成願寺 (東京都中野区)
東京都中野区の成願寺
成願寺は永享10年(1438)、「中野長者」鈴木九郎によって創建されました。
鈴木九郎は紀州出身の商人で、この地で馬売りをしていました。
或る日彼は、馬を売るために千葉の方へ出かけます。その途中、浅草観音に立ち寄り、
「どうか馬が高く売れますように。もし高く売れて、そのお金の中に大観通寶が混じっていたら、それは全て観音様に差し上げます」
と願いを掛けます。すると願いが通じたのか、馬は思いの外高く売れました。
ところが喜んだのも束の間、受け取ったお金はなんと全て大観通寶だったのです。
折角馬は高く売れたのに観音様に約束した手前、お金は全て納めなければなりません。九郎は散々迷いましたが、
「やはり約束は守らないといけない。そもそも観音様にすがろうとしたのがいけないんだ。お金は自分で頑張って働いて稼がないと」
と思い直して全て納め、それからは一生懸命働いて財を成し、遂には「中野長者」と呼ばれるまでになったのだそうです。
軒丸瓦を飾る大観通寶
それからしばらくして彼の身に不幸が襲います。大切な一人娘が病を得て亡くなってしまったのです。
深く悲しんだ九郎は出家し、屋敷もお寺につくり変えました。これが成願寺の始まりです。
境内に眠る鈴木九郎のお墓
ところで、成願寺は子母沢寛の著した「新選組遺聞」に「中野村本郷の成願寺」として出てきます。
勇の家族、つまり私にとっては母に当るつねと、後ちに私の妻となりました瓊子は、勇が甲州へ出発して間もなく、牛込廿騎町の家を引払って、江戸郊外中野村本郷の成願寺という寺の座敷を借りて住んでいました。私も大ていはこの寺に一緒に暮らし、沖田総司も、暫くいたことがあります。大きな寺で、勇の門人で江戸の与力だった福田平馬という人が世話をしてくれたものです。
「新選組遺聞」近藤勇五郎老人思出ばなし(昭和四年五月)
近藤勇五郎とは新選組局長・近藤勇の甥で、娘婿となって養子入りした人物です。
まぁ子母沢寛の著作は、一昔前まででしたら新選組研究のバイブルのように崇められていた時期もあったかもしれませんが、近年の研究の進展に伴って史実との食い違いの多さが指摘されるようになりました。
いろいろと問題もあり、成願寺に関しても他の史料での裏付けがない以上は鵜呑みにできませんが・・・(;・∀・)
成願寺と新選組(近藤勇の家族)との関係については、赤間倭子さんという方が調べて書かれた「物語・成願寺と新選組」という手記が成願寺のHPに掲載されていましたので、そちらも参考にさせていただきました。
つねらが成願寺へ移ってきたのは、近藤らが甲陽鎮撫隊を結成して甲府へ向かった後とのこと。
「物語・成願寺と新選組」には、鳥羽・伏見敗戦後の慶応4年3月頃の状勢を考えると、家族を江戸の町中から避難させるため、というのが移転の理由だったのかもしれないとありました。
なお成願寺を世話した福田平馬という人物ですが、彼の名は勝海舟の日記に;
大久保大和門人福田平馬来る。大和の事頼み置く由
と出てきます。(慶応4年4月14日付。大久保大和=近藤勇)
流山で新政府軍に出頭し、板橋で拘留されていた近藤の助命嘆願にも動いていました。
しかし、その努力も虚しく慶応4年4月25日、近藤勇は板橋で斬首されて35年の生涯を閉じます。
近藤の首級は京へ送られて三条河原に晒されましたが、刑場に埋められた遺体(胴)は彼の近親者の手によって掘り出され、生家・宮川家の菩提寺である龍源寺まで運ばれて埋葬されたと伝わります。
(これも子母沢の著作にのみ見え、他に板橋に埋められたままとの説もあり)
実はこの板橋から龍源寺への遺体運搬の途中、成願寺にも立ち寄っているらしいのです。
このエピソードは前出の赤間さんが、勇五郎の娘の夫だった峰岸徳太郎という人物から直接聞いた話として、「物語・成願寺と新選組」の中で紹介されています。
近藤勇の妻・つねや娘も、近藤の亡骸と成願寺で対面していたのかもしれませんね。
また「新選組遺聞」によると;
千駄ヶ谷の植木屋へ移ってから、成願寺へわざわざ駕でやって来て、幾日も幾日も一緒にいるというような風です。
千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れで療養していた沖田総司も、成願寺に来ていたことがあったようです。
植木屋平五郎方から成願寺までは一里ほど。病身とはいえ、籠を使えば無理のない距離だったのかもしれません。
近藤の生家・宮川家にはつねの;
沖田がやってきて、血を吐きましてね
という言葉もいい伝えられているそうです。
沖田総司もまた、近藤勇刑死の二ヶ月後の慶応4年5月30日、20代(24~27)の若さでこの世を去りました。
成願寺の墓地には、佐賀藩の支藩で分家の蓮池鍋島家の墓所もありました。
ズラリと10基ほど並んでいます。
鍋島地蔵
幼くして亡くなった鍋島家ゆかりの姫のお墓と伝わります。
近藤勇の家族が暮らし、沖田総司も来ていた成願寺。
地下鉄丸ノ内線「中野坂上」駅から、南へ徒歩2分ほどの距離です。
なお成願寺を世話した福田平馬という人物ですが、彼の名は勝海舟の日記に;
大久保大和門人福田平馬来る。大和の事頼み置く由
と出てきます。(慶応4年4月14日付。大久保大和=近藤勇)
流山で新政府軍に出頭し、板橋で拘留されていた近藤の助命嘆願にも動いていました。
しかし、その努力も虚しく慶応4年4月25日、近藤勇は板橋で斬首されて35年の生涯を閉じます。
近藤の首級は京へ送られて三条河原に晒されましたが、刑場に埋められた遺体(胴)は彼の近親者の手によって掘り出され、生家・宮川家の菩提寺である龍源寺まで運ばれて埋葬されたと伝わります。
(これも子母沢の著作にのみ見え、他に板橋に埋められたままとの説もあり)
実はこの板橋から龍源寺への遺体運搬の途中、成願寺にも立ち寄っているらしいのです。
このエピソードは前出の赤間さんが、勇五郎の娘の夫だった峰岸徳太郎という人物から直接聞いた話として、「物語・成願寺と新選組」の中で紹介されています。
近藤勇の妻・つねや娘も、近藤の亡骸と成願寺で対面していたのかもしれませんね。
また「新選組遺聞」によると;
千駄ヶ谷の植木屋へ移ってから、成願寺へわざわざ駕でやって来て、幾日も幾日も一緒にいるというような風です。
千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れで療養していた沖田総司も、成願寺に来ていたことがあったようです。
植木屋平五郎方から成願寺までは一里ほど。病身とはいえ、籠を使えば無理のない距離だったのかもしれません。
近藤の生家・宮川家にはつねの;
沖田がやってきて、血を吐きましてね
という言葉もいい伝えられているそうです。
沖田総司もまた、近藤勇刑死の二ヶ月後の慶応4年5月30日、20代(24~27)の若さでこの世を去りました。
成願寺の墓地には、佐賀藩の支藩で分家の蓮池鍋島家の墓所もありました。
ズラリと10基ほど並んでいます。
鍋島地蔵
幼くして亡くなった鍋島家ゆかりの姫のお墓と伝わります。
近藤勇の家族が暮らし、沖田総司も来ていた成願寺。
地下鉄丸ノ内線「中野坂上」駅から、南へ徒歩2分ほどの距離です。
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