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2016年4月 6日 (水)

平町東照宮参拝 ―歴史の道ウォーク―

平成28年4月3日、日野新選組ガイドの会主催の歴史の道ウォークに参加してきました。
慶応元年(1865)4月17日、徳川家康の命日にあたるこの日、佐藤彦五郎は江戸に戻っていた土方歳三らを伴って平町の東照宮を参拝しています。

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今回参加させていただいたウォーキング・イベントは、日野宿本陣を出発し、彦五郎・歳三らが151年前に辿った平村(現平町)までの東光寺道の道程を同じように歩き、彼らと同様、特別に東照宮を参拝させていただくというもの。
同時に、東光寺道に沿って流れる日野用水の歴史も学びます。

※なお、この道程は以前、個人的にも歩いて記事にまとめています。
佐藤彦五郎の逃避行 (東光寺道と日野用水、他)
重複する部分は多いものの、今回は訪れていない場所、新たに得た知見などもありますので、合わせてお読みいただければ幸いです。

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朝9:30、日野宿本陣に集合。
受付を済ませた後、出発前に本陣内をご案内いただきました。

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本陣出発後、まずは甲州道中を西へ進みます。
「日野市役所入口」交差点にはその昔、日野用水が甲州道中を横切るように流れていました(現在は暗渠)ので、街道には金子橋という橋が架けられていました。
交差点付近にはそれを示すように、橋の欄干を模した石碑が建っています。

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JR中央線の高架を支える日野煉瓦と、日野用水上堰。
日野煉瓦工場は明治20年、多摩川鉄橋建設に伴って設立され、翌21年1月には本格的に操業を開始しています。
しかし同23年8月、創業者の急死によって惜しくも廃業となりました。
実働僅か2年半の間に約50万個もの煉瓦を製造したと云い、主な売込先が甲武鉄道だったためか、今も中央線沿線の高架や鉄橋には多くの煉瓦が現役で使われています。

この上堰の辺りで甲州道中を離れ、日野用水に沿って東光寺道を北西方向に進みます。
ちなみに日野用水は永禄10年(1567)に、滝山城主・北条氏照の支援を受けた上佐藤家の祖・佐藤隼人によって開削されています。実に450年もの歴史があるのです。

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よそう森公園
昭和40年代まで、この辺り一帯には一面の田園が広がっており、ご覧のような塚に上ると周囲がよく見渡せたそうです。

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その塚の上から
こうして塚に上がり、周囲を見渡して毎年の収穫量を予想したことから、「よそう森」・・・なるほど。
しかしそれなら、「よそう盛り」の方が意味としてはピンと来るんだけど…(^_^;)

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東光寺小学校の桜も満開♪
ちなみに、日野に土着した武蔵七党の一つ、西党の祖である日奉(ひまつり)氏が創建したと云う東光寺は、日奉氏の没落と共に衰退して、中世以降には既に存在しておらず、現在は地名だけが残ります。
東光寺小学校から少し北へ行った都道169号線沿いには、天正16年に再興された成就院というお寺がありますが、そちらは元々は東光寺の子院だったものと伝わります。

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東光寺小学校の裏手には日野台地の崖線(東光寺崖線とも)が迫ります。
東光寺は日奉氏が自らの居館の鬼門除けに創建したと伝わりますので、この台地上のいずれかに、その居館があったのではないかと考えられているそうです。

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崖線の麓には、カタクリの群生地もあります。

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水車堀公園
佐藤彦五郎日記には古谷平右衛門という人物による代官・江川太郎左衛門宛、水車新設の嘆願書(慶応三卯年十一月七日付)が書き留められています。
昭和25年頃まで、日野用水には数多くの水車が残っていたのだそうです。

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「栄町五丁目」交差点。東光寺道はここで、都道169号線と合流します。
写真正面の大きな杉が生えている辺りは、成就院に移築された東光寺薬師堂(日奉氏創建、天正8年再建)が昭和46年まで建っていた跡地です。
今でこそ暗渠になって見えませんが、この交差点で日野用水は上堰用水と下堰用水とに分岐しており、この地には東光寺道が日野用水を渡るために架けられた東光寺大橋がありました。
(20年ほど前までは、交差点の中央付近が一部開いていて用水が顔を覗かせていましたが、それも今は昔・・・)

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交差点脇に建つ東光寺大橋の碑(右)

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しばらく進み…谷地川を越える日野用水

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ちゃんと水も流れています。

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谷地川を越えた日野用水、並びに東光寺道は都道169号線を離れ、南側へ迂回するかのようにグイッと曲げられています。
この不自然なコース取りの理由がなかなか掴めないのですが・・・今のところは、写真の窪地を避けるためではないか…としておきます。

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南へ迂回した日野用水
流れを制御するための仕組みでしょうね。

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迂回した東光寺道が最も南に達する付近には…お茶屋の松
佐藤家の古い記録にも、この場所に「茶屋を作った」と残っているのだそうです。ちょうど八王子と日野の境でもあります。
昭和40年代までは松の古木が残っていましたが、現在のものは3代目。

