韮山歴史散策
GW前半の5月1日、家族のリクエストでドライブへ出かけることに・・・。
ところが、いつもの如く具体的な行き先の提示はなく、干物でも買いたいからとりあえず伊豆方面へ、という至ってアバウトなもの。
伊豆ならどこでもいいんだね?ってことで向かった先は・・・韮山。

という訳で、まずは韮山反射炉から。

平成27年に「明治日本の産業革命遺産」の一つとして、世界文化遺産にも登録されました。

鋳口(右)に焚口(左)
焚口に石炭などの燃料を入れて火力を高め、鋳口から溶解させる銑鉄を入れました。

実際にこうした大砲を鋳造した実績を持つ反射炉としては、国内唯一の現存なのだそうです。

ま、それでも見学は5分もあれば充分・・・かな(笑)

韮山代官・江川太郎左衛門の像と反射炉
韮山反射炉は江川家36代・英龍の建議で築造が開始され、37代・英敏の時に完成しました。
「江川太郎左衛門」は代々、日野など武蔵の天領(他に相模・駿河・甲斐も)の代官も務めてきましたので、個人的にとても興味深い人物でもあります。

展望スペースの高台より
この後は車で少し移動し、家族とは別行動を取って韮山城へ向かっていたら・・・

「山木判官平兼隆館跡」の標識が。
せっかくなので向かってみましたが・・・如何せんこれ以外に案内標識がなく、地元の方に訊ねながらようやく辿り着いたのが・・・

・・・こちら。
写真右上に表示のある通り、この坂の上辺りが館跡らしいのですが・・・全くの住宅地です。

確かに地形に名残は感じられましたが、とてもゆっくり探索できるような雰囲気でもなかったので、早々に退散しました。
山木兼隆といえば、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵した際、最初の攻撃対象とされた人物。
まさに平家追討~鎌倉幕府創設へと繋がる端緒となった地でもあります。

江川邸を眺めつつ・・・

韮山城へ
韮山城古絵図

韮山城は伊勢盛時(北条早雲)による北条家勃興の地ともなった城で、その後も北条家の伊豆支配の拠点として整備されました。
天正18年の豊臣秀吉による小田原征伐では、北条氏規が籠城して約100日間抵抗を続けましたが、最後は降伏開城しています。
中心部の縄張としては、北から南へ向かって三ノ丸→権現曲輪→二ノ丸→本丸と連ねた構造になっています。

まずは三ノ丸と権現曲輪の間の堀切からめぐります。

その堀切を登ったところから振り返る。
枡形状にクランクしており、或いは堀底道としても利用した虎口だったのかのしれません。

三ノ丸は現在、テニスコートになっていましたが、周囲には見事な土塁が残っています。

権現曲輪
お社の建つ位置は・・・櫓台かな?

権現曲輪の土塁・・・ここも素敵です。

権現曲輪と二ノ丸間の堀切
権現曲輪から見ると、二ノ丸の切岸の高さに圧倒されます。

かなり改変を受けていそうな堀切の西側。
写真左の階段を上がって二ノ丸へ入ります。

二ノ丸

二ノ丸から見る本丸の切岸
その手前は(薄いですが)堀切で、この遊歩道?が土橋になっています。

本丸
天正18年の小田原征伐で豊臣軍が包囲陣を布いた天ヶ岳の山容が、すぐ眼前に迫ります。

本丸の南には長い土塁線が続いていました。
とても格好いいです。

少し土塁上を歩いていくと・・・ん?!

先端付近に土塁で四角く囲われた空間がありました。
虎口もあります。

土塁下より。

突き当たりの土塁は上から見ると土橋のようにもなっており、その奥には更にもう一つの空間がありました。
先端部分はまぁ見張り・攻撃陣地として理解できるとしても、手前の四角い空間はいったい何のためのスペースだったのでしょうねぇ・・・不思議な構造でした。
さて、家族を待たせているので急いで戻ります。

城山を東側へ下りた地点。
古絵図に「沼」とある池の畔ですが・・・船着き場の跡かなぁ?

韮山城遠景
駆け足での城攻めとなりましたが、なかなか楽しめました。次は豊臣軍の包囲陣めぐりもしてみたいですね。

お次は蛭ヶ小島へ
公園に移築復原された旧上野家住宅

内部も見学できます。

蛭ヶ小島といえば、伊豆に流された源頼朝が過ごしていた地とも伝わります。

頼朝と妻・政子の像

2人の見つめる先は・・・?
本当はこの後、北条時政の墓所がある願成就院や、その背後の北条氏邸跡にも寄りたかったのですが、入口の細い路地を見落として断念・・・。

最後は沼津港まで移動して食事。

家族と一緒だとなかなか突っ込んだ史跡めぐりはできませんが、まぁいい気分転換にはなりました。
帰りの事故渋滞には参りましたが…(^_^;)
ところが、いつもの如く具体的な行き先の提示はなく、干物でも買いたいからとりあえず伊豆方面へ、という至ってアバウトなもの。
伊豆ならどこでもいいんだね?ってことで向かった先は・・・韮山。

