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2015年11月 3日 (火)

六条本圀寺跡、寂光寺、etc…

10月31日~11月1日の2日間、ちょっと京都まで出かけてきました。
旅のきっかけは、比叡山延暦寺の根本中堂が平成28年度から約10年間の大改修に入るので、今のうちにお参りしておきたいと思い立ったためですが、初日は京都市内でちょっとマニアックな?織田信長関連地めぐりをします。
正午頃に京都駅へ到着し、徒歩で最初の目的地へ向かいました。

永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、瞬く間に三好三人衆を初めとする抵抗勢力を京や機内近隣から一掃し、義昭を室町幕府第15代将軍の座に就けます。
義昭は当面の御座所として六条にあった本國寺(後に徳川光圀から「圀」の字を与えられて「本圀寺」となる)に入りますが、信長が岐阜へ帰った後の翌永禄12年正月5日、信長不在の隙を突く形で三好三人衆の襲撃を受けてしまいます。(六条合戦/本國寺の変)

一騎懸に大雪の中を凌ぎ打ち立ち、早御馬にめし侯ひつる

三日路の所二日に京都へ、信長馬上十騎ならでは御伴なく、六条へ懸け入り給ふ。
(共に信長公記 巻二「御後巻信長、御入洛の事」より)

6日に「本國寺襲撃される」の急報を受けた信長は、大雪の中を一騎駆けに飛び出し、通常は3日を要する岐阜⇒京都間を2日で走破して本國寺に駆けつけました。
岐阜からの道中では配下に凍死者も出たようで、本國寺に着いた時には僅か10騎足らずの供廻りを連れているばかりだったと云います。

本國寺を守備した明智光秀や駆けつけた細川藤孝、池田勝正らの活躍もあり、信長が到着した時には三好三人衆は既に撃退された後でした。

現在の本圀寺は山科に建っていますが、これは昭和44年に移転したためで、それまでは西本願寺の北側一帯にありました。

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江戸時代の六条本圀寺図面(以下:図面)
多くの塔頭を抱え、その境内は総門までを含めると南北は花屋町から松原通まで、東西は堀川通から大宮通(実境内地は猪熊通)までの範囲を占めていたようです。

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現代の地図に当てはめるとこのようになります。
但し、天正19(1591)年には西本願寺建設のため、秀吉の命令で境内地を2町ほど割譲させられているようなので、それ以前、つまり六条合戦のあった頃は更に南、現在の西本願寺境内地にまで及んでいたことになります。

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江戸時代の本圀寺
こちらの絵に描かれているのは、図面に「諸堂」と書かれた南東部分のみです。
この更に奥(北)には、方丈や塔頭などが建ち並んでいました。

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日蓮宗題目碑
大宮通に面したに建ち、ここにはかつて本圀寺の西総門がありました。

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から東へ、参道跡を伝っていくと・・・

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仁王門
現在は本願寺聞法会館の裏手にあたり、こちらの門も聞法会館(西本願寺)のもので本圀寺の遺構ではないと思われます。

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猪熊通沿いに伸びる聞法会館の築地塀
ここにかつては、本圀寺の伽藍が建ち並んでいました。

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こちらは東の堀川通沿いにあった石柱
従是南
六条御境内

とあり、「ここより南が境内である」ことを示していますので、これは西本願寺のものということになります。

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しかし、その石柱が現在建っている位置()はちょうど六条通の延長線上で、本来の境界線よりもだいぶ北になってしまいます。
この位置は本来、本圀寺の境内だったはずです…この石柱は堀川改修工事の際に発掘されたらしく、或いは建て直す際に場所を間違えたのでは?とも思えてきます。

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猪熊通を少し北上した場所に建つ、本圀寺塔頭の一つだった真如院
織田信長が足利義昭のために作らせたと云う枯山水の庭園が特別公開されていました。

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真如院庭園は、鱗形の石を水の流れに見立てた珍しい作りでした。
真如院は元々、猪熊通の東側に所在していましたが、昭和24年に現在地の猪熊通西側、寶珠院跡)へ移転しています。
従って、庭園も昭和36年に復元されたものになります。

本國寺の変を受けて信長は、義昭のための新たな御所・二条城建設に取り掛かりますが、それには本國寺の多くの伽藍も解体・転用されたと云われています。
(フロイス「日本史」)


次は地下鉄で「東山」まで移動・・・
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予め拝観予約を入れておいた寂光寺さんとの約束時間まで少し間があったので、先に周辺を軽く散策しました。
奥に白川一本橋

