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2016年4月

2016年4月24日 (日)

山名城、根小屋城

2日連続に渡る城攻めでさすがに疲れ果て、オフ会を無事に終えてホッとしたのも束の間…登山装備を解除しようとしていた私に掛けられた、こばたかさんの一言・・・
「まだ外さないでください、終わってないですよ」
・・・・・・ま・さ・か!?

そうだよね、ここまで来てスンナリ帰る訳ないよね…こばたかさんが(^_^;)
という訳で2人で延長戦へ突入(笑)

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延長戦、1城目は山名城へ。
山ノ上碑の臨時駐車場に車を置き、長い石段を上ると・・・

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古墳と、

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山ノ上碑を保護している建屋があります。

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山ノ上碑
その碑文から、天武天皇10年(681)の建碑と考えられています。
・・・さすがに外からでは、碑文は読み取れません。

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山ノ上碑から先は、ご覧のようなよく整備された遊歩道を進み、ものの5分も歩くと・・・

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山名城に到達します。
源義家の孫・新田義重の子・義範がこの城に拠って山名氏を称した頃から、というので相当古い歴史があるようです。

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そのまま進むと根小屋城へと続く山道を逸れると、すぐにハッキリとした堀切がありました。

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竪堀も

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こちらは主郭西側の堀切

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主郭

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主郭に建つ山名城址

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主郭東側の堀

他の部分も見て回りましたが、写真がよろしくないのと、記憶が曖昧なので省略…(;-_-)

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再び山道に戻って1.2~3km先の根小屋城へ向かいます。

根小屋城は永禄年間に武田信玄が上野の監視、及び狼煙城として築かせた城です(関東古戦録、他)。
そして昔から、信玄が上野計略のための軍資金を根小屋城近くの尾根に埋めた、という土地の伝承が残っているのだそうです。
その場所を踏むと、足元は空洞になっているので音が響くことから「鳴るが尾根」と呼ばれているのだとか・・・。以前には、麓の村の子供が戦国期の古銭を拾ったこともあるそうです。

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城域に到達して最初に出迎えてくれる堀切

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その一段上、主郭と帯郭の間を隔てる横堀を進む。

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この横堀には幾筋か、畝のような土盛りがありましたが・・・雑草で分かりづらいですね。

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横堀を時計回りに北側へ進んだ先には、堡塁のような出郭も。
しっかり堀で仕切られています。

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井戸跡

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井戸跡の東側には、主郭北側を守る横堀が続いているのですが、その横堀との間には土橋も。

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そして主郭北側の横堀
この横堀の更に外側にも・・・

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最外郭の横堀が廻らされていました。

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横堀から見上げる主郭切岸

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外側に目を向けると高崎~前橋の街並みが一望の下に…♪
まさに上州の監視には、うってつけの立地ですね。

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主郭東側の堀切。そのまま竪堀が落とされています。

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主郭枡形虎口
なかなか綺麗な枡形です。

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最後に主郭
思っていたよりもしっかりとした遺構が残っていて楽しめました、根小屋城。

さ、今度こそここ強調)、この日の城攻めも終了です(笑)
想定外に暑くなり、本当に持てる体力を使い切って疲れましたが、楽しかった。

一日ご一緒させていただいた皆さん、そして自宅まで送迎してくれたこばたかさん、本当にありがとうございました。

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松井田城、名山城、人見城、磯部城

4月17日(日)、前日の静岡オフに引き続き、この日は群馬の城攻めオフに参加いたしました。
前日は運転手も務めましたが、今回は自宅までこばたかさんが送迎してくれるというVIP待遇付き!(笑)楽チ~ン♪

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まず1城目は、碓氷峠からの東山道(中山道)を押さえる名城、松井田城から。
メンバーは関西からの城仲間を迎えての総勢6名。松井田城の駐車場で集合し、いざスタート。
※松井田城、及びこの後に訪れる磯部城については2度目の訪城で、コチラの記事でも触れています。

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歩き始めすぐに出迎えてくれる堀切…だいぶ薄くなってはいますが。

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水の手の石積み

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安中郭群下(北)の横堀

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切岸の高さはなかなかのものです。

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この横堀、西へ向かって進むと、途中で直角にクランクしながら竪堀に繋がります。

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その竪堀を上った先が安中郭群になります。

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安中二の郭から、同本郭との間の堀切
この辺りが安中氏によって築かれた当初の城域と考えられています。その後、北条家の手が入り(城将・大道寺政繁)、現在に残る規模に拡張されていきました。

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安中本郭への虎口

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安中本郭に建つ大道寺駿河守政繁居城記念

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記念碑の奥は櫓台になっています。
その先は、先ほどの堀切。

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枡形の案内板が立つ地点。
藪で分かりづらいのですが、奥の方で土塁が右に折れて、確かに枡形のようになっています。

この後は本丸を経由したのですが、写真を失敗したため省略…(;-_-)

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本丸西側の堀切
この堀切を越えて二の丸方面へ向かいます。

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堀切を越えると「馬出し」が。
馬出し、ねぇ・・・土塁が廻らされていますが、この位置で馬出しというのなら、本丸よりむしろ二の丸の方に防御の重点を置いていたことにならないかい?

