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2016年5月

2016年5月30日 (月)

千本城・久留里古城

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南総の城めぐりオフ、4城目は千本城(君津市)です。
ここまで3城をめぐり、道なき道を進み、険しい急斜面も激しい藪も「楽勝っすよ」「平気平気」の一言で皆をリードしてきたこばたかさんの城攻めルート、通称「こばたかルート」に食らいついてきた疲労の蓄積が顕著となり、あまり頭も働かない状態で回ったので、縄張もイマイチ正確に把握しきれていません…(^_^;)
記事も適当に流しまので、あしからず。

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岩盤にあいた不思議な横穴がお出迎え。

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竪堀を登っていく一行。
この竪堀も相当な規模で、少し先で左にクランクしています。

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そのクランクを抜けると・・・見えてきましたね。

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とてつもない規模の大堀切。
傾斜・深さとも、圧巻の一言に尽きます。

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登ってきた方向を振り返る…正面突当りが、堀底がクランクしている部分です。

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主郭?への虎口

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主郭部周辺には幾筋も、魅力的な堀切がありました。
樹木のせいで見えづらいですが、写真の堀切も相当な規模です。

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主郭と推定される曲輪跡に建つ北野神社

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北野神社南側の堀切を見下ろす。

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北野神社の西側斜面下には、四角く区切られて石積みも残る不思議な痕跡がありました。

千本城の城域は結構な広さで、我々がめぐったエリアはまだほんの1/3程度ですが、その他の大部分は未整備で薮が酷いらしいので、今回はこの辺で切り上げます。

さて、南総のお城をめぐるオフ会も、千本城までの4城で終了です。
関西や北関東からの参加者とお別れし、我々南関東勢も帰路へ・・・とはいかないのが、こばたか流(笑)
ま、前回の群馬オフで学びましたけど。

という訳でお決まりの延長戦に突入し、向かった先は久留里古城
模擬天守のある里見氏の久留里城からは、尾根続きの北側に展開します。

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神明社南側の削平地にて・・・虎口か、竪堀か?

トンネル上の尾根を越えると神明社へと至り、そこから更に北へと進みながら遺構を見ていきます。

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途中ふと気になった地形。
一瞬、竪堀かとも思いましたが、表面は岩盤・・・

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神明社から北へ進んで、最初に現れた堀切(戦死者?1名付きww)

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こちらは、東へ伸びる尾根に逸れた先で遭遇した堀切・・・だったと思う←

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東への尾根を引き返し、再び北へ進んだ先でまたも堀切に遭遇。

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更には二重堀切も。

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二重といっても、堀切の底に仕切り状の土塁を残しただけ、といった形状ですが。

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主郭らしき曲輪を取り巻く横堀状の空堀(西側)

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その東側は竪堀として落とされています。

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土橋もありました。

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土塁を連続でぶった切ったような・・・二重虎口?

さて、ここいらで久留里古城攻めも終わりとします。
写真を全然撮っていなかったし、縄張をちゃんと把握していなくて遺構の正確な場所も思い出せない…いずれ再訪する機会がありましたら改めて整理することとし、今回はこんなもんでご勘弁を。
実は私、久留里古城攻めの前に水分を確保しそびれ、途中から脱水症状を起こして頭痛はするし、疲労で殆ど冷静に遺構を観察することができていませんでした…(^_^;)

なんとか乗り切り、やっと終わった~と安心していたら、こばたかさんがのたまって曰く;
一度駐車場に戻って飲み物を買ってから登り直すのと、このままゆっくり登り続けるのとどっちがいいですか?
・・・は?登り直す?このまま登る??…何言ってんの!?
この後、久留里城にも行く前提で話してますけど

・・・全力で拒否して、やっと帰路へ。
こばたかさんの山城好きは嫌というほど思い知りました・・・とても敵わない(笑)

急な飛び入り参加でしたが、ご一緒させていただいた皆さん、ありがとうございました(^_^)/

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2016年5月29日 (日)

秋元城

2016年5月28日は南総のお城を中心にめぐるオフ会。
1城目は造海城、2城目には峰上城を攻めたのですが、この2城は今年2月以来の再訪で既に記事を上げていますので、今回は割愛させていただきます…(^_^;)
(過去記事→造海城峰上城

