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2016年3月

2016年3月30日 (水)

企画展「中世の古文書をよむ」

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渋谷駅から徒歩10~15分、國學院大學博物館で開催されている企画展「中世の古文書をよむ」(平成28年3月19日~4月17日)に足を運んでみました。

久我建通という人物が國學院の前身・皇典講究所(創設は山田顕義/初代総裁に有栖川宮幟仁親王)の副総裁を務めたことなどから、國學院大學が所蔵している「久我家文書」(国指定重要文化財)を中心に、吉田家文書などの古文書類が数多く展示されていました。

中でも私の目当ては;
・織田信長朱印状
・織田信長禁制

の2点です。

朱印状の方は天正三年七月十二日付で朱印は馬蹄形。久我家領について、

先に朱印を下した五ヶ村の外、入組・散在等、当知行に任せ、悉く申し付ける可き之状、件の如し。

とあります。入組・散在とは、他領に入り組んだり、散らばっている飛び地などのことを指すのでしょうか。
宛名は村井長門守(貞勝/織田政権の京都所司代)になっていますが、内容は久我家の所領を安堵したものであり、村井貞勝を通して久我家に与えられたものと考えられます。

天正3年といえば、5月に長篠設楽原で甲斐武田家を撃破し、11月には権大納言・右近衛大将に任官する年(後に右大臣まで進んで辞官)。
これ以後、家臣のみならず伊達や蘆名、島津といった遠国の大名からも「上様」「公儀」と呼ばれており、また、それら九州や東国の大名への書状に現れる信長の態度からも、明確に全国統一を視野に入れ始めたことが読み取れます。
まさに「天下人」としての道を邁進し始めた画期の年
統計を取った訳ではないので詳しくは分かりませんが、久我家のような公家に対する朱印状も、この天正3年を機に増えていったのではないでしょうか。

また、禁制は永禄十一年9月 日付、朱印は楕円形
吉田郷に宛てたもので、足利義昭を奉じて上洛した信長の軍勢が乱暴狼藉を働くことを禁じた、禁制としてはごく一般的な内容のものですが、署名の「弾正忠」に意味もなく痺れましたねぇ~(笑)

その他では;
・花押が書面の冒頭(右端)に大書されていた足利尊氏、及び足利義詮の禁制や、
・後見人・政村との連署の形式を採っていた北条時宗の御教書、
・里村紹巴書状(秀次事件に連座して蟄居中の紹巴が、支援してくれた久我家に対して感謝を伝えたもの。文中に「石田治部少輔殿」も支援してくれたことが記されている)
などが興味を惹きました。

他にも豊臣秀吉や千利休、後醍醐天皇、後陽成天皇、歴代足利将軍、細川・北畠・斯波各氏、etc...
これらの人物に関する古文書が30点近くも展示され、しかも無料
中世の日本史に興味お持ちの方は是非、期間内に足を運んでみてください。

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さて、帰り道には近くの金王八幡宮へお参り。
渋谷金王八幡といえば、渋谷城跡としても知られますね。

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渋谷城の城石

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渋谷城模型

元々は渋谷八幡と称していましたが、源義朝の家臣として保元の乱でも勇名を馳せた渋谷金王丸にちなみ、金王八幡と呼ばれるようになりました。
金王丸は義朝の最期まで付き従い、主の死後は出家して土佐坊昌俊と称します。後に頼朝の挙兵にも呼応しますが、平家追討後、頼朝と義経が対立するに至ると、土佐坊に義経討伐の命が下されます。
文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて上洛した土佐坊は、義経の館に討ち入りますが逆に捕らえられ、最期を迎えました。
※源義朝の最期については、コチラ の記事も参照ください。

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境内の桜が綺麗に咲いていました。。。

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2016年3月27日 (日)

八王子城搦め手口(山麓部)

本日は八王子城搦め手口を探索。
先日入手した「巨大山城 八王子城 精密ルートマップ2016年版」(揺籃社)を主な参考資料にめぐります。

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八王子城搦め手口、北浅川に架かる松竹橋
搦め手道が真っ直ぐに伸びます。