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二の丸
二の丸奥(西)の切岸下には見所の一つ、畝状岨塁(連続空堀)があり、2年前に訪れた際には積雪に阻まれて下りられなかったので、急斜面を一気に下り、勇んで向かいましたが・・・

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藪で全然分からん…(T_T)

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奥の方に多少状態のいい、規模も大きな土塁もありましたが・・・

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唯一、畝っているのが目視確認できたアングルも、写真では・・・(>_<)
ま、山城あるあるですね(笑)

広めの尾根を切り刻むかのように築かれた畝状岨塁。
敵に城を攻められた際、その寄せ手の兵の展開を防ぐためのものではないかとも考えられています。

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畝状岨塁の先、城域最西端の堀切

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南側に向かって竪堀として落とされています。

ここからは北側を回って大手方面へと向かいます。

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二の丸北側の二重堀切…の1本目

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2本目

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その真ん中にそそり立つ土塁上から
写真ではなかなか難しいですが、かなり明瞭な遺構で興奮を覚えました。

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大手門跡の石垣

最後に大手門から北へ伸びる尾根を進み、畝状竪堀へ向かいます。

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見えてきましたね・・・

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畝状竪堀
現地では感嘆の声が漏れるくらいに綺麗に見えたのですが・・・

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写真だと、あの興奮と感動が全然伝わりませんね・・・腕が悪いのか。
これはもう、是非現地でご確認ください。凄いです!!

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畝状竪堀、下から。

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そして直登(笑)

さて、これにて松井田城攻めは終了。
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この後は旧中山道を経由して・・・

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名山城

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林道脇に駐車して、早速攻め上がりますが・・・とにかく藪が凄い!!

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辛うじて城域まで登ると、堀切が2~3本あり、

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主郭は土塁で囲まれていましたが・・・殆どド薮漕ぎの印象しか残っていません(笑)

さ、次へ移動。
この日3城目は、人見城です。

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いきなり東側の見事な空堀が出迎えてくれます。
この空堀の先には・・・

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水の手があります。今でも少しずつ水が湧いているみたい。

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それにしてもいい堀だ。

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一番東側の郭
一段高くなっている部分は・・・

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馬出し、との案内板がありましたが・・・写真手前以外の三方を土塁でしっかり囲まれており、「馬(兵)、出せねえよ!」とのツッコミが…(笑)
ま、すぐ左脇を通る竪堀からのルートを押さえる張り出しのようなものでしょうね。

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人見城は柳瀬川の段丘上に築かれた丘城で、方形の郭が東西方向に規則正しく並べられ、その間を空堀が縦横に廻っています。
(近くには鎌倉街道も通っていたようです)

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縦横の空堀が、それぞれ少しずつ食い違いながら交差するポイント。

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郭は激しい藪でどうにもなりませんが、空堀を歩いているだけでも楽しめる城跡でした。


群馬オフ会、ラストは磯部城へ。
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車を停めた搦手側を流れる用水路。これも堀の名残…か?

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北側の遊歩道から登ると城山公園の広い平坦地に出て、その先に横堀があります。

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少し上段に並行してもう1本。
実は左手の藪の中にも1本通っていて、先ほどの写真のものと合わせて三重になっています。
まずはこの横堀を、時計回りにグルッと回ります。

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横堀のコーナーって・・・格好いいですよね?

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二の丸物見平下から三の丸下にかけての東側を、南に向かって進みます。

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ここもいい!

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なんか堀底の角ばかり撮ってる…(^_^;)

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横堀を時計回りに半周もすると、大手(追手)筋に出ます。

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三の丸への虎口

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そして…今回も「双馬出し」の案内表示が謎だった郭…って何だ??

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二の丸虎口

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二の丸から本丸土塁(土居)
どうせならこの藪も刈ってくれたらいいのに・・・。

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本丸搦手道

前回訪れた時は積雪で横堀を歩けなかったし、新たな見所も知って楽しめました。

さて、これにて群馬の城攻めオフも終了です。
2日連続の城攻め、しかもこの日は規模の大きな松井田城を含む4城…さすがに疲れました。
無事に城攻めを終えて磯部城の駐車場で解散し、あとは我々もこばたかさんの運転で帰るだけとホッとしていたら・・・甘く見てたよね、こばたかさんを…(・・;)

という訳で・・・つづく(笑)

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遠江射場、小山城

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高天神城(前記事)の後は、遠江射場に立ち寄り。
昭和15年頃に建設された陸軍の大砲実験場で、六角形のコンクリートが砲座です。

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砲座は3基ほどが一列に並んでいました。
ここで大砲の性能や、火薬量の調整などの実験が行われていたそうです。

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砲座越しに、試験発射された方角を見る。

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この建物や・・・

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こちらのトンネルなども、遠江射場の遺跡なのでしょう。

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トンネルを抜けた先には、駿河湾が広がります。


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この日ラストは、吉田町の小山城へ。
武田家が遠江進出の拠点として築いた城です。

