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2016年3月30日 (水)

企画展「中世の古文書をよむ」

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渋谷駅から徒歩10~15分、國學院大學博物館で開催されている企画展「中世の古文書をよむ」(平成28年3月19日~4月17日)に足を運んでみました。

久我建通という人物が國學院の前身・皇典講究所(創設は山田顕義/初代総裁に有栖川宮幟仁親王)の副総裁を務めたことなどから、國學院大學が所蔵している「久我家文書」(国指定重要文化財)を中心に、吉田家文書などの古文書類が数多く展示されていました。

中でも私の目当ては;
・織田信長朱印状
・織田信長禁制

の2点です。

朱印状の方は天正三年七月十二日付で朱印は馬蹄形。久我家領について、

先に朱印を下した五ヶ村の外、入組・散在等、当知行に任せ、悉く申し付ける可き之状、件の如し。

とあります。入組・散在とは、他領に入り組んだり、散らばっている飛び地などのことを指すのでしょうか。
宛名は村井長門守(貞勝/織田政権の京都所司代)になっていますが、内容は久我家の所領を安堵したものであり、村井貞勝を通して久我家に与えられたものと考えられます。

天正3年といえば、5月に長篠設楽原で甲斐武田家を撃破し、11月には権大納言・右近衛大将に任官する年(後に右大臣まで進んで辞官)。
これ以後、家臣のみならず伊達や蘆名、島津といった遠国の大名からも「上様」「公儀」と呼ばれており、また、それら九州や東国の大名への書状に現れる信長の態度からも、明確に全国統一を視野に入れ始めたことが読み取れます。
まさに「天下人」としての道を邁進し始めた画期の年
統計を取った訳ではないので詳しくは分かりませんが、久我家のような公家に対する朱印状も、この天正3年を機に増えていったのではないでしょうか。

また、禁制は永禄十一年9月 日付、朱印は楕円形
吉田郷に宛てたもので、足利義昭を奉じて上洛した信長の軍勢が乱暴狼藉を働くことを禁じた、禁制としてはごく一般的な内容のものですが、署名の「弾正忠」に意味もなく痺れましたねぇ~(笑)

その他では;
・花押が書面の冒頭(右端)に大書されていた足利尊氏、及び足利義詮の禁制や、
・後見人・政村との連署の形式を採っていた北条時宗の御教書、
・里村紹巴書状(秀次事件に連座して蟄居中の紹巴が、支援してくれた久我家に対して感謝を伝えたもの。文中に「石田治部少輔殿」も支援してくれたことが記されている)
などが興味を惹きました。

他にも豊臣秀吉や千利休、後醍醐天皇、後陽成天皇、歴代足利将軍、細川・北畠・斯波各氏、etc...
これらの人物に関する古文書が30点近くも展示され、しかも無料
中世の日本史に興味お持ちの方は是非、期間内に足を運んでみてください。

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さて、帰り道には近くの金王八幡宮へお参り。
渋谷金王八幡といえば、渋谷城跡としても知られますね。

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渋谷城の城石

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渋谷城模型

元々は渋谷八幡と称していましたが、源義朝の家臣として保元の乱でも勇名を馳せた渋谷金王丸にちなみ、金王八幡と呼ばれるようになりました。
金王丸は義朝の最期まで付き従い、主の死後は出家して土佐坊昌俊と称します。後に頼朝の挙兵にも呼応しますが、平家追討後、頼朝と義経が対立するに至ると、土佐坊に義経討伐の命が下されます。
文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて上洛した土佐坊は、義経の館に討ち入りますが逆に捕らえられ、最期を迎えました。
※源義朝の最期については、コチラ の記事も参照ください。

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境内の桜が綺麗に咲いていました。。。

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