高天神城
4月16日(土)は、静岡の城攻めオフ会。

という訳で、まずは高天神城から。

高天神城略図
個人的にはちょうど10年ぶりの再訪になりますが、あの時は城攻めのイロハも分かっていなかった時期。改めて新鮮な気分でじっくりと攻めます。

城跡北側の駐車場で集合し、搦手からいざ!
いきなり凄い切通し。

三日月井戸
今も地層の分かれ目から水が滲み出ているようでした。

鐘曲輪から的場曲輪への虎口

的場曲輪
切岸の上段が本丸になります。

大河内政局石窟
高天神を制するものは遠州を制す
と云われるように、高天神城は遠江の要衝でした。そのため、戦国末期には武田vs徳川の争奪の地となっています。
天正2年5月、それまで徳川方だった高天神城は武田勝頼の軍勢に攻められて開城します。この時、徳川方の軍監・大河内政局は捕らわれ、この石窟に幽閉されました。
その後、彼の幽閉はなんと、家康が再び高天神城を奪還する天正9年までの7年間にも及びました。
※案内板では「足掛八ヶ年」とありましたが、計算する限り7年の誤りでしょう。
※この一段下からも石窟のような遺構が見つかっており、本当はそちらが政局の幽閉場所ではないか、との説もあるようです。確かに写真の石窟は本丸直下で、幽閉場所としては位置的にもちょっと違和感が・・・。或いは食糧庫か何かだったのかも?
※10年前は崩落しておらず、中はちゃんと空洞になっていました。

本丸
虎口を受ける土塁がいい感じで残っています。

本丸の南に位置する御前曲輪
ここには模擬櫓(天守?)が建てられていたようですが、戦時下、空襲の標的になるのを恐れて取り壊されたのだそうです。
しかし、実際に戦国期に櫓が建っていたとしたら・・・

本丸と御前曲輪の中間に位置するこちらでしょう。現在は元天神社となっていますが、明らかに櫓台跡の形状を残しています。

御前曲輪から東の眺め
天正8~9年にかけて展開された徳川家康による高天神城包囲戦の折には、左右に伸びる稜線や、手前の茂みなどにも徳川軍が布陣していたと云います。家康本隊が布陣した小笠山砦も、正面に見える稜線を左へ行った先にあります。
※この時、包囲する徳川軍に従軍していた水野忠重に送られた織田信長の朱印状も有名ですね。
→参照記事
そして当時はすぐ近くまで海が迫っていて、高天神城は海上交通を押さえるための城でもあったようです。

続いて三の丸方面へ向かいます。
御前曲輪の切岸を振り返る・・・圧倒的な高低差です。

三の丸土塁
三の丸には大手筋に向かって幾段かに築かれた腰曲輪への虎口(写真)と・・・

城道に繋がる虎口が切られています。

虎口を出た先。この細い筋は、実際に城道として使われていた道の遺構と思われます。

この城道、少し進むと大手筋と交差し、、、

本丸下を通って鐘曲輪まで繋がっています。きっと大手筋から三の丸へ入るためのルートだったのでしょう。
我々はここで一旦、大手筋を下ります。

大手口を見張る着到櫓跡
薮がきつかったですが、土塁がしっかりと残っていました。

大手門の礎石と思われる石

続いて西側の曲輪群へ
写真は井戸曲輪。中央にかな井戸が見えています。
奥の石段を登った先は高天神社の建つ西の丸ですが、まずは二の丸へ向かいます。

二の丸

二の丸の北側へ進むと、堂尾曲輪との間を断ち切る見事な堀切がありました。

堀切から二の丸方向を振り返ると・・・完全に枡形ですね。

堀切

この堀底の脇には天正2年5月の攻防戦の際、武田方の狙撃を受けて戦死した二の丸主将・本間八郎三郎氏清と、その弟の丸尾修理亮義清の墓碑があります。
1737年に子孫によって建てられました。

