築地の渡し
多摩川の渡し場の一つ、築地の渡し跡の碑
所沢から八王子を経て大山へと至る、大山街道の道すじだったようです。
慶応2年(1866)6月、秩父上名栗村の紋次郎・豊五郎らの呼びかけで勃発し、武蔵・上野両國に跨る広域に波及した武州世直し一揆。
彼らの攻撃対象は、横浜貿易(主に生糸)で莫大な利益を上げている豪商にも向けられたため、そのうちの一隊(およそ2,000人)は生糸輸出の中継拠点になっていた八王子を目指して南下、多摩川北岸の築地河原に姿を現します。
代官・江川太郎左衛門の命を受け、佐藤彦五郎(土方歳三の姉婿)は日野農兵隊を率いて築地の渡し場へ急行し、同じく出動してきた駒木野関所の番兵らと合流して一揆勢に攻撃を仕掛け、これを追い散らしました。
※この時、日野農兵隊は一揆勢に十字砲火を浴びせたと云いますから、よほど訓練されていたのでしょう。
築地の渡し跡と築地河原
この写真は多摩川北岸の昭島側から撮っていますので、この対岸から彦五郎らが攻め寄せてきたことになります。
※本当は富士山も見えていたのですが、写真には写っていませんね…(・・;)
一揆鎮圧後、この河原にはいくつもの一揆勢の遺体が転がっていたと云います。
また、彦五郎の孫・佐藤仁氏が書き残し、同曾孫・昱氏が編んだ「聞きがき新選組」の中で、彦五郎が用水堀で頭の傷を洗っている一揆勢の一人と遭遇するエピソードが紹介されていますが、この時の用水路とおぼしきものも近くに残っていました。
築地の渡し跡から多摩大橋越しに西方を見た眺め。
対岸に連なる加住丘陵(多摩川の河岸段丘)をずっと西へ進むと、滝山城跡があります。
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