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明智光秀の首塚
にもお参り。

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そしてこちらが、本因坊ゆかりの寂光寺

囲碁の名跡「本因坊」の祖として知られる本因坊算砂とは、寂光寺の第二世・日海上人の名乗りです。
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らとも碁を通じて交誼を結び、信長からは;
そちはまことの名人なり
と称賛され、これが「名人」という語の起源ともされています。

算砂は天正10年6月1日の夜には本能寺の信長の元を訪れ、その御前で利玄(諸説あり)と対局しています。
この対局で滅多にない三コウができ、これではいくらやっても対局が終わらないということでその夜はお開きとなり、算砂は当時室町出水にあった寂光寺へ帰りますが、その僅か数時間後に本能寺の変が勃発しました。
これ以降「三コウは不吉」とされていますが…見方を変えれば早めにお開きとなり、変に巻き込まれずに済んだともいえそうですね。

境内は拝観自由ですが、本堂に保管されている算砂ゆかりの品々も是非とも拝したく、事前に連絡を入れさせていただいた上での訪問となりました。

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本因坊算砂所用、携帯用の碁盤
本能寺の変前夜に算砂が携行し、信長の御前での対局に使用した碁盤…の可能性もあり、事実、ご案内くださった現ご住職(第三十三世)もそのように仰っていました。

また、碁盤の左に置かれている白黒の数珠は碁石をモチーフにしており、これも算砂のものと推定されています。

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寂光寺第二世・日海上人、本因坊算砂像
その手には、先ほどの白黒の数珠がハッキリと描かれています。

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こちらは寂光寺開山、日淵上人
算砂の仏の教えの師でもあります。

法花衆も、宗論いたし侯はんと、申し侯て、京都より長命寺の日光、常光院、九音院、妙顕寺の大蔵坊、堺の油屋弟坊主妙国寺不伝、歴ゝの僧衆、都鄙の僧俗、安土へ群れ集まり侯。
(信長公記 巻十二「法花・浄土宗論の事」)

九音院とは久遠院、即ち寂光寺のことです。ここでは日淵上人を指しています。
そう、日淵はあの「安土宗論」に於ける、法華宗側の代表者でもありました。
更に驚いたことには宗論の際、算砂も師のお供で安土に赴いていたことが、日淵上人の記録に残っているのだそうです。
※安土宗論参考記事

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本因坊第四世・道策像と、彼が安井算哲と江戸城で対局した時の棋譜を再現した碁盤…安井算哲の初手「天元
算哲はどうしても道策には勝てなかったようで、やがて天文学の世界へ進み「渋川春海」を名乗るようになります…まさに小説「天地明察」の世界。

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本因坊戦も行われた対局の間

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「本因坊」の名跡は家元として代々世襲されてきましたが、二十一世・秀哉が引退する際、「これからの本因坊は、真に実力を備えた者が継ぐべき」として日本棋院へ譲渡し、これが本因坊戦の始まりとなりました。
本因坊のタイトルを5連覇、もしくは通算10度獲得すると「第○○世本因坊」として、こちらの楯にも名を連ねることができるのだそうです。

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本因坊算砂墓所

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寂光寺開山、日淵上人墓所

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囲碁については全くの無知な状態で訪れてしまいましたが、ご住職のお話は分かり易く楽しく、とても有意義な時間になりました。
本当にありがとうございました。


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寂光寺を辞去した後は、ぶらぶらと散策。祇園から四条通→寺町通と進み・・・

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現在の本能寺にも参拝。初めて本堂内も拝観いたしました。
寂光寺(共に日蓮宗)でもそうでしたが、日蓮上人像は暖かそうな綿帽子を被っていました。
そういえばこの日は光秀の首塚に算砂の碁盤、そして本能寺と、期せずして本能寺の変に関係する地を訪れていたことになりますね。

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本因坊発祥の地
寂光寺は豊臣秀吉の京都再編計画により、室町出水から寺町のこちらへ移転しますが宝永の大火で焼失し、東山の現在地へと移っていきました。

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歩道にあったオブジェ・・・

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ちゃんと碁盤になっていました(笑)

さて、陽もだいぶ傾いてきましたので、初日の史跡めぐりはここまで。
一旦ホテルにチェックインした後は、京都駅近くで翌日の延暦寺めぐりをご一緒する方々と一献♪

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