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2016年1月

2016年1月24日 (日)

妙心寺玉鳳院

1月23日(土)、京都旅の2日目。
この日は寒波の影響で午後から天候が荒れるとの予報でしたので、予想しうる混乱を避けて午前中で旅を切り上げることにしました。

で、タイムリミットもある中、どこへ行こうかと悩んだ挙句に向かった先は・・・

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妙心寺

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妙心寺塔頭、玉鳳院
妙心寺発祥の地ともいうべき山内最古の塔頭寺院で、本年度(第50回)の「京の冬の旅」で特別公開されています。

狩野安信による襖絵の数々
玉座の間
東福寺から移築された開山堂
豊臣秀吉の子・鶴松の御霊屋
etc...
さすがは妙心寺の中でも最も神聖な場所といわれるだけあって見所もたくさんでしたが、その中でも特に;

織田信長・信忠父子の御位牌と供養塔(五輪塔)

を参拝できたのが嬉しかったですね。
織田父子のものと隣り合って、武田信玄・勝頼・信勝・信豊の供養塔が祀られていたのには少々驚きましたが…(^_^;)

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牛石
妙心寺開山・関山慧玄禅師にまつわるエピソードに因んで名づけられています。
説明板は表現を濁していて紆余曲折のあったことを窺わせますが、安土城そう見寺(の信徒宅?)から奉納された石であることは確かなようです。。。

さて、今回の京都旅はこれにて打ち切りです。
正午過ぎ、新幹線が京都駅を発車する時点でも空は陽が差して穏やかだったし、本当に天候は荒れるのか?と疑問でしたが、自然のことばかりは致し方ないですね。
2年前の夏には台風の影響で、やはり京都から帰れなくなるという経験もしていますし、未然の防止策といことで…(^_^;)

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勝竜寺城、明智薮…明智光秀終焉の地

京都国立博物館で刀剣を堪能した後は、「京の冬の旅」で特別公開されている市内の寺院などをめぐるつもりでいましたが、翌23日には数十年に一度の規模という寒波が迫って天候が荒れる、との予報が出ていましたので急遽予定を入れ替え、今回の旅のもう一つの目的である明智光秀の最期にまつわる史跡をめぐることにしました。
※実際に訪れた順番とは前後しますが、ここでは歴史の時系列に沿って記載していきます。

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JR長岡京駅から南へ徒歩5~6分、神足神社境内に残る土塁(の断面)

勝竜寺城図
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神足神社境内も、細川(長岡)藤孝の居城としても有名な勝竜寺城の一部だったと考えられています。(神足屋敷)

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近年詳細な調査が入り、土塁や堀、土橋などが整備されたとのことでしたが・・・

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これは整備のやり過ぎでしょう・・・。

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調査段階に撮影されたと思われる1枚
この土橋が・・・

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こんな姿に。
せめて土橋部分だけでも手摺がなければ、まだ良かったとは思うのですが…(>_<)

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神足神社

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こうして見ると、神社参道の石段と土塁が一直線で繋がります。

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実際には土塁がもっと東へ延びていたことが分かります。

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勝竜寺城本丸

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細川藤孝時代の勝竜寺城復原図

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北門跡。ここに・・・

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このような城門が建っていたのですねぇ~

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本丸土塁

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沼田丸の堀跡

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勝竜寺城から眺める山崎古戦場方面

明智ハ正龍寺之城へ迯入、(略)坂本の居城を心かけ罷退、
※「別本御代々軍記」(太田牛一旧記)より。以下引用同

本能寺の変の後、中国大返しで備中から引き返してきた羽柴秀吉軍との山崎の戦いで敗れた明智光秀は、一旦この勝竜寺城へ逃げ込み、更に坂本城を目指して落ちて行きます。

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地下鉄東西線石田駅で下車、しばらく北の方角へ向かって歩き、あちらの山の中腹に建つ本経寺を目指します。

伏見より廿町北山そひに、おごろすとて小里有、

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小栗栖(おごろす)の本経寺

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本堂の脇に明智日向守光秀公供養塔があります。

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この本経寺前の小路を東へ進み・・・

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舗装路突き当たりの住宅の脇を抜けると・・・

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明智薮の碑が建っています。

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但し、明智薮自体はこの碑から更に少し奥へ進んだ先になります。

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下ハ平田也、其上に細道有、其上に小藪あり、落人共あまた通之由百姓共承り、ほそ道之上小藪に、がめつきやりとてさび朽たるやりを以て、馬乗十騎計のりつれて行処を、(略)誰共なく藪こしに一やりつき候へハ、人多中に天罰究、明智日向か骼につきあてたり、

写真、細道の右手は何かの工事をしていて見通せませんでしたが、左手の藪は確かに斜面がせり上がっていました(ほそ道之上小藪)。

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右手の工事現場も一段下がっており、或いはここに平田があったか(下ハ平田也)。