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北浅川は案下川とも呼ばれ、八王子城のお堀の役割も果たしています。
並行して走る道は陣馬街道、ですが・・・往時の案下道はこの辺りで城内側に取り込まれていたと考えられています。

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松竹橋を渡ってすぐ左折した地点、案下道の旧道候補の一つ。少し行くと道路は途切れますが、心源院の方向を向いていますので、あながち間違ってはいないかな、と。
写真左手、民家の奥を左に折れた先が・・・

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松竹橋が本来架けられていた場所、とも伝えられているそうです。

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その橋跡?から南に位置する、馬出し跡と伝わる地点。
一部、土塁らしき痕跡が残ります。

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馬出し内側(南)から見た土塁

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そのコーナー部分
手前に折れてすぐに消失していますが、どうやら角馬出しだったようです。
この馬出しの位置からして確かに橋の位置は、現在のものよりも東寄りでいいのかもしれません。

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また、付近の路地には気になる段差がありました。

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この段差、すぐ脇の民家の畑にも続いていました。(石垣部分)
・・・何でしょうね?

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搦め手道に戻って城山側(南)へ進みます。
北を振り返ると浄福寺城が目の前に迫ります。

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搦め手門の手前で通路をグイッと曲げる腰巻坂
このカーブを抜けた先が・・・

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搦め手門跡

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両サイドを土手?のような段差が固めます。
こちらは搦め手道の左側で・・・

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右側には松嶽稲荷神社があるのですが、その境内にも段差が続いていました。

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松嶽稲荷神社

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城山へ向かって一直線に伸びる搦め手道

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横切る滝ノ沢川は渇水・・・。

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ここからがいよいよ城山への登山道となる、搦め手虎口付近

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朽ち果てて転がっていた手作りの案内板・・・。

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搦め手虎口手前で見かけたこちら・・・お!虎口を守る土塁か!?
とも思いましたが、よ~く見るとコンクリのブロックなどが交っており、明らかに廃棄物の堆積ですね…(^_^;)

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虎口らしき痕跡は、登城路右脇の土塁に付けられています。

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虎口

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少し下ると、進入路を屈折させる土塁も。

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登城路を虎口から100mほど行った先、東沢に架かる木橋
渡るにはとても勇気が要りますが…(^_^;)

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東沢は人工的な開削が加えられているようにも見えました。
・・・天然の堀代わり?

さて、今回は登山の装備を用意していないのでここまで。
いずれは柵門台まで続く搦め手道青龍寺跡方面、心源院からの向山砦・大六天コースにも挑戦してみたいと思います。←道連れ募集中?!(笑)

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2016年3月24日 (木)

真田父子 犬伏の別れ (新町薬師堂)

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栃木県佐野市犬伏新町・・・横に写っている道路は、在りし日の例幣使街道です。

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その例幣使街道沿い、米山古墳の袂に・・・

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真田父子 犬伏の別れで有名な薬師堂が建っています。

慶長5年(1600)、上方での石田三成ら西軍の挙兵を知った徳川家康は会津・上杉討伐の行軍を止め、上方への反転を決めます。(小山評定関連記事
その直前、上杉討伐軍に合流するために出陣中だった真田昌幸信幸信繁(幸村)父子は、犬伏の地で石田三成からの密書を受けてその挙兵を知ると、向後について話し合い、昌幸・信繁は西軍へ、信幸は東軍への帰属を決めて別離の道を選びました。
その密談の舞台こそ、この薬師堂だったとの伝承が残っているのだそうです。

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現地案内板

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この薬師堂、創建時期は不明とのことですが、言葉を返せば関ヶ原合戦時には既に存在していた可能性もある訳で・・・

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狭く薄暗い堂内、彼らが膝を突き合わせて密談している姿を想像する・・・これも歴旅の醍醐味です。

(但し、真田父子は現在の犬伏下町にある大庵寺に陣を置いていたとの話も伝わり、だとすれば密談の場所を直線距離で500mほども離れた新町の薬師堂へわざわざ移したというのには、若干の違和感を覚えないでもありませんが・・・)

