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2015年11月

2015年11月29日 (日)

城友会2015…②甲賀

城友会2015、2日目は甲賀のお城めぐりです。
7時に起きて~♪8時出発で~♪♪…コホン。まず初めに向かったのは・・・

多羅尾代官陣屋敷
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多羅尾代官陣屋敷です。
多羅尾氏は中世以来、小川城を拠点に信楽に勢力を張った一族。
天正10年6月2日に本能寺の変が勃発すると、滞在先の堺から京へ向かう途上にいた徳川家康は、伊賀越えでの本国・三河への帰還を目指します。その道中、甲賀を抜ける際には多羅尾氏が家康一行を庇護しました。
秀吉の時代には秀次切腹事件に連座して改易されますが、後に伊賀越えの際の恩に報いた家康から旗本に取り立てられ、寛永15年(1638)に代官に任じられます。
以後、多羅尾氏は屋敷内に代官所を設け、代々代官職を世襲しました。

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これまでは基本的に非公開でしたが、この秋から期間限定で一般公開されています。

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多羅尾代官陣屋敷図面

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入口正面からのこのアングル、明治期に撮影された古写真が残っています。

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それがこちら。建物は失われていますが、坂の傾斜や石垣の配置など全く同じですよね。

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伝蔵屋敷跡

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水路もありました。

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ところどころ隙間の空いた石垣も・・・

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紅葉の落ち葉とも相まって、まるで古城の風情です。

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陣屋跡への登り坂
ここも古写真に残っているようです。

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アングルや距離感から、おそらく蔵屋敷跡から撮影したものと思われます。

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伝代官蔵跡と陣屋建物跡

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井戸もありました。

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代官陣屋敷跡から多羅尾の集落を眺める。

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庭園跡

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庭園の池跡の中には祠を祀った小島も。

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貴重なものを見学させていただきました。
機会を与えてくださった方々に感謝。


三雲城
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お次は滋賀県湖南市の三雲城へ
代々六角氏に仕えた三雲氏の居城。
永禄11年(1568)、足利義昭を擁した織田信長の上洛軍に攻め込まれた六角承禎は居城・観音寺城を捨て、ここ三雲城に逃げ込んでいます。
元亀元年(1570)、織田家の佐久間信盛に攻められて落城したと伝わります。

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八丈岩

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八丈岩前からの眺め
眼下を旧東海道が通っています。

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六角氏の家紋、四つ目結が彫られた岩

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土塁

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二の丸切岸に残る石垣

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一つ一つの石が大きくて迫力があります。

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二の丸虎口

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虎口も石垣で固められています。

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二の丸井戸

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更に高所の主郭にも石垣が。

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主郭から南西方向に延びる尾根
堀切が見えています。

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堀切と土橋

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その土橋を渡る城友会参加者たちw

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三雲城跡にはとにかく大きな岩がゴロゴロしていました。
これなんか、明らかに積み上げていますよね?

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こちらも・・・

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この日はのろし駅伝のイベントが催されていて、狼煙の他、手筒も打ち上げられていました。


丸岡城・東丸岡城

引き続き丸岡城・東丸岡城へ

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丸岡城は何だか不思議な造りでした。
写真のように土塁の中に空堀?があったりするし・・・

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土塁上から主郭
一応、主郭は土塁が廻らされて方形状になっていたようですが・・・

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細い道路を隔てた反対側にある東丸岡城主郭

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主郭外側の堀切

この2城は間を隔てる道路や、すぐ隣の墓地による改変もありそうで、実際のところどのようなお城だったのか、よく分かりませんでした・・・。


黒川氏城

黒川氏城縄張図
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図面を見ただけでもワクワクしてくる縄張ですね。楽しみです。

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こちらも獣害対策のフェンスを開けて入っていきます。

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縄張図曲輪の虎口

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この虎口には石積みも残っていました。

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横堀
切岸も高いです。

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縄張図にあった石段

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縄張図曲輪(主郭)への登り坂に建っていた城址碑

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曲輪の土塁に残る雁木
ちょっと崩れてしまっていますが・・・

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こちらは分かり易いですね。

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曲輪のb虎口

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b虎口の石積み

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虎口の外側にも

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曲輪南側の堀切

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藪も無くて堀切のラインがクッキリ☆

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土塁やら堀やら通路やら・・・複雑過ぎて訳分からん!
(褒めてます)

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クネクネ~
手前に喰い違い虎口のようなものがあったから通路だと思う・・・

黒川氏城…期待に違わず、複雑で素晴らしい遺構でした。

※ところでこの黒川氏城、とにかくヒルが多いと聞いていたのでみんな厳重防備で・・・
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ご覧の姿に(笑)
フードまで被って、誰が名付けたかフードファイター((爆笑
(写真提供:しろうさぎさん)


村雨城・寺前城

お次は村雨城・寺前城です。
※ここからの4城は2013年暮れにも訪れていますので、そちらの記事も参照ください。
コチラ

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まずは村雨城から。枡形虎口

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主郭虎口

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主郭
グルッと土塁に囲まれた様子がよく分かります。

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寺前城との間の堀切

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土橋も架けられています。

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寺前城主郭
虎口が2つ設けられています。

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2つの虎口外側は間に空堀が切られ、土橋と土塁で連結されています。


新宮支城・新宮城

さぁ、ラストスパートです。
城友会2015、最後の城攻めは新宮支城・新宮城になりました。
日没も迫っていましたので、何はともあれまずは新宮支城から攻めます。

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新宮支城主郭虎口
奥に例のモノが見えていますね・・・

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そう、とてつもなく高い主郭土塁!
我々の間では「アホかーっ!?の土塁」と呼んでいます(笑)
(勿論、褒めてますww)

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横堀

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土塁の上から。左下が主郭です。

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土塁最高所より。
この高低差をお分かりいただけますでしょうか・・・

この後、ルートを間違えてぬかるんだ藪を掻き分け、ちゃんと新宮城にも行きましたが、相変わらず藪が凄かったのと、日没でマトモな写真が撮れなかったので省略します。

今年もミッチリとお城を堪能させていただきました、城友会
幹事の流星☆さん初め、運転してくれたゆっきー、参加者皆さんに感謝です。

最後は山科駅で解散し、私はこばたかさんと京都駅で打ち上げの一杯をやってから帰路に就きました。
来年の城友会は・・・北陸かな?

