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2015年12月

2015年12月29日 (火)

八王子城、御主殿曳橋の再建状況(H27.12.29)

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久しぶりに八王子城跡を訪れ、御主殿曳橋の再建工事の進捗を確認してきました。
平成28年3月末竣工予定とのことでしたが、思いのほか進行は早いようで、パッと見にはほぼ完成しているようにも見えます。

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新しい橋脚
以前のものは橋脚も含め全て木製でしたが、新しい橋脚は鉄筋を木目調のもので覆っているようです。

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初代の復元曳橋同様、間違えたままの位置(本来の位置は写真右手側)に架け直されています。
これについてはいろいろご意見もあるでしょうが、位置を修正することで万が一新たな遺構破壊に繋がったりしては元も子もありませんので、今となってはこれでよかったのではないかと個人的には考えています。

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あともう少しでまた、曳橋を渡って御主殿に入れる日もきますね☆

そして今回訪れてみて何より嬉しかったのは、2015年夏、大雨により工事用車両の足場の堰堤が流失し、その大量の砂利が城山川を埋め尽くしてしまった、というニュース(参照記事 )をご紹介しましたが・・・

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なんと、あれだけの大量の砂利が取り除かれ、城山川の流れが回復していたのです!

堰堤の設計は甘かった(流失原因は、川の流れを通すための暗渠の径が小さ過ぎたため)ですが、これは良い仕事♪…安心しました。

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2015年12月27日 (日)

築地の渡し

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多摩川の渡し場の一つ、築地の渡し跡の碑
所沢から八王子を経て大山へと至る、大山街道の道すじだったようです。

慶応2年(1866)6月、秩父上名栗村の紋次郎・豊五郎らの呼びかけで勃発し、武蔵・上野両國に跨る広域に波及した武州世直し一揆
彼らの攻撃対象は、横浜貿易(主に生糸)で莫大な利益を上げている豪商にも向けられたため、そのうちの一隊(およそ2,000人)は生糸輸出の中継拠点になっていた八王子を目指して南下、多摩川北岸の築地河原に姿を現します。

代官・江川太郎左衛門の命を受け、佐藤彦五郎(土方歳三の姉婿)は日野農兵隊を率いて築地の渡し場へ急行し、同じく出動してきた駒木野関所の番兵らと合流して一揆勢に攻撃を仕掛け、これを追い散らしました
※この時、日野農兵隊は一揆勢に十字砲火を浴びせたと云いますから、よほど訓練されていたのでしょう。

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築地の渡し跡と築地河原
この写真は多摩川北岸の昭島側から撮っていますので、この対岸から彦五郎らが攻め寄せてきことになります。
※本当は富士山も見えていたのですが、写真には写っていませんね…(・・;)

一揆鎮圧後、この河原にはいくつもの一揆勢の遺体が転がっていたと云います。

また、彦五郎の孫・佐藤仁氏が書き残し、同曾孫・昱氏が編んだ「聞きがき新選組」の中で、彦五郎が用水堀で頭の傷を洗っている一揆勢の一人と遭遇するエピソードが紹介されていますが、この時の用水路とおぼしきものも近くに残っていました。

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築地の渡し跡から多摩大橋越しに西方を見た眺め。
対岸に連なる加住丘陵(多摩川の河岸段丘)をずっと西へ進むと、滝山城跡があります。

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2015年12月19日 (土)

成願寺 (東京都中野区)

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東京都中野区の成願寺
成願寺は永享10年(1438)、「中野長者」鈴木九郎によって創建されました。

鈴木九郎は紀州出身の商人で、この地で馬売りをしていました。
或る日彼は、馬を売るために千葉の方へ出かけます。その途中、浅草観音に立ち寄り、
「どうか馬が高く売れますように。もし高く売れて、そのお金の中に大観通寶が混じっていたら、それは全て観音様に差し上げます」
と願いを掛けます。すると願いが通じたのか、馬は思いの外高く売れました。
ところが喜んだのも束の間、受け取ったお金はなんと全て大観通寶だったのです。
折角馬は高く売れたのに観音様に約束した手前、お金は全て納めなければなりません。九郎は散々迷いましたが、
「やはり約束は守らないといけない。そもそも観音様にすがろうとしたのがいけないんだ。お金は自分で頑張って働いて稼がないと」
と思い直して全て納め、それからは一生懸命働いて財を成し、遂には「中野長者」と呼ばれるまでになったのだそうです。