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百姓共さび朽ちた槍を突き出してきた?ほそ道之上の竹藪

明智薮、なかなか想像力を必要とはしますが(笑)、太田牛一が書き記した情景と一致するように私は感じました。
牛一が光秀の最期に立ち会っている筈はないので、きっと彼は後年、実際に訪れてこの場に立ってみたのではないでしょうか。。。

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明智薮から山沿いに、小栗栖街道を北上します。

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1km以上は歩いたでしょうか、街道沿いにある精米所の駐車場隅にひっそりと・・・

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胴塚と伝わる明智光秀之塚がありました。
※なお、彼の「首塚」とされるものは京都東山の白川沿いなどにあります。
参照記事

ニ三町計行候て、馬よりおろしてくれ候へと申候、如何と尋候へハ、手を負いたると申候、その時明智日向申様に、馬之鞍に毛氈之鞍おゝい有、明智か頸を取て、くらおゝいにつゝミて、

牛一は光秀最期の地を、最初に襲われた小藪からニ三町計進んだ先と書いていて、或いはこの胴塚がその場所かとも思いましたが、ニ三町ということは長くみても300mほど・・・距離が合いませんよね…(^_^;)
いずれにしても、明智藪からこの胴塚の間の何処かで力尽き、家臣に頸を打たせた可能性は高いのではないでしょうか。。。

明智薮の細道が近々舗装される、との情報を得て急遽辿ってみることにした明智光秀終焉の地
下調べも不充分でいい加減なことを書いてしまっているかもしれませんが、そこはひらにご容赦ください。
連なる山の地形や明智薮周辺の光景など、確かに当時の雰囲気を感じることはできました。

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「義元左文字」拝観

2016年1月22日(金)、まだ夜も明けやらぬ早朝6時前に自宅を出発し、1泊2日の行程で京都へ出かけてきました。
京都駅到着後、市バスに乗り換えて真っ先に向かったのは・・・

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京都国立博物館(京博)です。

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そういえば京博の敷地内からはこのほど、方広寺大仏殿の周囲を囲っていたと云う回廊の、南側部分の礎石据え付け穴や大量の瓦が発掘されたそうですね。
その現場は明治古都館の北西付近とのことなので、この写真の左隅奥、工事用の柵が建てられている辺りだと思われます。
※翌23日には現地説明会も行われたようです。

しかし、私の目的はその発掘現場ではなく・・・

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2016年2月21日まで開催されている特集陳列「刀剣を楽しむ―名物刀を中心に―」です!
展示されている名刀の数々の中で、私がなんとしても観ておきたかったのは・・・

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義元左文字

でした。
元々は三好政長(半隠軒宗三)が所持していたため、「宗三左文字」「三好左文字」とも呼ばれます。その後、婚姻の引き出物として→甲斐武田家→今川家へと渡りました。

そして永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長によって討ち取られると、信長は義元が佩いていた左文字を戦利品として収めました。
茎の表裏に;

永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀
織田尾張守信長


と、金象嵌で銘が刻まれています。
後に秀吉から家康の手へ渡り、徳川将軍家の重宝として伝わってきました。

滅多に公開されることのない宝刀。
間近で拝することができて感無量です。。。

その他の展示では;

坂本龍馬所用 銘吉行
龍馬が近江屋で刺客に襲われた時にも、手元に置いていたと云う刀。
とても反りが少なく、素人目にはよほどの達人でなければ抜けないのでは、と映りました。近江屋の狭い室内で、しかも咄嗟の出来事であれば尚更さもありなん・・・か。

名物膝丸
「髭切」と並ぶ源氏重代の宝刀。

などが印象に残りました。

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某ゲームの影響もあって、今や若い女性を中心に空前の刀剣ブーム。
本展も1週前の週末に訪れたフォロワーさんから「かなり並ぶ」という情報を得ていましたので、敢えて平日を狙って訪れましたが、その甲斐もあってか実際に来てみると、なんと待ち時間ゼロ!
お陰さまでゆっくり・じっくりと堪能することができました。

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2016年1月17日 (日)

賤機山城

2泊3日の静岡旅、ラストは今川館の詰城・賤機山城へ。

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賤機山城は、駿府を南北に細長く伸びる賤機山の南端付近に築かれており、その南麓に鎮座する静岡浅間神社からアプローチしました。

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ひたすら登る・・・

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途中、今川家の菩提寺である臨済寺を眺めることができました。

20分ほど登ると忠魂碑などがあるピークに出ますが、ここは越えて北側へ一旦下り、更に登り直します。しばらくすると・・・

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堀切跡に遭遇。ようやく城の遺構らしきものに出会えました。

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全員縄張図を持っていなかったので、まさに手探り状態での城攻め。
でもまぁ、これはこれで次に何が来るか、ワクワクして楽しかった(笑)