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城友会2015…①伊賀

城友会2015、初日は伊賀のお城をめぐります。

敢國神社
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まずは伊賀國一宮、敢國神社にお参りです。

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敢國神社拝殿

(天正9年)九月十日、伊賀国さなご嶺おろしへ諸手相働き、国中の伽藍、一宮の社頭を初めとして、悉く放火侯
(信長公記 巻十四「伊賀国、三介殿仰せつけらるゝ事」より)

天正9年(1581)9月、5万近くもの織田の大軍が四方から伊賀へ攻め寄せた第2次天正伊賀の乱
この時、敢國神社も戦火に巻き込まれて焼失しています。

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裏参道

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また、敢國神社裏手には浅間社を祀る南宮山という高い山が聳えていますが・・・

十月十日、一宮に至りて御参着。暫時の御休息も御座なく、一宮の上に、国見山とて、高山あり。則ち、御登山侯て、先づ、国中の様子御覧じ計らはる。御座所御殿、滝川左近結構に立て置き、中将信忠御座所、其の外、諸勢残る所なく拵へ置き、珍物を調へ、御膳上げ申し、御馳走斜ならず。
信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」より)

織田信雄(以降も名称は織田信雄で統一する)を総大将とした織田軍が伊賀を平定した後、織田信長伊賀の視察に訪れます。
伊賀に入った信長は真っ先に一宮、即ち敢國神社へ向かい、国見山に登って国中の様子を眺めたとあるのですが、この国見山こそ南宮山のことなのです。

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境内に祀られている桃太郎岩
南宮山(国見山)山上の浅間社から遷したと伝えられている霊岩です。

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国見山遠景
いつ頃から国見山と呼ばれるようになったかは不明ですが、或いは他国のことで山名など知らなかった織田の将兵たちが、「上様が登って国中を見た山」として国見山と呼んだのを、牛一が書き留めていたものか・・・
はたまた、「国見山という山がある」と聞いたからこそ、信長は「ならばわしも登って国を見てやろう」と思い立ったものか・・・
実際のところは分かりませんが、いろいろと想像をかき立てられて楽しくなります。

さて、それではお城めぐりのスタートです。
まず1城めは・・・

福地氏城
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柘植の福地氏城です。

柘植の福地御赦免なされ、人質執り固め、其の上、不破彦三を御警固として、当城に入れ置かる。
信長公記 巻十四「伊賀国、三介殿仰せつけらるゝ事」より)

第2次天正伊賀の乱の際、福地氏は織田方に寝返り、伊賀侵攻の手引きをして赦免されました。
しかし、それがために伊賀の国人の恨みを買い、翌年の本能寺の変で信長が横死すると伊賀国人の攻撃を受けて逃亡する憂き目に遭っています。

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主郭西側の帯曲輪下、切岸に残る石積み

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主郭と帯曲輪の間の横堀

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主郭虎口

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石垣が綺麗に残っていました。

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主郭
なお、松尾芭蕉はこの福地氏一族の出身と云われていることから、主郭には芭蕉の句碑などもありました。

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主郭にあった井戸

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土塁(の上に建っていた何か?)へ上がるための通路か?

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それを土塁の上から

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同じく、主郭土塁上から見下ろす帯曲輪

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城山下(北西)の長方形型の曲輪(居館跡か?)は田圃に・・・

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しかし曲輪をグルッと取り巻く土塁と横堀は、三方に残っていました。(南西面は消失)

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まぁ三方のうち、二面は凄いド藪でしたけど…(笑)

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これでもか!と行く手を阻む倒竹・・・

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ようやく藪を抜け出してきた場所…写真中央、藪が僅かに暗く開けている箇所から出てきました(笑)

遺構の残存状態もいいし、規模もそれなりに大きくて楽しめるお城でした。


竹島氏城
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2城めは竹島氏城です。ここでも芭蕉押し(笑)
それもそのはず、竹島氏13代の妻は芭蕉の姉だったのだそうです。

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石積みらしき痕跡

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主郭はかなりの広さがありました。

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主郭を取り巻く土塁

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参加者の身長と比べても、その高さは歴然です。
サクッと楽しめるお城でした。


柏野城
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3城めは柏野城
獣害対策のフェンスが物々しい…(^_^;)

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主郭の土塁と、土塁上に城址碑がありました。

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城址碑の裏には、天正伊賀の乱に於ける柏野城の顛末が簡単に書かれていました。

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虎口らしきものが2つ並んでいます。

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主郭西側の堀切を土塁の上から

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また、主郭北西下には三方向に伸びる土橋らしき痕跡もありました。

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主郭北側へ回り込む横堀

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主郭西側の堀切

単郭方形のシンプルな造りで、典型的な土豪・国人居館といったお城でしたが、堀切や横堀が綺麗に残っていて見応えありました。


中出山城・永井氏城

引き続き、一つの丘陵上に連なる中出山城・永井氏城へ

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近くの公民館に車を置かせていただき、城山へ向かっていると遠くの方に・・・猿軍団(;´・ω・)
しかも彼ら、我々が向かおうとしている城山を根城にしているのか、山中で幾度となく姿を見かけました。
※こばたかさんは単独行動にはしったため、猿に威嚇されていました(笑)

ますは丘陵先端付近にあるはずの中出山城を目指しますが・・・
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窯?のような痕跡や・・・

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石列などが残っていましたが、どことなくお城というよりは神社やお寺のような痕跡にも思え、肝心の目指す中出山城の痕跡が一向に見当たりません・・・。

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それでも皆であーでもないこーでもないと話し合いながら、ようやく探り当てた主郭虎口

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虎口から主郭内側の土塁

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横堀的な?