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軒丸瓦を飾る大観通寶

それからしばらくして彼の身に不幸が襲います。大切な一人娘が病を得て亡くなってしまったのです。
深く悲しんだ九郎は出家し、屋敷もお寺につくり変えました。これが成願寺の始まりです。

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境内に眠る鈴木九郎のお墓


ところで、成願寺は子母沢寛の著した「新選組遺聞」に「中野村本郷の成願寺」として出てきます。

勇の家族、つまり私にとっては母に当るつねと、後ちに私の妻となりました瓊子は、勇が甲州へ出発して間もなく、牛込廿騎町の家を引払って、江戸郊外中野村本郷の成願寺という寺の座敷を借りて住んでいました。私も大ていはこの寺に一緒に暮らし、沖田総司も、暫くいたことがあります。大きな寺で、勇の門人で江戸の与力だった福田平馬という人が世話をしてくれたものです。
「新選組遺聞」近藤勇五郎老人思出ばなし(昭和四年五月)

近藤勇五郎とは新選組局長・近藤勇の甥で、娘婿となって養子入りした人物です。

まぁ子母沢寛の著作は、一昔前まででしたら新選組研究のバイブルのように崇められていた時期もあったかもしれませんが、近年の研究の進展に伴って史実との食い違いの多さが指摘されるようになりました。
いろいろと問題もあり、成願寺に関しても他の史料での裏付けがない以上は鵜呑みにできませんが・・・(;・∀・)

成願寺と新選組(近藤勇の家族)との関係については、赤間倭子さんという方が調べて書かれた「物語・成願寺と新選組」という手記が成願寺のHPに掲載されていましたので、そちらも参考にさせていただきました。

つねらが成願寺へ移ってきたのは、近藤らが甲陽鎮撫隊を結成して甲府へ向かった後とのこと。
「物語・成願寺と新選組」には、鳥羽・伏見敗戦後の慶応4年3月頃の状勢を考えると、家族を江戸の町中から避難させるため、というのが移転の理由だったのかもしれないとありました。

なお成願寺を世話した福田平馬という人物ですが、彼の名は勝海舟の日記に;
大久保大和門人福田平馬来る。大和の事頼み置く由
と出てきます。(慶応4年4月14日付。大久保大和=近藤勇)
流山で新政府軍に出頭し、板橋で拘留されていた近藤の助命嘆願にも動いていました。

しかし、その努力も虚しく慶応4年4月25日、近藤勇は板橋で斬首されて35年の生涯を閉じます。
近藤の首級は京へ送られて三条河原に晒されましたが、刑場に埋められた遺体(胴)は彼の近親者の手によって掘り出され、生家・宮川家の菩提寺である龍源寺まで運ばれて埋葬されたと伝わります。
(これも子母沢の著作にのみ見え、他に板橋に埋められたままとの説もあり)

実はこの板橋から龍源寺への遺体運搬の途中、成願寺にも立ち寄っているらしいのです。
このエピソードは前出の赤間さんが、勇五郎の娘の夫だった峰岸徳太郎という人物から直接聞いた話として、「物語・成願寺と新選組」の中で紹介されています。

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近藤勇の妻・つねや娘も、近藤の亡骸と成願寺で対面していたのかもしれませんね。

また「新選組遺聞」によると;
千駄ヶ谷の植木屋へ移ってから、成願寺へわざわざ駕でやって来て、幾日も幾日も一緒にいるというような風です。

千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れで療養していた沖田総司も、成願寺に来ていたことがあったようです。
植木屋平五郎方から成願寺までは一里ほど。病身とはいえ、籠を使えば無理のない距離だったのかもしれません。
近藤の生家・宮川家にはつねの;
沖田がやってきて、血を吐きましてね
という言葉もいい伝えられているそうです。