で、3城目に向かったのは・・・

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君津市の秋元城です。

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東側の登城路から登って見えてきた堀切状の虎口。

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上の鳥瞰図で稲荷・金平祠と書かれたこの細い曲輪は・・・登城路を抑える見張り台か。
※以下、太字は上の図面からの引用

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千畳の広い曲輪に残る土塁

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千畳から主郭と思われる御殿西向三段の切岸

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主郭

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主郭南の崖下には、なかなか良好な横堀が廻らされていました。
しかし、ここまで下りるのは容易ではなく、結構危険なのであまりお薦めは出来ません・・・。
どれくらいの難易度かというと・・・

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・・・これくらい(汗)
写真は横堀探索後、主郭へ戻る際に撮影しました。

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次は主郭から西へ進みます。
途中、素敵な土塁もありました。

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城域西側では最高所となる、八幡祠の曲輪。
この先には・・・

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見事な堀切が。

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その堀底から。

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また、堀切の南脇を覗き込むと、畝のような仕切りを伴った・・・

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岩盤削りの横堀も廻らされていました。

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横堀の堀底をゆく。

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それにしても一体これは、何のための仕切りだったのでしょうね?
この辺りのお城はとにかく、岩盤掘削による造形が見事。

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最後は池跡に築かれた一本道?を通って撤収。

なかなか楽しめる城跡でした・・・マムシに遭遇したけど…(^_^;)

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神戸海軍操練所跡

先日、仕事の都合で神戸三宮へ出張する機会がありましたので、そのついでに・・・

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神戸海軍操練所跡の碑を観に行ってきました。

幕末、ペリー来航に象徴される外国勢力からの圧力の高まりと共に海防強化の必要性に迫られた幕府は、文久元年(1864)、当時軍艦奉行だった勝海舟の建言を容れ、神戸に海軍士官の養成機関である海軍操練所を開設します。

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勝は幕府や諸藩の垣根を超えて広く有志の塾生を募り、塾頭には坂本龍馬を迎え、他にも後に龍馬と共に海援隊を立ち上げ、ゆくゆくは明治政府で外務大臣にまで上り詰めることになる陸奥宗光や、薩摩・長州などからも藩士らが名を連ねました。
しかし、禁門の変(同年7月)の責を問われた勝は軍艦奉行を罷免され、更には塾生の北添佶摩や望月亀弥太(共に土佐)が池田屋事件に関与したことなどから翌慶応元年(1865)、設立からわずか1年足らずで操練所は閉鎖されることになりました。

僅か1年の足跡とはいえ、海軍操練所をこの地に開設したことが結果的には、それまで小さな漁村に過ぎなかった神戸発展のきっかけになったとも云われていますので、ある意味「港町神戸」発祥の地、といっても過言ではない・・・かな?

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2016年5月 8日 (日)

桑實寺、百済寺、etc...

旅の3日目。
この日はレンタカーして、安土周辺の織田信長関連地をめぐます。

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まずは安土城考古博物館で開催中の信長の家臣たち展へ。
こちらの展示も古文書中心でしたが、釈文のプリントや意訳解説も添えられており、とてもわかり易い展示でした。

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安土城跡を眺めつつ・・・
※何気に逆さ安土(笑)

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11年ぶりに信長の館にも入館しました。
ここでしか売っていない「絢爛安土城」のDVDが欲しくて・・・(^_^;)

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5階部分の天井絵を狙って・・・

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最上階の6階部分

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天正10年、本能寺の変で命を落す直前に、徳川家康を安土でもてなした饗応の膳。

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そのまま車を置いて桑實寺へ向かいます。

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ひたすら長い石段を上ります・・・。

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あちらの門を越えても・・・

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石段は延々と続く・・・

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桑實寺といえば天正9年4月、竹生島参詣へ向かった信長の留守に、安土城に詰める侍女たちが無断でお参りに出かけた先としても有名ですね。
竹生島は遠方ということもあり、その日は長浜辺りで泊るのだろうとタカを括った結果ですが、彼女たちの予想に反し、信長は何と日帰りで帰城してしまいます。
自分の留守中に於ける、侍女たちの行動に怒り心頭に発した信長。執り成す桑實寺長老の願いも空しく、長老もろとも侍女たちを処刑してしまいます。
※この時、侍女たちと共に処刑された「長老」(信長公記)ですが、私は桑實寺の住職のことと思っていましたが、桑實寺には住職が処刑された記録は残っていないのだそうです。
恐らくは檀家や、寺の世話人の代表者のような人物だったのでしょう。

