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2016年3月24日 (木)

西方城

3月21日(月)、北関東のお城をめぐるオフ会に参加させていただきました。
朝9時に東川口駅で集合し、まず向かった先は・・・

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栃木県西方町本城にある西方城
城跡へは麓の長徳寺脇から登ります。

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西方城縄張図

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山道を15分ほども登ったでしょうか・・・ようやく横堀状の遺構に遭遇。
ここから城域に入ります。

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堀底に沿って進むと、すぐに屈曲する竪堀へ繋がります。
(縄張図

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屈曲した先はひたすら真っ直ぐ、一直線に伸びる竪堀。
この竪堀を登り・・・

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切岸に突き当たって右に折れると、虎口状の枡形空間がありました。
この先に・・・

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綺麗な馬出が!(縄張図
しっかりと横堀も巡らされています。奥には北の丸の切岸。

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親切なポイント解説も♪

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馬出北側の斜面を下り、水の手(縄張図)を探しましたが・・・これといった遺構の発見には至らず。

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北の丸への虎口
馬出の後方正面に、北の丸へ上がる階段が付けられていますが本来の虎口はこれではなく、西側へ迂回した先にあります。

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北の丸
なかなかしっかりした土塁が周囲を固めます。

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虎口周辺の土塁には石列も見受けられました。

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北の丸から、先ほどの馬出を見下ろす・・・写真だと分かりづらいですね(^_^;)

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北の丸から南へ向かって進んでいくと、とっても素敵な屈折を伴う通路に当たります。

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ここにもやはり、ポイント解説ww

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その屈折路に、上段から横矢を掛ける空間。

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縄張図で双眼鏡マークが描かれている曲輪(以下、便宜上「双眼鏡曲輪」)手前には堀切が穿たれ、土橋(右奥)も架けられています。

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その土橋
この奥が双眼鏡曲輪になります。

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双眼鏡曲輪から二の丸方向

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二の丸との間の堀切もいい具合です。

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二の丸への虎口
奥には本丸の土塁も見えています。

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二の丸手前の堀切

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二の丸

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二の丸からの眺め
彼方には筑波山も見えていました。

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二の丸から見る本丸虎口
そういえば、北の丸→双眼鏡曲輪→二の丸→本丸と続くルートには不思議なことに、各曲輪の中央を真っ直ぐ結んだ直線状に虎口が配置されていました。

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本丸

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本丸南端に建つお社。
これは櫓台の跡でしょう。

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本丸南端から堀越しに、縄張図で本丸との間に描かれている小曲輪。

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思い思いに散らばる参加者たち…(^_^;)
右奥の方はいったいどちらへ・・・?(笑)

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その小曲輪から東の腰曲輪へと下りる虎口には、ルートに沿って蔀状?の土塁らしき痕跡も。

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縄張図曲輪を見下ろす。

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南の丸や曲輪へのルートも、いい具合に屈曲させています。
(縄張図部分)

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南の丸への虎口

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虎口の奥、すぐ脇には横堀も。

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南の丸

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南の丸の更に先、薮を掻き分けてやっとこさ辿り着いた城域最南端の横堀

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城跡の東側にも、複雑に屈曲する通路と二段に構えられた堡塁状の曲輪が…。
上の段(左)には井戸も掘られていました。(縄張図

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通路には石列が。
左の石、不思議な穴が空いていますね・・・割れなかった“残念矢穴”かな?

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井戸はすっかり埋まっていました。

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井戸がある曲輪の土塁…往時は石が積まれていたのかもしれません。

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一連の遺構を少し下った先から振り返る。
いかに複雑な意匠を凝らしていたかが、よく分かります。

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東の丸への馬出状の虎口

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東の丸内側からの、その虎口…こうして見ると確かに馬出っぽい。

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東の丸
さて名残惜しいですが、一通りは観て回れたので次のお城へ移動します。

ところでこの西方城、歴史的には宇都宮氏と皆川氏間の勢力圏争いの舞台となり、最終的には宇都宮氏が押さえて、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の後に廃城を迎えたようですが、城郭研究家の間ではその技巧的で複雑、且つ規模の大きな遺構から後北条の手が入っているのではないか、とも考えられているそうです。
そう言われてみれば、杉山城や滝山城などにも通じるものを感じました。

一時期、西方城を手中に収めていた皆川氏は宇都宮氏への対抗上、北条方に与してもいましたので、或いはこうした時期に北条の築城集団を迎え入れて城の防備を強化した、なんてこともあったのかもしれませんね…根拠のない推測ですが。

西方城・・・その遺構には驚きの連続で、感動すら覚えます。とてもいい城跡でした。

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