乱に於ける両軍戦死者を供養する宝篋印塔が建てられていました。
焼災神社佛閣 伊陽郷士一族郎党
為天正兵乱伊陽全域犠牲者各霊追善菩提也
殉難社司僧尼 織田方将士横死者
と刻まれています。

本丸東側の斜面に残る二重の土塁と横堀

本丸から尾根伝いに西へ進み、途中竪堀(写真)などを見ながら・・・

最後は西の先端から細い山道を下って行きました。
…ん?この山道・・・

ずーっとクネクネ九十九折れになっている・・・!?

麓より二の丸へ越登道九折にして六十九間(伊賀旧考)
伊賀旧考に書かれていたのは、この道のことだったのですね!
六十九間とは約125m。麓まで大体そのくらいだったように思います。こうして古文献と、訪れた地の遺構が重なる瞬間は本当に興奮を覚えます。
※ところで伊賀旧考の記述は、天守台の大きさや登城道のことなど、明らかに隣の山から眺めているだけでは測れないお城内部の詳細にまで及んでいます。
きっと国人衆の斥候は築城人足に扮して紛れ込んでいたのでしょう…さすが忍者!
丸山城の様子を探った伊賀衆は、城の完成前に攻撃することを決め、滝川雄利らを追い出します。
この事件が翌天正7年の第1次天正伊賀の乱へと繋がっていくのですが・・・結果は周知の通り(^_^;)
■滝川氏城・桜町中将城
伊賀の城めぐり、ラストは名張市下小波田の滝川氏城・桜町中将城です。

まずは滝川氏城から
滝川氏城は、第2次天正伊賀の乱に於ける伊賀国人衆最後の砦・柏原城攻めのための拠点として、滝川雄利によって築かれました。柏原城の北に位置します。
そして柏原城が降服開城し、伊賀平定を終えた後・・・
十月十一日、雨降り、御逗留。
十月十二日、三介信雄御陣所、筒井順慶、惟住五郎左衛門陣所、奥郡、小波多と申す所まで、御家老衆十人ぱかり召し列れられ、御見舞。さて、塞ゝ、御要害仕るべきの在所仰せ付けらる。
(信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」より)
伊賀視察のため10月10日に伊賀一宮へ到着した織田信長は、翌11日は雨だったのでそのまま留まり、明けた12日に小波多まで足を運んで御見舞=将兵を労っています。

小波多とは名張市の小波田のことで、この時に信長が訪れた場所こそこの滝川氏城だったと考えられます。

今ではグラウンドになっていて往時の雰囲気を感じ取るのは難しいですが、広大な敷地を取り囲む土塁は見事です。

主郭外側の土塁と横堀

馬出は畑に・・・

引き続き桜町中将城へ
桜町中将とは織田信雄のこと、即ち彼の滞在拠点として築かれたお城になります。

主郭周辺は全く太陽の光が届かず、日中でも驚くほどの暗さでしたが・・・

方形型の主郭を取り巻く二重の土塁と横堀は本当に綺麗な造形で、それは見事の一言に尽きます。

横堀の中から

土塁上から横堀を見下ろす。

同じく主郭側を・・・

主郭
ここで日没時間も迫り、城友会初日・伊賀のお城めぐりはこれにて終了です。
この日1日でめぐったお城の数、なんと10城!…さすがに疲れました。

最後は滝川氏城・桜町中将城近くにあった喫茶店で休憩。

車を停めていた滝川氏城からの眺め
夜は宿のある上野市駅前で居酒屋での1~2次会を経て、城友会恒例のカラオケへ。
結局午前1時過ぎまで遊び歩き、もうフラフラ・・・(^_^;)
■第2次天正伊賀の乱と信長公記の記述について
第2次天正伊賀の乱に関する信長公記の記述(「伊賀国、三介殿に仰せつけらるゝ事」)を元に、そこに出てくる地名や城を地図で追っていくと、織田信雄を含む織田軍主力部隊は柘植の辺りから大和街道伝いに侵攻したように読み取れます。
しかしこれだと、伊乱記などを元にした「信雄は伊勢地口から侵攻した」という通説とは明らかに異なりますし、伊賀平定戦を通して重要な舞台に位置付けられる平楽寺や比自山城、伊賀衆最後の抗戦の舞台となった柏原城などが出てきません。
信長公記の中には伊賀攻めとは全く関係のない記述(小姓衆への知行配分、諸職人への褒美のことなど)が随所に挟み込まれています。これらは主に信長の身辺での事象、或いはそこで得た情報と思われます。
つまり、牛一も信長の近くに仕えていたため、従来の彼の手記は信長の身辺でのことが中心だったものを、信長公記編纂の過程で伊賀攻めの経過を人伝に聞き(この伝聞情報が正確さに欠けたか)、後から時系列に沿って挿入したためと推察します。
しかしこれだと、伊乱記などを元にした「信雄は伊勢地口から侵攻した」という通説とは明らかに異なりますし、伊賀平定戦を通して重要な舞台に位置付けられる平楽寺や比自山城、伊賀衆最後の抗戦の舞台となった柏原城などが出てきません。
信長公記の中には伊賀攻めとは全く関係のない記述(小姓衆への知行配分、諸職人への褒美のことなど)が随所に挟み込まれています。これらは主に信長の身辺での事象、或いはそこで得た情報と思われます。
つまり、牛一も信長の近くに仕えていたため、従来の彼の手記は信長の身辺でのことが中心だったものを、信長公記編纂の過程で伊賀攻めの経過を人伝に聞き(この伝聞情報が正確さに欠けたか)、後から時系列に沿って挿入したためと推察します。
| 固定リンク
「織田信長・信長公記」カテゴリの記事
- 別所は連々忠節の者(新発見の織田信長文書)(2022.12.07)
- 旧東海道、藤川宿~池鯉鮒宿(2022.11.15)
- 「こぬか薬師」を拝観(2022.10.13)
- 島津家久が信長を目撃した場所とは?(2022.10.12)
- 織田信長“幻の”京屋敷計画(吉田神社・宗忠神社)(2022.10.11)
コメント