桶狭間への道…美濃路(清州~熱田)
永禄三年五月十九日は、言わずと知れた桶狭間合戦の日。現在の暦に直すと1560年の6月12日にあたります。
・・・という訳で2016年6月12日、456年前の織田信長と同じルートを辿るべく、清州から熱田までの美濃路を歩き通してみました。
美濃路は熱田で海路を往く東海道から分岐して、陸路を北西へ進んで名古屋や清州を経由し、垂井で中山道に合流していた江戸時代の街道です。
しかしその原型は古代から存在していたとも考えられており、織田信長の尾張統治時代には既に重要な交通路として機能していたものと思われます。

清州城跡に建つ織田信長像
案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ候由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆、
岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、
(信長公記 首巻「今川義元討死の事」より。以下同)

五月十九日の夜明け方、今川軍による鷲津・丸根砦攻撃開始の急報を受けた信長は、敦盛を舞い、慌ただしく準備を整えると、主従僅か六騎で清州城を飛び出しました。
・・・それでは、私の美濃路歩きもスタートです。

美濃路清州宿本陣跡
明治天皇も小休されています。

清州宿の中心地に建つ清涼寺。
清涼寺の前で美濃路は鉤型に折れ、往時は高札場が設けられていたことから「札の辻」と呼ばれていました。

清涼寺前の札の辻

五条川に架かる五条橋の袂に清州古城址の碑
奥の対岸に復興天守がチラッと覗いています。

五条橋を渡って右折、美濃路はすぐに川沿いの道から逸れて左斜めへ入っていきます。

ここからしばらくは、ひたすら南下します。

沿道には今も、風情のある建物が所々に残っていました。

この先で一旦、県道127号に合流します。

127号に合流した辺りは「本町の松原」と呼ばれ、往時は多くの松が生い茂っていたそうですが・・・

今となっては見る影も無し。

127号との合流点から3~400mほど南下し、現在はコンビニや郵便局の並ぶ角を左→右と鉤型にクランクした先の美濃路。しばらく行くと・・・

正覚寺があります。
左隅に写っているのは、須ヶ口の一里塚にあったと云う道標です。

正覚寺境内にある今川塚
義元の頸同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ候なり。清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り候海道に、義元塚とて築かせられ、弔の為にとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き候ひし。
桶狭間で今川義元を討ち取った織田信長は清州へ凱旋後、義元の首は駿河に送り届け、須ヶ口(須賀口)に義元を弔う為の塚を築き、卒塔婆を建てて丁寧に供養しました。
写真の今川塚供養碑は寛文元年(1661)に建立され、1kmほど南に離れた個人の所有地にありましたが、2007年に正覚寺境内に移されています。
※信長が築かせた義元塚について、地元には更に別の伝承地もあるのだそうです。いずれにしても須ヶ口周辺であることに変わりはありませんが。
なお正覚寺には他に、松平忠吉とその母を供養する宝篋印塔もあります。

引き続き美濃路を進みます。

須ヶ口一里塚跡の碑

一里塚跡を過ぎた辺りが、件の須ヶ口と呼ばれる地区になります。
旧街道の風情が割とよく残っています。

新川を越えた先にある瑞正寺に建つ宝塔。高さ日本一の宝塔なのだそうです。
すぐ近くに尾張藩の処刑場があり、罪人たちを弔うために建てられました。

ところでこの辺りの美濃路、左右に目を向けるとご覧のような地形になっていました。
こちらは西側で・・・

こちらは東側。美濃路の部分だけが盛り上がっています。
すぐ近くを五条川や庄内川が流れているので、美濃路はその堤道のようになっていたのかもしれません。

更に進みます。

問屋記念館の前を過ぎ・・・

庄内川に差し掛かる手前、岩倉街道との追分。
右:美濃路/左:岩倉街道

枇杷島橋の欄干に架かっていました…尾張名所図会に描かれた江戸時代の枇杷島橋。

現在の枇杷島橋と庄内川

ところで欄干には他に、こんな絵図も展示されていました。
山車を曳いて盛り上がる祭りの様子ですね。

ちょうど時期だったのか、町の至る所で絵図のような山車を整備している光景を目にしました。

庄内川を越えた美濃路

枇杷島という地名の由来となった由緒を持つ清音寺。
沿道にはこうして、歴史ある寺社が数多く点在しています。

庄内用水を越えて・・・
(庄内用水については、コチラの記事でも少し取り上げました)