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ようやく辿り着いた本堂

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桑實寺本堂は、南北朝期からの現存。
ということは・・・信長に処刑されることになる侍女たちも、その最期に同じ建物を見ていたということになるのですね・・・。

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派手さのない質素な造りとはいえ、そういった歴史と重ね合わせて拝観すると感慨も一入です。

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大師堂(現経堂)
元々は織田信長が建立したものが残っていたそうですが、残念ながら明治末期に災害で大破。
現在のものは大正2年に、経堂として再建されました。

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お次は東近江市の百済寺へ。

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四月七日、信長公、御帰陣。其の日は守山に御陣取り、是れより直ちに百済寺へ御出で、二、三日御逗留あつて、鯰江の城に佐々木右衛門督楯籠るを、攻め衆人数、佐久間右衛門尉・蒲生右兵衛大輔・丹羽五郎左衛門尉・柴田修理亮に仰せつけられ、四方より取詰め、付城させられ侯。近年、鯰江の城、百済寺より持続げ、一揆と同意たるの由、聞こしめし及ばる。
四月十一日、百済寺堂塔・伽藍・坊舎・仏閣、悉く灰燼となる。哀れなる様、目も当てられず。
(信長公記 巻六「百済寺伽藍御放火の事」より)

元亀4年(1573)4月、織田信長は百済寺に逗留し、鯰江城に籠る六角義治を攻めます。
ところが百済寺が鯰江の六角勢に協力していることを聞くと、信長は百済寺焼き討ちを命じ、これにより百済寺は堂塔伽藍の多くを失いました。

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百済寺庭園

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庭園上の遠望台より
あいにくの天気でわかりづらいですが、写真やや右寄りには安土城跡も見えています。
信長は安土築城の際、百済寺の石垣を崩し、その石を安土城に転用したのだとか・・・。

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百済寺の石を安土へと運ぶ様子を描いた、石曳の図絵馬

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仁王門へと続く参道
確かに安土城に似ている気はする。

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参道の両脇には、全部で一千坊(本当は三百坊?)を誇ったと云う坊舎跡の削平地が連なっていました。

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石が小さかったので持ち去られることなく、今も旧状を留めていると云う石垣。

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大きな草鞋で有名な仁王門

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本堂
現在のものは江戸時代初期、1650年の再建です。

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本堂にあったジオラマ
こうして見ると益々、安土城を連想しますね。

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木造如意輪観音菩薩半跏思惟像に・・・

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木造聖観音菩薩拈華微笑坐像

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聖徳太子孝養像

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本堂横には千年菩提樹
織田信長による焼き討ちの際、一度は焼失しましたが、根が生きていたために再生して現在に至るのだとか・・・。

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現在の本堂の裏手を登ると、焼き討ちで失われた旧本堂跡五重塔跡がある筈なのですが・・・残念ながら通行止めになっていました。
土砂崩れも起きているようなので、その影響かもしれません。

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駐車場への戻りがてらに撮った一枚。
・・・横堀に見えませんか?

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宗教=丸腰は、江戸時代以降の日本の常識。
戦国期には本願寺然り、延暦寺しかり・・・多くの大寺院は強大な武力を抱えていました。その宗教勢力の武装解除を実現したのこそ、織田信長であり、後の豊臣秀吉でもある訳で・・・
百済寺焼き討ちも、信長の側から見れば敵の軍事拠点=城の攻略という意味合いだったのでしょう。

さて、本当はこの後、信長が天正9年の伊賀視察の前日に滞在した飯道寺跡(飯道山)にも登りたかったのですが・・・雨が本降りになってきたので断念。
早めに車を返し、予定を切り上げて帰路につきました。

2泊3日の一人旅、暑さもあって体力的には少し厳しかったけど充実しました。
これからは益々暑い季節になっていきますね・・・。次の旅がいつになるかはまだ決めていないけど、きっとまたすぐに出かけたくてウズウズしてくると思います(笑)

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賀茂競馬

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本能寺を出た後は地下鉄で北山駅まで移動し、鴨川の畔を歩いて・・・