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小山城ジオラマ
今でこそ川幅も狭まって分かりませんが、往時は大井川に囲まれた台地の先端上に築かれていたのですね。
この台地を西北へ進むと諏訪原城もあります。

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小山城の台地には、麓の能満寺境内を経由して登ります。(上ジオラマ写真A

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国指定天然記念物、能満寺のソテツ(蘇鉄)
寺伝によると長徳元年(995)、安倍晴明が大陸から持ち帰って植えたものとか…!?
また、徳川家康の所望により駿府城へ移植したところ、夜な夜な能満寺に帰りたいと泣いたため戻された、との伝説もあるらしいのですが、この伝説・・・
織田信長が安土に持ち帰ったところ、やはり夜な夜な堺に帰りたいと泣いたと云う妙国寺の大蘇鉄の伝承とソックリですね…(^_^;)
参照記事

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台地に上がると早速、本丸と二の丸の間を通る横堀がお出迎え。

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横堀の先には丸馬出しと三日月堀

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天守型展望塔から見下ろす丸馬出し

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小山城最大の見所はやはり、三重の三日月堀なのですが・・・藪で分かりづらいですね…(^_^;)
三重に掘り込んだ、というよりはむしろ、大きな堀の中に通路のような仕切りを2本残した、といった感じの形状でした。

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こうして見ると堀が平行に連なっているのが分かるかな?

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うん…なんとか分かる(笑)

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三重堀の脇にあった勘助井戸…武田家に縁だからって、なんでもかんでも「勘助○○」「信玄○○」と付ければいいってもんじゃあ・・・(以下自粛)

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大手門跡付近…なんとなく枡形の名残にも見えます。

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三重堀脇の土橋

小山城、小さなお城ですが立地や地形、独特な遺構がなかなか見応えありました。

さて、日帰りの静岡城攻めオフはこれにて終了。
ご一緒頂いた皆さん、ありがとうございました。

私は帰宅後、この翌日には群馬の城攻めオフに参加したのでした…(^_^;)

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高天神城

4月16日(土)は、静岡の城攻めオフ会。

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という訳で、まずは高天神城から。

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高天神城略図
個人的にはちょうど10年ぶりの再訪になりますが、あの時は城攻めのイロハも分かっていなかった時期。改めて新鮮な気分でじっくりと攻めます。

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城跡北側の駐車場で集合し、搦手からいざ!
いきなり凄い切通し。

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三日月井戸
今も地層の分かれ目から水が滲み出ているようでした。

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鐘曲輪から的場曲輪への虎口

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的場曲輪
切岸の上段が本丸になります。

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大河内政局石窟

高天神を制するものは遠州を制す
と云われるように、高天神城は遠江の要衝でした。そのため、戦国末期には武田vs徳川の争奪の地となっています。
天正2年5月、それまで徳川方だった高天神城は武田勝頼の軍勢に攻められて開城します。この時、徳川方の軍監・大河内政局は捕らわれ、この石窟に幽閉されました。
その後、彼の幽閉はなんと、家康が再び高天神城を奪還する天正9年までの7年間にも及びました。
※案内板では「足掛八ヶ年」とありましたが、計算する限り7年の誤りでしょう。
※この一段下からも石窟のような遺構が見つかっており、本当はそちらが政局の幽閉場所ではないか、との説もあるようです。確かに写真の石窟は本丸直下で、幽閉場所としては位置的にもちょっと違和感が・・・。或いは食糧庫か何かだったのかも?
※10年前は崩落しておらず、中はちゃんと空洞になっていました。

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本丸
虎口を受ける土塁がいい感じで残っています。

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本丸の南に位置する御前曲輪
ここには模擬櫓(天守?)が建てられていたようですが、戦時下、空襲の標的になるのを恐れて取り壊されたのだそうです。
しかし、実際に戦国期に櫓が建っていたとしたら・・・

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本丸と御前曲輪の中間に位置するこちらでしょう。現在は元天神社となっていますが、明らかに櫓台跡の形状を残しています。

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御前曲輪から東の眺め
天正8~9年にかけて展開された徳川家康による高天神城包囲戦の折には、左右に伸びる稜線や、手前の茂みなどにも徳川軍が布陣していたと云います。家康本隊が布陣した小笠山砦も、正面に見える稜線を左へ行った先にあります。
※この時、包囲する徳川軍に従軍していた水野忠重に送られた織田信長の朱印状も有名ですね。
参照記事

そして当時はすぐ近くまで海が迫っていて、高天神城は海上交通を押さえるための城でもあったようです。

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続いて三の丸方面へ向かいます。
御前曲輪の切岸を振り返る・・・圧倒的な高低差です。

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三の丸土塁
三の丸には大手筋に向かって幾段かに築かれた腰曲輪への虎口(写真)と・・・

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城道に繋がる虎口が切られています。

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虎口を出た先。この細い筋は、実際に城道として使われていた道の遺構と思われます。

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この城道、少し進むと大手筋と交差し、、、

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本丸下を通って鐘曲輪まで繋がっています。きっと大手筋から三の丸へ入るためのルートだったのでしょう。
我々はここで一旦、大手筋を下ります。

