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2016年3月20日 (日)

万願寺の渡し

江戸時代初期、徳川家康の命によって整備された五街道。その一つである甲州道中は当初、府中から多摩川の段丘下を通って西へ進み、万願寺の渡しで多摩川を越えていました。
しかし、度重なる洪水の被害を受けたことから段丘上を通るルートに変更され(このため谷保天満宮では、街道からの入口である鳥居よりも本殿が下に位置する逆転現象が発生)、貞享元年(1684)に新たな街道筋が正式に定められると、多摩川の渡し場も現在の立日橋付近=日野の渡しに改められました。

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図の緑点線が万願寺の渡しを越える江戸初期の甲州道中赤点線が貞享元年(1684)に定められた改変後の甲州道中筋です。

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万願寺の渡し跡(日野市石田442付近)
土方歳三の生家からも近く、対岸の段丘上には歳三の手習いの師でもあった本田覚庵の住む谷保村があります。(国立市谷保/中央高速の架橋に隠れている辺り)
甲州道中の正式な渡し場が日野の渡しへ移った後も、万願寺の渡しは周辺住民の生活路として機能し続けたと云いますから、きっと歳三もこの万願寺の渡しで多摩川を越えて、本田家へ通ったことでしょうね。

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万願寺の渡しから日野へと向かう江戸時代初期の甲州道中。

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付近には「万願寺の渡し公園」なるものもありました。
こちらの説明板には;

貞享元年(1684)以前の甲州道中は、日野の渡し(現在の立日橋付近)より下流の万願寺の渡し(中央自動車道付近)で多摩川を渡りました。
当時の渡しは軍事的に大きな役割を持っており、万願寺の渡しも江戸城防備の重責を担っていました。江戸の将棋を指す人々が「王手(大手)は日野の万願寺」と言ったのは、それをよく物語っています。
日野市緑と清流課

※下線・太字は管理人

とありました。
そんな万願寺の渡しも大正15年(1926)、日野橋の開通により300年余りに渡る役目を静かに終えました。

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現在の日野橋を望む。


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※記事中段、谷保天満宮関連で甲州道中に関する記述あり

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