比叡山延暦寺

比叡山延暦寺、東塔に到着です。
早速参拝、といきたいところですが・・・

お腹が空いたので、まずは湯葉ご飯で腹拵え(笑)
お腹が満たされたところで・・・

元亀元年(1570)、朝倉・浅井連合軍が比叡山に立て籠もった志賀の陣の折、織田信長は延暦寺に対し;
我々に味方すれば、織田の分国中にある延暦寺の山門領を返還する。但し、仏教者として一方にのみ肩入れすることはできないと言うのならば中立を守れ。さもなくば焼き討ちする。
と申し入れましたが、延暦寺がこれを聞き入れなかったため、翌元亀2年(1571)9月12日、信長は遂に比叡山焼き討ちを決行しました。

元亀兵乱殉難者鎮魂塚
焼き討ちの規模や範囲など詳細は不明な点が多く、考古学的見地からも実際に信長の焼き討ちによる焼失が確認できるのは、延暦寺では根本中堂と大講堂の二宇くらいで、それ以外の多くは焼き討ち前から既に荒廃していた?らしいのですが、いずれにしても僧兵のみならず、多くの人々が犠牲になったことは確かです。
後に天下を掌握した豊臣秀吉も、延暦寺の再興をなかなか許可しなかったと云いますから、京の都を押さえる武家権力者にとって比叡山は、あまりに要地に過ぎたという側面もあったように思えます。
ま、難しい歴史はこのくらいにして、今回はじっくりと参拝してまわります。

大講堂
昭和39年、坂本の讃仏堂から移築されました。

そして延暦寺の総本堂、根本中堂へ。
現在の建物は寛永19年(1642)、徳川家光の命により再建されました。

根本中堂は平成28年度より約10年間、大改修工事に入ります。
既に堂内にも一部、足場が組まれている箇所もありましたが、不滅の法灯もしっかりとこの目に焼き付けて参りました。

しっかし根本中堂って、写真泣かせな立地ですよね…(^_^;)

文殊楼
楼内は狭く、階段がとてつもなく急傾斜だったので、参拝客で渋滞が発生していました(笑)

休憩所に展示されていた比叡山のジオラマ

阿弥陀堂と東塔

戒壇院
詳細は不明ですが、なかなか年季の入った風情がいい感じでした。
さて、お次は西塔へ移動…と、その前に・・・

昼食の湯葉ご飯を注文した際、100円サービス券を渡されていたので…同じお店で一休み(笑)

それでは西塔へ。

延暦寺といえば、穴太衆の石垣ですよねぇ~♪

釈迦堂(転法輪堂)
西塔地区の本堂で、文禄4年(1596)に秀吉が三井寺(園城寺)の金堂を移築させたものです。

釈迦堂の裏山(香炉ケ丘)を登ると・・・

弥勒石仏が鎮座しています。
推定鎌倉初期の作で、台座を除く部分は一石で彫りだされています。
光背の向かって右半分が欠損していますが、これは信長による比叡山焼き討ち時の破損とも伝えられているそうです。

背面には月輪と、その中に梵字が彫り込まれていたそうです。

石仏の足元には不思議な仏?さんも・・・なんとなく、どこかで見たようなお顔…(笑)

にない堂(常行堂・法華堂)
弁慶が両堂を繋ぐ廊下に肩を入れて「担った」との伝承から、この名で呼ばれます。

椿堂

西塔から比叡山ドライブウェイを渡り、しばらく林道を進むと見えてくるのが・・・

瑠璃堂
室町末期の建立と推定され、織田信長による焼き討ちを免れた現存唯一の建物と云われています。
訪れる人も殆どなく、国の重要文化財が山中にひっそりと佇んでいました。このお堂は、元亀2年の焼き討ちを目撃していたのですね・・・。
さて、今回の延暦寺参拝はここまでとし、帰りは滋賀県側へ下山することにしました。

少し時間にゆとりがあったので、浮御堂で有名な堅田の満月寺に立ち寄り。

近江八景「堅田の落雁」
延暦寺共々、個人的には11年ぶりの再訪になりました。

そういえば、11年前も曇っていたような気がする・・・。

そのまま満月寺付近を散策…こちらは伊豆神社

光徳寺境内に建つ堅田源兵衛父子殉教之像
応仁の乱の兵火を逃れて堅田に移っていた本願寺第八世・蓮如上人は、対立する比叡山延暦寺の襲撃から守るため、開祖・親鸞聖人の御真影(木像)を三井寺に預けて廻国の旅に出ます。
その後、山科本願寺創建を機に御真影を迎えようとしますが、三井寺は返還に応じず「生首を2つ持って来なければ返してやらぬ」との難題を突きつけてきました。
堅田の漁師だった源右衛門・源兵衛という父子がこの話を聞き、父・源右衛門が息子・源兵衛の首を落として三井寺へ差し出し、更に「自分の首も落として合わせて2つ、確かに受け取ってくれ」と伝えたとか・・・。
さすがの三井寺もこれには堪らず、御真影を返したと云います。

光徳寺の近くには、宝井其角の寓居跡碑もありました。
其角の江戸での寓居跡は、私の職場近く(日本橋)にあります…なんだか奇遇。

こちらは、本福寺境内に建つ蓮如堂
本福寺こそ、堅田に逃れていた蓮如上人が拠点にしたお寺で、ある意味、一時期は本願寺の総本山になっていたと言っても過言ではない寺院です。
さて、これにて旅の行程も全て終了…最後は大津駅まで送っていただき、帰路に就きました。
今回もお世話になった同行者の皆様、ありがとうございました。
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