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皆川城 & 逆井城

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さて、北関東のお城をめぐるオフ会、2城目は栃木県栃木市の皆川城
城山の麓、軽トラが停まっている場所は竪堀(下の縄張図中央下)です。

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皆川城縄張図
皆川城は山頂に向かって腰曲輪が幾段にもグルグルと城山を取り巻いており、その形状から法螺貝城とも呼ばれているそうです。

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まずは麓の居館跡から。
現在は公民館の敷地になっていますが、一部土塁も現存しています。

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西虎口の横堀
この辺りには公園としての整備が及んでいませんが、なかなか立派な遺構です。

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縄張図左下にで描かれた竪堀

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その竪堀の横から本丸方向

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更に上から・・・
ここまで綺麗に見通せる竪堀もそうはないですね…これも公園化の恩恵か。

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腰曲輪にあった堀のような窪み…少し畝っているようにも見えませんか?

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一定間隔で窪んでいるのが気になった、腰曲輪の土塁

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そして・・・想像以上に巻貝だった皆川城(笑)
こりゃ確かに「法螺貝」だわww

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井戸

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二の曲輪&西の丸方向

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山頂の本丸に建つ展望台

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本丸展望台からの眺め・・・と、物思いに耽る男が一人(笑)

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街道を挟んだ写真正面中央には、皆川城の出城である大平山城がありました。

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下山後、移動前に皆川城の外堀を確認。

本当はこの後、移動ついでに「真田父子 犬伏の別れ」で有名な犬伏新町の薬師堂にも立ち寄ったのですが、そちらはまた別の記事でご紹介することにして、続けてこの日のラストとなる茨城県坂東市の逆井城へ。

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逆井城
最近放映された大河ドラマ「真田丸」では、海津城という設定でこの外観が使われていましたね。
私にとっては2012年以来の再訪となります。(→記事

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逆井城全体図

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早速観て回ります。

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関宿城からの移築唐門
門を朱に塗る(いわゆる赤門)のは、徳川将軍家から姫を迎える際の慣習だったかと思いますが・・・そもそも現存する赤門は東大のそれのみらしいので関係ないか。

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井楼櫓
上ると分かりますが…結構揺れます(笑)

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あそこにも井楼が建っていたのかな?

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見かけた礎石列の石をよく見ると・・・どうやら古河城諏訪曲輪の書院建築礎石を復元展示しているようです。

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船着き場跡

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馬出

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馬出を反対側から

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相変わらず見事な横堀です。

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城外に向かって屈折する横堀

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こちらも♪

さて、日も暮れてきたので今回のオフ会はこれにて終了です。
最後は東川口まで戻って解散!同行の皆様、ありがとうございました☆

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西方城

3月21日(月)、北関東のお城をめぐるオフ会に参加させていただきました。
朝9時に東川口駅で集合し、まず向かった先は・・・

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栃木県西方町本城にある西方城
城跡へは麓の長徳寺脇から登ります。

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西方城縄張図

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山道を15分ほども登ったでしょうか・・・ようやく横堀状の遺構に遭遇。
ここから城域に入ります。

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堀底に沿って進むと、すぐに屈曲する竪堀へ繋がります。
(縄張図

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屈曲した先はひたすら真っ直ぐ、一直線に伸びる竪堀。
この竪堀を登り・・・

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切岸に突き当たって右に折れると、虎口状の枡形空間がありました。
この先に・・・

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綺麗な馬出が!(縄張図
しっかりと横堀も巡らされています。奥には北の丸の切岸。

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親切なポイント解説も♪

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馬出北側の斜面を下り、水の手(縄張図)を探しましたが・・・これといった遺構の発見には至らず。

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北の丸への虎口
馬出の後方正面に、北の丸へ上がる階段が付けられていますが本来の虎口はこれではなく、西側へ迂回した先にあります。

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北の丸
なかなかしっかりした土塁が周囲を固めます。

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虎口周辺の土塁には石列も見受けられました。

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北の丸から、先ほどの馬出を見下ろす・・・写真だと分かりづらいですね(^_^;)