そのまま永井氏城を目指し、尾根を奥へ進みます。

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行く手を堀切に遮られましたが、躊躇することなく攻めかかるメンバーたち(笑)

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堀切の底から

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永井氏城主郭・・・土塁が高い!

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中出山城が消化不良だったこともあり、永井氏城もあまり期待はしていなかったのですが、主郭の土塁は見事でした。
いい意味で想定外の規模。

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主郭虎口

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中出山城・永井氏城遠景
手前に中出山城、そこから尾根伝いに奥へ永井氏城があります。


百地丹波守城

6城めは百地丹波守城です。
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百地丹波守城縄張図
伊賀の有力国人・百地丹波守の居城と考えられています。
第2次天正伊賀の乱の際に落城したと伝わりますが、丹波守は他の国人衆と共に名張の柏原城に籠って最後まで抵抗し、そこで戦死したとも、落ち延びたとも云われ、その後の消息は不明です。
近年の研究では百地三太夫とは別人と考えられているそうです。
なお、三太夫の子孫は現在も名張市滝口に住んでおり、屋敷も残っています(三太夫屋敷)。

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城跡に隣接する青雲寺は百地丹波守の菩提寺
墓地には百地家累代之墓もありました。

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郭DCの間の横堀

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主郭(郭C)の南虎口

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主郭に入ると城址碑が建っていました。

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主郭
奥に北虎口

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主郭と郭Bの間の堀切

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郭A

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郭Aの土塁には虎口らしき痕跡もありました。

さすがは百地丹波守のお城、一つ一つの遺構も規模があり、見応えのある城跡です。


井上氏城
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伊賀市中村の辻堂古墳の駐車場に車を停め、次に向かうは井上氏城です。

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主郭背後、東側に残る薬研状の横堀

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主郭
北側(写真左)の土塁は二段構成に築かれていました。

たまたま居合わせた地元の方から聞いたのですが、先日(訪城時より)近くに住む井上さんのお宅で法事があり、その際、家の歴史を教えてもらったのだそうです。それによると、その井上さんのご先祖は集落背後のお城を守備していたと伝わっているのだとか・・・。
つまり、城主・井上氏のご子孫ということになりますね・・・今もその土地に息づいている歴史に触れることができました。


丸山城

丸山城は天正6年(1578)、伊賀侵攻を目論む織田信雄が、その橋頭保として家臣の滝川雄利に築城(古城の修築)を命じたお城です。

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南側の麓から神社の参道跡のような遊歩道をしばらく登っていくと・・・

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割とあっさり本丸に出ました。天守台も見えます。

ところで、滝川雄利による丸山城修築開始を知った伊賀の国人たちは驚き、丸山の西隣にある天童山に物見を出します。
この時、物見が目にした丸山城の様子が伊賀旧考に残っているのですが、それには天守台について;
三層の殿主あり天守台六間四方台の高さ三間四方石垣なり
と書かれています。

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丸山城天守台
六間(約11m)四方台の高さ三間四方(約5.5m)
高さは足りない気もしますが、幅はほぼその通りのサイズに思えます。
ここに三層の天守が乗り、天守台は四方を石垣で固められていたのですね。

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微かに石垣らしき痕跡もありました。

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天守台上に建つ城址碑

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この城址碑の土台に使われている石、もしかしたら天守台から崩れた石材かも・・・などと話しながらめぐりました。

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天守台脇には天正伊賀の乱に於ける両軍戦死者を供養する宝篋印塔が建てられていました。
焼災神社佛閣 伊陽郷士一族郎党
為天正兵乱伊陽全域犠牲者各霊追善菩提也
殉難社司僧尼 織田方将士横死者

と刻まれています。

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本丸東側の斜面に残る二重の土塁と横堀

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本丸から尾根伝いに西へ進み、途中竪堀(写真)などを見ながら・・・

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最後は西の先端から細い山道を下って行きました。
…ん?この山道・・・

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ずーっとクネクネ九十九折れになっている・・・!?

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麓より二の丸へ越登道九折にして六十九間(伊賀旧考)

伊賀旧考に書かれていたのは、この道のことだったのですね!
六十九間とは約125m。麓まで大体そのくらいだったように思います。こうして古文献と、訪れた地の遺構が重なる瞬間は本当に興奮を覚えます。

※ところで伊賀旧考の記述は、天守台の大きさや登城道のことなど、明らかに隣の山から眺めているだけでは測れないお城内部の詳細にまで及んでいます。
きっと国人衆の斥候は築城人足に扮して紛れ込んでいたのでしょう…さすが忍者!