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上賀茂神社(賀茂別雷神社)へ

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鳥居を潜ると、早くもお馬さんたちがスタンバイ♪
そう、5月5日は年一回の神事、賀茂競馬(くらべうま)が開催される日なのです。

五月五日、賀茂の祭競馬御神事、天下御祈祷の事に候。幸ひ御在洛の儀に候間、御馬を仰せ付けられ候様にと、伺ひ申すのところ、信長、度々、かち合戦にめさせられ候蘆毛の御馬、並に鹿毛の御馬二つ、其の外、御馬廻の駿馬を揃へ十八疋、都合廿疋、十番の分仰せ付けらる。御馬の儀は申すに及ばず、廿疋の御馬、御鞍・鐙・御轡、一々、何れもゝゝ、名物の御皆具仰せ付けられ、おびただしき御結構なされ、舎人、是れ又、美々しき出立、上古にも承り及ばず。然うして、黒装束の禰宜十人赤装束の禰宜十人、右の廿疋の御馬に乗り、一番宛馬を走らかし、勝負を争ひ申すなり。蘆毛の御馬・鹿毛の御馬、元来、駿馬にて、達者なれば、申すに及ばず。御馬は、何れも勝ち申し候なり。末代の物語、貴賎・老若の群集申すばかりなし。天下諸色仰せ付けられ、
(信長公記 巻七「賀茂競馬の御馬仰せ付けらるゝの事」より)

今年(2016)で923年目を迎える伝統の行事で、天正2年(1574)には織田信長も、自らの駿馬や馬廻衆の愛馬20頭を出走させ、様々な道具類も提供しています。
のみならず、この年は引用した「信長公記」の著者でもある家臣・太田牛一を奉行として派遣(「賀茂注進雑記」)し、信長自らも足を運んで神社から接待を受けた記録が、上賀茂神社の算用状(「賀茂別雷神社文書」)に残っています。

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この日のため、参道横に設営された馬場

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竹矢来の内は、神様が観戦なさるための頓宮。
鉾が立てられているのは、既に神様が頓宮へお入りになった証。

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桐の花も咲いていました。

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席を確保した後は参拝へ。

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こちらも5月5日のこの日だけ振る舞われる、神山湧水で淹れた珈琲。
境内の清涼な雰囲気の中で頂く珈琲はまた格別です。

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上賀茂神社ジオラマ

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上賀茂神社も今年度の非公開文化財特別公開で本殿や、織田信長接待の記録が残る件の算用状などが公開されています。

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さて、席に戻ります。
この後、お馬さんたちが駆け抜ける馬場。

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炎天下の中、ただひたすら待ち続けること数時間・・・いよいよ参道で神事が始まりました。
この後彼らは本殿へ向かい、奉幣の儀などが執り行われます。

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馬場を曳かれていく出走馬たち

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装着している馬具も往古以来の形式に則ったもの。鞍には5月5日らしく、菖蒲が描かれています。鐙も独特ですよね、乗るのが難しそう。
信長が用意させた馬具も、こんな感じだったのでしょうね。

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可愛い警固衆が馬場の点検

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彼らも腰に菖蒲を差しています。

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騎手にあたる「乗尻」も騎乗して、頓宮の神様にご挨拶。
この時、乗尻は鞭を立てて一礼します。

赤の装束を身に纏ったのが左方で、黒は右方。太田牛一も「信長公記」の中で;
黒装束の禰宜十人、赤装束の禰宜十人
と記していますね。彼が「禰宜」と書いているのが乗尻です。

競馬は左方・右方それぞれ一騎ずつ、2頭で競馳し、天正2年のこの時は10番(20頭)行われたようですが、現在では通常5番行われます。
しかし、本年は式年遷宮を終えたばかりということで、特別に7番組まれていました。

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競馳前に馬場を曳かれる出走馬。
正式には各番全て競馳前に7往復したそうで、最後の勝負が行われる頃には日も暮れていたのだとか…(^_^;)
今年は1番目と最後の7番目のみ作法に則り、あとは1往復に省略されていました。

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いよいよ競馳の開始!
競馳は1馬身離してスタートし、200m先のゴールでその差が縮まったかor離れたかで勝負を競います。

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躍動感溢れる走り。
乗尻は神様に競馬を知らせるため、大声をあげながら騎乗しています。

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埒最前列に陣取ったので、とにかく凄いスピード感と迫力です。