天正二年戦死者之碑

先ほどの堀切を渡って、堂尾曲輪から二の丸方向を見る。
ザックリ感が堪りません。

堂尾曲輪の北側にも見事な堀切があります。

その先、西側曲輪群最北端の曲輪
ここから西側へ切岸を下ると・・・

綺麗な横堀が、曲輪群に沿って南北に走っています。
横堀の角部分の外側には・・・

もう1本小さな堀切が切られ、その先に堡塁のようなコンパクトな削平地がありました。

それにしても素敵な横堀・・・。
この横堀が象徴するように、高天神城は本丸に対して西側を警戒した作りになっています。実際、本間八郎三郎らが戦死しているように西側での戦闘が激しくなってもいます。

横堀から城域外側へ目を向けると、その天正2年5月の攻防戦で武田軍の一隊が布陣したと伝わる山も樹間に覗いていました。

横堀はそのまま、本間・丸尾兄弟の墓碑がある位置まで続いていました。

西の丸、高天神社

社の周囲には土塁が残っています…社造営のために削られていますけど。

高天神社から馬場平を抜けた先、甚五郎抜け道。
天正9年3月の落城の日、籠城する武田家(この時は徳川方が攻め手)の軍監・横田甚五郎尹松が城を脱して通ったと伝わる尾根道です。

ご覧のように左右は切り立った絶壁。別名「犬戻り猿戻り」と呼ぶのも肯ける難所です。
甚五郎抜け道を伝って、先ほどご紹介した天正2年時に於ける武田軍布陣の山へのアプローチを試みたのですが、思いの外の難所につき断念しました。

最後は高天神社から南東の尾根へ。
見事な堀切が出迎えてくれました。

更にもう1本。

2本目の堀切から東へ回り込んだ先には、竪土塁の残る細い曲輪跡も。(前出略図A)
大手筋から谷戸を挟んで西の対面に当たります。

やはり大手側を見張るための場所だったのでしょう。
満喫しました、高天神城!
次は徳川軍の包囲陣もめぐってみたいですね。

という訳で、まずは高天神城から。

高天神城略図
個人的にはちょうど10年ぶりの再訪になりますが、あの時は城攻めのイロハも分かっていなかった時期。改めて新鮮な気分でじっくりと攻めます。

城跡北側の駐車場で集合し、搦手からいざ!
いきなり凄い切通し。

三日月井戸
今も地層の分かれ目から水が滲み出ているようでした。

鐘曲輪から的場曲輪への虎口

的場曲輪
切岸の上段が本丸になります。

大河内政局石窟
高天神を制するものは遠州を制す
と云われるように、高天神城は遠江の要衝でした。そのため、戦国末期には武田vs徳川の争奪の地となっています。
天正2年5月、それまで徳川方だった高天神城は武田勝頼の軍勢に攻められて開城します。この時、徳川方の軍監・大河内政局は捕らわれ、この石窟に幽閉されました。
その後、彼の幽閉はなんと、家康が再び高天神城を奪還する天正9年までの7年間にも及びました。
※案内板では「足掛八ヶ年」とありましたが、計算する限り7年の誤りでしょう。
※この一段下からも石窟のような遺構が見つかっており、本当はそちらが政局の幽閉場所ではないか、との説もあるようです。確かに写真の石窟は本丸直下で、幽閉場所としては位置的にもちょっと違和感が・・・。或いは食糧庫か何かだったのかも?
※10年前は崩落しておらず、中はちゃんと空洞になっていました。

本丸
虎口を受ける土塁がいい感じで残っています。

本丸の南に位置する御前曲輪
ここには模擬櫓(天守?)が建てられていたようですが、戦時下、空襲の標的になるのを恐れて取り壊されたのだそうです。
しかし、実際に戦国期に櫓が建っていたとしたら・・・