沖田総司もまた、近藤勇刑死の二ヶ月後の慶応4年5月30日、20代(24~27)の若さでこの世を去りました。


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成願寺の墓地には、佐賀藩の支藩で分家の蓮池鍋島家の墓所もありました。

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ズラリと10基ほど並んでいます。

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鍋島地蔵
幼くして亡くなった鍋島家ゆかりの姫のお墓と伝わります。

近藤勇の家族が暮らし、沖田総司も来ていた成願寺。
地下鉄丸ノ内線「中野坂上」駅から、南へ徒歩2分ほどの距離です。

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2015年12月17日 (木)

飯盛城

2015年の城友忘年会、その山城踏査の舞台は河内國飯盛城三好長慶の居城だったことでも有名なお城です。
今年の参加者は総勢12名。四條畷駅で集合し、車2台に分乗して飯盛山へ向かいます。

飯盛城図
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以下、本記事内での各郭(曲輪)の呼称もこの図面に合わせます。
(但し「本丸~」「二ノ丸~」は省略)

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今回の踏査開始は楠公寺から。
ここも飯盛城の曲輪(馬場)跡の一つです。

楠公寺は四條畷の戦いで散った楠木正行をはじめとする南朝方の人々を供養するため、昭和25年に開山されました。

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本堂の屋根越しには、高櫓郭に建つ楠木正行の銅像が見えています。

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その高櫓郭へ向かう途中、振り返って千畳敷郭との間の鞍部を見下ろす。
…或いは堀切だったか?

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高櫓郭の南に架かるこちらは・・・土橋(遺構)か否か迷うところ。
両サイドには竪堀が落とされて堀切のようになっていましたので、土橋でいいのかもしれません・・・。

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高櫓郭からの眺望

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高櫓郭

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楠木正行像…は、あまりの逆光に撮影失敗(>_<)

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旧国威宣揚台
昭和14年の日付が刻まれていました。

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飯盛城からは、大阪の中心街も一望のもとに見渡せます。
空気が澄んでいれば、大坂城をもハッキリ視認できるようです。

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そうそう、飯盛城は国史跡指定取得に向けて、呼称を「飯盛城」(「山」が付かない)に統一したそうです。
文献上に「飯盛“山”城」とは出て来ないことも、理由の一つだそうです。

飯盛城は東側が大手と考えられており、その東面には多くの石垣が残されています。
この日の踏査は、それらの石垣探索が中心となりました。

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こちらは展望台郭東面の石垣

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その一段下にも。
犬走を挟んでセットバックになっています。

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高櫓郭東下の山道沿いに残る石垣

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一部崩れて、裏込石(栗石)も見えていました。

山道から更に東へ、切岸を下って行きます。

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切岸を下った先には小さな曲輪も点在し、いい感じの石垣がそこかしこに。

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もはや、それぞれの石垣の正確な位置は失念しましたが…(;・∀・)

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それにしても高い切岸の急斜面を、上下左右に移動しながらの石垣探索は思いの外疲れました…(;^ω^)

一旦昼休憩のために展望台郭に上がった後、午後は北の郭群へ向かいます。

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午後の部、まずは蔵屋敷郭西側の石垣から。

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三本松郭と御体塚郭の間、西の竪堀と東の谷地形に挟まれた城道の法面(東側)を固める石垣。

そのまま御体塚郭東の切岸を下ります。

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少し下った先から見上げると・・・

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中にはしっかりと積まれた二段石垣も。

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この二段石垣の先は・・・

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自然の谷地形を活かした巨大な竪堀のようになっていました。

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よ~く見ると対岸の縁にも石垣が積まれています。
この谷を上がっていくと、先ほどの城道の法面を固めた石垣に当たります。
やはり単なる自然地形ではなく、手が加えられていることは確かでしょう。

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更に下った先にも。

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…にしても、この切岸下りはキツかった・・・この日の最難関(;・∀・)

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尾根への戻りは竪土塁を直登!…土塁の上は激藪でしたけど(笑)

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御体塚郭北側の堀切
この堀切・・・

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御体塚郭側の高低差がハンパじゃない…!!