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大手口を見張る着到櫓跡
薮がきつかったですが、土塁がしっかりと残っていました。

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大手門の礎石と思われる石

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続いて西側の曲輪群へ
写真は井戸曲輪。中央にかな井戸が見えています。
奥の石段を登った先は高天神社の建つ西の丸ですが、まずは二の丸へ向かいます。

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二の丸

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二の丸の北側へ進むと、堂尾曲輪との間を断ち切る見事な堀切がありました。

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堀切から二の丸方向を振り返ると・・・完全に枡形ですね。

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堀切

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この堀底の脇には天正2年5月の攻防戦の際、武田方の狙撃を受けて戦死した二の丸主将・本間八郎三郎氏清と、その弟の丸尾修理亮義清の墓碑があります。
1737年に子孫によって建てられました。

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天正二年戦死者之碑

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先ほどの堀切を渡って、堂尾曲輪から二の丸方向を見る。
ザックリ感が堪りません。

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堂尾曲輪の北側にも見事な堀切があります。

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その先、西側曲輪群最北端の曲輪
ここから西側へ切岸を下ると・・・

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綺麗な横堀が、曲輪群に沿って南北に走っています。
横堀の角部分の外側には・・・

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もう1本小さな堀切が切られ、その先に堡塁のようなコンパクトな削平地がありました。

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それにしても素敵な横堀・・・。
この横堀が象徴するように、高天神城は本丸に対して西側を警戒した作りになっています。実際、本間八郎三郎らが戦死しているように西側での戦闘が激しくなってもいます。

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横堀から城域外側へ目を向けると、その天正2年5月の攻防戦で武田軍の一隊が布陣したと伝わる山も樹間に覗いていました。

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横堀はそのまま、本間・丸尾兄弟の墓碑がある位置まで続いていました。

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西の丸、高天神社

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社の周囲には土塁が残っています…社造営のために削られていますけど。

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高天神社から馬場平を抜けた先、甚五郎抜け道
天正9年3月の落城の日、籠城する武田家(この時は徳川方が攻め手)の軍監・横田甚五郎尹松が城を脱して通ったと伝わる尾根道です。

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ご覧のように左右は切り立った絶壁。別名「犬戻り猿戻り」と呼ぶのも肯ける難所です。

甚五郎抜け道を伝って、先ほどご紹介した天正2年時に於ける武田軍布陣の山へのアプローチを試みたのですが、思いの外の難所につき断念しました。

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最後は高天神社から南東の尾根へ。
見事な堀切が出迎えてくれました。

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更にもう1本。

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2本目の堀切から東へ回り込んだ先には、竪土塁の残る細い曲輪跡も。(前出略図A
大手筋から谷戸を挟んで西の対面に当たります。

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やはり大手側を見張るための場所だったのでしょう。

満喫しました、高天神城!
次は徳川軍の包囲陣もめぐってみたいですね。

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2016年4月10日 (日)

松姫坐像と案下道(心源院~切通し)

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八王子城跡の北麓、下恩方の心源院に到着。
以前コチラの記事でもご紹介しましたが、心源院は八王子へ逃れてきた武田信玄の息女・松姫が帰依し、仏門に入って信松尼と号したお寺です。
本年(2016)は、松姫が元和2年(1616)4月16日に没してから400年の節目の年に当たります。これに伴い4月10日~命日である4月16日まで、彼女が眠る信松院の主催で「松姫さま四百年祭」が行われています。

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その一環として4月10日より1週間、江戸時代に作られた木造の松姫坐像が初めて信松院を出て心源院へ遷座し、特別に公開されているのです。

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松姫坐像
※撮影許可をいただいております。

松姫の坐像は4月16日に心源院を出発し、大久保長安の陣屋跡である産千代稲荷神社にも立ち寄り、輿に乗って行列を組みながら信松院へ戻っていくのだそうです。
残念ながら私は、本祭の4月16日は別件の予定があって観ること叶いませんが、折角の機会ですので、ご興味お持ちの方は是非足を運んでみてはいかがでしょうか。

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心源院総門(四脚門)
室町期の創建とも伝わり、松姫も実際に潜っていたのかもしれません。
4月9日に初めて信松院を出た松姫坐像も、輿に乗ってこちらの総門を潜り、心源院に入っています。

さて、先日には松姫も歩いたであろう、心源院から信松院へと向かう案下道の古道を辿りましたので、これを機に少しご紹介します。
(松姫一行が甲武境の峠を越えて最初に落ち着いた金照庵~心源院までは、やはりコチラを参照願います)
現在は陣馬街道と呼ばれる都道521号線が通っていますが、それと並行、或いは交錯しながら部分的に松姫が生きた時代の古道が残っているのです。

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心源院門前を横切るのは「おだわら道」
すぐ近くには八王子城や小田野城、浄福寺城などがあり、北条の軍道として使われていたようです。


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心源院門前から正面方向へ真っ直ぐ、都道61号線も越えて北東へ進んだ地点。
ご覧の通り右→左とクランクした先に・・・

