金戒光明寺の特別公開
京旅2日目。
比叡山へ向かう前に、まずは朝一番で金戒光明寺…通称くろ谷さんへ。
幕末、京都守護職を担う会津藩が本陣を置いたことでも知られますが、この日(11/1)から秋の特別公開で山門、及び大方丈を拝観できると知って訪れました。
9時の受付開始と同時に、まずは万延元年(1860)創建の山門から。
釈迦三尊像や十六羅漢像、龍の天井絵も見事でしたが、京都市内を一望できる眺めも素晴らしかった・・・。
何故、光明寺が守護職本陣に選ばれたのか、が実感として理解できるような気がしてきます。
続いて御影堂~大方丈へ。
大方丈では、念願だった謁見の間の拝観が遂に叶いました。
文久3年(1863)の浪士組上洛後、攘夷を掲げてすぐに江戸へ引き返した清河八郎と袂を分かち、京都残留を希望した芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら後の新選組メンバー。
彼らの願いが叶って京都守護職預かりとなり、会津藩主・松平容保に拝謁した場所・・・。
残念ながら昭和9年の火災で大方丈は御影堂と共に焼失しており、現在の建物は再建になりますが、焼失前のものに忠実に復元されているのだそうです。
謁見の間の前から撮影した大方丈の前庭
また、襖を閉じている時と開けた時とで、そこに描かれている虎の頭数が変わる虎の間のカラクリも面白かったです。
紫雲の庭
紫雲の庭は散策することもできます。
くろ谷さんといえば・・・(^O^)
徳川秀忠の菩提を弔うために創建された三重塔
会津藩殉難者墓地
文久2~慶応3年の5年間に亡くなった237名のお墓と、鳥羽伏見の戦いで命を落した115名の霊を祀る慰霊碑があります。
会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑
115名の藩士らが戦死していた場所を示しているのでしょう…伏見町、上鳥羽村、納所村(淀)などの地名が並んでいます。
更には「埋骨所」とも・・・。
当然、山本八重の弟・三郎の名もありました。
三重塔前からの眺め
ところで光明寺には、山中鹿之助のお墓もありました。
(右。その左は亀井茲矩墓)
土産物売り場で偶然みつけた絵葉書。
なんと、織田信長の禁制も取り付けていたのですね!
さて、それでは比叡山延暦寺へ向かいます。
比叡山へ向かう前に、まずは朝一番で金戒光明寺…通称くろ谷さんへ。
幕末、京都守護職を担う会津藩が本陣を置いたことでも知られますが、この日(11/1)から秋の特別公開で山門、及び大方丈を拝観できると知って訪れました。
9時の受付開始と同時に、まずは万延元年(1860)創建の山門から。
釈迦三尊像や十六羅漢像、龍の天井絵も見事でしたが、京都市内を一望できる眺めも素晴らしかった・・・。
何故、光明寺が守護職本陣に選ばれたのか、が実感として理解できるような気がしてきます。
続いて御影堂~大方丈へ。
大方丈では、念願だった謁見の間の拝観が遂に叶いました。
文久3年(1863)の浪士組上洛後、攘夷を掲げてすぐに江戸へ引き返した清河八郎と袂を分かち、京都残留を希望した芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら後の新選組メンバー。
彼らの願いが叶って京都守護職預かりとなり、会津藩主・松平容保に拝謁した場所・・・。
残念ながら昭和9年の火災で大方丈は御影堂と共に焼失しており、現在の建物は再建になりますが、焼失前のものに忠実に復元されているのだそうです。
謁見の間の前から撮影した大方丈の前庭
また、襖を閉じている時と開けた時とで、そこに描かれている虎の頭数が変わる虎の間のカラクリも面白かったです。
紫雲の庭
紫雲の庭は散策することもできます。
くろ谷さんといえば・・・(^O^)
徳川秀忠の菩提を弔うために創建された三重塔
会津藩殉難者墓地
文久2~慶応3年の5年間に亡くなった237名のお墓と、鳥羽伏見の戦いで命を落した115名の霊を祀る慰霊碑があります。
会津藩鳥羽伏見戦死者慰霊碑
115名の藩士らが戦死していた場所を示しているのでしょう…伏見町、上鳥羽村、納所村(淀)などの地名が並んでいます。
更には「埋骨所」とも・・・。
当然、山本八重の弟・三郎の名もありました。
三重塔前からの眺め
ところで光明寺には、山中鹿之助のお墓もありました。
(右。その左は亀井茲矩墓)
土産物売り場で偶然みつけた絵葉書。
なんと、織田信長の禁制も取り付けていたのですね!
さて、それでは比叡山延暦寺へ向かいます。
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