丸山城の様子を探った伊賀衆は、城の完成前に攻撃することを決め、滝川雄利らを追い出します。
この事件が翌天正7年の第1次天正伊賀の乱へと繋がっていくのですが・・・結果は周知の通り(^_^;)


滝川氏城・桜町中将城

伊賀の城めぐり、ラストは名張市下小波田の滝川氏城・桜町中将城です。

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まずは滝川氏城から
滝川氏城は、第2次天正伊賀の乱に於ける伊賀国人衆最後の砦・柏原城攻めのための拠点として、滝川雄利によって築かれました。柏原城の北に位置します。

そして柏原城が降服開城し、伊賀平定を終えた後・・・

十月十一日、雨降り、御逗留。
十月十二日、三介信雄御陣所、筒井順慶、惟住五郎左衛門陣所、奥郡、小波多と申す所まで、御家老衆十人ぱかり召し列れられ、御見舞。さて、塞ゝ、御要害仕るべきの在所仰せ付けらる。

(信長公記 巻十四「伊賀国へ信長御発向の事」より)

伊賀視察のため10月10日に伊賀一宮へ到着した織田信長は、翌11日は雨だったのでそのまま留まり、明けた12日に小波多まで足を運んで御見舞=将兵を労っています。

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小波多とは名張市の小波田のことで、この時に信長が訪れた場所こそこの滝川氏城だったと考えられます。

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今ではグラウンドになっていて往時の雰囲気を感じ取るのは難しいですが、広大な敷地を取り囲む土塁は見事です。

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主郭外側の土塁と横堀

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馬出は畑に・・・

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引き続き桜町中将城
桜町中将とは織田信雄のこと、即ち彼の滞在拠点として築かれたお城になります。

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主郭周辺は全く太陽の光が届かず、日中でも驚くほどの暗さでしたが・・・

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方形型の主郭を取り巻く二重の土塁と横堀は本当に綺麗な造形で、それは見事の一言に尽きます。

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横堀の中から

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土塁上から横堀を見下ろす。

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同じく主郭側を・・・

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主郭

ここで日没時間も迫り、城友会初日・伊賀のお城めぐりはこれにて終了です。
この日1日でめぐったお城の数、なんと10城!…さすがに疲れました。

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最後は滝川氏城・桜町中将城近くにあった喫茶店で休憩。

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車を停めていた滝川氏城からの眺め

夜は宿のある上野市駅前で居酒屋での1~2次会を経て、城友会恒例のカラオケへ。
結局午前1時過ぎまで遊び歩き、もうフラフラ・・・(^_^;)


第2次天正伊賀の乱信長公記の記述について
第2次天正伊賀の乱に関する信長公記の記述(「伊賀国、三介殿に仰せつけらるゝ事」)を元に、そこに出てくる地名や城を地図で追っていくと、織田信雄を含む織田軍主力部隊は柘植の辺りから大和街道伝いに侵攻したように読み取れます。
しかしこれだと、伊乱記などを元にした「信雄は伊勢地口から侵攻した」という通説とは明らかに異なりますし、伊賀平定戦を通して重要な舞台に位置付けられる平楽寺や比自山城、伊賀衆最後の抗戦の舞台となった柏原城などが出てきません。
信長公記の中には伊賀攻めとは全く関係のない記述(小姓衆への知行配分、諸職人への褒美のことなど)が随所に挟み込まれています。これらは主に信長の身辺での事象、或いはそこで得た情報と思われます。
つまり、牛一も信長の近くに仕えていたため、従来の彼の手記は信長の身辺でのことが中心だったものを、信長公記編纂の過程で伊賀攻めの経過を人伝に聞き(この伝聞情報が正確さに欠けたか)、後から時系列に沿って挿入したためと推察します。

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2015年11月28日 (土)

千草越え

2012年から参加させて頂いている年1回開催の城友会。2015年(11月22~23日)の舞台は伊賀&甲賀
その前日、21日は移動を兼ねた前乗りで、織田信長千草越え関連地を訪れることにしました。

元亀元年(1570)4月、越前侵攻中に浅井長政の離反を受け、急ぎ京へと撤退した織田信長の金ヶ崎の退き口(→参考記事 ※前後篇あり)。
京へ戻った信長は態勢を立て直すため、一旦本拠の岐阜へ向かうことにします。

状況図Ⅰ
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十二日に永原まで御出で。永原に、佐久間右衛門置かれ、長光寺に、柴田修理亮在城。安土城に、中川八郎右衛門楯籠る。此の如く塞々に御人数残しをかせられ、
(信長公記 巻三「越前手筒山攻め落さるゝの事」より)

永原に佐久間信盛、長光寺(瓶割山)に柴田勝家、安土城には中川重政を配して琵琶湖の南~南東岸一帯は確保しましたが、浅井家の離反により佐和山城が敵対勢力圏となったため、佐和山が押さえる東山道を経由しての岐阜帰還は叶わず、彼は南方の千草越えのルートを選択しました。

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八風街道と千草(千種)街道の追分(状況図

2015112103
道標には;
右 四日市 市原 甲津畑
左 桑名  山上 永源寺

とあります。

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甲津畑を目指す我々は、ここから右の千草街道を進みます。
確保した琵琶湖南岸から千草峠へは通常ですと、我々のように八風街道を経て千草街道を進むことになりますが・・・

状況図Ⅱ
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五月十九日御下りのところ、浅井備前、鯰江の城へ人数を入れ、市原の郷一揆を催し、通路を止むべき行仕り侯。然れども、日野蒲生右兵衛大輔布施藤九郎香津畑の菅六左衛門馳走申し、千草越えにて御下りなされ侯。
(信長公記 巻三「千草峠にて銕炮打ち申すの事」より)

浅井に鯰江城を押さえられ、更に千草街道沿い、追分の道標にもあった市原(東近江市市原)でも一揆を扇動されて通路(八風・千草街道)を止むべき行(てだて)をられたため、それも不可能となります。
ところが、蒲生賢秀(日野城)・布施藤九郎(大森城)・速水勘六左衛門(甲津畑)の3人の馳走により、千草越えを果たしたとあります。

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それぞれの居城や所領の位置関係(状況図Ⅱ参照)から察するに、鯰江城とは愛知川を挟んだ対岸に位置する布施の大森城長光寺城とで防衛ラインを築いて八風街道(市原の一揆)を避け、低く連なる写真の台地状の稜線の向こう(南)側、蒲生の日野の方へと迂回し、速水の甲津畑千草峠へと進んだものと思われます。(状況図Ⅱ