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堀切を越えて登った先は削平地(仮に南郭とする)になっており、西側の竹藪も堀になっているように見受けられました。
また、たまたま山中で出会った方に教えていただいたのですが、南郭からやはり西へ、尾根伝いに下りていった先の麓近くにも大きな堀切が残っているそうです。
今回は時間がなくて断念しましたが、いずれまたチャレンジしたいです。

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南郭の土塁
なお、我々は一通り見て回って引き返す際、この土塁付近で殆ど出会い頭に猪と遭遇しました。
興奮した猪が鳴き声を発したくらいでしたが、幸いにもこの土塁が間を隔て、猪は土塁の向こう側を去って行きました。
結構多いみたいですね…訪問の際は充分にご注意ください。

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更に北へ、主郭方向に向かいます。
枝葉に覆われていますが、結構しっかりとした土塁が続いています。

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賤機山城主郭

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昭和6年に建てられた碑

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主郭北側にも郭跡らしき削平地が続いていました。
その先の藪は堀切っぽいですよね?ま

だまだ探索したいところですが、日没時間も気になるので今回はここまで。

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帰り際、臨済寺と富士山のセットで撮影できました。
え?富士山なんか見えないよって??・・・ちゃんと見えていますよ?

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・・・ほら(笑)
この日は雲が多くてずっと隠れたままだったのですが、旅の最後に顔を出してくれました。

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駿府城と駿府の街並み。

2016年最初の遠征も得るものの多い、充実した旅になりました。つくづく仲間に感謝ですね☆…さて、次はどこへ旅しましょうか?

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丸子城

静岡旅3日目。
この日は丸子城からスタートします。

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丸子城は駿河へ侵攻した武田家によって築かれたお城。
諏訪原城と共にずーっと来たかったので、とても楽しみです♪

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いざ!

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城山へは東の尾根からアプローチします。
途中、登山道の脇に古い道の痕跡がありました。城道の跡かもしれません。

丸子城縄張図
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「現在地」とある位置から南西方向へ、丹念に見てまわります。

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もういきなりガツンッとやられましたね!
aの横堀。格好いいなぁ・・・

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虎口

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この虎口には、僅かに石積みも残っていました。

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bの竪堀
竪堀の右側は少し迫り出していますが、これは・・・

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こうして北へ伸びる尾根方向を監視するためのものと思われます。

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c土塁

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d堀切

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eの堡塁
まるで丸馬出のよう。

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横堀も素敵ですね~♪

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f堀切

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本曲輪の枡形虎口

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本曲輪

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本曲輪から西側へと出る喰違い虎口

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喰違い虎口の先、g曲輪を見る。

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g曲輪から出曲輪
出曲輪も丸馬出のように曲線を描いています。

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出曲輪背後から南方向へ落とされているh竪堀。
いかに急勾配かが、お分かりいただけると思います。

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ここがまた凄かった・・・

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出曲輪下の三日月堀と・・・

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長大竪堀
なんですか、この竪堀の規模は・・・!?

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三日月堀と竪堀のセット(笑)

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それにしてもこの竪堀は凄い。
縄張図を見ても分かる通り、この長大竪堀h竪堀とで、西側からのルートを完全に遮断しています。
丸子城が西(今川残党→徳川)を警戒した城だったことがよく分かります。

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出曲輪の三日月堀を西へ回り込んでみる。
土塁に切れ目が・・・

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Yの字になってhに繋がる竪堀

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三日月堀の土塁を進むと、そのまま出曲輪の虎口に繋がります。

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出曲輪虎口から振り返る。
土塁が少し幅広となっている部分から先ほどの切れている箇所までが、出曲輪の更に小馬出になっていたようです。

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戻りは北西面の横堀伝いに。
通行を遮断する蔀土塁。

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蔀土塁の背後(北)は、横堀がコの字に折られています。

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奥から迫る敵に対し、まずは土塁で通路を屈折させ、蔀土塁で遮断し、更に横堀を折って妨げる、、、非常に高い防衛意識を感じます。

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横堀を北上~

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eの堡塁に繋がりました。

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堡塁下段もザックリ切られています。

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ところでe堡塁の更に下には、僅かにですが道の痕跡らしきものがありました。
この道、よくよく見ていくと・・・

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駿河峯に至る北の尾根から伸びてきて・・・

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d堀切にぶつかると、堀底で右に折れて・・・

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丸子城の北側を迂回しているようです。
いろいろと考えていくうちに、これは中世までの街道ではないかと…。

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江戸期に整備された東海道は山麓の谷筋を通ります(赤ライン)が、中世の街道は或いは谷戸を北側へ迂回して尾根を進んだのではないかと。
その道筋に丸子城が築かれたため、堀切から北へ逸れてお城を迂回した…。
もう少し調べてみる必要がありますが、街道も考慮に入れていくと城攻めが益々楽しくなってきます。
※実際「信長公記」には、天正10年の甲州征伐を終えた後、東海道を西へ進んで安土へ向かう信長の道中、丸子に差し掛かった部分に;
山中路次通りまりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。
という記述も見られます。