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日野用水改修記念碑
東光寺道はここで一旦、都道169号線に戻ります。

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石川堰
この堰で余った水を多摩川へ流し、用水の水量を調節しています。

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再び都道を離れ、旧道をゆく東光寺道と日野用水

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八王子水再生センターの屋上を開放した八石下広場より、南の方角。
※近くに八王子千人同心の関根家があり、その屋号が「八石」(家禄に由来か?)だったことから「八石下広場」

この付近一帯が粟の須(村)と呼ばれていた地で、写真中央、左右に伸びる加住丘陵の中腹に、名主を務める井上忠左衛門邸がありました。
※この井上忠左衛門という人物、後ほどまた登場してきますので覚えておいてください。

そして東光寺道は写真のすぐ足もとを通っているのですが・・・

東光寺道より粟の須を走り、小宮村北平の大蔵院へ逃竄した。
(聞きがき新選組)

慶応4年3月、八王子まで進軍してきた新政府軍に追われる佐藤彦五郎は家族を伴い、東光寺道を平の大蔵院まで逃れます。
上の引用は彦五郎のご子孫が著した「聞きがき新選組」に見えるこの時の状況を現した一節ですが、まさに彼らが走って逃げた東光寺道が粟の須を通っていた様子が、地形からもよく見て取れる光景です。

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同じく八石下広場から、多摩大橋方面。
この多摩大橋付近では慶応2年(1866)6月に武州世直し一揆勢と、それを迎え撃つ彦五郎率いる日野農兵隊とによる戦闘が繰り広げられています。
(詳細はコチラ

さて、我々はここで東光寺道を離れ、八石下広場から先は多摩川の土手沿いを歩くことにしました。

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八高線の線路を潜り・・・

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しばらく進むと西の方角に、いよいよ平町が見えてきます。

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平町に設置されている日野用水の取水口
そう、日野用水は平町で多摩川の水を取り入れられているのです。

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まさにここが、日野用水の始点。
平の辺りでは「北平用水」とも呼ぶのだそうです。

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そして、平の渡し跡。
天正18年(1590)、関東へ移封された徳川家康は新領内を巡見し、八王子城などの視察を終えて川越へ向かう際、平の渡しに差し掛かります。
この時、家康の多摩川越えを助け、川越までお供した名主・平家の先祖は、家康から褒美として黄金の洪武通宝と扇を下賜されます。
その後、家康の七回忌に東照宮を祀り、下賜された洪武通宝を御神体としたのが、平町東照宮の始まりです。
(元々は村の鎮守でもある西玉神社に日光大権現を勧請して祀っていましたが、御神体の紛失を恐れ、寛政8年に平家の敷地内に本社が建立されました)

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平の渡しに繋がるこの一本道こそ、往時の川越街道ということにもなるのでしょう。

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渡し場付近には、寿司屋や団子屋を連想させる屋号を持つお宅があるそうです。
なんとなく、街道の渡し場で賑やかに商売を営んでいた光景が目に浮かんできそうな平場も・・・

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渡し場への道(左/川越街道?)と、東光寺道らしき小路の追分。
彦五郎や歳三も、この右手の小路から平村へとやってきたのでしょうか。

(慶応元年四月)十七日、天気、
上平村東照神君様御宮拝例ニ、彦五郎・歳三、其外之もの相越し候処、(中略)帰宅掛ヶ粟須村忠左衛門方え立寄、稽古いたし候、
(佐藤彦五郎日記)

―この名主平喜一家の表庭には荘厳なる社殿がある。金銭権現と云うを祭る。往昔戦乱中、家康公が、ここの下の多摩川を渡る時、折柄川漁に出ていた当家の祖先が、公を背負って川瀬を渡り越した。
それで公より黄金の宝貨を下賜され、御神体として社祠に祭って子孫に伝えたものである―
(聞きがき新選組)

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御神体が洪武通宝だから、金銭権現なのですね。
151年前の旧暦4月17日、家康の命日に彦五郎・歳三が連れだってお参りした平村東照宮に、いよいよ我々も参拝させていただきます!
※あくまでもツアー限定の公開であり、個人宅の敷地内で普段は公開されていませんので、ご注意ください。

お庭の片隅に建つ現在の祠はこれといった装飾もなく、こじんまりとコンパクトなものでした。
しかし、地表面に残る段差や石垣、石段などの痕跡が、ガイドさんに見せていただいた平家に伝来する文久3年に再建された社殿の絵図(つまり歳三らが参拝した当時のもの。彦五郎も再建の世話人になっている)と、配置や形状が見事に一致しました。
東照神君様御宮拝例の際、彦五郎や歳三がどこに立ちどちらを向いていたのかまでハッキリと分かるくらいに・・・。
また、2基の石灯籠は現在は祠に合わせて場所を変えていますが、横山宿、及び八日市宿から寄進されたものが現存していました。
貴重な体験をさせていただき、感謝に堪えません。

