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2016年3月 9日 (水)

景信山→小仏峠→小仏城山

ルート図
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後北条家による甲武境の峠・山岳防衛の痕跡を探る、というテーマで景信山~小仏峠、更に小仏城山というルートを歩いてきました。
「そこにお城があるから」登るのではなく、当時の歴史的背景や地理的条件、地形などを考えて「何かしらあったのではないか?」と思われる地点にアタリをつけて向かう山歩き・・・何が出るか?!

3月5日(土)午前8時前、JR高尾駅に集合してバスで移動。
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終点の「小仏」バス停で降りて、少し歩いた地点。
一年前には甲州道中(写真左)を辿って小仏峠へ直接向かいました(→記事)が、今回はここで甲州道中を逸れ、景信山への登山道に取りつきます。

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登り始めてすぐ、明らかに人工的な削平地と切岸がありました。

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切岸上段も削平されています。
ちょうど先ほどの甲州道中を見下ろすような位置です。

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上段から覗くと、下段の削平地との間に横堀らしき痕跡もありました。
全くの手探り状態でスタートした今回の踏査、いきなり「らしい」ものに出会えてテンションも上がります。

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そして、こうした直登すらも可能と思える緩斜面には・・・

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不自然なまでに掘り込まれた堀底道が、九十九折れに連なっています。

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景信山からの稜線に上がる地点・・・どうみても枡形虎口です。

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虎口の上には、尾根を削平して広げたような空間がありました。
まるで、下からのルートを見張るかのようです。
(以上2点:ルート図1

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遠くに小仏峠が見えています。
この後、まずは景信山の山頂(写真右上方向)まで登り、そこから稜線伝いに小仏峠を経由して小仏城山(同左上)へと向かいます・・・まだまだ先は長い。

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景信山山頂へ向け、再び九十九折れの堀底道が出現しました。

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こうして見るともう、堀切そのもの。

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少し登って下り方向を振り返った様子。
尾根をジグザグに掘り刻むかのように蛇行する堀底道。これだけ掘り刻まれたら軍勢の尾根直登も、横に展開しての進攻も不可能です。
甲州道中を辿った一年前の記事でも書きましたが、登山道にしてはこれだけ掘り下げるのも不自然ですし、これらは連続阻塞・阻塞群と呼んでも差し支えないように思えます。

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それら堀底道の上には、二段ほどの削平地もありました。
(以上4点:ルート図2

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ほどなく景信山山頂に到達です。
景信山には烽火台が築かれていたと伝わります。

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山頂でしばし休憩。。。

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景信山山頂からの眺め
この後は南に向かって小仏峠を経由し、写真左奥にそびえる小仏城山(山頂に鉄塔のようなものがポツンと建っている場所)を目指します。

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景信山から小仏峠に至るまでは、なだらかな下りが続きます。

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小仏峠
後に江戸幕府によって整備される甲州道中を押さえる小仏峠には、戦国期にも北条氏照により富士見関所と呼ばれる関所が置かれていました。
北の景信山(烽火台)~小仏城山を結ぶ稜線の中央に位置しており、このラインを一つの防衛線と捉え、小仏峠をその要に据えていたであろうことが読み取れます。(ルート図参照)
関所は1580年以降、現在の高尾駅近くの駒木野に移されています。

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明治天皇小佛峠御小休所址及御野立所碑と三条実美の歌碑

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小仏峠付近からは、相模湖方面も見渡すことができました。(霞んでるけど…)
小仏城山まで到達した後は、写真左から右へ伸びている稜線を伝って下山することになります。

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小仏城山へと向かう山道

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小仏城山山頂では、いきなり横堀跡が出迎えてくれました。

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だいぶ埋まって薄くなってはいますが、すぐにビビッと来る辺り、少しは成長できているのかな?(笑)

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景信山山頂からポツンと見えていた鉄塔です。

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小仏城山山頂の茶屋…ようやく昼休憩です。

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折角なので「なめこ汁」(250円也)もいただきました。

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広場にあった図面でコースのおさらい。
上が南になっているので、中央下の景信山から青いラインに沿って小仏峠を経由し、▲城山まで至りました。
この後は右(西)方向へ伸びる赤い点線に沿って下っていきます。

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ちなみに小仏城山には幾つかの平場があり、それらが曲輪跡に見えなくもないですが、最初の横堀跡以外にはめぼしい遺構はなさそうでした。

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小仏城山の山頂から下り始めてすぐ、山道脇に気になる土盛があったので調べてみましたが・・・

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周辺を古道の堀底道が取り巻いているだけで、いわゆる防衛のための工夫は特に見受けられませんでした。

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少し進むと、再び規模の大きい堀底道が現われます。

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もはや見事という外はありません・・・。

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九十九折れの堀底道の先には、絵に描いたような土橋状の細尾根が・・・

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両サイドはスパッと切り立った斜面で、意図的に人の手が加えられている印象を受けます。

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細尾根を渡った先の緩斜面には、土塁や切岸らしき痕跡も見受けられましたが・・・ちょっと分かりません。
この細尾根で防衛遺構も終わりかな、と思っていましたが・・・

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更に少し進んだ先で・・・

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この光景が目に飛び込んできた瞬間、「何かある!」と直感しました。
ルート図3

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もう、即座に興奮を覚えたくらいです。
早速周辺を調べてみると・・・

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古道が横堀のように取り巻き・・・

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腰曲輪もありました。

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・・・しかも二段か?