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案下道(手前)と鎌倉古道(右)の合流点があります。

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 鎌倉古道
 裏甲州路
(案下道)
江戸期には、案下道が甲州道中の裏街道だったことが偲ばれます。

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折角なので少し鎌倉古道へ入ってみます。

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なかなか趣のある道・・・。

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道端には馬頭観音や庚申塔などが並んでいました。

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鎌倉古道から北の方角を振り返ると、浄福寺城の山容が見渡せます。

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そして鎌倉古道はすぐに小田野城跡に行き当たりました。
小田野城は鎌倉古道を城内に取り込んだお城だったようです。

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さて、再び合流点まで引き返し、鎌倉古道と合流した案下道を進みます
この左手の敷地はとある資料に「武田家臣邸」と紹介されていました。

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付近にはやはり、板碑やら歌碑などが建っています。
そして・・・

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想像以上に立派なお屋敷だった「武田家臣邸」
邸内には市指定天然記念物のキンモクセイ(推定樹齢290年ほど)があり、江戸時代後期の仏教彫刻家・木食白道上人が逗留したこともあるようです。

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しかし、北条領だった八王子に武田家臣とは不思議な感じもしますが・・・武田旧臣を主に編成された八王子千人同心に関係があるのでしょうか。
すぐ近くの陣馬街道沿いには、やはり実家が八王子千人同心だった新選組隊士・中島登の生家跡もありますし・・・。

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陣馬街道沿いに建つ新撰組隊士中島登出生之地

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さて、武田家臣邸の辺りで古道の痕跡は一旦途絶えますので、陣馬街道に出て東へ250mほど進み、予め地図で目星をつけていた角を右折してみると・・・

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お地蔵さんが・・・当たりだったようです(^-^)
(AOSYNのある角です)

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坂道を登り、ちょっとした峠のような場所に出ると・・・

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大きな榎の古木がそびえ立ち、その足元には庚申塔などが並んでいました。

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旧案下路

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中村雨紅 夕焼小やけ 作詞のみち
雨紅は案下道をここよりずっと西へ行った先にある、宮尾神社の宮司の家に生まれています。

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庚申塔
こちらのように青面金剛像が彫られている庚申塔は、江戸中期以前に多く見られるのだそうです。
足元には三猿も。

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榎の古木もなかなか立派なものでした。樹齢はいかばかりか。

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小さな峠を越え、案下道はここから少し下りに差し掛かります。

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おや、脇の小路にはお地蔵さんたちが・・・こちらのルートも気になりますが、今回はスルーで。

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八王子城から細長く伸びる尾根の脇を進みます。

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周囲はとっても長閑な光景です。

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またまたお地蔵さんに遭遇しました。

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しばらく行くと、菅原社の鳥居が目に入ってきます。

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菅原社の建つ丘陵を見上げると、凄い切岸になっていました。

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気になるのでお参りしてみることに・・・

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菅原社
街道を見張るには絶好の立地にも思え、いざ有事の際には砦になった・・・かも?

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引き続き案下道へ
両サイドのお宅の建つ地表面の高さからして、この辺りも往時は堀底道になっていたことでしょう。

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やがて案下道は、未舗装の遊歩道に差し掛かりました。

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脇には小さな祠も

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左下には現在の陣馬街道が見えます。
案下古道が往時は、現在の街道よりも少し高い位置を通っていたことが分かります。

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お・・・いよいよかな?

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北浅川に向かって突き出た尾根を分断し、案下道を通した切通し

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こうして見ると、尾根が先端付近で分断(写真左)されていることがお分かり頂けるかと思います。
現在の陣馬街道は尾根先端を迂回しています(同右)が、これは自動車道のための開削によるものです。

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目の前にあるバス停も「切通し」

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尾根先端部分には日枝神社が建っています。

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日枝神社

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日枝神社から見下ろす切通し・・・藪で分かりづらいですが、まるで大きな堀切のようです。
実際、八王子城から北浅川へ向かって細長く伸びる尾根の先端、案下道を押さえる立地から、北浅川を八王子城の惣濠に見立てて、この辺りに城下町を守る出城があった、とする説を唱える研究者の方もいらっしゃるようです。
実のところ遺構は曖昧で真偽は定かではありませんが、この付近では北条氏照と対立した三田氏の青梅方面へ伸びる中世古道が交錯していたことも確認されており、交通の面に於いても要地であったことは確かなようです。

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北浅川の流れから案下峠方面を望む。
いずれ近いうちに、上案下から案下峠を越えてみたいと思います。

切通しを過ぎた案下道はこの先、信松院(御所水の里)のある八王子方面へと続き、「追分町」交差点で甲州道中と合流します。

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信松院

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門前には旅姿の松姫像も

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武田信玄公息女松姫君御手植ノ松
松姫は心源院から持ってきた松の鉢を、自らこの地に植えたのだそうです。
残念ながらその松は、昭和20年の八王子空襲で枯れてしまっています。