※以前はこうしたガイドツアーで御神体の洪武通宝を見せていただけることもあったようですが、禁じられているにも関わらず、ネットに写真を上げる不心得者がいたために、防犯などの観点から教育委員会の指導も入って公開されることはなくなりました。
残念なことですが、ルールとマナーを守れない人間がいる以上は致し方のないことです。これからも大切に守り伝えていっていただきたいと思います。

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さて、こちらは大蔵院(比盧宝山福生寺)
先に引用しましたが慶応4年3月、新政府軍に追われる彦五郎一家が最初に逃げ込んだお寺です。
大蔵院を当座の潜伏先として彦五郎に世話したのも平氏です。

名主の平氏は元々、上野國田部井氏の出で甲斐國へ流れて小野氏を称し、後に平村で名主を務めるようになって平姓となったそうです。
その先祖の一人・小野大蔵(喜道)は天正18年6月、豊臣秀吉による北条征伐の際には八王子城で戦い、城と運命を共にしています。
大蔵院は彼の三男が、父・大蔵の菩提を弔うために元和7年(1621)に創建されたと伝わっています。

ひとまず大蔵院に落ち着いた彦五郎一家・・・
薄暗き座中に尼僧の接待、渋茶を啜ってホッとひと息した時に、粟の須井上忠左衛門方から、ここへ官軍が来そうであると急報して来た。ソレッと再び草鞋をはき、寺院の裏庭続きに雑木山を攀じ登り峰伝いに西へ西へと走った
(聞きがき新選組)

上写真奥、彦五郎らが井上忠左衛門からの急報を受けて飛び出し、慌てて攀じ登った寺院の裏庭続き雑木山は現在、墓地になって雰囲気は変わっていますが、それでも地形はしっかりと残っています。
この時、新政府軍が寺を取り囲む様子を村の遠方より見ていた者の話では、裏山を這い上がる3~4人の白足袋がチラチラ見えていたと云います・・・まさに間一髪、といったところだったのですね。
※大蔵院を出た後の彦五郎らの足取りについては、やはりコチラの記事後半を参照ください。

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平町大蔵院のイチョウ(市指定天然記念物)
文政6年(1823)に書かれた「武蔵名勝図会」にも載っている古木で、樹齢は500年ほどと推定されています。
このイチョウもまた、彦五郎・歳三の東照宮参拝や、新政府軍に追われる彦五郎一家の歴史を見てきた証言者なのですね。。。

この後は平家歴代の墓所にもお参りさせていただきました。
墓誌には八王子城で戦死した小野大蔵(但し何故か、没年月日は八王子落城の10日前になっていましたが)は勿論、家康から洪武通宝の下賜を受けたと思われる人物、彦五郎・歳三の東照宮参拝当時の御当主と思われる人物、先に引用した「聞きがき新選組」に出てくる喜一氏(但し墓誌では「一喜」)などの法名がズラリと並んでいました。

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彦五郎たちも攀じ登った大蔵院の裏山から、平村の眺め。

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裏山中腹に鎮座する平村の鎮守・西玉神社。
日光大権現を勧請して家康を合祀していますので・・・

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社殿には三葉葵の紋が使われています。

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大蔵院の裏山、加住丘陵に部分的に残る尾根道。
彦五郎一家も或いはこの道を、峰伝いに西へ西へと走ったのかもしれないなぁ・・・などと想像を膨らませています。

さて、歴史の道ウォークはこれにて終了。
この後は解散してバスで日野駅へ戻り、私は一緒に参加したサイガさんと軽く打ち上げの乾杯をしました。

ところで、先ほどからチラホラと名前が出てくる粟の須村の井上忠左衛門…彦五郎・歳三が東照宮参拝の帰路に立ち寄って稽古をつけた家の主で、大蔵院に潜伏する彦五郎に「新政府軍迫る」の急報を届けた人物ですが・・・

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そんな井上忠左衛門の邸地もまた、現在に至りご子孫が守り継いでいらっしゃいます。
近くの高台の一角には、井上家歴代の墓所もありました。

彦五郎の長男・源之助は慶応4年の新政府軍が迫った折、病で歩けず、大蔵院へ向かった家族とはぐれてしまいます。
そんな彼を釣り籠で自宅まで運ばせて匿ったのもまた、忠左衛門でした。
ちなみに源之助は翌日、新政府軍迫るの報に接し、忠左衛門の息子と共に急ぎ山越しして宇津木村へ行き、とある小さな農家に隠れさせて貰うも発見され、結局は捕らわれてしまいますが、板垣退助によって赦免されています。

そして忠左衛門は、佐藤家の留守居をしていたところを彦五郎の一味と見做されて捕らわれますが、同じく後に釈放されています。

佐藤、平、井上。
小野路には小島家があり、他にも富澤家や谷保の本田家、etc...
こうして見ていくと当時の名主間の繋がりは、我々が想像する以上に深いものがあったことでしょう。

※徳川家康から下賜された洪武通宝や扇、「武蔵国多摩郡平村東照大権現再建図版木」は、八王子市郷土資料館から1997年に発行された「八王子宿周辺の名主たち」に掲載されています。

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