丸子城、期待を裏切らない惚れ惚れするような遺構の数々…とっても満足度の高いお城でした☆
こういう城跡、好きだな~♪

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さて下山後は、こちらも楽しみにしていた丁子屋でのとろろ汁

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歌川広重の浮世絵にも描かれていますが、とろろ汁は東海道丸子(鞠子)宿の名物でした。
お店や背後の山の雰囲気も、今とソックリですね♪

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ちなみに、東から進んできた東海道は・・・

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丁子屋前の丁字(だから丁子屋)で左に折れ、丸子川を越えて先へ伸びていきます。

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念願のとろろ飯☆
休日の昼食時でしたが、店内も広かったので15分ほどで席に着けました。

さ、旅のラストは賤機山城へ!

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花倉城…「花蔵の乱」関係地

諏訪原城の次は、藤枝市の花倉城へ向かいます。

駿河の守護大名・今川氏は、駿府へ本拠を移すまでは花倉を拠点にしていました。
しかし花倉城といえばなんと言っても、花蔵の乱で有名ですね。

天文5年(1536)3月、今川家当主の氏輝と次弟の彦五郎が相次いで急死すると、氏輝の母で先代氏親の正室・寿桂尼や大原雪斎らは、寿桂尼の子で出家していた栴岳承芳を擁立して家督を継がせようとします。
この動きに重臣の福島氏が対立し、栴岳承芳の腹違いの兄で福島氏一族の娘を母に持つ玄広恵探を担ぎ出したため、今川家の家督争いが勃発しました。
玄広恵探らは久能山に拠って駿府の今川館を襲撃しますが失敗し、以降は焼津市の方ノ上城や花倉城を拠点にして抵抗を続けました。

花倉城の図面
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農道で山頂付近まで車で登り、東の尾根から城攻めをスタートします。

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いきなり土橋状の細長い尾根道がお出迎え。
しばらくはこれといった遺構もなく、ダラダラと登りが続きます。

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古道の標識
花倉城はこの東側が大手筋と考えられています…するとこの古道は、大手道ということになりますでしょうか。

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古道標識の両サイドには、竪堀も落とされていました。
ここから少し登るとの曲輪に出ます。

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曲輪
薄く土塁も残っています。

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曲輪南側の堀切

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そして曲輪へと続く北側の堀切に架かる土橋
堀切はそのまま竪堀として落とされています。

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土橋を渡って、曲輪側から曲輪を見る。

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曲輪の切岸に堀切、土橋、竪堀、、、城の遺構を立体的に捉える事ができて好きなポイントでした。

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曲輪
奥には物見台跡。

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物見台を北側に下りて見上げる。

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曲輪の東に残る二~三段の腰曲輪

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こちらは西側の腰曲輪

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続いての尾根へ
ここからの景色は駿河湾まで見渡せて最高でした。

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の尾根は農道(未舗装)による破壊が著しかったのですが、ゆっきーが指差す先には・・・

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藪に埋もれるようにして土橋や・・・

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堀切も残っていました。

花倉城、北条や武田系の城郭のような技巧的で派手な感じはなく、どちらかというとシンプルで古典的な山城といった印象でしたが、遺構の残存状態も良くて楽しめました。

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さて、下山後は麓の長慶寺へ。

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長慶寺は栴岳承芳を養育し、その後も軍事・政略面に渡って支え続けた太原雪斎が中興開山となり、その晩年を過ごしたお寺です。

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境内には雪斎の墓所も。右の小さな無縫塔が雪斎のお墓です。
左の五輪塔は駿河今川氏三代・今川泰範のお墓。

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開山勅諡寶珠護国禅師大原孚大和尚
「寶珠護国禅師」は後奈良天皇から与えられた諡(おくりな)です。(「勅諡」がそれを示す)
※大原の後に「崇」が抜けているような気もしますが…(^_^;)

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続いて遍照寺
今川氏二代・範氏と、その嫡子・氏家の墓所

遍照寺の前身は遍照光寺といい、玄広恵探が住していたお寺です。ために彼は「花倉御曹司」などとも呼ばれていました。
寺の裏山も砦跡で、恵探派の拠点の一つだったと云われています。

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確かに裏山を見上げると、明らかに曲輪や堀切跡らしき痕跡が樹間に覗いていました。

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こちらは花倉城西側の麓、瀬戸谷に建つ普門寺
方ノ上城を落され、花倉城にも攻撃を受けた玄広恵探はこれを支え切れずに逃亡、最期はこちらの普門寺で自刃して果てました。