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出走後、右方は馬場横の念人握で勝敗を確かめ、勝っていれば「おかちにござる」と声を掛けられ、白い絹の旗を与えられて勝ち名乗りをあげます。
逆に負けると・・・「おまけにござる

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同じように左方は、参道を通って・・・

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左方後見(勝負判定者)高台横の念人握へ向かいます。

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最後の1番…とにかく想像以上の迫力。

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暑くて待っている間は大変だったけど、観に来て本当に良かった。

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競馬を終えて・・・
頓宮前の鉾も、神様がお帰りになったので寝かされています。

さて、この後は電車で近江八幡まで移動し、翌日の安土周辺めぐりに備えました。

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本能寺

旅の2日目。
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まずは織田信長が命を落した、天正10年(1582)当時の本能寺跡へ向かいました。

詳しくはコチラの記事後半部分をご参照いただきたいのですが、本能寺跡地は東西は西洞院通~油小路通で確定しているものの、南北は南の蛸薬師通から北は六角通までの1街区か、それとも三条通までの2街区かで見解が分かれています。

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とある筋から、六角通と三条通に挟まれた油小路通沿いで建設工事が入り、発掘調査が行われるので本能寺跡地の範囲が確定されるかもしれない、との情報を得て様子を見に来ました。

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訪れた5月5日の段階では単なる更地でしたが、どうやら16~17日の2日間で調査が行われるようです。

つまり、この場所から(南面の蛸薬師通から検出済みのような)堀などの遺構が出れば南北2街区であった可能性が極めて高くなり、逆に何も出なければ1街区だった可能性が高くなるということ。
果たして結果は如何に・・・?

※発掘調査の結果につきましても、コチラの記事(最下段部)をご参照ください。
(2018年2月)

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さて、そのまま蛸薬師通を東へ進み、本能寺の変を徳川家康に知らせたと云う茶屋四郎次郎邸跡や・・・

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更には信長に庇護された南蛮寺跡も眺めつつ・・・

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寺町の現在の本能寺

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目的はこちら、夏まで開催されている特別展大信長展です。
展示は古文書中心で、信長やその一族の他、家臣、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、浅井長政、朝倉義景、etc...
よくぞまぁ、これほどの錚々たるメンバーの古文書を集めたものと感心するほど。
欲をいえば、それぞれに簡単な文意も添えてくれるとありがたかったですね。ま、図録を購入したのでこれから勉強しますが…(^_^;)

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本能寺境内、加藤清正寄進の臥牛石

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勿論、織田信長墓所にもお参り。

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本能寺で信長と運命を共にした人々にも・・・。

実はこの日は私の誕生日でもありました。
そんな日に織田信長の墓所にお参りでき、嬉しく思います。

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橋本の戦い

慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦い。その戦線は鳥羽・伏見から淀を経て(参照記事その1その2その3)、石清水八幡宮周辺~橋本へと移っていきます。

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石清水八幡宮の男山から淀方面の眺め。まさに鳥羽伏見の戦い、その終盤戦が繰り広げられた光景です。
淀から京街道が男山北麓を経由して西麓の橋本宿を抜け、旧幕府軍が最終的に敗走する大坂へと続いています。

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男山から淀川沿いを西へ向かいます。堤に立派な木が生えていました。

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こういうクランク・・・好きです(笑)

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しばらくすると淀川は南へ折れ、その対岸には山崎の天王山が見えてきます。

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そして背後を振り返ると、石清水八幡宮の男山。

一ヶ月六日朝七時頃山崎天王山下タ関門藤堂和泉守固メ八幡山江ハ松平越中守兵戸釆女正其外歩兵相固メル橋本宿ハ会津兵新選組遊撃隊見廻リ組固メル八幡堤ハ薩兵寄ル新選組ト大戦イ
(永倉新八「浪士文久報国記事」より/以下青文字引用同)

淀川西岸の山崎方面は津藩藤堂家が守備し、男山(八幡山)には桑名・大垣藩・その他の旧幕府兵が布陣。会津藩や新選組・見廻組は淀川東岸の橋本宿に入って、新政府軍の襲来に備えていました。

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天王山と男山の間を縫うように、淀川に沿って通る京街道には道標も。
文政己卯二年二月吉日・・・1819年ですね。

