東高野街道
12月13日(日)、城友忘年会オフ・飯盛城攻めの朝を迎えました。
集合は四條畷駅前にam10:00と少し遅めの設定でしたので、それまでの間、以前から気になっていた旧道を散策してみることにしました。

四條畷駅の一つ手前、野崎駅で下車して野崎観音への参道を進む。前方には参拝者と思われる団体様の姿も。
しかし私の目的はこの参道でも野崎観音でもなく、この先で参道と交差している・・・

東高野街道です。
京と高野山を結ぶ街道で、その成立は古代にまで遡るとの見方もあるようです。飯盛山の西麓を南北に通っています。
この辺りは古来より交通の要衝として歴史の重要な舞台にもなっており、1348年に南朝方の楠木正行(小楠公)が、高師直率いる北朝方(足利)の大軍と戦って戦死した四條畷の戦いもこの地で起こりました。

静かな住宅地の中を縫うように通る東高野街道の旧道。
野崎観音参道と合流した地点から北上し、四條畷駅までの区間を歩いてみます。

この先で道幅は更に狭まり・・・

緩やかなカーブを描きながら続いていきます。

旧道が国道170号線と合流するポイント

国道との合流点には標柱も建っていました。

合流した先から振り返って・・・向かって左からの路地が旧道です。

東高野街道から東方、飯盛山を見上げる。
天正10年6月2日。堺に滞在していた徳川家康は、織田信長の上洛に合わせて自らも京へと向かいました。
その道中、飯盛山の西麓(諸説あり)で茶屋四郎次郎らから本能寺の変の急報を受け、本国への帰還を目指すことになります(伊賀越え)。
この時、家康一行が実際に通っていた道が何れだったのかは定かではありませんが、交野市星田などに残る伝承(ひそみの藪、他)から推定される伊賀越えへのルートを考えると、飯盛山の西麓で本能寺の変報を受けた場所とは即ち、この東高野街道を北上中のことだった可能性が高いと考えます。

国道に入ってすぐの場所には楠木正行の菩提寺、十念寺もありました。

国道170号線に姿を変えて続く東高野街道
伊賀越えの成功が後の天下取り=徳川幕府の成立に繋がることを考えると、ある意味、歴史の重要な転換点となった舞台とも言えそうですね。
さ、それでは皆と合流して飯盛城を攻めます☆
集合は四條畷駅前にam10:00と少し遅めの設定でしたので、それまでの間、以前から気になっていた旧道を散策してみることにしました。

四條畷駅の一つ手前、野崎駅で下車して野崎観音への参道を進む。前方には参拝者と思われる団体様の姿も。
しかし私の目的はこの参道でも野崎観音でもなく、この先で参道と交差している・・・

東高野街道です。
京と高野山を結ぶ街道で、その成立は古代にまで遡るとの見方もあるようです。飯盛山の西麓を南北に通っています。
この辺りは古来より交通の要衝として歴史の重要な舞台にもなっており、1348年に南朝方の楠木正行(小楠公)が、高師直率いる北朝方(足利)の大軍と戦って戦死した四條畷の戦いもこの地で起こりました。

静かな住宅地の中を縫うように通る東高野街道の旧道。
野崎観音参道と合流した地点から北上し、四條畷駅までの区間を歩いてみます。

この先で道幅は更に狭まり・・・

緩やかなカーブを描きながら続いていきます。

旧道が国道170号線と合流するポイント

国道との合流点には標柱も建っていました。

合流した先から振り返って・・・向かって左からの路地が旧道です。

東高野街道から東方、飯盛山を見上げる。
天正10年6月2日。堺に滞在していた徳川家康は、織田信長の上洛に合わせて自らも京へと向かいました。
その道中、飯盛山の西麓(諸説あり)で茶屋四郎次郎らから本能寺の変の急報を受け、本国への帰還を目指すことになります(伊賀越え)。
この時、家康一行が実際に通っていた道が何れだったのかは定かではありませんが、交野市星田などに残る伝承(ひそみの藪、他)から推定される伊賀越えへのルートを考えると、飯盛山の西麓で本能寺の変報を受けた場所とは即ち、この東高野街道を北上中のことだった可能性が高いと考えます。

国道に入ってすぐの場所には楠木正行の菩提寺、十念寺もありました。

国道170号線に姿を変えて続く東高野街道
伊賀越えの成功が後の天下取り=徳川幕府の成立に繋がることを考えると、ある意味、歴史の重要な転換点となった舞台とも言えそうですね。
さ、それでは皆と合流して飯盛城を攻めます☆
| 固定リンク
「お城、史跡巡り 近畿」カテゴリの記事
- 安土城、他(2023.05.28)
- 石山寺(2023.05.27)
- 養源院、金地院、南禅寺、他(2023.05.26)
- 妙覺寺の特別拝観(2023.05.25)
- 六波羅蜜寺、等持院(2023.03.07)
コメント