東海道石畳、諏訪原城
静岡旅2日目。
この日のスタートは島田市の諏訪原城からですが、私は電車移動で単騎早駆け。金谷駅から目当てである旧東海道の道筋を歩いて諏訪原城へ向かうことにしました。
東海道、金谷宿の古絵図
現在の金谷宿
左手に脇本陣角屋跡、正面には富士山が見えています。
もう少し東へ行くと本陣柏屋跡もあったようですが、私は脇本陣跡から折り返して西へ向かいました。
ずっとなだらかな上り坂が続きます。
一里塚跡
東海道はここで左に曲がり、線路の下を潜ります。
線路を潜り、金谷駅の裏手を抜けると金谷大橋跡があります。
金谷宿の西の入口にあたることから「西入口土橋」とも呼ばれていました。
金谷大橋を渡ると、東海道はグッと上り勾配がきつくなっていきます。
国道473号線と交差するポイントに出ると、旧東海道石畳入口の案内板が♪
更に少し坂を登ると・・・
石畳茶屋があります。
石畳茶屋から歩いてきた方向を振り返る。既に結構登りました。
正面には富士山の雄姿も。
いよいよここから石畳のスタートです。
旧東海道、金谷坂の石畳
しばらく歩いていると、道の左脇に気になる痕跡が覗いていました。
これは何かある!と思い、土手を上ってみると・・・
やはり・・・これは明らかに旧道の痕跡でしょう。
こちらが本当の旧東海道か、或は交互行き違いのための脇往還か・・・?
さらに上った先に・・・
すべらず地蔵
勿論、お参りしましたよ。どうか足もネタもスベリませんように…って。(ー人ー)
ようやく金谷坂のピークが見えてきました。
金谷坂を上り切り、舗装路と合流するポイント。
舗装路と合流する坂のピークには、明治天皇御駐輦址碑が。
明治天皇遷都行幸の際、行列を停めて富士の眺めをご堪能された地なのだそうです。
石畳は終わっても、旧東海道はどこまでも続きます。
この日の集合場所である諏訪原城跡の前を一旦通り過ぎ・・・
(諏訪原城が街道を押さえる意図をもって築かれたことがよく分かります)
今度は菊川坂の石畳へ
菊川坂の石畳
ここからは、金谷の次の宿場にあたる日坂宿へ向けて下り坂になります。
結構な下り勾配。
雨が降っていたら確かに足を取られるかもしれません。
静岡県はお茶処だもんね(笑)
でもあの文字、実はお茶の木でできている訳ではないらしいですよ?ww
菊川坂の石畳終点
この先をしばらく進むと日坂宿になります。
諏訪原城跡へ戻るため、元来た道を振り返る・・・結構下ってきちゃいましたね…(;・∀・)
旧街道歩きは、その工程の全てが「目的地」だから、ハマると本当に楽しいですよ☆
さ、それではみんなと合流して諏訪原城攻めです。
諏訪原城
天正元年(1573)、遠江攻略の橋頭保として甲斐武田氏により築城されました。(他に永禄12年説あり)
しかし天正3年(1575)5月、武田軍が長篠設楽原合戦に於いて織田・徳川連合軍に敗れると、ほどなくして諏訪原城も徳川軍の攻撃を受けて落城します。
以降は徳川方の城として機能しますが、天正18年(1590)に廃城となりました。
諏訪原城縄張図
丸馬出を巧みに配した点などは如何にも武田流といった感じがしますが、現在に残る縄張の多くは徳川時代に改修・拡張されたものと考えられています。
浅野文庫「諸国古城之図」に見る諏訪原城
近年、頻りに整備の手が入っているようですが・・・若干不安を禁じえません。
どうか手を加え過ぎませんように。
天正3年の落城時、城と運命を共にした武田方の城将・今福浄閑戦死墓塚。
大手曲輪跡の茶畑に建ちます。
大手南外堀と・・・
大手北外堀
この南北外堀の間が大手曲輪となります。
大手曲輪同様、その先端に築かれた大手外馬出も茶畑として殆ど喪われていますが、東海道菊川坂石畳のすぐ脇にこうして僅かに痕跡を留めています。