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裏にはこの後、旧幕府軍が敗走することになる「大坂」の文字も見えます。
この街道に沿って、戦闘が展開されていったことが偲ばれます。

六日暁天ニ敵亦進来ス、我軍橋本入口胸壁ヲ築キ置キ互ニ炮撃ス、
(島田魁「日記」より/以下緑文字引用同)

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橋本宿の北にある小山
まさに島田魁のいう橋本入口のような場所で、実際に京街道へ向けて築かれた塹壕胸壁)が今でも一部残っているらしいのですが・・・

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残念ながらフェンスには厳重に南京錠が掛けられ、立ち入ることは出来ませんでした。
遠目にも気になる地表面が見えていましたが・・・

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何とかフェンス越しにも撮影を試みましたが・・・事前に教わった塹壕の位置は、物凄い竹藪でちょっと無理ですね…(^_^;)
でもまぁ島田が書き残した胸壁が、ここである可能性は充分に高いと思います。

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京街道に戻ります。橋本宿の入口(北)付近に建っていた道標。

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柳谷わたし場の道標

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渡し場から見る橋本宿
会津藩や新選組、見廻組らが守備した地です。

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橋本宿を貫く京街道

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あのS字・・・渋い。

迚モ大垣兵ニハ防コト六ケ敷、夫故ニ土方歳三原田左之助兵ヲ率キ三丁ホド参ルト薩兵コチラヲ向イ炮発イタス、漸くノ事ニテ胸壁ノ内エ引揚ケ

土方歳三も新選組本隊を率いて、橋本に布陣していました。
そこへ遂に薩摩藩兵を中心とする新政府軍が攻め寄せ、八幡堤で大垣藩兵と戦端を開きます。大垣兵だけでは心許ないと、土方は原田と共に兵を率いて八幡堤を進んで援軍に向かいますが、薩摩兵の激しい銃撃を受け、やっとのことで胸壁へと引き上げています。

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ここでいう土方の進んだ八幡堤が具体的にどの位置を指すのか分かりませんが、前後の状況からして淀川南岸の堤防を東へ、男山方面(写真)へ向かったものと思います。
また、彼らが逃げ帰った胸壁は、先ほどご紹介した竹藪の小山かもしれません。

永倉新八、斎藤一馬兵ヲ率テ八幡山中副ニテ戦ヲル

なおこの時、永倉は斎藤一と共に男山の中腹に陣取っていました。

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という訳で男山を下山する際、それらしき痕跡がないか注意深く見てみましたが、殆どが切り立った自然地形でした。写真は裏参道沿いにあった、塹壕に見えなくもない痕跡。
地形からして、新政府軍が攻め登ってくる(と想定される)ルートも限られてきますので・・・あながちなくもない、かな?

八幡堤ノ戦イ藤堂裏切致シ夫故ニ兵散乱イタサムト心得夫ト見ルヨリ土方歳三、原田佐之介猶ヲ進メト令ヲカケ其内ニ藤堂兵会津兵ニ追払ハレタト注進コレアリ

戦闘は山崎方面に布陣した津藩が新政府軍に寝返り、淀川対岸から旧幕府軍に向けて砲撃を加えてきたことで大きく新政府軍優勢に傾きます
それでも一度は盛り返したようですが、見廻組頭取の佐々木只三郎が命を落とすことになる重傷を負うなど、旧幕府軍は大きな被害を出していきます。

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橋本宿の後方(南)、旧幕府軍の本営が置かれた久修園院楠葉砲台跡地一帯。

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久修園院
大坂夏の陣で一度被災しているようです。残念ながら拝観は謝絶のようでした。

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復原?された楠葉砲台(北側)

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楠葉砲台越しに、津藩が砲撃を加えてきた山崎・高浜砲台方面を眺める。

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楠葉砲台南端の堀

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奥には天王山

然ルニ山嵜ノ関門藤堂藩返シテ大小銃ヲ烈布放ツ、故ニ我軍大瓦解遂ニ大坂迄退ク、

支え切れなくなった旧幕府軍は崩れ、大坂へと敗走することになりました。
なおこの時、永倉・斎藤は男山に取り残され、慌てて引き返す途中、敵に包囲されかけて窮地に陥りますが辛うじて脱し、危うく難を逃れました。