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松姫(信松尼)墓所
武田旧臣の代官・大久保長安や、八王子千人同心らとも交流を重ねながら過ごしたであろう八王子での生活は、きっと心穏やかなものだったのだろうと思っています。

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2016年4月 6日 (水)

平町東照宮参拝 ―歴史の道ウォーク―

平成28年4月3日、日野新選組ガイドの会主催の歴史の道ウォークに参加してきました。
慶応元年(1865)4月17日、徳川家康の命日にあたるこの日、佐藤彦五郎は江戸に戻っていた土方歳三らを伴って平町の東照宮を参拝しています。

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今回参加させていただいたウォーキング・イベントは、日野宿本陣を出発し、彦五郎・歳三らが151年前に辿った平村(現平町)までの東光寺道の道程を同じように歩き、彼らと同様、特別に東照宮を参拝させていただくというもの。
同時に、東光寺道に沿って流れる日野用水の歴史も学びます。

※なお、この道程は以前、個人的にも歩いて記事にまとめています。
佐藤彦五郎の逃避行 (東光寺道と日野用水、他)
重複する部分は多いものの、今回は訪れていない場所、新たに得た知見などもありますので、合わせてお読みいただければ幸いです。

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朝9:30、日野宿本陣に集合。
受付を済ませた後、出発前に本陣内をご案内いただきました。

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本陣出発後、まずは甲州道中を西へ進みます。
「日野市役所入口」交差点にはその昔、日野用水が甲州道中を横切るように流れていました(現在は暗渠)ので、街道には金子橋という橋が架けられていました。
交差点付近にはそれを示すように、橋の欄干を模した石碑が建っています。

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JR中央線の高架を支える日野煉瓦と、日野用水上堰。
日野煉瓦工場は明治20年、多摩川鉄橋建設に伴って設立され、翌21年1月には本格的に操業を開始しています。
しかし同23年8月、創業者の急死によって惜しくも廃業となりました。
実働僅か2年半の間に約50万個もの煉瓦を製造したと云い、主な売込先が甲武鉄道だったためか、今も中央線沿線の高架や鉄橋には多くの煉瓦が現役で使われています。

この上堰の辺りで甲州道中を離れ、日野用水に沿って東光寺道を北西方向に進みます。
ちなみに日野用水は永禄10年(1567)に、滝山城主・北条氏照の支援を受けた上佐藤家の祖・佐藤隼人によって開削されています。実に450年もの歴史があるのです。

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よそう森公園
昭和40年代まで、この辺り一帯には一面の田園が広がっており、ご覧のような塚に上ると周囲がよく見渡せたそうです。

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その塚の上から
こうして塚に上がり、周囲を見渡して毎年の収穫量を予想したことから、「よそう森」・・・なるほど。
しかしそれなら、「よそう盛り」の方が意味としてはピンと来るんだけど…(^_^;)

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東光寺小学校の桜も満開♪
ちなみに、日野に土着した武蔵七党の一つ、西党の祖である日奉(ひまつり)氏が創建したと云う東光寺は、日奉氏の没落と共に衰退して、中世以降には既に存在しておらず、現在は地名だけが残ります。
東光寺小学校から少し北へ行った都道169号線沿いには、天正16年に再興された成就院というお寺がありますが、そちらは元々は東光寺の子院だったものと伝わります。

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東光寺小学校の裏手には日野台地の崖線(東光寺崖線とも)が迫ります。
東光寺は日奉氏が自らの居館の鬼門除けに創建したと伝わりますので、この台地上のいずれかに、その居館があったのではないかと考えられているそうです。

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崖線の麓には、カタクリの群生地もあります。

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水車堀公園
佐藤彦五郎日記には古谷平右衛門という人物による代官・江川太郎左衛門宛、水車新設の嘆願書(慶応三卯年十一月七日付)が書き留められています。
昭和25年頃まで、日野用水には数多くの水車が残っていたのだそうです。

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「栄町五丁目」交差点。東光寺道はここで、都道169号線と合流します。
写真正面の大きな杉が生えている辺りは、成就院に移築された東光寺薬師堂(日奉氏創建、天正8年再建)が昭和46年まで建っていた跡地です。
今でこそ暗渠になって見えませんが、この交差点で日野用水は上堰用水と下堰用水とに分岐しており、この地には東光寺道が日野用水を渡るために架けられた東光寺大橋がありました。
(20年ほど前までは、交差点の中央付近が一部開いていて用水が顔を覗かせていましたが、それも今は昔・・・)

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交差点脇に建つ東光寺大橋の碑(右)

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しばらく進み…谷地川を越える日野用水

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ちゃんと水も流れています。

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谷地川を越えた日野用水、並びに東光寺道は都道169号線を離れ、南側へ迂回するかのようにグイッと曲げられています。
この不自然なコース取りの理由がなかなか掴めないのですが・・・今のところは、写真の窪地を避けるためではないか…としておきます。

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南へ迂回した日野用水
流れを制御するための仕組みでしょうね。

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迂回した東光寺道が最も南に達する付近には…お茶屋の松
佐藤家の古い記録にも、この場所に「茶屋を作った」と残っているのだそうです。ちょうど八王子と日野の境でもあります。
昭和40年代までは松の古木が残っていましたが、現在のものは3代目。

