桑實寺、百済寺、etc...
旅の3日目。
この日はレンタカーして、安土周辺の織田信長関連地をめぐます。

まずは安土城考古博物館で開催中の信長の家臣たち展へ。
こちらの展示も古文書中心でしたが、釈文のプリントや意訳解説も添えられており、とてもわかり易い展示でした。

安土城跡を眺めつつ・・・
※何気に逆さ安土(笑)

11年ぶりに信長の館にも入館しました。
ここでしか売っていない「絢爛安土城」のDVDが欲しくて・・・(^_^;)

5階部分の天井絵を狙って・・・

最上階の6階部分

天正10年、本能寺の変で命を落す直前に、徳川家康を安土でもてなした饗応の膳。

そのまま車を置いて桑實寺へ向かいます。

ひたすら長い石段を上ります・・・。

あちらの門を越えても・・・

石段は延々と続く・・・

桑實寺といえば天正9年4月、竹生島参詣へ向かった信長の留守に、安土城に詰める侍女たちが無断でお参りに出かけた先としても有名ですね。
竹生島は遠方ということもあり、その日は長浜辺りで泊るのだろうとタカを括った結果ですが、彼女たちの予想に反し、信長は何と日帰りで帰城してしまいます。
自分の留守中に於ける、侍女たちの行動に怒り心頭に発した信長。執り成す桑實寺長老の願いも空しく、長老もろとも侍女たちを処刑してしまいます。
※この時、侍女たちと共に処刑された「長老」(信長公記)ですが、私は桑實寺の住職のことと思っていましたが、桑實寺には住職が処刑された記録は残っていないのだそうです。
恐らくは檀家や、寺の世話人の代表者のような人物だったのでしょう。

ようやく辿り着いた本堂

桑實寺本堂は、南北朝期からの現存。
ということは・・・信長に処刑されることになる侍女たちも、その最期に同じ建物を見ていたということになるのですね・・・。

派手さのない質素な造りとはいえ、そういった歴史と重ね合わせて拝観すると感慨も一入です。

大師堂(現経堂)
元々は織田信長が建立したものが残っていたそうですが、残念ながら明治末期に災害で大破。
現在のものは大正2年に、経堂として再建されました。

お次は東近江市の百済寺へ。

四月七日、信長公、御帰陣。其の日は守山に御陣取り、是れより直ちに百済寺へ御出で、二、三日御逗留あつて、鯰江の城に佐々木右衛門督楯籠るを、攻め衆人数、佐久間右衛門尉・蒲生右兵衛大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮に仰せつけられ、四方より取詰め、付城させられ侯。近年、鯰江の城、百済寺より持続げ、一揆と同意たるの由、聞こしめし及ばる。
四月十一日、百済寺堂塔・伽藍・坊舎・仏閣、悉く灰燼となる。哀れなる様、目も当てられず。
この日はレンタカーして、安土周辺の織田信長関連地をめぐます。

まずは安土城考古博物館で開催中の信長の家臣たち展へ。
こちらの展示も古文書中心でしたが、釈文のプリントや意訳解説も添えられており、とてもわかり易い展示でした。

安土城跡を眺めつつ・・・
※何気に逆さ安土(笑)

11年ぶりに信長の館にも入館しました。
ここでしか売っていない「絢爛安土城」のDVDが欲しくて・・・(^_^;)

5階部分の天井絵を狙って・・・

最上階の6階部分

天正10年、本能寺の変で命を落す直前に、徳川家康を安土でもてなした饗応の膳。

そのまま車を置いて桑實寺へ向かいます。

ひたすら長い石段を上ります・・・。

あちらの門を越えても・・・

石段は延々と続く・・・

桑實寺といえば天正9年4月、竹生島参詣へ向かった信長の留守に、安土城に詰める侍女たちが無断でお参りに出かけた先としても有名ですね。
竹生島は遠方ということもあり、その日は長浜辺りで泊るのだろうとタカを括った結果ですが、彼女たちの予想に反し、信長は何と日帰りで帰城してしまいます。
自分の留守中に於ける、侍女たちの行動に怒り心頭に発した信長。執り成す桑實寺長老の願いも空しく、長老もろとも侍女たちを処刑してしまいます。
※この時、侍女たちと共に処刑された「長老」(信長公記)ですが、私は桑實寺の住職のことと思っていましたが、桑實寺には住職が処刑された記録は残っていないのだそうです。
恐らくは檀家や、寺の世話人の代表者のような人物だったのでしょう。

ようやく辿り着いた本堂

桑實寺本堂は、南北朝期からの現存。
ということは・・・信長に処刑されることになる侍女たちも、その最期に同じ建物を見ていたということになるのですね・・・。

派手さのない質素な造りとはいえ、そういった歴史と重ね合わせて拝観すると感慨も一入です。

大師堂(現経堂)
元々は織田信長が建立したものが残っていたそうですが、残念ながら明治末期に災害で大破。
現在のものは大正2年に、経堂として再建されました。

お次は東近江市の百済寺へ。

四月七日、信長公、御帰陣。其の日は守山に御陣取り、是れより直ちに百済寺へ御出で、二、三日御逗留あつて、鯰江の城に佐々木右衛門督楯籠るを、攻め衆人数、佐久間右衛門尉・蒲生右兵衛大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮に仰せつけられ、四方より取詰め、付城させられ侯。近年、鯰江の城、百済寺より持続げ、一揆と同意たるの由、聞こしめし及ばる。
四月十一日、百済寺堂塔・伽藍・坊舎・仏閣、悉く灰燼となる。哀れなる様、目も当てられず。
(信長公記 巻六「百済寺伽藍御放火の事」より)
元亀4年(1573)4月、織田信長は百済寺に逗留し、鯰江城に籠る六角義治を攻めます。
ところが百済寺が鯰江の六角勢に協力していることを聞くと、信長は百済寺焼き討ちを命じ、これにより百済寺は堂塔伽藍の多くを失いました。