人気漫画「センゴク 桶狭間戦記」を読んだ方ならご存知ですよね?
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花倉城を落ち、普門寺の石段を息切らせながら上る玄広恵探・・・

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すると、その視線の先に待ち受けていたのは栴岳承芳改め、今川義元。
やあ兄者

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ヘタ・・・と膝から崩れ落ちる玄広恵探。
まぁ、これはあくまでも漫画の中でのシーンですけど(笑)

こうして花蔵の乱は栴岳承芳側の勝利に終わり、承芳は今川義元となって第九代今川家当主となりました。

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この日最後は、普門寺から少し北西方向へ進んだ先にある玄広恵探の墓所へ。
ここは普門寺の前身、普門庵の跡なのだそうです。恵探が自刃したのも実際にはこちら、ということになるのでしょう。

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玄広恵探墓所

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享年二十歳。さぞ無念だったことでしょう。。。

さて、これにて静岡旅2日目の行程も終了です。
夜は清水駅前に戻ってお決まりの飲み会☆…勿論、2次会までしっかり楽しみましたよ(笑)
…3日目へつづく

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東海道石畳、諏訪原城

静岡旅2日目。
この日のスタートは島田市の諏訪原城からですが、私は電車移動で単騎早駆け。金谷駅から目当てである旧東海道の道筋を歩いて諏訪原城へ向かうことにしました。

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東海道、金谷宿の古絵図

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現在の金谷宿
左手に脇本陣角屋跡、正面には富士山が見えています。

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もう少し東へ行くと本陣柏屋跡もあったようですが、私は脇本陣跡から折り返して西へ向かいました。
ずっとなだらかな上り坂が続きます。

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一里塚跡
東海道はここで左に曲がり、線路の下を潜ります。

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線路を潜り、金谷駅の裏手を抜けると金谷大橋跡があります。
金谷宿の西の入口にあたることから「西入口土橋」とも呼ばれていました。

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金谷大橋を渡ると、東海道はグッと上り勾配がきつくなっていきます。

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国道473号線と交差するポイントに出ると、旧東海道石畳入口の案内板が♪

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更に少し坂を登ると・・・

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石畳茶屋があります。

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石畳茶屋から歩いてきた方向を振り返る。既に結構登りました。
正面には富士山の雄姿も。

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いよいよここから石畳のスタートです。

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旧東海道、金谷坂の石畳

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しばらく歩いていると、道の左脇に気になる痕跡が覗いていました。
これは何かある!と思い、土手を上ってみると・・・

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やはり・・・これは明らかに旧道の痕跡でしょう。
こちらが本当の旧東海道か、或は交互行き違いのための脇往還か・・・?

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さらに上った先に・・・

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すべらず地蔵
勿論、お参りしましたよ。どうか足もネタもスベリませんように…って。(ー人ー)

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ようやく金谷坂のピークが見えてきました。

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金谷坂を上り切り、舗装路と合流するポイント。

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舗装路と合流する坂のピークには、明治天皇御駐輦址碑が。
明治天皇遷都行幸の際、行列を停めて富士の眺めをご堪能された地なのだそうです。

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石畳は終わっても、旧東海道はどこまでも続きます。

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この日の集合場所である諏訪原城跡の前を一旦通り過ぎ・・・
(諏訪原城が街道を押さえる意図をもって築かれたことがよく分かります)

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今度は菊川坂の石畳へ

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菊川坂の石畳

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ここからは、金谷の次の宿場にあたる日坂宿へ向けて下り坂になります。

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結構な下り勾配。
雨が降っていたら確かに足を取られるかもしれません。

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静岡県はお茶処だもんね(笑)
でもあの文字、実はお茶の木でできている訳ではないらしいですよ?ww

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菊川坂の石畳終点
この先をしばらく進むと日坂宿になります。

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諏訪原城跡へ戻るため、元来た道を振り返る・・・結構下ってきちゃいましたね…(;・∀・)
旧街道歩きは、その工程の全てが「目的地」だから、ハマると本当に楽しいですよ☆

さ、それではみんなと合流して諏訪原城攻めです。

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諏訪原城
天正元年(1573)、遠江攻略の橋頭保として甲斐武田氏により築城されました。(他に永禄12年説あり)
しかし天正3年(1575)5月、武田軍が長篠設楽原合戦に於いて織田・徳川連合軍に敗れると、ほどなくして諏訪原城も徳川軍の攻撃を受けて落城します。
以降は徳川方の城として機能しますが、天正18年(1590)に廃城となりました。

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諏訪原城縄張図
丸馬出を巧みに配した点などは如何にも武田流といった感じがしますが、現在に残る縄張の多くは徳川時代に改修・拡張されたものと考えられています。

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浅野文庫「諸国古城之図」に見る諏訪原城

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近年、頻りに整備の手が入っているようですが・・・若干不安を禁じえません。
どうか手を加え過ぎませんように。