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ちなみに京阪橋本駅の目の前に建つ西遊寺には、久修園院にあった旧幕府軍に弾薬庫として使われた建物が移築されているそうなのですが・・・

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どれがその移築建物なのか、判断がつきませんでした。
※西遊寺には天正10年、山崎合戦で明智光秀を破った羽柴秀吉も立ち寄っているそうです。

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最後に・・・楠葉砲台から南へ、旧幕府軍が敗走したであろうルートを3kmほど南下、楠葉橋近くに建つ戊辰役戦没者供養墓
京街道が当時通っていた場所で、おそらくは大坂への敗走途中で命を落したのであろう兵士8名を供養しています。

さて、予想外の暑さと2泊3日分の荷物を背負ったままでの探索に思いの外体力を奪われたので、初日はここまで。
電車で京都駅へ戻り、ホテルへチェックインした後は一歩も動けませんでした・・・。

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2016年5月 7日 (土)

織田信長寄進「黄金の雨樋」(石清水八幡宮)

5月4~6日の2泊3日で、京都・滋賀への一人旅に出ました。
初日は新幹線を京都で下車して近鉄や京阪を乗り継ぎ、まずは・・・

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石清水八幡宮

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一ノ鳥居の脇をかすめるように通るこちらは、東高野街道。

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本当はちゃんと参道を伝って男山を登るべきところだけど・・・

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気が急いている私は、こちらでスパッと(笑)

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石清水八幡宮
都の裏鬼門を守護する王城鎮護の地で、武運長久の神として全国の武士の尊崇を集めてきました。

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そして今回、私が石清水八幡宮を旅の最初の目的に選んだ理由はこちら。
春季京都非公開文化財特別公開(H28年4月29日~5月8日)の一環で、御本殿に上がって織田信長寄進の黄金の雨樋を拝観することができるのです!

去る年十二月十六日、斧初。然うして、内陳・下陳の間に木戸井これあり。朽腐し、雨漏り、癈壊に及ぶの間、今度は、末代の為に候の間、からかねにて鋳物にさせられ、長さ六間にて候を五つに鋳物に仰せ付けられ、
(信長公記 巻十三「八幡御造営の事」より)

からかね
(唐金)とは青銅のことで、黄金の雨樋はそれに金箔を施した金銅製になります。

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それでは早速・・・待ちに待った瞬間です。

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本殿内部は撮影禁止のため、こちらでご紹介。
左下の丸写真が黄金の雨樋です。今でも文字通り黄金色に輝き、内殿と外殿の相の間を東西に貫いていました。拝観できて感激です。

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西総門周辺の信長塀

当春三月、下遷宮ありて、程なく、社頭・宝殿、葺合せ、築地・楼門造畢せしめ、(略)
倍信長の御武運長久、御家門繁永の基なり。参詣の輩、貴賎群集をなし、弥尊み拝呈す。八月中旬まで、九ケ月に成就せしめ畢んぬ。
(同)

或いはこちらの築地塀も、信長の肝煎りで進められた天正8年の遷宮の折に造営されたものかもしれません。

※また、「信長公記」を読む限りは信長自身がこの時、実際に石清水八幡宮を訪れたようには書かれていませんが、当社の編年史には;
天正八年八月 織田信長参拝ス
という記録も残っているそうです。

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ところで石清水八幡宮の鎮座する男山、南北朝時代に後村上天皇が陣所として使われた城跡でもあるようで、東側の斜面には横堀のような痕跡も見受けられました。

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帰りは裏参道伝いに下山します。

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安居橋
慶応4年の鳥羽伏見の戦いで一度焼失しています。

・・・という訳でこの後は、鳥羽伏見最終戦・橋本の戦い跡地をめぐります。

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2016年5月 3日 (火)

韮山歴史散策

GW前半の5月1日、家族のリクエストでドライブへ出かけることに・・・。
ところが、いつもの如く具体的な行き先の提示はなく、干物でも買いたいからとりあえず伊豆方面へ、という至ってアバウトなもの。
伊豆ならどこでもいいんだね?ってことで向かった先は・・・韮山

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という訳で、まずは韮山反射炉から。

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平成27年に「明治日本の産業革命遺産」の一つとして、世界文化遺産にも登録されました。

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鋳口(右)に焚口(左)
焚口に石炭などの燃料を入れて火力を高め、鋳口から溶解させる銑鉄を入れました。

