東禅寺、泉岳寺、高輪大木戸跡、etc...
2月6日(土)、田町で開催された懇親会に合わせ、ちょっと高輪周辺の東海道を散策してきました。
スタートは品川駅から。
東海道を田町駅方向へ向かって北上します。
まずは東禅寺へ。
慶長14年(1609)の創建で、開基は飫肥藩主・伊東祐慶。仙台藩伊達家や岡山藩池田家の菩提寺にもなったそうです。
そして山門前の碑にある通り、幕末にはイギリス公使館が置かれました。
文久元年(1861)5月28日夜、東禅寺のイギリス公使館は攘夷を掲げる水戸脱藩浪士ら14名の襲撃を受けます(第1次東禅寺事件)。この事件で公使館員2名が負傷した他、幕府が手配した警備兵にも犠牲が出ましたが、公使オールコックは辛うじて難を逃れました。
1861年10月12日付、The Illustrated London News紙が伝える第1次東禅寺事件
更に文久2年5月29日には、警備にあたっていた松本藩士・伊藤軍兵衛が代理公使ニール(オールコックは帰国中)の殺害を企て、ニールの寝室を警備していたイギリス兵2名と戦闘になり、この2名を殺害した後、自らも自刃するという事件も起こります(第2次東禅寺事件)。
そんな歴史の舞台となった境内を、少し散策させていただきます。
三重塔と本堂
大玄関
大玄関もなかなかの年代を感じさせますが、本堂を含めた殆どの建物は昭和に入ってからの再建で、イギリス公使館が置かれていた頃の名残は、僅かに境内裏手にある僊源亭と庭園を残すのみだそうですが、残念ながらこれらは非公開です。
庫裏の脇には、とても古そうな土蔵が・・・。
あの土蔵なら、或いは事件を目撃していないかなぁ~などと考えながら、境内をあとにしました。
東海道に戻ってしばらく進むと・・・
高輪海岸に用いられていた石垣石が展示されていました。
今でこそ埋め立てによって海岸線は街道から随分離れてしまいましたが・・・
ご覧の通り、江戸期には東海道のすぐ脇まで海が迫っていました。
ちなみに一番手前に描かれているのは高輪大木戸の石垣です。
※後ほど出てきますので、この絵を覚えておいてください。
さて、次の立ち寄りポイントは泉岳寺。
元禄赤穂事件でもあまりに有名ですね。
大石内蔵助像
浅野内匠頭が切腹した田村邸の庭にあったと云う石
吉良邸討ち入り後、吉良上野介の首を内匠頭の墓前に供える前に洗ったと云う首洗井戸
『仮名手本忠臣蔵』に登場する天河屋義平のモデルになった…天野屋利兵衛の碑
浅野内匠頭墓
内匠頭正室、瑤泉院墓
討ち入りに参加した四十七士に、萱野三平を加えた四十八基の墓碑が並びます。
右奥に大石内蔵助墓碑
こちらの一番奥には大石主税、その手前に堀部安兵衛
四十七士のうち、寺坂吉右衛門(左)は討ち入り後に姿を消して(一説には大石らの指示とも)切腹していないため、唯一戒名に「刃」「釼」の一字がありません。
遂道退身信士
如何にも逃亡したかのような戒名になってはいますが・・・?
