橋本の戦い
慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦い。その戦線は鳥羽・伏見から淀を経て(参照記事その1/その2/その3)、石清水八幡宮周辺~橋本へと移っていきます。
石清水八幡宮の男山から淀方面の眺め。まさに鳥羽伏見の戦い、その終盤戦が繰り広げられた光景です。
淀から京街道が男山北麓を経由して西麓の橋本宿を抜け、旧幕府軍が最終的に敗走する大坂へと続いています。
男山から淀川沿いを西へ向かいます。堤に立派な木が生えていました。
こういうクランク・・・好きです(笑)
しばらくすると淀川は南へ折れ、その対岸には山崎の天王山が見えてきます。
そして背後を振り返ると、石清水八幡宮の男山。
一ヶ月六日朝七時頃山崎天王山下タ関門藤堂和泉守固メ八幡山江ハ松平越中守兵戸釆女正其外歩兵相固メル橋本宿ハ会津兵新選組遊撃隊見廻リ組固メル八幡堤ハ薩兵寄ル新選組ト大戦イ
(永倉新八「浪士文久報国記事」より/以下青文字引用同)
淀川西岸の山崎方面は津藩藤堂家が守備し、男山(八幡山)には桑名・大垣藩・その他の旧幕府兵が布陣。会津藩や新選組・見廻組は淀川東岸の橋本宿に入って、新政府軍の襲来に備えていました。
天王山と男山の間を縫うように、淀川に沿って通る京街道には道標も。
文政己卯二年二月吉日・・・1819年ですね。
裏にはこの後、旧幕府軍が敗走することになる「大坂」の文字も見えます。
この街道に沿って、戦闘が展開されていったことが偲ばれます。
六日暁天ニ敵亦進来ス、我軍橋本入口ニ胸壁ヲ築キ置キ互ニ炮撃ス、
(島田魁「日記」より/以下緑文字引用同)
橋本宿の北にある小山
まさに島田魁のいう橋本入口のような場所で、実際に京街道へ向けて築かれた塹壕(胸壁)が今でも一部残っているらしいのですが・・・
残念ながらフェンスには厳重に南京錠が掛けられ、立ち入ることは出来ませんでした。
遠目にも気になる地表面が見えていましたが・・・
何とかフェンス越しにも撮影を試みましたが・・・事前に教わった塹壕の位置は、物凄い竹藪でちょっと無理ですね…(^_^;)
でもまぁ島田が書き残した胸壁が、ここである可能性は充分に高いと思います。
京街道に戻ります。橋本宿の入口(北)付近に建っていた道標。
柳谷わたし場の道標
渡し場から見る橋本宿
会津藩や新選組、見廻組らが守備した地です。
橋本宿を貫く京街道
あのS字・・・渋い。
迚モ大垣兵ニハ防コト六ケ敷、夫故ニ土方歳三、原田左之助兵ヲ率キ三丁ホド参ルト薩兵コチラヲ向イ炮発イタス、漸くノ事ニテ胸壁ノ内エ引揚ケ
土方歳三も新選組本隊を率いて、橋本に布陣していました。
そこへ遂に薩摩藩兵を中心とする新政府軍が攻め寄せ、八幡堤で大垣藩兵と戦端を開きます。大垣兵だけでは心許ないと、土方は原田と共に兵を率いて八幡堤を進んで援軍に向かいますが、薩摩兵の激しい銃撃を受け、やっとのことで胸壁へと引き上げています。
ここでいう土方の進んだ八幡堤が具体的にどの位置を指すのか分かりませんが、前後の状況からして淀川南岸の堤防を東へ、男山方面(写真)へ向かったものと思います。
また、彼らが逃げ帰った胸壁は、先ほどご紹介した竹藪の小山かもしれません。
永倉新八、斎藤一馬兵ヲ率テ八幡山中副ニテ戦ヲル
なおこの時、永倉は斎藤一と共に男山の中腹に陣取っていました。
という訳で男山を下山する際、それらしき痕跡がないか注意深く見てみましたが、殆どが切り立った自然地形でした。写真は裏参道沿いにあった、塹壕に見えなくもない痕跡。
地形からして、新政府軍が攻め登ってくる(と想定される)ルートも限られてきますので・・・あながちなくもない、かな?