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ところで御体塚郭にはその名の通り、三好長慶の遺骸を3年の間仮埋葬していたと伝わる塚らしきものがあります。
まぁ文献上の裏付けもなく、真偽のほどはかなり怪しいそうですが・・・。

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史蹟碑郭の…史蹟碑
ここまで書いてきてつくづく思う…他の郭も含め、便宜上とはいえ、もう少しマシなネーミングがあったでしょうに…(´-ω-`)
20151213b33 史蹟碑郭からは山崎古戦場を見晴るかすこともできました。
この光景はちょっと感動モノです。

冬の日照時間は短い…急ぎ南側へと引き返し、最後に千畳敷郭周辺の踏査に向かいます。

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千畳敷郭への、本来の城道と思われる痕跡

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千畳敷郭西の突端部分に築かれた見張台?に架かる土橋。
両サイドには小さいながらも竪堀が落とされています。

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あの一段上は南丸
すぐ左にある千畳敷郭南虎口を守るように、櫓台らしき土盛りも見えます。

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その千畳敷郭南虎口には・・・

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石垣の痕跡も僅かに残されていました。

千畳敷郭の先、南丸の切岸下には、竪堀が連続して6~7本あるとのことだったので確認しに行きましたが・・・
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激藪で写真は全滅・・・。
目視では辛うじてそれと認識できましたけどね。

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最後に…千畳敷郭南虎口へと向かう土橋越しに南丸の切岸。
土橋に対する切岸の圧迫感が凄いです。攻城兵が土橋を渡って城へ迫ろうにも・・・無理ですね、これは(笑)


という感じで2015年の城友忘年会オフ、山城踏査・飯盛城攻めは事故もなく、無事に終了致しました。
幹事や車を運転してくれた方々には無論のこと、楽しい時間を共有できた皆さんにも感謝☆

夜は急遽延泊を決めて、打ち上げの忘年会にも参加させていただきました♪

個人的に今回の旅は、「感謝」をテーマに定めていました。
「信長公記」を遺してくれた太田牛一に対する感謝に始まり、共に城攻め・歴旅の楽しさを共有してくれる友との出会いに感謝、そして1年間の旅の無事にも感謝・・・いい旅になりました。

来年もいい年になりますように♪

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2015年12月16日 (水)

東高野街道

12月13日(日)、城友忘年会オフ・飯盛城攻めの朝を迎えました。
集合は四條畷駅前にam10:00と少し遅めの設定でしたので、それまでの間、以前から気になっていた旧道を散策してみることにしました。

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四條畷駅の一つ手前、野崎駅で下車して野崎観音への参道を進む。前方には参拝者と思われる団体様の姿も。
しかし私の目的はこの参道でも野崎観音でもなく、この先で参道と交差している・・・

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東高野街道です。
京と高野山を結ぶ街道で、その成立は古代にまで遡るとの見方もあるようです。飯盛山の西麓を南北に通っています。
この辺りは古来より交通の要衝として歴史の重要な舞台にもなっており、1348年に南朝方の楠木正行(小楠公)が、高師直率いる北朝方(足利)の大軍と戦って戦死した四條畷の戦いもこの地で起こりました。

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静かな住宅地の中を縫うように通る東高野街道の旧道。
野崎観音参道と合流した地点から北上し、四條畷駅までの区間を歩いてみます。

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この先で道幅は更に狭まり・・・

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緩やかなカーブを描きながら続いていきます。

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旧道が国道170号線と合流するポイント

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国道との合流点には標柱も建っていました。

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合流した先から振り返って・・・向かって左からの路地が旧道です。