また、泉岳寺の山門脇には殉難戦死之碑があります。
こちらは明治10年の西南戦争に、豊後口警視徴募隊として参戦・戦病死した18名を顕彰したものだそうです。
豊後口警視徴募隊といえば、斎藤一こと藤田五郎が半隊長として参加した隊でもあります。
泉岳寺を出て再び東海道を進むとすぐに、先ほどの「東海道高輪風景」画にも描かれていた高輪大木戸跡の石垣が見えてきます。
高輪大木戸は江戸の南の玄関口として東海道に築かれ、通行規制や治安維持の機能を果たしました。
札の辻
高輪大木戸跡の700mほど北になります。
その名の通り高札場がありましたが、高輪大木戸築造と共に高札場も大木戸へ移されました。
※前出「東海道高輪風景」画の高輪大木戸右脇に描かれています。
最後に東京タワー(笑)
さて、ぼちぼち田町駅に到着しますので、今回の散策はこの辺で。
スタートは品川駅から。
東海道を田町駅方向へ向かって北上します。
まずは東禅寺へ。
慶長14年(1609)の創建で、開基は飫肥藩主・伊東祐慶。仙台藩伊達家や岡山藩池田家の菩提寺にもなったそうです。
そして山門前の碑にある通り、幕末にはイギリス公使館が置かれました。
文久元年(1861)5月28日夜、東禅寺のイギリス公使館は攘夷を掲げる水戸脱藩浪士ら14名の襲撃を受けます(第1次東禅寺事件)。この事件で公使館員2名が負傷した他、幕府が手配した警備兵にも犠牲が出ましたが、公使オールコックは辛うじて難を逃れました。
1861年10月12日付、The Illustrated London News紙が伝える第1次東禅寺事件
更に文久2年5月29日には、警備にあたっていた松本藩士・伊藤軍兵衛が代理公使ニール(オールコックは帰国中)の殺害を企て、ニールの寝室を警備していたイギリス兵2名と戦闘になり、この2名を殺害した後、自らも自刃するという事件も起こります(第2次東禅寺事件)。
そんな歴史の舞台となった境内を、少し散策させていただきます。
三重塔と本堂
大玄関
大玄関もなかなかの年代を感じさせますが、本堂を含めた殆どの建物は昭和に入ってからの再建で、イギリス公使館が置かれていた頃の名残は、僅かに境内裏手にある僊源亭と庭園を残すのみだそうですが、残念ながらこれらは非公開です。
庫裏の脇には、とても古そうな土蔵が・・・。
あの土蔵なら、或いは事件を目撃していないかなぁ~などと考えながら、境内をあとにしました。
東海道に戻ってしばらく進むと・・・
高輪海岸に用いられていた石垣石が展示されていました。
今でこそ埋め立てによって海岸線は街道から随分離れてしまいましたが・・・
ご覧の通り、江戸期には東海道のすぐ脇まで海が迫っていました。
ちなみに一番手前に描かれているのは高輪大木戸の石垣です。
※後ほど出てきますので、この絵を覚えておいてください。
さて、次の立ち寄りポイントは泉岳寺。
元禄赤穂事件でもあまりに有名ですね。
大石内蔵助像
浅野内匠頭が切腹した田村邸の庭にあったと云う石
吉良邸討ち入り後、吉良上野介の首を内匠頭の墓前に供える前に洗ったと云う首洗井戸
『仮名手本忠臣蔵』に登場する天河屋義平のモデルになった…天野屋利兵衛の碑
浅野内匠頭墓
内匠頭正室、瑤泉院墓
討ち入りに参加した四十七士に、萱野三平を加えた四十八基の墓碑が並びます。
右奥に大石内蔵助墓碑
こちらの一番奥には大石主税、その手前に堀部安兵衛
四十七士のうち、寺坂吉右衛門(左)は討ち入り後に姿を消して(一説には大石らの指示とも)切腹していないため、唯一戒名に「刃」「釼」の一字がありません。
遂道退身信士
如何にも逃亡したかのような戒名になってはいますが・・・?
また、泉岳寺の山門脇には殉難戦死之碑があります。
こちらは明治10年の西南戦争に、豊後口警視徴募隊として参戦・戦病死した18名を顕彰したものだそうです。
豊後口警視徴募隊といえば、斎藤一こと藤田五郎が半隊長として参加した隊でもあります。
泉岳寺を出て再び東海道を進むとすぐに、先ほどの「東海道高輪風景」画にも描かれていた高輪大木戸跡の石垣が見えてきます。
高輪大木戸は江戸の南の玄関口として東海道に築かれ、通行規制や治安維持の機能を果たしました。
札の辻
高輪大木戸跡の700mほど北になります。
その名の通り高札場がありましたが、高輪大木戸築造と共に高札場も大木戸へ移されました。
※前出「東海道高輪風景」画の高輪大木戸右脇に描かれています。
最後に東京タワー(笑)
さて、ぼちぼち田町駅に到着しますので、今回の散策はこの辺で。
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