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日野から甲津畑へと進む信長が通ってきたと思われる、さきほどの稜線を越える道(左)

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とても細い道でしたが、折角なので車で通っていただきました。
※あっぴん。さん、ありがとう(^_^)/

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信長とは逆に甲津畑側から南へ向かうと、すぐに蒲生の領地だった日野町に入ります。

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路傍には古そうなお地蔵さんも。
詳しい由来などは分かりませんが、「おふき地蔵」というのだそうです。

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さて、千草越えルートに戻ります。
日野から甲津畑側へと稜線を越えてきた付近からの景観。信長が目にしたものと如何ばかりも変わっていないのでしょうね。

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ここにも道標がありました。

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少し進むと、早くも千草峠の山容が眼前に迫ってきます。

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いよいよ甲津畑の集落に入ります。

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小さな集落の奥まった場所に…速水勘六左衛門邸と、織田信長馬繋ぎの松
現在も速水家のご子孫がお住いのようです。

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推定樹齢は250年ほどとのことなので2代目ということになるのでしょうが、とても貫録のある松です。
峠越えを前にして信長は、こちらで勘六左衛門(管六左衛門)の接待を受けて一息入れていたのかもしれません。

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速水邸から先、集落の道は一段と細くなっていきます。
ここを抜けると・・・

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道はいよいよ峠へ差し掛かります。

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途中、千草街道の旧道も部分的に残っていました。
古道の痕跡がはっきりと残っています。

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その旧道付近から見る千草峠
445年の時を隔て、今こうして織田信長が目にした景色をほぼ同じ位置から、同じアングルで眺めているのです。そう思うだけで興奮を抑えきれません。

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岩ヶ谷林道の入口
ここからは車を置いて徒歩になります。

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岩ケ谷林道は大正年間に鉱山業のために整備されたもので、旧来の千草街道とは少しルートがずれています。

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しばらく進むとご覧の案内板がありました。
赤い実線は我々が歩いている林道で、点線の方が千草街道になります。
※方位は間違っていますのでご注意ください。

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上流へ進むにつれ、藤切川の川面が近付いてきました。

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林道入口から25分ほども歩いたでしょうか…到着しました、杉谷善住坊の隠れ岩への案内板。
ここから林道を逸れて河原へと下って行きますが、細くて急勾配なため注意が必要です。

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杉谷善住坊の隠れ岩

左侯ところ、杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎に憑まれ、千草山中道筋に鉄炮を相構へ、情なく、十二、三間隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し侯。されども、天道昭覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ侯て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。
(信長公記 巻三「千草峠にて銕炮打ち申すの事」より)

千草街道を進む信長は、ここで六角承禎に依頼(命令)された鉄砲の名手・杉谷善住坊の狙撃を2発受けました。

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隠れ岩の足元から千草街道を見る。
十二、三間とは約22m前後のこと。目測ですが、距離は信長公記の記述と一致しているように思えました。

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対岸の千草街道をアップで・・・
少しU字型に窪みながら左右に横切っているのがお分かりになりますでしょうか?

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実際に善住坊が鉄砲を放ったのは隠れ岩の足元から、という説をテレビで観た気もしますが…発砲後の逃走経路の確保も考えると、私はむしろ隠れ岩の上からだったような気がしてなりません。

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隠れ岩の上から千草街道方面を見る。
現在は木々に視界を遮られてよく見通せませんが・・・

この時の顛末を人伝に耳にしたのでしょう、公家の山科言継は;

織田弾正忠こうづはたにて、銕放四丁にて自山中射之云々、但不當、笠之柄打折之云々
(「言継卿記」元亀元年五月廿二日の項)

と書き残しています。読み下すと;
織田弾正忠こうづはた(甲津畑)にて、鉄砲4丁にて山中よりこれを射つと云々、但し当たらず、笠の柄これを打ち折ると云々
となります。鉄砲の数が違うのは伝聞による誤差でしょう。

銃弾は辛うじて体を外れて、虎口を逃れた(鰐の口を御遁れ侯て)信長は無事に岐阜への帰還を果たしました。
この後、歴史は姉川の合戦へと繋がっていきます。


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さて、下山後は前出の蒲生氏ゆかりの日野城(中野城)へと向かいました。
城跡のすぐ脇まで日野川ダムが迫っています…水は枯れていたけど。

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日野城縄張図

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日野城跡では映画「るろうに剣心」のロケも行われたそうです。
※剣心vs蒼紫の決闘シーンだそうです。←観ていないので分からないw

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土塁と横堀(縄張図a

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蒲生賢秀の嫡子で織田信長の娘婿となる蒲生氏郷産湯の井戸(縄張図
この辺りが本丸跡になるようです。

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本丸跡には城址碑も(縄張図

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縄張図の方向に見る空堀
奥の竹藪の中には・・・

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土橋も見えていました。
日野城は氏郷の松ヶ島城転封により、その役目を終えました。

少し車で移動して・・・
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馬見岡綿向神社前、伝若松の森址
蒲生氏郷が会津へ移封された時、故郷日野城の近くにあったこの若松の森にちなみ、会津黒川の地を若松に改めたと伝えられています。江戸中期には多くの松が朽ちてしまったようです。

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馬見岡綿向神社

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馬見岡綿向神社本殿

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境内には楠正成とその子・正行の桜井の別れ之像も。
元々は日野小学校の校庭にあったそうですが、戦後の占領統治下で従来の精神教育が否定されるに及び撤去され、馬見岡綿向神社の境内に移されたまま、現在に至るそうです。

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雲雀野公園に建つ蒲生氏郷像
・・・逆光はどうにもならん(´-ω-`)

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雲雀野公園近くの和菓子屋さんで「氏郷饅頭」を購入し、本日の行程は終了です。
運転してくれたあっぴん。さん、同行のゆっきー、ありがとうございました。