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北の丸から南へ向かって進んでいくと、とっても素敵な屈折を伴う通路に当たります。

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ここにもやはり、ポイント解説ww

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その屈折路に、上段から横矢を掛ける空間。

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縄張図で双眼鏡マークが描かれている曲輪(以下、便宜上「双眼鏡曲輪」)手前には堀切が穿たれ、土橋(右奥)も架けられています。

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その土橋
この奥が双眼鏡曲輪になります。

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双眼鏡曲輪から二の丸方向

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二の丸との間の堀切もいい具合です。

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二の丸への虎口
奥には本丸の土塁も見えています。

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二の丸手前の堀切

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二の丸

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二の丸からの眺め
彼方には筑波山も見えていました。

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二の丸から見る本丸虎口
そういえば、北の丸→双眼鏡曲輪→二の丸→本丸と続くルートには不思議なことに、各曲輪の中央を真っ直ぐ結んだ直線状に虎口が配置されていました。

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本丸

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本丸南端に建つお社。
これは櫓台の跡でしょう。

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本丸南端から堀越しに、縄張図で本丸との間に描かれている小曲輪。

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思い思いに散らばる参加者たち…(^_^;)
右奥の方はいったいどちらへ・・・?(笑)

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その小曲輪から東の腰曲輪へと下りる虎口には、ルートに沿って蔀状?の土塁らしき痕跡も。

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縄張図曲輪を見下ろす。

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南の丸や曲輪へのルートも、いい具合に屈曲させています。
(縄張図部分)

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南の丸への虎口

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虎口の奥、すぐ脇には横堀も。

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南の丸

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南の丸の更に先、薮を掻き分けてやっとこさ辿り着いた城域最南端の横堀

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城跡の東側にも、複雑に屈曲する通路と二段に構えられた堡塁状の曲輪が…。
上の段(左)には井戸も掘られていました。(縄張図

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通路には石列が。
左の石、不思議な穴が空いていますね・・・割れなかった“残念矢穴”かな?

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井戸はすっかり埋まっていました。

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井戸がある曲輪の土塁…往時は石が積まれていたのかもしれません。

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一連の遺構を少し下った先から振り返る。
いかに複雑な意匠を凝らしていたかが、よく分かります。

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東の丸への馬出状の虎口

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東の丸内側からの、その虎口…こうして見ると確かに馬出っぽい。

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東の丸
さて名残惜しいですが、一通りは観て回れたので次のお城へ移動します。

ところでこの西方城、歴史的には宇都宮氏と皆川氏間の勢力圏争いの舞台となり、最終的には宇都宮氏が押さえて、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の後に廃城を迎えたようですが、城郭研究家の間ではその技巧的で複雑、且つ規模の大きな遺構から後北条の手が入っているのではないか、とも考えられているそうです。
そう言われてみれば、杉山城や滝山城などにも通じるものを感じました。

一時期、西方城を手中に収めていた皆川氏は宇都宮氏への対抗上、北条方に与してもいましたので、或いはこうした時期に北条の築城集団を迎え入れて城の防備を強化した、なんてこともあったのかもしれませんね…根拠のない推測ですが。

西方城・・・その遺構には驚きの連続で、感動すら覚えます。とてもいい城跡でした。

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2016年3月20日 (日)

万願寺の渡し

江戸時代初期、徳川家康の命によって整備された五街道。その一つである甲州道中は当初、府中から多摩川の段丘下を通って西へ進み、万願寺の渡しで多摩川を越えていました。
しかし、度重なる洪水の被害を受けたことから段丘上を通るルートに変更され(このため谷保天満宮では、街道からの入口である鳥居よりも本殿が下に位置する逆転現象が発生)、貞享元年(1684)に新たな街道筋が正式に定められると、多摩川の渡し場も現在の立日橋付近=日野の渡しに改められました。

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図の緑点線が万願寺の渡しを越える江戸初期の甲州道中赤点線が貞享元年(1684)に定められた改変後の甲州道中筋です。