百済寺庭園

庭園上の遠望台より
あいにくの天気でわかりづらいですが、写真やや右寄りには安土城跡も見えています。
信長は安土築城の際、百済寺の石垣を崩し、その石を安土城に転用したのだとか・・・。

百済寺の石を安土へと運ぶ様子を描いた、石曳の図絵馬

仁王門へと続く参道
確かに安土城に似ている気はする。

参道の両脇には、全部で一千坊(本当は三百坊?)を誇ったと云う坊舎跡の削平地が連なっていました。

石が小さかったので持ち去られることなく、今も旧状を留めていると云う石垣。

大きな草鞋で有名な仁王門

本堂
現在のものは江戸時代初期、1650年の再建です。

本堂にあったジオラマ
こうして見ると益々、安土城を連想しますね。

木造如意輪観音菩薩半跏思惟像に・・・

木造聖観音菩薩拈華微笑坐像

聖徳太子孝養像

本堂横には千年菩提樹
織田信長による焼き討ちの際、一度は焼失しましたが、根が生きていたために再生して現在に至るのだとか・・・。

現在の本堂の裏手を登ると、焼き討ちで失われた旧本堂跡や五重塔跡がある筈なのですが・・・残念ながら通行止めになっていました。
土砂崩れも起きているようなので、その影響かもしれません。

駐車場への戻りがてらに撮った一枚。
・・・横堀に見えませんか?

宗教=丸腰は、江戸時代以降の日本の常識。
戦国期には本願寺然り、延暦寺しかり・・・多くの大寺院は強大な武力を抱えていました。その宗教勢力の武装解除を実現したのこそ、織田信長であり、後の豊臣秀吉でもある訳で・・・
百済寺焼き討ちも、信長の側から見れば敵の軍事拠点=城の攻略という意味合いだったのでしょう。
さて、本当はこの後、信長が天正9年の伊賀視察の前日に滞在した飯道寺跡(飯道山)にも登りたかったのですが・・・雨が本降りになってきたので断念。
早めに車を返し、予定を切り上げて帰路につきました。
2泊3日の一人旅、暑さもあって体力的には少し厳しかったけど充実しました。
これからは益々暑い季節になっていきますね・・・。次の旅がいつになるかはまだ決めていないけど、きっとまたすぐに出かけたくてウズウズしてくると思います(笑)
元亀4年(1573)4月、織田信長は百済寺に逗留し、鯰江城に籠る六角義治を攻めます。
ところが百済寺が鯰江の六角勢に協力していることを聞くと、信長は百済寺焼き討ちを命じ、これにより百済寺は堂塔伽藍の多くを失いました。

百済寺庭園

庭園上の遠望台より
あいにくの天気でわかりづらいですが、写真やや右寄りには安土城跡も見えています。
信長は安土築城の際、百済寺の石垣を崩し、その石を安土城に転用したのだとか・・・。

百済寺の石を安土へと運ぶ様子を描いた、石曳の図絵馬

仁王門へと続く参道
確かに安土城に似ている気はする。

参道の両脇には、全部で一千坊(本当は三百坊?)を誇ったと云う坊舎跡の削平地が連なっていました。

石が小さかったので持ち去られることなく、今も旧状を留めていると云う石垣。

大きな草鞋で有名な仁王門

本堂
現在のものは江戸時代初期、1650年の再建です。

本堂にあったジオラマ
こうして見ると益々、安土城を連想しますね。

木造如意輪観音菩薩半跏思惟像に・・・

木造聖観音菩薩拈華微笑坐像

聖徳太子孝養像

本堂横には千年菩提樹
織田信長による焼き討ちの際、一度は焼失しましたが、根が生きていたために再生して現在に至るのだとか・・・。

現在の本堂の裏手を登ると、焼き討ちで失われた旧本堂跡や五重塔跡がある筈なのですが・・・残念ながら通行止めになっていました。
土砂崩れも起きているようなので、その影響かもしれません。

駐車場への戻りがてらに撮った一枚。
・・・横堀に見えませんか?

宗教=丸腰は、江戸時代以降の日本の常識。
戦国期には本願寺然り、延暦寺しかり・・・多くの大寺院は強大な武力を抱えていました。その宗教勢力の武装解除を実現したのこそ、織田信長であり、後の豊臣秀吉でもある訳で・・・
百済寺焼き討ちも、信長の側から見れば敵の軍事拠点=城の攻略という意味合いだったのでしょう。
さて、本当はこの後、信長が天正9年の伊賀視察の前日に滞在した飯道寺跡(飯道山)にも登りたかったのですが・・・雨が本降りになってきたので断念。
早めに車を返し、予定を切り上げて帰路につきました。
2泊3日の一人旅、暑さもあって体力的には少し厳しかったけど充実しました。
これからは益々暑い季節になっていきますね・・・。次の旅がいつになるかはまだ決めていないけど、きっとまたすぐに出かけたくてウズウズしてくると思います(笑)
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