整備で藪を刈ったら出てきたという…井戸
二の曲輪中馬出
噂には聞いていましたが…本当に丸いですねぇ(笑)
二の曲輪北馬出
こちらはいわゆる角馬出ですね。遠くに富士山も見えています。
二の曲輪北馬出から同中馬出へと伸びる土橋
堀を挟んだ左手は二の曲輪
二の曲輪から中馬出方向
二の曲輪、二の曲輪北馬出双方から伸びる土橋も1枚に収まって、構造的にもとても格好いいです。
二の曲輪
二の曲輪と本曲輪を結ぶ土橋
本曲輪の東、縄張図A部分の切岸に、上下二段構造で築かれた内堀と土塁の上段。
上段から見下ろす下段の横堀
下段から北側の竪土塁を見る。
その竪土塁を上りながら、下段を振り返る。
サイガさんによると、鉄砲での防御を主眼に置いた縄張りとのこと。諏訪原城というと丸馬出ばかりが強調されますが、こちらも見事な遺構でした。
そのまま上段の内堀伝いに、南側へ巻いていきます。
縄張図B、堀底道を押さえるためのものか…櫓台らしき土盛り。
縄張図には堀として描かれていますが、その櫓台から南側の斜面を下った先にも塹壕のような痕跡が残っていました。
写真奥は、水の手曲輪へと続く自然地形を活かした谷底。そちらからのルートを警戒した作りだったのかもしれません。
塹壕から見上げると、内堀の土塁奥に本曲輪の切岸も見えていました。かなりの高さです。
カンカン井戸
二の曲輪東内馬出
土塁もしっかり残っています。右奥に見えているのは同東馬出。
二の曲輪東内馬出から同南馬出へと続く土橋
二の曲輪南馬出から東内馬出を見る…切岸も堀も、まぁ見事。
二の曲輪南馬出
丸馬出特有の三日月堀も綺麗です。
現在、諏訪神社が建つ場所は二の曲輪大手馬出
こちらも勿論…丸馬出(笑)
最後に外堀に残る石積みを確認…う~ん微妙(;^ω^)
念願叶い、ようやく訪れることができた諏訪原城。
武田、そして徳川という大勢力が短い期間に明確な軍事目的を持って築城、改修・拡張したお城だけあって、大技をドンドンと並べたシンプルで、且つ意図が明確な縄張に感じました。
地形や立地的な条件もあるでしょうが、長い年月を経た居住空間としての意味合いも備える城に比べ、純粋な軍事目的の城は無駄を削ぎ落とし、よりシンプルになっていくのかもしれませんね。
さて、次は花倉城へ向かいます。
この日のスタートは島田市の諏訪原城からですが、私は電車移動で単騎早駆け。金谷駅から目当てである旧東海道の道筋を歩いて諏訪原城へ向かうことにしました。
東海道、金谷宿の古絵図
現在の金谷宿
左手に脇本陣角屋跡、正面には富士山が見えています。
もう少し東へ行くと本陣柏屋跡もあったようですが、私は脇本陣跡から折り返して西へ向かいました。
ずっとなだらかな上り坂が続きます。
一里塚跡
東海道はここで左に曲がり、線路の下を潜ります。
線路を潜り、金谷駅の裏手を抜けると金谷大橋跡があります。
金谷宿の西の入口にあたることから「西入口土橋」とも呼ばれていました。
金谷大橋を渡ると、東海道はグッと上り勾配がきつくなっていきます。
国道473号線と交差するポイントに出ると、旧東海道石畳入口の案内板が♪
更に少し坂を登ると・・・
石畳茶屋があります。
石畳茶屋から歩いてきた方向を振り返る。既に結構登りました。
正面には富士山の雄姿も。
いよいよここから石畳のスタートです。
旧東海道、金谷坂の石畳
しばらく歩いていると、道の左脇に気になる痕跡が覗いていました。
これは何かある!と思い、土手を上ってみると・・・
やはり・・・これは明らかに旧道の痕跡でしょう。
こちらが本当の旧東海道か、或は交互行き違いのための脇往還か・・・?