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万願寺の渡し跡(日野市石田442付近)
土方歳三の生家からも近く、対岸の段丘上には歳三の手習いの師でもあった本田覚庵の住む谷保村があります。(国立市谷保/中央高速の架橋に隠れている辺り)
甲州道中の正式な渡し場が日野の渡しへ移った後も、万願寺の渡しは周辺住民の生活路として機能し続けたと云いますから、きっと歳三もこの万願寺の渡しで多摩川を越えて、本田家へ通ったことでしょうね。

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万願寺の渡しから日野へと向かう江戸時代初期の甲州道中。

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付近には「万願寺の渡し公園」なるものもありました。
こちらの説明板には;

貞享元年(1684)以前の甲州道中は、日野の渡し(現在の立日橋付近)より下流の万願寺の渡し(中央自動車道付近)で多摩川を渡りました。
当時の渡しは軍事的に大きな役割を持っており、万願寺の渡しも江戸城防備の重責を担っていました。江戸の将棋を指す人々が「王手(大手)は日野の万願寺」と言ったのは、それをよく物語っています。
日野市緑と清流課

※下線・太字は管理人

とありました。
そんな万願寺の渡しも大正15年(1926)、日野橋の開通により300年余りに渡る役目を静かに終えました。

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現在の日野橋を望む。


■関連記事
日野の甲州道中
本田家 & 富澤家
多摩の新選組 ~調布・府中・谷保・小野路~
※記事中段、谷保天満宮関連で甲州道中に関する記述あり

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加賀塚

日野市栄町1-35-1、「加賀塚公園」の片隅にひっそりと佇む・・・

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加賀塚
北条家に仕えた竹間加賀入道という人物のお墓なのだそうです。
以下、現地案内板より

市指定史跡
加賀塚(竹間加賀入道の墓)
竹間加賀入道は、小田原北条氏に仕え、日野本宿に住み、日野に知行地を有した武士である。また鉢形城(埼玉県)の守備にあたったとも伝えられ、その名は、佐藤昱家の古文書(北条氏照印判状)にもみられる。
豊臣秀吉が関東に兵を進め、北条氏と交戦状態に入った天正18年(1590)2月8日鉢形城から帰り、この地で切腹したという。八王子城が豊臣勢の攻撃で落城する4ヶ月前のことである。
昭和60年3月 日野市教育委員会


文中に出てくる「佐藤昱」とは、日野宿本陣の佐藤家の御当主だった方で、土方歳三の姉婿・佐藤彦五郎の曽孫にあたる人物
佐藤家には新選組に関する資料だけでなく、北条氏照の印判状も残っていたんですねぇ。。。
(但し、案内板が設置された昭和60年時点で昱氏は既にお亡くなりになっており、その点が不思議ではありますが)

また新たに一つ、地元の歴史に触れることができました。

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2016年3月 9日 (水)

景信山→小仏峠→小仏城山

ルート図
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後北条家による甲武境の峠・山岳防衛の痕跡を探る、というテーマで景信山~小仏峠、更に小仏城山というルートを歩いてきました。
「そこにお城があるから」登るのではなく、当時の歴史的背景や地理的条件、地形などを考えて「何かしらあったのではないか?」と思われる地点にアタリをつけて向かう山歩き・・・何が出るか?!

3月5日(土)午前8時前、JR高尾駅に集合してバスで移動。
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終点の「小仏」バス停で降りて、少し歩いた地点。
一年前には甲州道中(写真左)を辿って小仏峠へ直接向かいました(→記事)が、今回はここで甲州道中を逸れ、景信山への登山道に取りつきます。

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登り始めてすぐ、明らかに人工的な削平地と切岸がありました。

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切岸上段も削平されています。
ちょうど先ほどの甲州道中を見下ろすような位置です。

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上段から覗くと、下段の削平地との間に横堀らしき痕跡もありました。
全くの手探り状態でスタートした今回の踏査、いきなり「らしい」ものに出会えてテンションも上がります。

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そして、こうした直登すらも可能と思える緩斜面には・・・

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不自然なまでに掘り込まれた堀底道が、九十九折れに連なっています。

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景信山からの稜線に上がる地点・・・どうみても枡形虎口です。