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二段目の腰曲輪から見る上段曲輪(主郭)の切岸

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腰曲輪の3mほど下段(南側)には、もう一つ削平地がありました。
(「下段曲輪」と仮称)

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その下段曲輪から更に見下ろすと、まるで堀切のように堀底道が通っています。
どうもここは複数の稜線が合流しているポイントのようで、それぞれの尾根に向かって道が伸びていました。
それからしても、この場所に砦を構えるのは理に適っているように思えます。

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写真では分かり辛いですが、下段曲輪から腰曲輪へ上がるルートには、四角く区画されて左に折れる枡形もありました。

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相模湖方面への尾根(西)へ下った先から振り返ると、遊歩道とは別に本来の城道と思われる痕跡も残っていました。(写真右)
この城道の先には・・・

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腰曲輪へ繋がる虎口もしっかり残っています。

もう、これは絶対に砦の遺構でしょう。

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同行のサイガさんに図面を作成していただきました。
各尾根に伸びる古道の集合地点に築かれ、それぞれを砦に取り込んで虎口を設け、更にそれらを守る(或いは監視する)ように曲輪も配置されていた様子がよく分かります。
城郭大系などの資料にも今のところ記載が見当たらないようなので、仮に「小仏城山西方砦」としておきます。

北条氏照は永禄12年(1569)に居城の滝山城を武田軍に攻撃された際、武田の別働隊には小仏峠を越されたこともあり、これら甲武境の峠・山岳防衛の強化を迫られます。
高尾山薬王院には;

八王子御根小屋の者らに、薬師山(高尾山)の竹木を伐ることは曲事と仰せ付けておいたのに、ことごとく山を伐っている。今日よりは竹木は申すに及ばす、下草なりとも刈る者は従類共々斬首に処するので、見つけたら搦め捕って瀧山(滝山城)へ連れてくること。
薬王院文書、(年未詳)北条氏照印判状
青文字は引用語句

という氏照の制札が残されています。
この御根小屋に配された兵が、峠や尾根の要所に配されて各拠点の構築・防衛の任に当たっていたのかもしれません。

※但し、年未詳とされながらもこの制札には「 二月」の日付があり、状況からすると天正6年(1578)と推定されます。
北条氏康死後の天正2年(1571)から再同盟を結んでいた北条-武田間が再び決裂するきっかけとなった御館の乱(越後・上杉謙信後継争い)の勃発は、制札が出された年と同じ天正6年の3月。
つまり、この制札が出された時点では武田家とはまだ同盟中ということになりますが、そこは戦国の世。少なくとも永禄12年以降は常に兵を配して警戒を怠らず、八王子築城と合わせて富士見関所(小仏峠)や各要所の防備を固めていたであろうことは想像に難くありません。

最後に素晴らしい遺構に出会えて感動です。

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さて、それでは下山します。中央高速が見えてきました。

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眼下には相模原市(千木良)の街並み

予定よりも早く下山できたので、そのまま弁天橋まで足を伸ばしてみることにしました。

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相模川の段丘上から見下ろす弁天橋の絶景

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段丘を下った地点の案内標識。
小原宿本陣は昨年の甲州道中歩きで訪れていますので、今回はスル―します。

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こちらの小さな沢には・・・

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水門跡も。

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弁天橋

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相模川の河岸段丘…凄い高低差です。

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相模ダム

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朝9時前に小仏バス停を出発して歩き続けること約6時間、遂に本日のゴール相模湖駅に到着です!
お疲れさまでした♪

今回ご紹介した諸々が、いつ・誰が・どんな意図を以って築いたものか、明確な根拠や確証はありません。あくまでこの地の歴史的背景や意義、地理的条件などを元に推定したに過ぎません。
ただ、遺構と思われるものを観察していくと、それらが全て西側を意識して築かれているように思えてくることも確かです。
ルート図12は南を向いていますが、これらも西からの街道筋や、そこから尾根伝いに八王子城へ迫られるのを押さえる役割を担っていた、と考えることができます)

今後も引き続き、折を見て周辺の踏査を続けたいと思います。

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