この後は宿泊地となる伊賀上野まで移動し、翌日からの城友会参加者も集合しての前夜祭☆
何故か居酒屋の個室にカラオケが備え付けられていたので、まさかの前夜祭からのカラオケ突入(笑)
楽しく盛り上がりました。

城友会初日、伊賀のお城めぐりへつづきます。

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2015年11月 5日 (木)

比叡山延暦寺

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比叡山延暦寺東塔に到着です。
早速参拝、といきたいところですが・・・

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お腹が空いたので、まずは湯葉ご飯で腹拵え(笑)
お腹が満たされたところで・・・

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元亀元年(1570)、朝倉・浅井連合軍が比叡山に立て籠もった志賀の陣の折、織田信長は延暦寺に対し;
我々に味方すれば、織田の分国中にある延暦寺の山門領を返還する。但し、仏教者として一方にのみ肩入れすることはできないと言うのならば中立を守れ。さもなくば焼き討ちする。
と申し入れましたが、延暦寺がこれを聞き入れなかったため、翌元亀2年(1571)9月12日、信長は遂に比叡山焼き討ちを決行しました。

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元亀兵乱殉難者鎮魂塚
焼き討ちの規模や範囲など詳細は不明な点が多く、考古学的見地からも実際に信長の焼き討ちによる焼失が確認できるのは、延暦寺では根本中堂と大講堂の二宇くらいで、それ以外の多くは焼き討ち前から既に荒廃していた?らしいのですが、いずれにしても僧兵のみならず、多くの人々が犠牲になったことは確かです。
後に天下を掌握した豊臣秀吉も、延暦寺の再興をなかなか許可しなかったと云いますから、京の都を押さえる武家権力者にとって比叡山は、あまりに要地に過ぎたという側面もあったように思えます。

ま、難しい歴史はこのくらいにして、今回はじっくりと参拝してまわります。

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大講堂
昭和39年、坂本の讃仏堂から移築されました。

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そして延暦寺の総本堂、根本中堂へ。
現在の建物は寛永19年(1642)、徳川家光の命により再建されました。

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根本中堂は平成28年度より約10年間、大改修工事に入ります。
既に堂内にも一部、足場が組まれている箇所もありましたが、不滅の法灯もしっかりとこの目に焼き付けて参りました。

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しっかし根本中堂って、写真泣かせな立地ですよね…(^_^;)

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文殊楼
楼内は狭く、階段がとてつもなく急傾斜だったので、参拝客で渋滞が発生していました(笑)

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休憩所に展示されていた比叡山のジオラマ

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阿弥陀堂東塔

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戒壇院

詳細は不明ですが、なかなか年季の入った風情がいい感じでした。

さて、お次は西塔へ移動…と、その前に・・・
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昼食の湯葉ご飯を注文した際、100円サービス券を渡されていたので…同じお店で一休み(笑)

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それでは西塔へ。

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延暦寺といえば、穴太衆の石垣ですよねぇ~♪

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釈迦堂(転法輪堂)
西塔地区の本堂で、文禄4年(1596)に秀吉が三井寺(園城寺)の金堂を移築させたものです。

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釈迦堂の裏山(香炉ケ丘)を登ると・・・

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弥勒石仏が鎮座しています。
推定鎌倉初期の作で、台座を除く部分は一石で彫りだされています。
光背の向かって右半分が欠損していますが、これは信長による比叡山焼き討ち時の破損とも伝えられているそうです。

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背面には月輪と、その中に梵字が彫り込まれていたそうです。

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石仏の足元には不思議な仏?さんも・・・なんとなく、どこかで見たようなお顔…(笑)

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にない堂(常行堂・法華堂)
弁慶が両堂を繋ぐ廊下に肩を入れて「担った」との伝承から、この名で呼ばれます。

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椿堂

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西塔から比叡山ドライブウェイを渡り、しばらく林道を進むと見えてくるのが・・・

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瑠璃堂
室町末期の建立と推定され、織田信長による焼き討ちを免れた現存唯一の建物と云われています。
訪れる人も殆どなく、国の重要文化財が山中にひっそりと佇んでいました。このお堂は、元亀2年の焼き討ちを目撃していたのですね・・・。


さて、今回の延暦寺参拝はここまでとし、帰りは滋賀県側へ下山することにしました。

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少し時間にゆとりがあったので、浮御堂で有名な堅田の満月寺に立ち寄り。

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近江八景「堅田の落雁」
延暦寺共々、個人的には11年ぶりの再訪になりました。

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そういえば、11年前も曇っていたような気がする・・・。

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そのまま満月寺付近を散策…こちらは伊豆神社

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光徳寺境内に建つ堅田源兵衛父子殉教之像
応仁の乱の兵火を逃れて堅田に移っていた本願寺第八世・蓮如上人は、対立する比叡山延暦寺の襲撃から守るため、開祖・親鸞聖人の御真影(木像)を三井寺に預けて廻国の旅に出ます。
その後、山科本願寺創建を機に御真影を迎えようとしますが、三井寺は返還に応じず「生首を2つ持って来なければ返してやらぬ」との難題を突きつけてきました。
堅田の漁師だった源右衛門・源兵衛という父子がこの話を聞き、父・源右衛門が息子・源兵衛の首を落として三井寺へ差し出し、更に「自分の首も落として合わせて2つ、確かに受け取ってくれ」と伝えたとか・・・。
さすがの三井寺もこれには堪らず、御真影を返したと云います。

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光徳寺の近くには、宝井其角の寓居跡碑もありました。
其角の江戸での寓居跡は、私の職場近く(日本橋)にあります…なんだか奇遇。