八幡堤ノ戦イ藤堂裏切致シ夫故ニ兵散乱イタサムト心得夫ト見ルヨリ土方歳三、原田佐之介猶ヲ進メト令ヲカケ其内ニ藤堂兵会津兵ニ追払ハレタト注進コレアリ
戦闘は山崎方面に布陣した津藩が新政府軍に寝返り、淀川対岸から旧幕府軍に向けて砲撃を加えてきたことで大きく新政府軍優勢に傾きます。
それでも一度は盛り返したようですが、見廻組頭取の佐々木只三郎が命を落とすことになる重傷を負うなど、旧幕府軍は大きな被害を出していきます。
橋本宿の後方(南)、旧幕府軍の本営が置かれた久修園院と楠葉砲台跡地一帯。
久修園院
大坂夏の陣で一度被災しているようです。残念ながら拝観は謝絶のようでした。
復原?された楠葉砲台(北側)
楠葉砲台越しに、津藩が砲撃を加えてきた山崎・高浜砲台方面を眺める。
楠葉砲台南端の堀
奥には天王山
然ルニ山嵜ノ関門藤堂藩返シテ大小銃ヲ烈布放ツ、故ニ我軍大瓦解遂ニ大坂迄退ク、
支え切れなくなった旧幕府軍は崩れ、大坂へと敗走することになりました。
なおこの時、永倉・斎藤は男山に取り残され、慌てて引き返す途中、敵に包囲されかけて窮地に陥りますが辛うじて脱し、危うく難を逃れました。
ちなみに京阪橋本駅の目の前に建つ西遊寺には、久修園院にあった旧幕府軍に弾薬庫として使われた建物が移築されているそうなのですが・・・
どれがその移築建物なのか、判断がつきませんでした。
※西遊寺には天正10年、山崎合戦で明智光秀を破った羽柴秀吉も立ち寄っているそうです。
最後に・・・楠葉砲台から南へ、旧幕府軍が敗走したであろうルートを3kmほど南下、楠葉橋近くに建つ戊辰役戦没者供養墓。
京街道が当時通っていた場所で、おそらくは大坂への敗走途中で命を落したのであろう兵士8名を供養しています。
さて、予想外の暑さと2泊3日分の荷物を背負ったままでの探索に思いの外体力を奪われたので、初日はここまで。
電車で京都駅へ戻り、ホテルへチェックインした後は一歩も動けませんでした・・・。
石清水八幡宮の男山から淀方面の眺め。まさに鳥羽伏見の戦い、その終盤戦が繰り広げられた光景です。
淀から京街道が男山北麓を経由して西麓の橋本宿を抜け、旧幕府軍が最終的に敗走する大坂へと続いています。
男山から淀川沿いを西へ向かいます。堤に立派な木が生えていました。
こういうクランク・・・好きです(笑)
しばらくすると淀川は南へ折れ、その対岸には山崎の天王山が見えてきます。
そして背後を振り返ると、石清水八幡宮の男山。
一ヶ月六日朝七時頃山崎天王山下タ関門藤堂和泉守固メ八幡山江ハ松平越中守兵戸釆女正其外歩兵相固メル橋本宿ハ会津兵新選組遊撃隊見廻リ組固メル八幡堤ハ薩兵寄ル新選組ト大戦イ
(永倉新八「浪士文久報国記事」より/以下青文字引用同)
淀川西岸の山崎方面は津藩藤堂家が守備し、男山(八幡山)には桑名・大垣藩・その他の旧幕府兵が布陣。会津藩や新選組・見廻組は淀川東岸の橋本宿に入って、新政府軍の襲来に備えていました。
天王山と男山の間を縫うように、淀川に沿って通る京街道には道標も。
文政己卯二年二月吉日・・・1819年ですね。
裏にはこの後、旧幕府軍が敗走することになる「大坂」の文字も見えます。
この街道に沿って、戦闘が展開されていったことが偲ばれます。
六日暁天ニ敵亦進来ス、我軍橋本入口ニ胸壁ヲ築キ置キ互ニ炮撃ス、
(島田魁「日記」より/以下緑文字引用同)
橋本宿の北にある小山
まさに島田魁のいう橋本入口のような場所で、実際に京街道へ向けて築かれた塹壕(胸壁)が今でも一部残っているらしいのですが・・・
残念ながらフェンスには厳重に南京錠が掛けられ、立ち入ることは出来ませんでした。
