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2016年1月16日 (土)

薩た峠、清見寺、小島陣屋

2016年、最初の遠征は1月9~11日の日程で静岡県へ。

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初日となる9日、オフ会参加者との集合場所である静岡駅に到着。
まずは徳川家康像にご挨拶。

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おっと、こちらも忘れてはいけませんね…その幼少期、竹千代像。

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早目の到着となったので、少し周辺を散策…静岡市役所庁舎。

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久しぶりの駿府城
外堀にかかる城代橋と、三の丸大手御門跡

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巽櫓と東御門

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東御門

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弥次さん喜多さん、楽しそうね(笑)

さて、集合前の散策はこの辺りにして駅前へ。
参加者との合流後、まずは薩た峠へ向かいます。
※「薩た」の「た」は土へんに垂

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その道中、峠付近の旧東海道沿いにあった駒の爪址
日本武尊(ヤマトタケル)東征の折、薩た峠を越える際に岩についた馬の蹄跡が残っているのだそうです。
そういえば、草薙剣の「草薙」も静岡市でしたね。

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確かに蹄の痕跡に見えますが、蹄鉄技術の導入は明治に入ってからのはず・・・どうなんでしょうね?(笑)

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薩た峠からの富士の眺め
写真手前、左から右斜め奥へ緩やかに下っていく小道(法面に石垣)が旧東海道です。

この景観、歌川広重の浮世絵でも有名ですよね。
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左上に崖から富士山を覗き込んでいる旅人の姿が描かれていますが、彼らのいる場所が東海道です。
写真と浮世絵を見比べると、富士山の手前の低い稜線の見え方が微妙に異なるので、広重はもう少し離れた位置から描いており、浮世絵に描かれた旅人と、私が写真を撮影した場所がほぼ同じ位置ではないかと思われます。

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薩た峠を越える旧東海道
今回は街道歩きが目的ではないのでパスしますが、薩た山が駿河湾に迫り出す地形は江戸時代、東海道を往来する旅人にとっても屈指の難所でした。

そのような地勢から戦国期には軍事境界線ともなり、実際に武田信玄が駿河へ侵攻した永禄11年から12年(1568~69)にかけては、武田vs今川・北条の間で2度に渡って争われた薩た峠(山)の戦いの舞台にもなりました。
薩た峠の頭上、薩た山には陣城遺構が残っているということで、今回はそれらを確認しに行きます。

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それにしても海が綺麗です。。。

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ここから本格的な山登りになります。しかも結構な急勾配…(;・∀・)

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途中、緩やかな箇所もありましたが・・・

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道も通せないような傾斜には、ご覧のような階段が・・・

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ゼェゼェと息を切らし、相当にバテながら30分ほども登りましたかねぇ・・・
足元に突如、物凄い堀切が現れました。

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薩た山東大堀切、その堀底から・・・
木々が密集していて写真では分かり辛いかとは思いますが、深さといい幅といい物凄い規模です。

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東大堀切、東面の切岸
この深さをお分かりいただけますでしょうか・・・

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西面には2~3段の平場も築かれていました。

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その平場に登り、東側を見た様子…①

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その②

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とにかく凄い土木量。。。

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これだけの規模を誇る堀切が、南北500mもの長さに渡って築かれているというのだから驚きです。

どのタイミングで、いずれの勢力が築いたものか正確なところは分かりませんが、この土木量からして北条家によるものではないかな~と直感的には感じました。
仮に北条の手によるものとすると、第2次薩た峠の戦いを経て武田信玄が甲斐へ兵を収めた後、その再侵攻に備えて…ということになるでしょうか。

この先、更に西へ進むと他にも陣城遺構が残っているそうですが、時間が押して次の予定もあるので今回はここまで。
しかし、良いものを見れました。

当初の予定では、駿河侵攻時に武田信玄が布陣したと云う横山城にも行くつもりでしたが、冬の日照時間を考えてそちらもパス。
という訳で次に向かったのは・・・

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第1次薩た峠の戦いで、今川氏真が布陣した清見寺です。

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総門前には江戸期の旧東海道が通っています。

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総門と山門の間には、なんと東海道本線が走っていました。

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仏殿

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境内に建つ咸臨丸殉難碑
慶応4年(1868)8月19日、品川沖を脱走して北を目指した榎本艦隊は台風に遭って遭難し、そのうちの1隻、咸臨丸は駿河湾に流されて清水港に入港します。
そこへ新政府軍が乗り込み、不幸にも旧幕府脱走兵や乗組員が虐殺されるいう事件が起こりました。
この殉難碑は後年、彼らの供養のため、艦隊を率いた榎本武揚によって建てられました。
食人之食者死人之事
(人の食を食む者は人の事に死す=徳川幕府の禄を食んでいたから幕府の事に殉じた)
※ちなみに虐殺され、海に遺棄された旧幕府方将兵らの遺骸を集めて埋葬・供養したのは、清水次郎長だったと云われています。

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鐘楼
梵鐘は正和3年(1314)に鋳造されたもので、豊臣秀吉軍の韮山城攻めの際、陣鐘として用いられたそうです。

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血天井
正治2年(1200)、鎌倉を出奔して西へ向かった梶原景時一行は、清見関で居合わせた在地の武士らと戦闘に及んで滅亡しました。
この天井板は、その清見関の古材を使用していると伝わります。よく見ると馬の蹄跡も。

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徳川家康手習の間
大原雪斎が清見寺の住職だった時には、家康もここでその手習いを受けていました。

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手習の間から見える庭園

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書院の中庭

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玉座の間
大正天皇が御成になったこともあるそうです。

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書院の釘隠しは立葵が多かったのですが・・・

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玉座の間周辺だけは三葉葵が用いられていました。

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清見寺境内
左手前には、家康が清見関から接樹させたと伝わる臥龍梅

清見寺は朝鮮通信使の休憩所としても度々使われており、方丈には通信使らの詩を刻んだ扁額が多数掲げられていました。
また、琉球の第二尚氏王統7代目・尚寧王の弟で慶長15年(1610)に駿府で病死した具志頭王子のお墓もあり、今でも沖縄の方がよくお参りに訪れるそうです。

さて、第1次薩た峠の戦いで清見寺に布陣した今川氏真でしたが、武田方への内通者も出て不利を悟ると賤機山城へ撤退しようとしますが、武田軍に先回りされて果たせず、彼は掛川城へと落ちていきました。
今回の旅ではその賤機山城にも行きましたが、それはまたいずれ別の記事で・・・。

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清見寺を出て、駿河に侵攻した武田軍も往来したであろう、身延道の旧道を北上し・・・

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小島藩一万石、松平家の小島陣屋跡に到着。
ひっそりとした住宅地のすぐ裏手に、結構な規模の石垣が残っていました。

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枡形

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それにしても今冬の気温の高さって一体・・・
1月だというのに早くも菜の花が咲いてしまっていました。

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小島陣屋からの眺め
写真少し右奥の小山は、駿河に侵攻してきた武田軍が布陣した横山城跡です。

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陣屋井戸

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裏門側にもいい感じで石垣が残っていました。

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裏門跡周辺

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旅の初日、日没までの余った時間で急遽訪れましたが、国史跡にも指定されているだけあって、それなりに見応えはありました。

これにて初日の行程は無事終了。
この後は宿のある清水駅前で懇親会→カラオケ→3次会→〆ラーメンと、遅くまでよく遊びました(笑)

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