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東高野街道から東方、飯盛山を見上げる。

天正10年6月2日。堺に滞在していた徳川家康は、織田信長の上洛に合わせて自らも京へと向かいました。
その道中、飯盛山の西麓(諸説あり)で茶屋四郎次郎らから本能寺の変の急報を受け、本国への帰還を目指すことになります(伊賀越え)。
この時、家康一行が実際に通っていた道が何れだったのかは定かではありませんが、交野市星田などに残る伝承(ひそみの藪、他)から推定される伊賀越えへのルートを考えると、飯盛山の西麓で本能寺の変報を受けた場所とは即ち、この東高野街道を北上中のことだった可能性が高いと考えます。

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国道に入ってすぐの場所には楠木正行の菩提寺、十念寺もありました。

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国道170号線に姿を変えて続く東高野街道

伊賀越えの成功が後の天下取り=徳川幕府の成立に繋がることを考えると、ある意味、歴史の重要な転換点となった舞台とも言えそうですね。

さ、それでは皆と合流して飯盛城を攻めます☆

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2015年12月15日 (火)

太田牛一の墓所・・・と池田城

毎年恒例となっている城友忘年会オフ
2015年(12/13)の踏査舞台は飯盛城(大阪府大東市・四條畷市)となり、私は前日の12日から前乗りで大阪入り。

この機会に「信長公記」などの著作で知られる太田牛一のお墓参りをさせていただくことにしました。
織田信長の足跡を辿って旅することをライフワークの一つとしている私にとって、「信長公記」はバイブルのようなもの。素晴らしい書物を遺してくれたことに、感謝の思いを伝えずにはいられません。

新大阪から電車を乗り継いで阪急石橋駅へ向かい、そこからはバス・・・の予定でしたが、バス停が駅から少し離れていた?ようで見当たらず、結局3㎞ほどの距離を歩くことにしました。
そして目的地へ向かう道すがら、雰囲気のいい路地などを撮影していて気づきました・・・カメラのSDカードを忘れた…(´-ω-`)
急遽、地図アプリでコンビニを検索して8GBのSDカードを購入し、改めて目的地へと向かいます。

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なんやかんやで、石橋駅を出てから40分くらいはかかってしまったでしょうか・・・ようやく到着です。
※でもSDがないことに気づいたのが、目的地到着前でよかった・・・。

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池田市にある佛日禅寺
墓地は本堂や方丈などがある敷地とは少し離れていますが、まずは本堂へお参りしてから。

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佛日禅寺の境内墓地は2ヶ所に分かれているようで、その一つには摂津國豊島郡・川辺郡などを領した麻田藩主・青木家歴代の墓所がありました。
立入禁止のようでしたので、敷地外から静かにお参り。

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そして、こちらの墓地に太田家の墓所があります。

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太田牛一を祖とする太田家墓所
五輪塔の左には、江戸期の累代の墓石がズラッと並んでいます。

牛一の子孫は諸家を転々としますが、最終的には麻田藩士として続いたようです。
そのため墓所も佛日禅寺にあるのですが・・・藩主の菩提寺と同じお寺ってことは、それなりの地位に就いていたのかもしれません。

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霊標
初代 太田和泉守牛一
功源院殿前泉刕太守静巌良栄居士


佛日禅寺に太田家の墓所が移されたのは三代目からだそうで、牛一が葬られたお寺がどこにあったのか、今となっては分からなくなっているそうです。
霊標を拝見して察するに、十四代目の方の時にお墓を新しくし、それを機に移転前の初代(牛一)、及び二代目も一緒に供養することにされたようです。

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歴代のお名前には皆、「」の一字が・・・

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同じ敷地内には麻田藩主・青木家の一門という阿澄家の墓所もありました。
その祖は麻田藩初代・青木一重実弟の源五重経で、彼は徳川家康に仕えて三方原の戦いに於いて奮戦、討死を遂げたと云います。
後に麻田藩第十代藩主の弟が阿澄の名跡を継ぎ、阿澄家を再興しました。