遠目にも気になる地表面が見えていましたが・・・
何とかフェンス越しにも撮影を試みましたが・・・事前に教わった塹壕の位置は、物凄い竹藪でちょっと無理ですね…(^_^;)
でもまぁ島田が書き残した胸壁が、ここである可能性は充分に高いと思います。
京街道に戻ります。橋本宿の入口(北)付近に建っていた道標。
柳谷わたし場の道標
渡し場から見る橋本宿
会津藩や新選組、見廻組らが守備した地です。
橋本宿を貫く京街道
あのS字・・・渋い。
迚モ大垣兵ニハ防コト六ケ敷、夫故ニ土方歳三、原田左之助兵ヲ率キ三丁ホド参ルト薩兵コチラヲ向イ炮発イタス、漸くノ事ニテ胸壁ノ内エ引揚ケ
土方歳三も新選組本隊を率いて、橋本に布陣していました。
そこへ遂に薩摩藩兵を中心とする新政府軍が攻め寄せ、八幡堤で大垣藩兵と戦端を開きます。大垣兵だけでは心許ないと、土方は原田と共に兵を率いて八幡堤を進んで援軍に向かいますが、薩摩兵の激しい銃撃を受け、やっとのことで胸壁へと引き上げています。
ここでいう土方の進んだ八幡堤が具体的にどの位置を指すのか分かりませんが、前後の状況からして淀川南岸の堤防を東へ、男山方面(写真)へ向かったものと思います。
また、彼らが逃げ帰った胸壁は、先ほどご紹介した竹藪の小山かもしれません。
永倉新八、斎藤一馬兵ヲ率テ八幡山中副ニテ戦ヲル
なおこの時、永倉は斎藤一と共に男山の中腹に陣取っていました。
という訳で男山を下山する際、それらしき痕跡がないか注意深く見てみましたが、殆どが切り立った自然地形でした。写真は裏参道沿いにあった、塹壕に見えなくもない痕跡。
地形からして、新政府軍が攻め登ってくる(と想定される)ルートも限られてきますので・・・あながちなくもない、かな?
八幡堤ノ戦イ藤堂裏切致シ夫故ニ兵散乱イタサムト心得夫ト見ルヨリ土方歳三、原田佐之介猶ヲ進メト令ヲカケ其内ニ藤堂兵会津兵ニ追払ハレタト注進コレアリ
戦闘は山崎方面に布陣した津藩が新政府軍に寝返り、淀川対岸から旧幕府軍に向けて砲撃を加えてきたことで大きく新政府軍優勢に傾きます。
それでも一度は盛り返したようですが、見廻組頭取の佐々木只三郎が命を落とすことになる重傷を負うなど、旧幕府軍は大きな被害を出していきます。
橋本宿の後方(南)、旧幕府軍の本営が置かれた久修園院と楠葉砲台跡地一帯。
久修園院
大坂夏の陣で一度被災しているようです。残念ながら拝観は謝絶のようでした。
復原?された楠葉砲台(北側)
楠葉砲台越しに、津藩が砲撃を加えてきた山崎・高浜砲台方面を眺める。
楠葉砲台南端の堀
奥には天王山
然ルニ山嵜ノ関門藤堂藩返シテ大小銃ヲ烈布放ツ、故ニ我軍大瓦解遂ニ大坂迄退ク、
支え切れなくなった旧幕府軍は崩れ、大坂へと敗走することになりました。
なおこの時、永倉・斎藤は男山に取り残され、慌てて引き返す途中、敵に包囲されかけて窮地に陥りますが辛うじて脱し、危うく難を逃れました。
ちなみに京阪橋本駅の目の前に建つ西遊寺には、久修園院にあった旧幕府軍に弾薬庫として使われた建物が移築されているそうなのですが・・・
どれがその移築建物なのか、判断がつきませんでした。
※西遊寺には天正10年、山崎合戦で明智光秀を破った羽柴秀吉も立ち寄っているそうです。
最後に・・・楠葉砲台から南へ、旧幕府軍が敗走したであろうルートを3kmほど南下、楠葉橋近くに建つ戊辰役戦没者供養墓。
京街道が当時通っていた場所で、おそらくは大坂への敗走途中で命を落したのであろう兵士8名を供養しています。
さて、予想外の暑さと2泊3日分の荷物を背負ったままでの探索に思いの外体力を奪われたので、初日はここまで。
