勝竜寺城、明智薮…明智光秀終焉の地
京都国立博物館で刀剣を堪能した後は、「京の冬の旅」で特別公開されている市内の寺院などをめぐるつもりでいましたが、翌23日には数十年に一度の規模という寒波が迫って天候が荒れる、との予報が出ていましたので急遽予定を入れ替え、今回の旅のもう一つの目的である明智光秀の最期にまつわる史跡をめぐることにしました。
※実際に訪れた順番とは前後しますが、ここでは歴史の時系列に沿って記載していきます。

JR長岡京駅から南へ徒歩5~6分、神足神社境内に残る土塁(の断面)
勝竜寺城図

神足神社境内も、細川(長岡)藤孝の居城としても有名な勝竜寺城の一部だったと考えられています。(神足屋敷)

近年詳細な調査が入り、土塁や堀、土橋などが整備されたとのことでしたが・・・

これは整備のやり過ぎでしょう・・・。

調査段階に撮影されたと思われる1枚
この土橋が・・・

こんな姿に。
せめて土橋部分だけでも手摺がなければ、まだ良かったとは思うのですが…(>_<)

神足神社

こうして見ると、神社参道の石段と土塁が一直線で繋がります。

実際には土塁がもっと東へ延びていたことが分かります。

勝竜寺城本丸

細川藤孝時代の勝竜寺城復原図

北門跡。ここに・・・

このような城門が建っていたのですねぇ~

本丸土塁

沼田丸の堀跡

勝竜寺城から眺める山崎古戦場方面
明智ハ正龍寺之城へ迯入、(略)坂本の居城を心かけ罷退、
※「別本御代々軍記」(太田牛一旧記)より。以下引用同
本能寺の変の後、中国大返しで備中から引き返してきた羽柴秀吉軍との山崎の戦いで敗れた明智光秀は、一旦この勝竜寺城へ逃げ込み、更に坂本城を目指して落ちて行きます。

地下鉄東西線石田駅で下車、しばらく北の方角へ向かって歩き、あちらの山の中腹に建つ本経寺を目指します。
伏見より廿町北山そひに、おごろすとて小里有、

小栗栖(おごろす)の本経寺

本堂の脇に明智日向守光秀公供養塔があります。

この本経寺前の小路を東へ進み・・・

舗装路突き当たりの住宅の脇を抜けると・・・

明智薮の碑が建っています。

但し、明智薮自体はこの碑から更に少し奥へ進んだ先になります。

下ハ平田也、其上に細道有、其上に小藪あり、落人共あまた通之由百姓共承り、ほそ道之上小藪に、がめつきやりとてさび朽たるやりを以て、馬乗十騎計のりつれて行処を、(略)誰共なく藪こしに一やりつき候へハ、人多中に天罰究、明智日向か骼につきあてたり、
写真、細道の右手は何かの工事をしていて見通せませんでしたが、左手の藪は確かに斜面がせり上がっていました(ほそ道之上小藪)。

右手の工事現場も一段下がっており、或いはここに平田があったか(下ハ平田也)。

百姓共がさび朽ちた槍を突き出してきた?ほそ道之上の竹藪
明智薮、なかなか想像力を必要とはしますが(笑)、太田牛一が書き記した情景と一致するように私は感じました。
牛一が光秀の最期に立ち会っている筈はないので、きっと彼は後年、実際に訪れてこの場に立ってみたのではないでしょうか。。。

明智薮から山沿いに、小栗栖街道を北上します。

1km以上は歩いたでしょうか、街道沿いにある精米所の駐車場隅にひっそりと・・・

胴塚と伝わる明智光秀之塚がありました。
※なお、彼の「首塚」とされるものは京都東山の白川沿いなどにあります。
→参照記事
ニ三町計行候て、馬よりおろしてくれ候へと申候、如何と尋候へハ、手を負いたると申候、その時明智日向申様に、馬之鞍に毛氈之鞍おゝい有、明智か頸を取て、くらおゝいにつゝミて、
牛一は光秀最期の地を、最初に襲われた小藪からニ三町計進んだ先と書いていて、或いはこの胴塚がその場所かとも思いましたが、ニ三町ということは長くみても300mほど・・・距離が合いませんよね…(^_^;)
いずれにしても、明智藪からこの胴塚の間の何処かで力尽き、家臣に頸を打たせた可能性は高いのではないでしょうか。。。
明智薮の細道が近々舗装される、との情報を得て急遽辿ってみることにした明智光秀終焉の地。
下調べも不充分でいい加減なことを書いてしまっているかもしれませんが、そこはひらにご容赦ください。
連なる山の地形や明智薮周辺の光景など、確かに当時の雰囲気を感じることはできました。
※実際に訪れた順番とは前後しますが、ここでは歴史の時系列に沿って記載していきます。