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天正3年の落城時、城と運命を共にした武田方の城将・今福浄閑戦死墓塚。
大手曲輪跡の茶畑に建ちます。

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大手南外堀と・・・

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大手北外堀
この南北外堀の間が大手曲輪となります。

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大手曲輪同様、その先端に築かれた大手外馬出も茶畑として殆ど喪われていますが、東海道菊川坂石畳のすぐ脇にこうして僅かに痕跡を留めています。

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整備で藪を刈ったら出てきたという…井戸

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二の曲輪中馬出

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噂には聞いていましたが…本当に丸いですねぇ(笑)

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二の曲輪北馬出
こちらはいわゆる角馬出ですね。遠くに富士山も見えています。

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二の曲輪北馬出から同中馬出へと伸びる土橋
堀を挟んだ左手は二の曲輪

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二の曲輪から中馬出方向
二の曲輪、二の曲輪北馬出双方から伸びる土橋も1枚に収まって、構造的にもとても格好いいです。

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二の曲輪

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二の曲輪と本曲輪を結ぶ土橋

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本曲輪の東、縄張図A部分の切岸に、上下二段構造で築かれた内堀と土塁の上段。

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上段から見下ろす下段の横堀

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下段から北側の竪土塁を見る。

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その竪土塁を上りながら、下段を振り返る。
サイガさんによると、鉄砲での防御を主眼に置いた縄張りとのこと。諏訪原城というと丸馬出ばかりが強調されますが、こちらも見事な遺構でした。

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そのまま上段の内堀伝いに、南側へ巻いていきます。

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縄張図B、堀底道を押さえるためのものか…櫓台らしき土盛り。

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縄張図には堀として描かれていますが、その櫓台から南側の斜面を下った先にも塹壕のような痕跡が残っていました。
写真奥は、水の手曲輪へと続く自然地形を活かした谷底。そちらからのルートを警戒した作りだったのかもしれません。

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塹壕から見上げると、内堀の土塁奥に本曲輪の切岸も見えていました。かなりの高さです。

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カンカン井戸

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二の曲輪東内馬出
土塁もしっかり残っています。右奥に見えているのは同東馬出。

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二の曲輪東内馬出から同南馬出へと続く土橋

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二の曲輪南馬出から東内馬出を見る…切岸も堀も、まぁ見事。

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二の曲輪南馬出

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丸馬出特有の三日月堀も綺麗です。

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現在、諏訪神社が建つ場所は二の曲輪大手馬出
こちらも勿論…丸馬出(笑)

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最後に外堀に残る石積みを確認…う~ん微妙(;^ω^)

念願叶い、ようやく訪れることができた諏訪原城。
武田、そして徳川という大勢力が短い期間に明確な軍事目的を持って築城、改修・拡張したお城だけあって、大技をドンドンと並べたシンプルで、且つ意図が明確な縄張に感じました。
地形や立地的な条件もあるでしょうが、長い年月を経た居住空間としての意味合いも備える城に比べ、純粋な軍事目的の城は無駄を削ぎ落とし、よりシンプルになっていくのかもしれませんね。

さて、次は花倉城へ向かいます。

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2016年1月16日 (土)

薩た峠、清見寺、小島陣屋

2016年、最初の遠征は1月9~11日の日程で静岡県へ。

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初日となる9日、オフ会参加者との集合場所である静岡駅に到着。
まずは徳川家康像にご挨拶。

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おっと、こちらも忘れてはいけませんね…その幼少期、竹千代像。

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早目の到着となったので、少し周辺を散策…静岡市役所庁舎。

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久しぶりの駿府城
外堀にかかる城代橋と、三の丸大手御門跡

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巽櫓と東御門

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東御門

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弥次さん喜多さん、楽しそうね(笑)

さて、集合前の散策はこの辺りにして駅前へ。
参加者との合流後、まずは薩た峠へ向かいます。
※「薩た」の「た」は土へんに垂

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その道中、峠付近の旧東海道沿いにあった駒の爪址
日本武尊(ヤマトタケル)東征の折、薩た峠を越える際に岩についた馬の蹄跡が残っているのだそうです。
そういえば、草薙剣の「草薙」も静岡市でしたね。

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確かに蹄の痕跡に見えますが、蹄鉄技術の導入は明治に入ってからのはず・・・どうなんでしょうね?(笑)

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薩た峠からの富士の眺め
写真手前、左から右斜め奥へ緩やかに下っていく小道(法面に石垣)が旧東海道です。

この景観、歌川広重の浮世絵でも有名ですよね。
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左上に崖から富士山を覗き込んでいる旅人の姿が描かれていますが、彼らのいる場所が東海道です。
写真と浮世絵を見比べると、富士山の手前の低い稜線の見え方が微妙に異なるので、広重はもう少し離れた位置から描いており、浮世絵に描かれた旅人と、私が写真を撮影した場所がほぼ同じ位置ではないかと思われます。