という訳で、まずは韮山反射炉から。

平成27年に「明治日本の産業革命遺産」の一つとして、世界文化遺産にも登録されました。

鋳口(右)に焚口(左)
焚口に石炭などの燃料を入れて火力を高め、鋳口から溶解させる銑鉄を入れました。

実際にこうした大砲を鋳造した実績を持つ反射炉としては、国内唯一の現存なのだそうです。

ま、それでも見学は5分もあれば充分・・・かな(笑)

韮山代官・江川太郎左衛門の像と反射炉
韮山反射炉は江川家36代・英龍の建議で築造が開始され、37代・英敏の時に完成しました。
「江川太郎左衛門」は代々、日野など武蔵の天領(他に相模・駿河・甲斐も)の代官も務めてきましたので、個人的にとても興味深い人物でもあります。

展望スペースの高台より
この後は車で少し移動し、家族とは別行動を取って韮山城へ向かっていたら・・・

「山木判官平兼隆館跡」の標識が。
せっかくなので向かってみましたが・・・如何せんこれ以外に案内標識がなく、地元の方に訊ねながらようやく辿り着いたのが・・・

・・・こちら。
写真右上に表示のある通り、この坂の上辺りが館跡らしいのですが・・・全くの住宅地です。

確かに地形に名残は感じられましたが、とてもゆっくり探索できるような雰囲気でもなかったので、早々に退散しました。
山木兼隆といえば、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵した際、最初の攻撃対象とされた人物。
まさに平家追討~鎌倉幕府創設へと繋がる端緒となった地でもあります。

江川邸を眺めつつ・・・

韮山城へ
韮山城古絵図

韮山城は伊勢盛時(北条早雲)による北条家勃興の地ともなった城で、その後も北条家の伊豆支配の拠点として整備されました。
天正18年の豊臣秀吉による小田原征伐では、北条氏規が籠城して約100日間抵抗を続けましたが、最後は降伏開城しています。
中心部の縄張としては、北から南へ向かって三ノ丸→権現曲輪→二ノ丸→本丸と連ねた構造になっています。

まずは三ノ丸と権現曲輪の間の堀切からめぐります。

その堀切を登ったところから振り返る。
枡形状にクランクしており、或いは堀底道としても利用した虎口だったのかのしれません。

三ノ丸は現在、テニスコートになっていましたが、周囲には見事な土塁が残っています。

権現曲輪
お社の建つ位置は・・・櫓台かな?

権現曲輪の土塁・・・ここも素敵です。

権現曲輪と二ノ丸間の堀切
権現曲輪から見ると、二ノ丸の切岸の高さに圧倒されます。

かなり改変を受けていそうな堀切の西側。
写真左の階段を上がって二ノ丸へ入ります。

二ノ丸

二ノ丸から見る本丸の切岸
その手前は(薄いですが)堀切で、この遊歩道?が土橋になっています。

本丸
天正18年の小田原征伐で豊臣軍が包囲陣を布いた天ヶ岳の山容が、すぐ眼前に迫ります。

本丸の南には長い土塁線が続いていました。
とても格好いいです。

少し土塁上を歩いていくと・・・ん?!

先端付近に土塁で四角く囲われた空間がありました。
虎口もあります。

土塁下より。

突き当たりの土塁は上から見ると土橋のようにもなっており、その奥には更にもう一つの空間がありました。
先端部分はまぁ見張り・攻撃陣地として理解できるとしても、手前の四角い空間はいったい何のためのスペースだったのでしょうねぇ・・・不思議な構造でした。
さて、家族を待たせているので急いで戻ります。

城山を東側へ下りた地点。
古絵図に「沼」とある池の畔ですが・・・船着き場の跡かなぁ?

韮山城遠景
駆け足での城攻めとなりましたが、なかなか楽しめました。次は豊臣軍の包囲陣めぐりもしてみたいですね。

お次は蛭ヶ小島へ
公園に移築復原された旧上野家住宅

内部も見学できます。

蛭ヶ小島といえば、伊豆に流された源頼朝が過ごしていた地とも伝わります。

頼朝と妻・政子の像

2人の見つめる先は・・・?
本当はこの後、北条時政の墓所がある願成就院や、その背後の北条氏邸跡にも寄りたかったのですが、入口の細い路地を見落として断念・・・。

最後は沼津港まで移動して食事。

家族と一緒だとなかなか突っ込んだ史跡めぐりはできませんが、まぁいい気分転換にはなりました。
帰りの事故渋滞には参りましたが…(^_^;)
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