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日野用水改修記念碑
東光寺道はここで一旦、都道169号線に戻ります。

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石川堰
この堰で余った水を多摩川へ流し、用水の水量を調節しています。

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再び都道を離れ、旧道をゆく東光寺道と日野用水

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八王子水再生センターの屋上を開放した八石下広場より、南の方角。
※近くに八王子千人同心の関根家があり、その屋号が「八石」(家禄に由来か?)だったことから「八石下広場」

この付近一帯が粟の須(村)と呼ばれていた地で、写真中央、左右に伸びる加住丘陵の中腹に、名主を務める井上忠左衛門邸がありました。
※この井上忠左衛門という人物、後ほどまた登場してきますので覚えておいてください。

そして東光寺道は写真のすぐ足もとを通っているのですが・・・

東光寺道より粟の須を走り、小宮村北平の大蔵院へ逃竄した。
(聞きがき新選組)

慶応4年3月、八王子まで進軍してきた新政府軍に追われる佐藤彦五郎は家族を伴い、東光寺道を平の大蔵院まで逃れます。
上の引用は彦五郎のご子孫が著した「聞きがき新選組」に見えるこの時の状況を現した一節ですが、まさに彼らが走って逃げた東光寺道が粟の須を通っていた様子が、地形からもよく見て取れる光景です。

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同じく八石下広場から、多摩大橋方面。
この多摩大橋付近では慶応2年(1866)6月に武州世直し一揆勢と、それを迎え撃つ彦五郎率いる日野農兵隊とによる戦闘が繰り広げられています。
(詳細はコチラ

さて、我々はここで東光寺道を離れ、八石下広場から先は多摩川の土手沿いを歩くことにしました。

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八高線の線路を潜り・・・

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しばらく進むと西の方角に、いよいよ平町が見えてきます。

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平町に設置されている日野用水の取水口
そう、日野用水は平町で多摩川の水を取り入れられているのです。

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まさにここが、日野用水の始点。
平の辺りでは「北平用水」とも呼ぶのだそうです。

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そして、平の渡し跡。
天正18年(1590)、関東へ移封された徳川家康は新領内を巡見し、八王子城などの視察を終えて川越へ向かう際、平の渡しに差し掛かります。
この時、家康の多摩川越えを助け、川越までお供した名主・平家の先祖は、家康から褒美として黄金の洪武通宝と扇を下賜されます。
その後、家康の七回忌に東照宮を祀り、下賜された洪武通宝を御神体としたのが、平町東照宮の始まりです。
(元々は村の鎮守でもある西玉神社に日光大権現を勧請して祀っていましたが、御神体の紛失を恐れ、寛政8年に平家の敷地内に本社が建立されました)

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平の渡しに繋がるこの一本道こそ、往時の川越街道ということにもなるのでしょう。

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渡し場付近には、寿司屋や団子屋を連想させる屋号を持つお宅があるそうです。
なんとなく、街道の渡し場で賑やかに商売を営んでいた光景が目に浮かんできそうな平場も・・・

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渡し場への道(左/川越街道?)と、東光寺道らしき小路の追分。
彦五郎や歳三も、この右手の小路から平村へとやってきたのでしょうか。

(慶応元年四月)十七日、天気、
上平村東照神君様御宮拝例ニ、彦五郎・歳三、其外之もの相越し候処、(中略)帰宅掛ヶ粟須村忠左衛門方え立寄、稽古いたし候、
(佐藤彦五郎日記)

―この名主平喜一家の表庭には荘厳なる社殿がある。金銭権現と云うを祭る。往昔戦乱中、家康公が、ここの下の多摩川を渡る時、折柄川漁に出ていた当家の祖先が、公を背負って川瀬を渡り越した。
それで公より黄金の宝貨を下賜され、御神体として社祠に祭って子孫に伝えたものである―
(聞きがき新選組)

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御神体が洪武通宝だから、金銭権現なのですね。
151年前の旧暦4月17日、家康の命日に彦五郎・歳三が連れだってお参りした平村東照宮に、いよいよ我々も参拝させていただきます!
※あくまでもツアー限定の公開であり、個人宅の敷地内で普段は公開されていませんので、ご注意ください。

お庭の片隅に建つ現在の祠はこれといった装飾もなく、こじんまりとコンパクトなものでした。
しかし、地表面に残る段差や石垣、石段などの痕跡が、ガイドさんに見せていただいた平家に伝来する文久3年に再建された社殿の絵図(つまり歳三らが参拝した当時のもの。彦五郎も再建の世話人になっている)と、配置や形状が見事に一致しました。
東照神君様御宮拝例の際、彦五郎や歳三がどこに立ちどちらを向いていたのかまでハッキリと分かるくらいに・・・。
また、2基の石灯籠は現在は祠に合わせて場所を変えていますが、横山宿、及び八日市宿から寄進されたものが現存していました。
貴重な体験をさせていただき、感謝に堪えません。