ようやくここまで辿り着きました・・・榎白山神社。
桶狭間へ向かう信長が、熱田に至るまでの道中に立ち寄って戦勝祈願した地として伝わっています。

白山神社前の説明板。
美濃路についても書かれています。

信長は那古野(現名古屋城付近)を居城としていた時代、庄内川で川狩りや水練に励んでおり、その道筋にある白山神社にも幾度となく立ち寄っていたものと思われます。
或いは戦勝祈願と共に、そうした若かりし頃から共に励んで鍛え上げた在地の将兵たちを掻き集めていったのかもしれません。
白山神社は桶狭間戦勝後、信長から太刀を寄進されています。

更に東へ、名古屋城方向へ進みます。

とある店舗前にあった清州街道の碑。

さて、名古屋城の天守や石垣が見えてきました。
清州へ移る前に信長が居城とした那古野城もこの付近にありました。こうして見ても、美濃路が信長の拠点を結ぶ重要な街道であったことがよく分かります。

堀川にぶつかったら川を越えず、その手前を右折します。
※この辺りから名古屋城下を抜けるまでの区間は特に近世の改変が加えられていそうですが、今のところ他に信長時代の街道筋を確定する手掛かりもないので、近世の美濃路の通りに進みます。

五条橋は横目にスルー

伊藤家住宅など、古い街並みを残す堀川沿いの美濃路。

そして伝馬橋で堀川を東側へ渡ります。

江戸時代の伝馬橋と美濃路

しばらくオフィス街のような伝馬町通りを真っ直ぐ進み、大町通との交差点を右折して南下します。

父・信秀の菩提寺である萬松寺を過ぎ・・・

道なりに南西へカーブしながら進むと・・・

街道脇に日置神社があります。
こちらにも桶狭間合戦の際、信長が戦勝祈願に立ち寄ったとの伝承が残ります。

戦勝後、日置神社には松千本が寄進されたそうですが・・・今となっては、その名残を感じることはできませんでした。

また、近くには父・信秀の居城だった古渡城もありました。
ま、桶狭間合戦時には既に廃城になっていたようですが。
(碑は浄土真宗大谷派名古屋別院境内)

さて、美濃路はこの先で国道19号に合流します。

最後に迎えた国道に合流してから熱田までの約5kmが、旧街道の風情もへったくれもなく、気力的にも結構きつかった・・・。

ようやく見えてみた熱田神宮の杜。
しかしすぐには境内に入らず、西面に沿って南へと進み・・・

境内の南西角を左に曲がり・・・

正門前を南へ右折、遮る国道1号線を越えたあの先に・・・

美濃路の起点となる、東海道との分岐点があります。
写真左からきて、左に折れて右奥へと伸びているのが旧東海道です。

その分岐点に建つ道標
東)北 さやつしま/同 みのち 道
南)寛政二戌年
西)東 江戸かいとう/北 なこやきそ道
北)南 京いせ七里の渡し/是より北あつた御本社貳丁 道

そして、東海道との分岐点にあった説明板。
かつてここには、源太夫社(上知我麻神社)がありました。(現在は熱田神宮境内に移動)
※なお、左の江戸期の絵図には先ほどの道標も描かれています。
あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ候へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。
そう、熱田までやってきた信長が、鷲津・丸根砦から立ち上る煙を見上げ、その陥落を悟ったのも、まさにこの場所だったのです。

東海道側から美濃路との追分を見る。
突き当りから右へ伸びているのが美濃路で、正面が源太夫社跡になります。

源太夫社跡に残るほうろく地蔵の足元には、東海道の標識も。

源太夫社跡付近から、信長が立ち上る煙を見た鷲津・丸根砦方面の眺め・・・その456年後。
浜手より御出で候へば、程近く候へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸けさせられ、先づ、たんげの御取出へ御出で候
熱田を出た信長は、満潮で通行が困難な浜手(旧東海道/今川軍は信長が援軍を送りづらいよう、満潮のタイミングを狙って攻撃を開始した)を避け、北へ迂回するかみ道を急いで丹下砦、そして善照寺砦へと進軍しています。