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虎口の上には、尾根を削平して広げたような空間がありました。
まるで、下からのルートを見張るかのようです。
(以上2点:ルート図1

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遠くに小仏峠が見えています。
この後、まずは景信山の山頂(写真右上方向)まで登り、そこから稜線伝いに小仏峠を経由して小仏城山(同左上)へと向かいます・・・まだまだ先は長い。

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景信山山頂へ向け、再び九十九折れの堀底道が出現しました。

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こうして見るともう、堀切そのもの。

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少し登って下り方向を振り返った様子。
尾根をジグザグに掘り刻むかのように蛇行する堀底道。これだけ掘り刻まれたら軍勢の尾根直登も、横に展開しての進攻も不可能です。
甲州道中を辿った一年前の記事でも書きましたが、登山道にしてはこれだけ掘り下げるのも不自然ですし、これらは連続阻塞・阻塞群と呼んでも差し支えないように思えます。

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それら堀底道の上には、二段ほどの削平地もありました。
(以上4点:ルート図2

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ほどなく景信山山頂に到達です。
景信山には烽火台が築かれていたと伝わります。

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山頂でしばし休憩。。。

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景信山山頂からの眺め
この後は南に向かって小仏峠を経由し、写真左奥にそびえる小仏城山(山頂に鉄塔のようなものがポツンと建っている場所)を目指します。

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景信山から小仏峠に至るまでは、なだらかな下りが続きます。

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小仏峠
後に江戸幕府によって整備される甲州道中を押さえる小仏峠には、戦国期にも北条氏照により富士見関所と呼ばれる関所が置かれていました。
北の景信山(烽火台)~小仏城山を結ぶ稜線の中央に位置しており、このラインを一つの防衛線と捉え、小仏峠をその要に据えていたであろうことが読み取れます。(ルート図参照)
関所は1580年以降、現在の高尾駅近くの駒木野に移されています。

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明治天皇小佛峠御小休所址及御野立所碑と三条実美の歌碑

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小仏峠付近からは、相模湖方面も見渡すことができました。(霞んでるけど…)
小仏城山まで到達した後は、写真左から右へ伸びている稜線を伝って下山することになります。

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小仏城山へと向かう山道

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小仏城山山頂では、いきなり横堀跡が出迎えてくれました。

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だいぶ埋まって薄くなってはいますが、すぐにビビッと来る辺り、少しは成長できているのかな?(笑)

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景信山山頂からポツンと見えていた鉄塔です。

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小仏城山山頂の茶屋…ようやく昼休憩です。

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折角なので「なめこ汁」(250円也)もいただきました。

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広場にあった図面でコースのおさらい。
上が南になっているので、中央下の景信山から青いラインに沿って小仏峠を経由し、▲城山まで至りました。
この後は右(西)方向へ伸びる赤い点線に沿って下っていきます。

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ちなみに小仏城山には幾つかの平場があり、それらが曲輪跡に見えなくもないですが、最初の横堀跡以外にはめぼしい遺構はなさそうでした。

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小仏城山の山頂から下り始めてすぐ、山道脇に気になる土盛があったので調べてみましたが・・・

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周辺を古道の堀底道が取り巻いているだけで、いわゆる防衛のための工夫は特に見受けられませんでした。

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少し進むと、再び規模の大きい堀底道が現われます。

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もはや見事という外はありません・・・。

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九十九折れの堀底道の先には、絵に描いたような土橋状の細尾根が・・・

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両サイドはスパッと切り立った斜面で、意図的に人の手が加えられている印象を受けます。

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細尾根を渡った先の緩斜面には、土塁や切岸らしき痕跡も見受けられましたが・・・ちょっと分かりません。
この細尾根で防衛遺構も終わりかな、と思っていましたが・・・

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更に少し進んだ先で・・・

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この光景が目に飛び込んできた瞬間、「何かある!」と直感しました。
ルート図3

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もう、即座に興奮を覚えたくらいです。
早速周辺を調べてみると・・・

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古道が横堀のように取り巻き・・・

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腰曲輪もありました。

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・・・しかも二段か?

