加賀塚
日野市栄町1-35-1、「加賀塚公園」の片隅にひっそりと佇む・・・

加賀塚
北条家に仕えた竹間加賀入道という人物のお墓なのだそうです。
以下、現地案内板より
市指定史跡
加賀塚(竹間加賀入道の墓)
竹間加賀入道は、小田原北条氏に仕え、日野本宿に住み、日野に知行地を有した武士である。また鉢形城(埼玉県)の守備にあたったとも伝えられ、その名は、佐藤昱家の古文書(北条氏照印判状)にもみられる。
豊臣秀吉が関東に兵を進め、北条氏と交戦状態に入った天正18年(1590)2月8日鉢形城から帰り、この地で切腹したという。八王子城が豊臣勢の攻撃で落城する4ヶ月前のことである。
昭和60年3月 日野市教育委員会
文中に出てくる「佐藤昱」とは、日野宿本陣の佐藤家の御当主だった方で、土方歳三の姉婿・佐藤彦五郎の曽孫にあたる人物。
佐藤家には新選組に関する資料だけでなく、北条氏照の印判状も残っていたんですねぇ。。。
(但し、案内板が設置された昭和60年時点で昱氏は既にお亡くなりになっており、その点が不思議ではありますが)
また新たに一つ、地元の歴史に触れることができました。

加賀塚
北条家に仕えた竹間加賀入道という人物のお墓なのだそうです。
以下、現地案内板より
市指定史跡
加賀塚(竹間加賀入道の墓)
竹間加賀入道は、小田原北条氏に仕え、日野本宿に住み、日野に知行地を有した武士である。また鉢形城(埼玉県)の守備にあたったとも伝えられ、その名は、佐藤昱家の古文書(北条氏照印判状)にもみられる。
豊臣秀吉が関東に兵を進め、北条氏と交戦状態に入った天正18年(1590)2月8日鉢形城から帰り、この地で切腹したという。八王子城が豊臣勢の攻撃で落城する4ヶ月前のことである。
昭和60年3月 日野市教育委員会
文中に出てくる「佐藤昱」とは、日野宿本陣の佐藤家の御当主だった方で、土方歳三の姉婿・佐藤彦五郎の曽孫にあたる人物。
佐藤家には新選組に関する資料だけでなく、北条氏照の印判状も残っていたんですねぇ。。。
(但し、案内板が設置された昭和60年時点で昱氏は既にお亡くなりになっており、その点が不思議ではありますが)
また新たに一つ、地元の歴史に触れることができました。
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