JR長岡京駅から南へ徒歩5~6分、神足神社境内に残る土塁(の断面)
勝竜寺城図

神足神社境内も、細川(長岡)藤孝の居城としても有名な勝竜寺城の一部だったと考えられています。(神足屋敷)

近年詳細な調査が入り、土塁や堀、土橋などが整備されたとのことでしたが・・・

これは整備のやり過ぎでしょう・・・。

調査段階に撮影されたと思われる1枚
この土橋が・・・

こんな姿に。
せめて土橋部分だけでも手摺がなければ、まだ良かったとは思うのですが…(>_<)

神足神社

こうして見ると、神社参道の石段と土塁が一直線で繋がります。

実際には土塁がもっと東へ延びていたことが分かります。

勝竜寺城本丸

細川藤孝時代の勝竜寺城復原図

北門跡。ここに・・・

このような城門が建っていたのですねぇ~

本丸土塁

沼田丸の堀跡

勝竜寺城から眺める山崎古戦場方面
明智ハ正龍寺之城へ迯入、(略)坂本の居城を心かけ罷退、
※「別本御代々軍記」(太田牛一旧記)より。以下引用同
本能寺の変の後、中国大返しで備中から引き返してきた羽柴秀吉軍との山崎の戦いで敗れた明智光秀は、一旦この勝竜寺城へ逃げ込み、更に坂本城を目指して落ちて行きます。

地下鉄東西線石田駅で下車、しばらく北の方角へ向かって歩き、あちらの山の中腹に建つ本経寺を目指します。
伏見より廿町北山そひに、おごろすとて小里有、

小栗栖(おごろす)の本経寺

本堂の脇に明智日向守光秀公供養塔があります。

この本経寺前の小路を東へ進み・・・

舗装路突き当たりの住宅の脇を抜けると・・・

明智薮の碑が建っています。

但し、明智薮自体はこの碑から更に少し奥へ進んだ先になります。

下ハ平田也、其上に細道有、其上に小藪あり、落人共あまた通之由百姓共承り、ほそ道之上小藪に、がめつきやりとてさび朽たるやりを以て、馬乗十騎計のりつれて行処を、(略)誰共なく藪こしに一やりつき候へハ、人多中に天罰究、明智日向か骼につきあてたり、
写真、細道の右手は何かの工事をしていて見通せませんでしたが、左手の藪は確かに斜面がせり上がっていました(ほそ道之上小藪)。

右手の工事現場も一段下がっており、或いはここに平田があったか(下ハ平田也)。

百姓共がさび朽ちた槍を突き出してきた?ほそ道之上の竹藪
明智薮、なかなか想像力を必要とはしますが(笑)、太田牛一が書き記した情景と一致するように私は感じました。
牛一が光秀の最期に立ち会っている筈はないので、きっと彼は後年、実際に訪れてこの場に立ってみたのではないでしょうか。。。

明智薮から山沿いに、小栗栖街道を北上します。

1km以上は歩いたでしょうか、街道沿いにある精米所の駐車場隅にひっそりと・・・

胴塚と伝わる明智光秀之塚がありました。
※なお、彼の「首塚」とされるものは京都東山の白川沿いなどにあります。
→参照記事
ニ三町計行候て、馬よりおろしてくれ候へと申候、如何と尋候へハ、手を負いたると申候、その時明智日向申様に、馬之鞍に毛氈之鞍おゝい有、明智か頸を取て、くらおゝいにつゝミて、
牛一は光秀最期の地を、最初に襲われた小藪からニ三町計進んだ先と書いていて、或いはこの胴塚がその場所かとも思いましたが、ニ三町ということは長くみても300mほど・・・距離が合いませんよね…(^_^;)
いずれにしても、明智藪からこの胴塚の間の何処かで力尽き、家臣に頸を打たせた可能性は高いのではないでしょうか。。。
明智薮の細道が近々舗装される、との情報を得て急遽辿ってみることにした明智光秀終焉の地。
下調べも不充分でいい加減なことを書いてしまっているかもしれませんが、そこはひらにご容赦ください。
連なる山の地形や明智薮周辺の光景など、確かに当時の雰囲気を感じることはできました。
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