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二段目の腰曲輪から見る上段曲輪(主郭)の切岸

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腰曲輪の3mほど下段(南側)には、もう一つ削平地がありました。
(「下段曲輪」と仮称)

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その下段曲輪から更に見下ろすと、まるで堀切のように堀底道が通っています。
どうもここは複数の稜線が合流しているポイントのようで、それぞれの尾根に向かって道が伸びていました。
それからしても、この場所に砦を構えるのは理に適っているように思えます。

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写真では分かり辛いですが、下段曲輪から腰曲輪へ上がるルートには、四角く区画されて左に折れる枡形もありました。

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相模湖方面への尾根(西)へ下った先から振り返ると、遊歩道とは別に本来の城道と思われる痕跡も残っていました。(写真右)
この城道の先には・・・

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腰曲輪へ繋がる虎口もしっかり残っています。

もう、これは絶対に砦の遺構でしょう。

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同行のサイガさんに図面を作成していただきました。
各尾根に伸びる古道の集合地点に築かれ、それぞれを砦に取り込んで虎口を設け、更にそれらを守る(或いは監視する)ように曲輪も配置されていた様子がよく分かります。
城郭大系などの資料にも今のところ記載が見当たらないようなので、仮に「小仏城山西方砦」としておきます。

北条氏照は永禄12年(1569)に居城の滝山城を武田軍に攻撃された際、武田の別働隊には小仏峠を越されたこともあり、これら甲武境の峠・山岳防衛の強化を迫られます。
高尾山薬王院には;

八王子御根小屋の者らに、薬師山(高尾山)の竹木を伐ることは曲事と仰せ付けておいたのに、ことごとく山を伐っている。今日よりは竹木は申すに及ばす、下草なりとも刈る者は従類共々斬首に処するので、見つけたら搦め捕って瀧山(滝山城)へ連れてくること。
薬王院文書、(年未詳)北条氏照印判状
青文字は引用語句

という氏照の制札が残されています。
この御根小屋に配された兵が、峠や尾根の要所に配されて各拠点の構築・防衛の任に当たっていたのかもしれません。

※但し、年未詳とされながらもこの制札には「 二月」の日付があり、状況からすると天正6年(1578)と推定されます。
北条氏康死後の天正2年(1571)から再同盟を結んでいた北条-武田間が再び決裂するきっかけとなった御館の乱(越後・上杉謙信後継争い)の勃発は、制札が出された年と同じ天正6年の3月。
つまり、この制札が出された時点では武田家とはまだ同盟中ということになりますが、そこは戦国の世。少なくとも永禄12年以降は常に兵を配して警戒を怠らず、八王子築城と合わせて富士見関所(小仏峠)や各要所の防備を固めていたであろうことは想像に難くありません。

最後に素晴らしい遺構に出会えて感動です。

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さて、それでは下山します。中央高速が見えてきました。

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眼下には相模原市(千木良)の街並み

予定よりも早く下山できたので、そのまま弁天橋まで足を伸ばしてみることにしました。

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相模川の段丘上から見下ろす弁天橋の絶景

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段丘を下った地点の案内標識。
小原宿本陣は昨年の甲州道中歩きで訪れていますので、今回はスル―します。

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こちらの小さな沢には・・・

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水門跡も。

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弁天橋

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相模川の河岸段丘…凄い高低差です。

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相模ダム

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朝9時前に小仏バス停を出発して歩き続けること約6時間、遂に本日のゴール相模湖駅に到着です!
お疲れさまでした♪

今回ご紹介した諸々が、いつ・誰が・どんな意図を以って築いたものか、明確な根拠や確証はありません。あくまでこの地の歴史的背景や意義、地理的条件などを元に推定したに過ぎません。
ただ、遺構と思われるものを観察していくと、それらが全て西側を意識して築かれているように思えてくることも確かです。
ルート図12は南を向いていますが、これらも西からの街道筋や、そこから尾根伝いに八王子城へ迫られるのを押さえる役割を担っていた、と考えることができます)

今後も引き続き、折を見て周辺の踏査を続けたいと思います。

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