さらに上った先に・・・
すべらず地蔵
勿論、お参りしましたよ。どうか足もネタもスベリませんように…って。(ー人ー)
ようやく金谷坂のピークが見えてきました。
金谷坂を上り切り、舗装路と合流するポイント。
舗装路と合流する坂のピークには、明治天皇御駐輦址碑が。
明治天皇遷都行幸の際、行列を停めて富士の眺めをご堪能された地なのだそうです。
石畳は終わっても、旧東海道はどこまでも続きます。
この日の集合場所である諏訪原城跡の前を一旦通り過ぎ・・・
(諏訪原城が街道を押さえる意図をもって築かれたことがよく分かります)
今度は菊川坂の石畳へ
菊川坂の石畳
ここからは、金谷の次の宿場にあたる日坂宿へ向けて下り坂になります。
結構な下り勾配。
雨が降っていたら確かに足を取られるかもしれません。
静岡県はお茶処だもんね(笑)
でもあの文字、実はお茶の木でできている訳ではないらしいですよ?ww
菊川坂の石畳終点
この先をしばらく進むと日坂宿になります。
諏訪原城跡へ戻るため、元来た道を振り返る・・・結構下ってきちゃいましたね…(;・∀・)
旧街道歩きは、その工程の全てが「目的地」だから、ハマると本当に楽しいですよ☆
さ、それではみんなと合流して諏訪原城攻めです。
諏訪原城
天正元年(1573)、遠江攻略の橋頭保として甲斐武田氏により築城されました。(他に永禄12年説あり)
しかし天正3年(1575)5月、武田軍が長篠設楽原合戦に於いて織田・徳川連合軍に敗れると、ほどなくして諏訪原城も徳川軍の攻撃を受けて落城します。
以降は徳川方の城として機能しますが、天正18年(1590)に廃城となりました。
諏訪原城縄張図
丸馬出を巧みに配した点などは如何にも武田流といった感じがしますが、現在に残る縄張の多くは徳川時代に改修・拡張されたものと考えられています。
浅野文庫「諸国古城之図」に見る諏訪原城
近年、頻りに整備の手が入っているようですが・・・若干不安を禁じえません。
どうか手を加え過ぎませんように。
天正3年の落城時、城と運命を共にした武田方の城将・今福浄閑戦死墓塚。
大手曲輪跡の茶畑に建ちます。
大手南外堀と・・・
大手北外堀
この南北外堀の間が大手曲輪となります。
大手曲輪同様、その先端に築かれた大手外馬出も茶畑として殆ど喪われていますが、東海道菊川坂石畳のすぐ脇にこうして僅かに痕跡を留めています。
整備で藪を刈ったら出てきたという…井戸
二の曲輪中馬出
噂には聞いていましたが…本当に丸いですねぇ(笑)
二の曲輪北馬出
こちらはいわゆる角馬出ですね。遠くに富士山も見えています。
二の曲輪北馬出から同中馬出へと伸びる土橋
堀を挟んだ左手は二の曲輪
二の曲輪から中馬出方向
二の曲輪、二の曲輪北馬出双方から伸びる土橋も1枚に収まって、構造的にもとても格好いいです。
二の曲輪
二の曲輪と本曲輪を結ぶ土橋
本曲輪の東、縄張図A部分の切岸に、上下二段構造で築かれた内堀と土塁の上段。
上段から見下ろす下段の横堀
下段から北側の竪土塁を見る。
その竪土塁を上りながら、下段を振り返る。
サイガさんによると、鉄砲での防御を主眼に置いた縄張りとのこと。諏訪原城というと丸馬出ばかりが強調されますが、こちらも見事な遺構でした。
そのまま上段の内堀伝いに、南側へ巻いていきます。
縄張図B、堀底道を押さえるためのものか…櫓台らしき土盛り。
縄張図には堀として描かれていますが、その櫓台から南側の斜面を下った先にも塹壕のような痕跡が残っていました。
写真奥は、水の手曲輪へと続く自然地形を活かした谷底。そちらからのルートを警戒した作りだったのかもしれません。
塹壕から見上げると、内堀の土塁奥に本曲輪の切岸も見えていました。かなりの高さです。
カンカン井戸
二の曲輪東内馬出
土塁もしっかり残っています。右奥に見えているのは同東馬出。
二の曲輪東内馬出から同南馬出へと続く土橋
二の曲輪南馬出から東内馬出を見る…切岸も堀も、まぁ見事。
二の曲輪南馬出
丸馬出特有の三日月堀も綺麗です。
現在、諏訪神社が建つ場所は二の曲輪大手馬出
こちらも勿論…丸馬出(笑)
最後に外堀に残る石積みを確認…う~ん微妙(;^ω^)
念願叶い、ようやく訪れることができた諏訪原城。
武田、そして徳川という大勢力が短い期間に明確な軍事目的を持って築城、改修・拡張したお城だけあって、大技をドンドンと並べたシンプルで、且つ意図が明確な縄張に感じました。
地形や立地的な条件もあるでしょうが、長い年月を経た居住空間としての意味合いも備える城に比べ、純粋な軍事目的の城は無駄を削ぎ落とし、よりシンプルになっていくのかもしれませんね。
さて、次は花倉城へ向かいます。
| 固定リンク
「お城、史跡巡り 東海」カテゴリの記事
- 馬伏塚城(2022.12.10)
- 久野城(2022.12.09)
- 勝間田城(2022.12.08)
- 旧東海道、藤川宿~池鯉鮒宿(2022.11.15)
- 岩津城、他(2022.08.11)
コメント