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こちらは、本福寺境内に建つ蓮如堂
本福寺
こそ、堅田に逃れていた蓮如上人が拠点にしたお寺で、ある意味、一時期は本願寺の総本山になっていたと言っても過言ではない寺院です。


さて、これにて旅の行程も全て終了…最後は大津駅まで送っていただき、帰路に就きました。
今回もお世話になった同行者の皆様、ありがとうございました。

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2015年11月 4日 (水)

金戒光明寺の特別公開

京旅2日目。
比叡山へ向かう前に、まずは朝一番で金戒光明寺…通称くろ谷さんへ。
幕末、京都守護職を担う会津藩が本陣を置いたことでも知られますが、この日(11/1)から秋の特別公開で山門、及び大方丈を拝観できると知って訪れました。

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9時の受付開始と同時に、まずは万延元年(1860)創建の山門から。

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釈迦三尊像や十六羅漢像、龍の天井絵も見事でしたが、京都市内を一望できる眺めも素晴らしかった・・・。
何故、光明寺が守護職本陣に選ばれたのか、が実感として理解できるような気がしてきます。

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続いて御影堂~大方丈へ。

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大方丈では、念願だった謁見の間の拝観が遂に叶いました。
文久3年(1863)の浪士組上洛後、攘夷を掲げてすぐに江戸へ引き返した清河八郎と袂を分かち、京都残留を希望した芹沢鴨近藤勇土方歳三ら後の新選組メンバー。
彼らの願いが叶って京都守護職預かりとなり、会津藩主・松平容保に拝謁した場所・・・。
残念ながら昭和9年の火災で大方丈は御影堂と共に焼失しており、現在の建物は再建になりますが、焼失前のものに忠実に復元されているのだそうです。

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謁見の間の前から撮影した大方丈の前庭

また、襖を閉じている時と開けた時とで、そこに描かれている虎の頭数が変わる虎の間のカラクリも面白かったです。

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紫雲の庭

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紫雲の庭は散策することもできます。

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くろ谷さんといえば・・・(^O^)

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徳川秀忠の菩提を弔うために創建された三重塔

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会津藩殉難者墓地
文久2~慶応3年の5年間に亡くなった237名のお墓と、鳥羽伏見の戦いで命を落した115名の霊を祀る慰霊碑があります。

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会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑

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115名の藩士らが戦死していた場所を示しているのでしょう…伏見町上鳥羽村納所村(淀)などの地名が並んでいます。
更には「埋骨所」とも・・・。

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当然、山本八重の弟・三郎の名もありました。

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三重塔前からの眺め

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ところで光明寺には、山中鹿之助のお墓もありました。
(右。その左は亀井茲矩墓)

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土産物売り場で偶然みつけた絵葉書。
なんと、織田信長の禁制も取り付けていたのですね!

さて、それでは比叡山延暦寺へ向かいます。

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2015年11月 3日 (火)

六条本圀寺跡、寂光寺、etc…

10月31日~11月1日の2日間、ちょっと京都まで出かけてきました。
旅のきっかけは、比叡山延暦寺の根本中堂が平成28年度から約10年間の大改修に入るので、今のうちにお参りしておきたいと思い立ったためですが、初日は京都市内でちょっとマニアックな?織田信長関連地めぐりをします。
正午頃に京都駅へ到着し、徒歩で最初の目的地へ向かいました。

永禄11年(1568)9月、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、瞬く間に三好三人衆を初めとする抵抗勢力を京や機内近隣から一掃し、義昭を室町幕府第15代将軍の座に就けます。
義昭は当面の御座所として六条にあった本國寺(後に徳川光圀から「圀」の字を与えられて「本圀寺」となる)に入りますが、信長が岐阜へ帰った後の翌永禄12年正月5日、信長不在の隙を突く形で三好三人衆の襲撃を受けてしまいます。(六条合戦/本國寺の変)

一騎懸に大雪の中を凌ぎ打ち立ち、早御馬にめし侯ひつる

三日路の所二日に京都へ、信長馬上十騎ならでは御伴なく、六条へ懸け入り給ふ。
(共に信長公記 巻二「御後巻信長、御入洛の事」より)

6日に「本國寺襲撃される」の急報を受けた信長は、大雪の中を一騎駆けに飛び出し、通常は3日を要する岐阜⇒京都間を2日で走破して本國寺に駆けつけました。
岐阜からの道中では配下に凍死者も出たようで、本國寺に着いた時には僅か10騎足らずの供廻りを連れているばかりだったと云います。

本國寺を守備した明智光秀や駆けつけた細川藤孝、池田勝正らの活躍もあり、信長が到着した時には三好三人衆は既に撃退された後でした。

現在の本圀寺は山科に建っていますが、これは昭和44年に移転したためで、それまでは西本願寺の北側一帯にありました。

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江戸時代の六条本圀寺図面(以下:図面)
多くの塔頭を抱え、その境内は総門までを含めると南北は花屋町から松原通まで、東西は堀川通から大宮通(実境内地は猪熊通)までの範囲を占めていたようです。

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現代の地図に当てはめるとこのようになります。
但し、天正19(1591)年には西本願寺建設のため、秀吉の命令で境内地を2町ほど割譲させられているようなので、それ以前、つまり六条合戦のあった頃は更に南、現在の西本願寺境内地にまで及んでいたことになります。

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江戸時代の本圀寺
こちらの絵に描かれているのは、図面に「諸堂」と書かれた南東部分のみです。
この更に奥(北)には、方丈や塔頭などが建ち並んでいました。

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日蓮宗題目碑
大宮通に面したに建ち、ここにはかつて本圀寺の西総門がありました。

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から東へ、参道跡を伝っていくと・・・

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仁王門
現在は本願寺聞法会館の裏手にあたり、こちらの門も聞法会館(西本願寺)のもので本圀寺の遺構ではないと思われます。