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実際にこうした大砲を鋳造した実績を持つ反射炉としては、国内唯一の現存なのだそうです。

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ま、それでも見学は5分もあれば充分・・・かな(笑)

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韮山代官・江川太郎左衛門の像と反射炉
韮山反射炉は江川家36代・英龍の建議で築造が開始され、37代・英敏の時に完成しました。
「江川太郎左衛門」は代々、日野など武蔵の天領(他に相模・駿河・甲斐も)の代官も務めてきましたので、個人的にとても興味深い人物でもあります。

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展望スペースの高台より

この後は車で少し移動し、家族とは別行動を取って韮山城へ向かっていたら・・・

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「山木判官平兼隆館跡」の標識が。
せっかくなので向かってみましたが・・・如何せんこれ以外に案内標識がなく、地元の方に訊ねながらようやく辿り着いたのが・・・

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・・・こちら。
写真右上に表示のある通り、この坂の上辺りが館跡らしいのですが・・・全くの住宅地です。

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確かに地形に名残は感じられましたが、とてもゆっくり探索できるような雰囲気でもなかったので、早々に退散しました。
山木兼隆といえば、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵した際、最初の攻撃対象とされた人物。
まさに平家追討~鎌倉幕府創設へと繋がる端緒となった地でもあります。

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江川邸を眺めつつ・・・

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韮山城

韮山城古絵図
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韮山城は伊勢盛時(北条早雲)による北条家勃興の地ともなった城で、その後も北条家の伊豆支配の拠点として整備されました。
天正18年の豊臣秀吉による小田原征伐では、北条氏規が籠城して約100日間抵抗を続けましたが、最後は降伏開城しています。

中心部の縄張としては、北から南へ向かって三ノ丸→権現曲輪→二ノ丸→本丸と連ねた構造になっています。

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まずは三ノ丸と権現曲輪の間の堀切からめぐります。

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その堀切を登ったところから振り返る。
枡形状にクランクしており、或いは堀底道としても利用した虎口だったのかのしれません。

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三ノ丸は現在、テニスコートになっていましたが、周囲には見事な土塁が残っています。

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権現曲輪
お社の建つ位置は・・・櫓台かな?

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権現曲輪の土塁・・・ここも素敵です。

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権現曲輪と二ノ丸間の堀切
権現曲輪から見ると、二ノ丸の切岸の高さに圧倒されます。

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かなり改変を受けていそうな堀切の西側。
写真左の階段を上がって二ノ丸へ入ります。

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二ノ丸

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二ノ丸から見る本丸の切岸
その手前は(薄いですが)堀切で、この遊歩道?が土橋になっています。

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本丸
天正18年の小田原征伐で豊臣軍が包囲陣を布いた天ヶ岳の山容が、すぐ眼前に迫ります。

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本丸の南には長い土塁線が続いていました。
とても格好いいです。

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少し土塁上を歩いていくと・・・ん?!

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先端付近に土塁で四角く囲われた空間がありました。
虎口もあります。

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土塁下より。

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突き当たりの土塁は上から見ると土橋のようにもなっており、その奥には更にもう一つの空間がありました。
先端部分はまぁ見張り・攻撃陣地として理解できるとしても、手前の四角い空間はいったい何のためのスペースだったのでしょうねぇ・・・不思議な構造でした。

さて、家族を待たせているので急いで戻ります。

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城山を東側へ下りた地点。
古絵図に「沼」とある池の畔ですが・・・船着き場の跡かなぁ?

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韮山城遠景
駆け足での城攻めとなりましたが、なかなか楽しめました。次は豊臣軍の包囲陣めぐりもしてみたいですね。

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お次は蛭ヶ小島
公園に移築復原された旧上野家住宅

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内部も見学できます。

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蛭ヶ小島といえば、伊豆に流された源頼朝が過ごしていた地とも伝わります。

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頼朝と妻・政子の像

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2人の見つめる先は・・・?

本当はこの後、北条時政の墓所がある願成就院や、その背後の北条氏邸跡にも寄りたかったのですが、入口の細い路地を見落として断念・・・。

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最後は沼津港まで移動して食事。

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家族と一緒だとなかなか突っ込んだ史跡めぐりはできませんが、まぁいい気分転換にはなりました。
帰りの事故渋滞には参りましたが…(^_^;)

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