念願叶った太田牛一の墓参。
しっかりと感謝の意を伝え、今後も織田信長の足跡を丁寧に辿っていくことを墓前に誓いました。


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佛日禅寺を辞去した後は、そのままぶらぶらと歩いて池田城址公園を訪れました。

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池田城模擬天守
主な城主としては、織田信長に摂津三守護の一人に取り立てられ、本國寺合戦金ヶ崎の退き口での撤退戦でも活躍した池田勝正などが有名ですね。

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排水溝跡

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この先は虎口との表示があり、実際に枡形になっているように見えたので行ってみると・・・

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まさかの行き止まり!?(笑)

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行き止まりの先は堀跡のようになっていましたので、或いは橋でも架けられたいたのでしょうか…?

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土塁

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模擬天守から園内を一望する。
芝生の広場には礎石も展示されていました。

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池田城…すっかり公園化され、これといって目を引く遺構も見当たりませんでしたが、先ほどの堀の痕跡と思われる地形や、公園西側のこの高低差は見応えがありました。

この後は一旦、香里園のホテルまで移動してチェックインし、寝屋川市駅前で行われた城友忘年会の前夜祭に参加しました。
2次会まで楽しく盛り上がりましたよ☆

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2015年12月 5日 (土)

立川氏館跡

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東京都立川市の普済寺

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普済寺楼門

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本堂
普済寺の本堂は平成7年の火災で一度焼失しており、現在のものはそれ以降の再建になります。

ところで、普済寺の建つ地は武蔵七党の一つ、西党日奉氏の流れを汲む立川(立河)の居館跡と考えられており、実際に本堂焼失~再建前の平成8年に行われた発掘調査では、本堂周辺から掘立柱などの遺構や陶磁器・瓦片などの遺物も発見されています。

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境内南側に残る立川氏館の土塁

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土塁外側
発掘調査では土塁に沿って堀跡も確認されているようです。

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墓地の外側(北西)にもご覧の高低差

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普済寺は多摩川に削られた段丘の断崖上に位置しており、武士の居館跡としても、さもありなんといった立地です。
※現在、眼下を流れているのは多摩川支流の残堀川。

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また、墓地には立川氏の首塚と伝わる場所もあります。

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立川宮内少輔宗恒之碑
立川宗恒は普済寺の開基とされる人物でもあります。

立川氏は戦国期には後北条氏に従っていましたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐で没落します。
その後、元和4年(1618)に至り、同じく後北条家臣だった中山信吉(八王子城で戦死した中山勘解由の息)に従って共に水戸徳川家に仕官しています。

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江戸名所図会に見る普済寺
左側を流れる多摩川の段丘上に築かれ、境内至る所に土塁らしきものが残っていた様子も分かりますね。
多摩川の向こうには富士山も大きく描かれていますが・・・

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今でもこうして、その姿を拝むことができます。


また、普済寺は立川市内唯一の国宝・六面石幢を有することでも知られています。
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六面石幢は本堂の裏手へ回った、こちらの建屋の中で保存されています。

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国宝・六面石幢
延文6年(1361)の建立。
阿金剛・吽金剛(いわゆる“阿吽の呼吸”の阿吽)の仁王像に、増長天・広目天・多聞天・持国天の四天王像が刻まれています。

残念ながらガラスの反射がきつく、距離も取れなかったので全体を撮影することはできませんでしたが・・・

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この後に訪れた立川市歴史民俗資料館の常設展にレプリカが展示されていました。
※常設展は撮影可

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その立川氏歴史民俗資料館
普済寺からは車で5分程度の距離です。

2015年12月6日まで
中世の立川 ~武蔵武士・立川氏とその時代を探る~
という企画展が催されており、文書類(立川氏文書)や普済寺で発掘された遺物などが展示されています。
珍しいところでは、縁部分に立河原合戦(1504)戦死者を供養する52文字の銘文が刻まれた銅鉦鼓(都指定有形文化財)も特別公開されていました。

常設展と合わせ、立川氏についていろいろと学べるいい展示内容でした。

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