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猪熊通沿いに伸びる聞法会館の築地塀
ここにかつては、本圀寺の伽藍が建ち並んでいました。

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こちらは東の堀川通沿いにあった石柱
従是南
六条御境内

とあり、「ここより南が境内である」ことを示していますので、これは西本願寺のものということになります。

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しかし、その石柱が現在建っている位置()はちょうど六条通の延長線上で、本来の境界線よりもだいぶ北になってしまいます。
この位置は本来、本圀寺の境内だったはずです…この石柱は堀川改修工事の際に発掘されたらしく、或いは建て直す際に場所を間違えたのでは?とも思えてきます。

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猪熊通を少し北上した場所に建つ、本圀寺塔頭の一つだった真如院
織田信長が足利義昭のために作らせたと云う枯山水の庭園が特別公開されていました。

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真如院庭園は、鱗形の石を水の流れに見立てた珍しい作りでした。
真如院は元々、猪熊通の東側に所在していましたが、昭和24年に現在地の猪熊通西側、寶珠院跡)へ移転しています。
従って、庭園も昭和36年に復元されたものになります。

本國寺の変を受けて信長は、義昭のための新たな御所・二条城建設に取り掛かりますが、それには本國寺の多くの伽藍も解体・転用されたと云われています。
(フロイス「日本史」)


次は地下鉄で「東山」まで移動・・・
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予め拝観予約を入れておいた寂光寺さんとの約束時間まで少し間があったので、先に周辺を軽く散策しました。
奥に白川一本橋

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明智光秀の首塚
にもお参り。

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そしてこちらが、本因坊ゆかりの寂光寺

囲碁の名跡「本因坊」の祖として知られる本因坊算砂とは、寂光寺の第二世・日海上人の名乗りです。
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らとも碁を通じて交誼を結び、信長からは;
そちはまことの名人なり
と称賛され、これが「名人」という語の起源ともされています。

算砂は天正10年6月1日の夜には本能寺の信長の元を訪れ、その御前で利玄(諸説あり)と対局しています。
この対局で滅多にない三コウができ、これではいくらやっても対局が終わらないということでその夜はお開きとなり、算砂は当時室町出水にあった寂光寺へ帰りますが、その僅か数時間後に本能寺の変が勃発しました。
これ以降「三コウは不吉」とされていますが…見方を変えれば早めにお開きとなり、変に巻き込まれずに済んだともいえそうですね。

境内は拝観自由ですが、本堂に保管されている算砂ゆかりの品々も是非とも拝したく、事前に連絡を入れさせていただいた上での訪問となりました。

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本因坊算砂所用、携帯用の碁盤
本能寺の変前夜に算砂が携行し、信長の御前での対局に使用した碁盤…の可能性もあり、事実、ご案内くださった現ご住職(第三十三世)もそのように仰っていました。

また、碁盤の左に置かれている白黒の数珠は碁石をモチーフにしており、これも算砂のものと推定されています。

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寂光寺第二世・日海上人、本因坊算砂像
その手には、先ほどの白黒の数珠がハッキリと描かれています。

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こちらは寂光寺開山、日淵上人
算砂の仏の教えの師でもあります。

法花衆も、宗論いたし侯はんと、申し侯て、京都より長命寺の日光、常光院、九音院、妙顕寺の大蔵坊、堺の油屋弟坊主妙国寺不伝、歴ゝの僧衆、都鄙の僧俗、安土へ群れ集まり侯。
(信長公記 巻十二「法花・浄土宗論の事」)

九音院とは久遠院、即ち寂光寺のことです。ここでは日淵上人を指しています。
そう、日淵はあの「安土宗論」に於ける、法華宗側の代表者でもありました。
更に驚いたことには宗論の際、算砂も師のお供で安土に赴いていたことが、日淵上人の記録に残っているのだそうです。
※安土宗論参考記事

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本因坊第四世・道策像と、彼が安井算哲と江戸城で対局した時の棋譜を再現した碁盤…安井算哲の初手「天元
算哲はどうしても道策には勝てなかったようで、やがて天文学の世界へ進み「渋川春海」を名乗るようになります…まさに小説「天地明察」の世界。

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本因坊戦も行われた対局の間

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「本因坊」の名跡は家元として代々世襲されてきましたが、二十一世・秀哉が引退する際、「これからの本因坊は、真に実力を備えた者が継ぐべき」として日本棋院へ譲渡し、これが本因坊戦の始まりとなりました。
本因坊のタイトルを5連覇、もしくは通算10度獲得すると「第○○世本因坊」として、こちらの楯にも名を連ねることができるのだそうです。

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本因坊算砂墓所

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寂光寺開山、日淵上人墓所

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囲碁については全くの無知な状態で訪れてしまいましたが、ご住職のお話は分かり易く楽しく、とても有意義な時間になりました。
本当にありがとうございました。


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寂光寺を辞去した後は、ぶらぶらと散策。祇園から四条通→寺町通と進み・・・

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現在の本能寺にも参拝。初めて本堂内も拝観いたしました。
寂光寺(共に日蓮宗)でもそうでしたが、日蓮上人像は暖かそうな綿帽子を被っていました。
そういえばこの日は光秀の首塚に算砂の碁盤、そして本能寺と、期せずして本能寺の変に関係する地を訪れていたことになりますね。

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本因坊発祥の地
寂光寺は豊臣秀吉の京都再編計画により、室町出水から寺町のこちらへ移転しますが宝永の大火で焼失し、東山の現在地へと移っていきました。

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歩道にあったオブジェ・・・

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ちゃんと碁盤になっていました(笑)

さて、陽もだいぶ傾いてきましたので、初日の史跡めぐりはここまで。
一旦ホテルにチェックインした後は、京都駅近くで翌日の延暦寺めぐりをご一緒する方々と一献♪

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