本丸と御前曲輪の中間に位置するこちらでしょう。現在は元天神社となっていますが、明らかに櫓台跡の形状を残しています。

御前曲輪から東の眺め
天正8~9年にかけて展開された徳川家康による高天神城包囲戦の折には、左右に伸びる稜線や、手前の茂みなどにも徳川軍が布陣していたと云います。家康本隊が布陣した小笠山砦も、正面に見える稜線を左へ行った先にあります。
※この時、包囲する徳川軍に従軍していた水野忠重に送られた織田信長の朱印状も有名ですね。
→参照記事
そして当時はすぐ近くまで海が迫っていて、高天神城は海上交通を押さえるための城でもあったようです。

続いて三の丸方面へ向かいます。
御前曲輪の切岸を振り返る・・・圧倒的な高低差です。

三の丸土塁
三の丸には大手筋に向かって幾段かに築かれた腰曲輪への虎口(写真)と・・・

城道に繋がる虎口が切られています。

虎口を出た先。この細い筋は、実際に城道として使われていた道の遺構と思われます。

この城道、少し進むと大手筋と交差し、、、

本丸下を通って鐘曲輪まで繋がっています。きっと大手筋から三の丸へ入るためのルートだったのでしょう。
我々はここで一旦、大手筋を下ります。

大手口を見張る着到櫓跡
薮がきつかったですが、土塁がしっかりと残っていました。

大手門の礎石と思われる石

続いて西側の曲輪群へ
写真は井戸曲輪。中央にかな井戸が見えています。
奥の石段を登った先は高天神社の建つ西の丸ですが、まずは二の丸へ向かいます。

二の丸

二の丸の北側へ進むと、堂尾曲輪との間を断ち切る見事な堀切がありました。

堀切から二の丸方向を振り返ると・・・完全に枡形ですね。

堀切

この堀底の脇には天正2年5月の攻防戦の際、武田方の狙撃を受けて戦死した二の丸主将・本間八郎三郎氏清と、その弟の丸尾修理亮義清の墓碑があります。
1737年に子孫によって建てられました。

天正二年戦死者之碑

先ほどの堀切を渡って、堂尾曲輪から二の丸方向を見る。
ザックリ感が堪りません。

堂尾曲輪の北側にも見事な堀切があります。

その先、西側曲輪群最北端の曲輪
ここから西側へ切岸を下ると・・・

綺麗な横堀が、曲輪群に沿って南北に走っています。
横堀の角部分の外側には・・・

もう1本小さな堀切が切られ、その先に堡塁のようなコンパクトな削平地がありました。

それにしても素敵な横堀・・・。
この横堀が象徴するように、高天神城は本丸に対して西側を警戒した作りになっています。実際、本間八郎三郎らが戦死しているように西側での戦闘が激しくなってもいます。

横堀から城域外側へ目を向けると、その天正2年5月の攻防戦で武田軍の一隊が布陣したと伝わる山も樹間に覗いていました。

横堀はそのまま、本間・丸尾兄弟の墓碑がある位置まで続いていました。

西の丸、高天神社

社の周囲には土塁が残っています…社造営のために削られていますけど。

高天神社から馬場平を抜けた先、甚五郎抜け道。
天正9年3月の落城の日、籠城する武田家(この時は徳川方が攻め手)の軍監・横田甚五郎尹松が城を脱して通ったと伝わる尾根道です。

ご覧のように左右は切り立った絶壁。別名「犬戻り猿戻り」と呼ぶのも肯ける難所です。
甚五郎抜け道を伝って、先ほどご紹介した天正2年時に於ける武田軍布陣の山へのアプローチを試みたのですが、思いの外の難所につき断念しました。

最後は高天神社から南東の尾根へ。
見事な堀切が出迎えてくれました。

更にもう1本。

2本目の堀切から東へ回り込んだ先には、竪土塁の残る細い曲輪跡も。(前出略図A)
大手筋から谷戸を挟んで西の対面に当たります。

やはり大手側を見張るための場所だったのでしょう。
満喫しました、高天神城!
次は徳川軍の包囲陣もめぐってみたいですね。
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