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薩た峠を越える旧東海道
今回は街道歩きが目的ではないのでパスしますが、薩た山が駿河湾に迫り出す地形は江戸時代、東海道を往来する旅人にとっても屈指の難所でした。

そのような地勢から戦国期には軍事境界線ともなり、実際に武田信玄が駿河へ侵攻した永禄11年から12年(1568~69)にかけては、武田vs今川・北条の間で2度に渡って争われた薩た峠(山)の戦いの舞台にもなりました。
薩た峠の頭上、薩た山には陣城遺構が残っているということで、今回はそれらを確認しに行きます。

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それにしても海が綺麗です。。。

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ここから本格的な山登りになります。しかも結構な急勾配…(;・∀・)

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途中、緩やかな箇所もありましたが・・・

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道も通せないような傾斜には、ご覧のような階段が・・・

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ゼェゼェと息を切らし、相当にバテながら30分ほども登りましたかねぇ・・・
足元に突如、物凄い堀切が現れました。

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薩た山東大堀切、その堀底から・・・
木々が密集していて写真では分かり辛いかとは思いますが、深さといい幅といい物凄い規模です。

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東大堀切、東面の切岸
この深さをお分かりいただけますでしょうか・・・

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西面には2~3段の平場も築かれていました。

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その平場に登り、東側を見た様子…①

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その②

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とにかく凄い土木量。。。

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これだけの規模を誇る堀切が、南北500mもの長さに渡って築かれているというのだから驚きです。

どのタイミングで、いずれの勢力が築いたものか正確なところは分かりませんが、この土木量からして北条家によるものではないかな~と直感的には感じました。
仮に北条の手によるものとすると、第2次薩た峠の戦いを経て武田信玄が甲斐へ兵を収めた後、その再侵攻に備えて…ということになるでしょうか。

この先、更に西へ進むと他にも陣城遺構が残っているそうですが、時間が押して次の予定もあるので今回はここまで。
しかし、良いものを見れました。

当初の予定では、駿河侵攻時に武田信玄が布陣したと云う横山城にも行くつもりでしたが、冬の日照時間を考えてそちらもパス。
という訳で次に向かったのは・・・

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第1次薩た峠の戦いで、今川氏真が布陣した清見寺です。

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総門前には江戸期の旧東海道が通っています。

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総門と山門の間には、なんと東海道本線が走っていました。

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仏殿

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境内に建つ咸臨丸殉難碑
慶応4年(1868)8月19日、品川沖を脱走して北を目指した榎本艦隊は台風に遭って遭難し、そのうちの1隻、咸臨丸は駿河湾に流されて清水港に入港します。
そこへ新政府軍が乗り込み、不幸にも旧幕府脱走兵や乗組員が虐殺されるいう事件が起こりました。
この殉難碑は後年、彼らの供養のため、艦隊を率いた榎本武揚によって建てられました。
食人之食者死人之事
(人の食を食む者は人の事に死す=徳川幕府の禄を食んでいたから幕府の事に殉じた)
※ちなみに虐殺され、海に遺棄された旧幕府方将兵らの遺骸を集めて埋葬・供養したのは、清水次郎長だったと云われています。

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鐘楼
梵鐘は正和3年(1314)に鋳造されたもので、豊臣秀吉軍の韮山城攻めの際、陣鐘として用いられたそうです。

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血天井
正治2年(1200)、鎌倉を出奔して西へ向かった梶原景時一行は、清見関で居合わせた在地の武士らと戦闘に及んで滅亡しました。
この天井板は、その清見関の古材を使用していると伝わります。よく見ると馬の蹄跡も。

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徳川家康手習の間
大原雪斎が清見寺の住職だった時には、家康もここでその手習いを受けていました。

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手習の間から見える庭園

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書院の中庭

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玉座の間
大正天皇が御成になったこともあるそうです。

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書院の釘隠しは立葵が多かったのですが・・・

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玉座の間周辺だけは三葉葵が用いられていました。

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清見寺境内
左手前には、家康が清見関から接樹させたと伝わる臥龍梅

清見寺は朝鮮通信使の休憩所としても度々使われており、方丈には通信使らの詩を刻んだ扁額が多数掲げられていました。
また、琉球の第二尚氏王統7代目・尚寧王の弟で慶長15年(1610)に駿府で病死した具志頭王子のお墓もあり、今でも沖縄の方がよくお参りに訪れるそうです。

さて、第1次薩た峠の戦いで清見寺に布陣した今川氏真でしたが、武田方への内通者も出て不利を悟ると賤機山城へ撤退しようとしますが、武田軍に先回りされて果たせず、彼は掛川城へと落ちていきました。
今回の旅ではその賤機山城にも行きましたが、それはまたいずれ別の記事で・・・。