※以前はこうしたガイドツアーで御神体の洪武通宝を見せていただけることもあったようですが、禁じられているにも関わらず、ネットに写真を上げる不心得者がいたために、防犯などの観点から教育委員会の指導も入って公開されることはなくなりました。
残念なことですが、ルールとマナーを守れない人間がいる以上は致し方のないことです。これからも大切に守り伝えていっていただきたいと思います。

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さて、こちらは大蔵院(比盧宝山福生寺)
先に引用しましたが慶応4年3月、新政府軍に追われる彦五郎一家が最初に逃げ込んだお寺です。
大蔵院を当座の潜伏先として彦五郎に世話したのも平氏です。

名主の平氏は元々、上野國田部井氏の出で甲斐國へ流れて小野氏を称し、後に平村で名主を務めるようになって平姓となったそうです。
その先祖の一人・小野大蔵(喜道)は天正18年6月、豊臣秀吉による北条征伐の際には八王子城で戦い、城と運命を共にしています。
大蔵院は彼の三男が、父・大蔵の菩提を弔うために元和7年(1621)に創建されたと伝わっています。

ひとまず大蔵院に落ち着いた彦五郎一家・・・
薄暗き座中に尼僧の接待、渋茶を啜ってホッとひと息した時に、粟の須井上忠左衛門方から、ここへ官軍が来そうであると急報して来た。ソレッと再び草鞋をはき、寺院の裏庭続きに雑木山を攀じ登り峰伝いに西へ西へと走った
(聞きがき新選組)

上写真奥、彦五郎らが井上忠左衛門からの急報を受けて飛び出し、慌てて攀じ登った寺院の裏庭続き雑木山は現在、墓地になって雰囲気は変わっていますが、それでも地形はしっかりと残っています。
この時、新政府軍が寺を取り囲む様子を村の遠方より見ていた者の話では、裏山を這い上がる3~4人の白足袋がチラチラ見えていたと云います・・・まさに間一髪、といったところだったのですね。
※大蔵院を出た後の彦五郎らの足取りについては、やはりコチラの記事後半を参照ください。

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平町大蔵院のイチョウ(市指定天然記念物)
文政6年(1823)に書かれた「武蔵名勝図会」にも載っている古木で、樹齢は500年ほどと推定されています。
このイチョウもまた、彦五郎・歳三の東照宮参拝や、新政府軍に追われる彦五郎一家の歴史を見てきた証言者なのですね。。。

この後は平家歴代の墓所にもお参りさせていただきました。
墓誌には八王子城で戦死した小野大蔵(但し何故か、没年月日は八王子落城の10日前になっていましたが)は勿論、家康から洪武通宝の下賜を受けたと思われる人物、彦五郎・歳三の東照宮参拝当時の御当主と思われる人物、先に引用した「聞きがき新選組」に出てくる喜一氏(但し墓誌では「一喜」)などの法名がズラリと並んでいました。

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彦五郎たちも攀じ登った大蔵院の裏山から、平村の眺め。

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裏山中腹に鎮座する平村の鎮守・西玉神社。
日光大権現を勧請して家康を合祀していますので・・・

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社殿には三葉葵の紋が使われています。

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大蔵院の裏山、加住丘陵に部分的に残る尾根道。
彦五郎一家も或いはこの道を、峰伝いに西へ西へと走ったのかもしれないなぁ・・・などと想像を膨らませています。

さて、歴史の道ウォークはこれにて終了。
この後は解散してバスで日野駅へ戻り、私は一緒に参加したサイガさんと軽く打ち上げの乾杯をしました。

ところで、先ほどからチラホラと名前が出てくる粟の須村の井上忠左衛門…彦五郎・歳三が東照宮参拝の帰路に立ち寄って稽古をつけた家の主で、大蔵院に潜伏する彦五郎に「新政府軍迫る」の急報を届けた人物ですが・・・

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そんな井上忠左衛門の邸地もまた、現在に至りご子孫が守り継いでいらっしゃいます。
近くの高台の一角には、井上家歴代の墓所もありました。

彦五郎の長男・源之助は慶応4年の新政府軍が迫った折、病で歩けず、大蔵院へ向かった家族とはぐれてしまいます。
そんな彼を釣り籠で自宅まで運ばせて匿ったのもまた、忠左衛門でした。
ちなみに源之助は翌日、新政府軍迫るの報に接し、忠左衛門の息子と共に急ぎ山越しして宇津木村へ行き、とある小さな農家に隠れさせて貰うも発見され、結局は捕らわれてしまいますが、板垣退助によって赦免されています。

そして忠左衛門は、佐藤家の留守居をしていたところを彦五郎の一味と見做されて捕らわれますが、同じく後に釈放されています。

佐藤、平、井上。
小野路には小島家があり、他にも富澤家や谷保の本田家、etc...
こうして見ていくと当時の名主間の繋がりは、我々が想像する以上に深いものがあったことでしょう。

※徳川家康から下賜された洪武通宝や扇、「武蔵国多摩郡平村東照大権現再建図版木」は、八王子市郷土資料館から1997年に発行された「八王子宿周辺の名主たち」に掲載されています。

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