電車で京都駅へ戻り、ホテルへチェックインした後は一歩も動けませんでした・・・。
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コメント
こんにちは。初めまして。
地域のニュースを検索中、偶然、こちらのブログを見つけ、拝読させて頂きました。
もともと歴史好きで特に新撰組が好きなため、とても興味深い記事でした。現在、橋本在住ですが、自分の住む地域を土方さん達が守っていたとは・・・この地に住んだことを縁だと思いたい(笑)
見慣れた景色も明日から違って見えるかもしれませんね。このような記事をアップして下さり、偶然にしろそれを読むことができてたいへん光栄でした。ありがとうございました。
写真にある堤防の大楠は200年余の樹齢があるそうなのですが、河川整備のための伐採計画があるのだとか・・・幕府軍の壊走を見届けた歴史の証人・・・何だか寂しいものですね。中之芝地区の台場公園の更地はその多くはもうすぐ宅地化されます。つい2年ほど前までは蛙の鳴く風情ある田んぼだったんですけどねー。橋本宿も宿場町として栄えた当時を偲ばせる建物は随分減りましたし、利便性と引き換えに、少しずつ幕末は遠ざかっていくのでしょうね。
投稿: りょう | 2016年5月23日 (月) 02時06分
りょうさん>
こちらこそご訪問、ありがとうございます。歴史好き(特に織田信長と土方歳三)が高じて全国ゆかりの地を渡り歩いております。
堤防の大木、推定樹齢200年ということは間違いなく歴史を目撃していますね。なんとか残す方向に向かってくれるといいのですが・・・。
台場も以前は田園の中に「本物」の遺構が残っていたと仲間から聞いております。その時に訪れたかったものです。
お住まいの地域は僅か一日とはいえ、間違いなく土方をはじめとする新選組の面々が戦った場所です。是非当時に思いを馳せて散策されてください。
投稿: しみず@管理人 | 2016年5月23日 (月) 22時42分
はじめまして。
今年橋本に引っ越してきて、なんとなく古い建物や道標や灯篭が残っているな~と思っていて調べていたら「新撰組」との関連があることがわかりました。私は全く歴史に興味がなく「新撰組」も一部の人員の名前くらいしかわからなかったのですが、せっかく京都に引っ越してきたし、ちょっと勉強でもしてみようかな~と軽く書籍を購入したのですが、橋本の名前すらなくてネットで調べていたらこちらのブログを見つけました。
購入した書籍ではわからなかったことが書いてあり、とても読みやすかったです。
「新撰組」の元は会津であることを知って私の実父が会津出身であることで縁を感じました。
写真にもあります道標と同じようなものは住まいの目の前にあり、たどっていくと家の前を土方歳三が通ったかもしれない!と思ったりして
ます。
写真にありました大きなクスノキは、地元住民の反対運動の甲斐なく今年移されて、綺麗に舗装されてしまいました。
これを機会にもう少し「新撰組」を勉強してみたいと思ってます。
駅前の散策もしてみたいな~と思ってます。
(駅は利用しますが電車使う時だけなので)
拙いコメント失礼いたしました。
投稿: Qoo | 2018年11月15日 (木) 17時42分
Qoo様>
こちらのコメントを見落としておりました。今更ながら大変申し訳ございません。
その後、移された楠は元気にしておりますでしょうか?間違いなく、土方たちの戦いを見守った古木…景観は時代と共に少しずつ変わっても、何とか当時を知る息吹がこの先も残されることを願っています。
投稿: しみず@管理人 | 2019年12月22日 (日) 21時01分