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清見寺を出て、駿河に侵攻した武田軍も往来したであろう、身延道の旧道を北上し・・・

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小島藩一万石、松平家の小島陣屋跡に到着。
ひっそりとした住宅地のすぐ裏手に、結構な規模の石垣が残っていました。

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枡形

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それにしても今冬の気温の高さって一体・・・
1月だというのに早くも菜の花が咲いてしまっていました。

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小島陣屋からの眺め
写真少し右奥の小山は、駿河に侵攻してきた武田軍が布陣した横山城跡です。

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陣屋井戸

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裏門側にもいい感じで石垣が残っていました。

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裏門跡周辺

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旅の初日、日没までの余った時間で急遽訪れましたが、国史跡にも指定されているだけあって、それなりに見応えはありました。

これにて初日の行程は無事終了。
この後は宿のある清水駅前で懇親会→カラオケ→3次会→〆ラーメンと、遅くまでよく遊びました(笑)

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2016年1月 3日 (日)

小机城

あけましておめでとうございます。m(_ _)m
2016年も引き続き、日本各地の歴史の舞台をめぐっていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、新年最初の更新は小机城になります。

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JR小机駅付近からの小机城遠景
城好きさんたちからの評判もよく、自宅からも決してアクセスが悪い訳ではないのですが、どういう訳か未訪のままになっていた城跡。
折角なので2016年の城初めの舞台に選ばせていただきました。

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城山に近づくと道幅がグッと狭まって、住宅が密集してきます。これは、この先が昔からの集落だった名残なのだそうです。

小机城図面
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南側の根古谷地区からスタートします。
※縄張図を持たず、事前の予備知識もほぼゼロの状態で出掛けたので相当いい加減な城攻めになりますが、あしからずご容赦願います…(^人^)

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幾段にも折り重なる腰曲輪を眺めつつ、少し登ると・・・

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いきなり物凄い遺構が出迎えてくれました。
本丸南側の横堀になります。

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二の丸櫓台

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二の丸

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二の丸南東隅辺りで見かけた遺構。
出枡形っぽく見えたのですが…虎口ですかね?

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二の丸北西側の横堀。こちらも凄いですねぇ・・・

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この横堀、そのまま西へ進むと本丸の北側へと続いていきます。

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二の丸と本丸の間、南北に細長く土塁状に築かれた曲輪?(馬出し?)から、南の横堀を見た様子。
堀底との高低差が凄いです。

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同じ地点から本丸方向。土橋が架けられています。

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土橋が架けられた本丸側の部分は、四角く張り出したような構造になっています。
(写真は本丸側から撮影)
薄くなっていますが土塁も巡らされていますし…格好いい♪私的には何気に“ツボ”なポイントでした(笑)

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本丸を囲う土塁

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本丸
四囲の土塁も綺麗に残っていました。

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本丸南虎口に復元された冠木門

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冠木門の先に伸びる土橋

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土橋西側の堀は…藪。

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土橋を渡った先にあった…枡形的な何か。

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評判に違わず、本当に素晴らしい城跡でした。
特に空堀の規模は圧巻!

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引き続き、第三京浜道路に分断された富士浅間側へ向かいます。
写真は横浜線のトンネルが貫通する谷戸(根古谷)の最奥部。
線路の向こう、南側の丘陵にも「古城」という字が残るようで、或いは小机城の外郭だったのかもしれません。
(なんとなく八王子城の太鼓曲輪尾根のようなイメージ、かな…?)

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富士浅間の土盛り(図面では白山社
櫓台…かな?

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富士浅間前から、東の主郭部方向。

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同じく富士浅間前から、目を少し南へ移した眺め。
写真左手前が主郭部で、奥が「古城」地区の丘陵。その間を谷戸が手前方向に食い込んできている様子が分かります。

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富士浅間

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富士浅間の土盛り上から見下ろす…堀切っぽい?

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近くには小さいながらも竪堀っぽい痕跡も・・・。

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道があったので、尾根上を南へ進んでみます。
写真は先ほどの、横浜線のトンネル真上付近にあたります。

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線路を越えた先にも削平された小さな平坦地や、僅かながら土塁のような痕跡も見受けられました。

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これなんか堀跡に見えませんか…?

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…うん、やっぱり堀跡に見える(笑)

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「古城」尾根の東端に位置する金剛寺。

小机は まず手習いの初めにて、いろはにほへと ちりぢりとなる
(1478年、長尾景春の乱に呼応した豊嶋氏の籠る小机城を攻める際、太田道灌が詠んだとされる歌)

小机城…横浜線の線路を挟んだ南側は宅地造成による改変が激しく、今となっては往時を偲ぶよすがも殆どありませんが、主郭部周辺だけでも見応えたっぷりでした。
とてもいい2016年の城初めになりました☆

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