熱田から鳴海、桶狭間方面へと続く浜手/旧東海道。
かみ道については一つ前の赤塚の戦いの記事でも少し触れましたが、もっと精査した上でいずれトライしてみたいと思います。
※桶狭間合戦については、コチラの記事もご参照ください。

熱田神宮境内に残る信長塀。
いうまでもなく桶狭間での戦勝後、信長によって寄進されたものです。

最後に・・・私も旅の無事を謝して熱田の神にお参り。
朝の8:30に清州を出発し、熱田で今回の歩き旅を終えたのは午後の3時前後。
あちこち寄り道しながらとはいえ、思いの外時間を要しました。
清州から熱田までの距離、太田牛一は信長公記の中で三里と記していますが、後で計測してみたところ、実際には優に16kmは超えていました・・・(^_^;)
本当にクタクタになりましたが、信長たちは熱田から更に桶狭間へ向かい、今川の大軍と戦って勝利を収め、そしてその日のうちに美濃路を引き返して清州まで凱旋しているのです・・・。
現代人の感覚からは想像もできない体力・・・恐れ入りました。
さて、今回の旅もこのあたりで〆とさせていただきたいと存じます。
次の信長旅は・・・来月、かな?
・・・という訳で2016年6月12日、456年前の織田信長と同じルートを辿るべく、清州から熱田までの美濃路を歩き通してみました。
美濃路は熱田で海路を往く東海道から分岐して、陸路を北西へ進んで名古屋や清州を経由し、垂井で中山道に合流していた江戸時代の街道です。
しかしその原型は古代から存在していたとも考えられており、織田信長の尾張統治時代には既に重要な交通路として機能していたものと思われます。

清州城跡に建つ織田信長像
案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ候由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆、
岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、
(信長公記 首巻「今川義元討死の事」より。以下同)

五月十九日の夜明け方、今川軍による鷲津・丸根砦攻撃開始の急報を受けた信長は、敦盛を舞い、慌ただしく準備を整えると、主従僅か六騎で清州城を飛び出しました。
・・・それでは、私の美濃路歩きもスタートです。

美濃路清州宿本陣跡
明治天皇も小休されています。

清州宿の中心地に建つ清涼寺。
清涼寺の前で美濃路は鉤型に折れ、往時は高札場が設けられていたことから「札の辻」と呼ばれていました。

清涼寺前の札の辻

五条川に架かる五条橋の袂に清州古城址の碑
奥の対岸に復興天守がチラッと覗いています。

五条橋を渡って右折、美濃路はすぐに川沿いの道から逸れて左斜めへ入っていきます。

ここからしばらくは、ひたすら南下します。

沿道には今も、風情のある建物が所々に残っていました。

この先で一旦、県道127号に合流します。

127号に合流した辺りは「本町の松原」と呼ばれ、往時は多くの松が生い茂っていたそうですが・・・

今となっては見る影も無し。

127号との合流点から3~400mほど南下し、現在はコンビニや郵便局の並ぶ角を左→右と鉤型にクランクした先の美濃路。しばらく行くと・・・

正覚寺があります。
左隅に写っているのは、須ヶ口の一里塚にあったと云う道標です。

正覚寺境内にある今川塚
義元の頸同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ候なり。清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り候海道に、義元塚とて築かせられ、弔の為にとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き候ひし。
桶狭間で今川義元を討ち取った織田信長は清州へ凱旋後、義元の首は駿河に送り届け、須ヶ口(須賀口)に義元を弔う為の塚を築き、卒塔婆を建てて丁寧に供養しました。
写真の今川塚供養碑は寛文元年(1661)に建立され、1kmほど南に離れた個人の所有地にありましたが、2007年に正覚寺境内に移されています。
※信長が築かせた義元塚について、地元には更に別の伝承地もあるのだそうです。いずれにしても須ヶ口周辺であることに変わりはありませんが。
なお正覚寺には他に、松平忠吉とその母を供養する宝篋印塔もあります。

引き続き美濃路を進みます。

須ヶ口一里塚跡の碑

一里塚跡を過ぎた辺りが、件の須ヶ口と呼ばれる地区になります。
旧街道の風情が割とよく残っています。

新川を越えた先にある瑞正寺に建つ宝塔。高さ日本一の宝塔なのだそうです。
すぐ近くに尾張藩の処刑場があり、罪人たちを弔うために建てられました。

ところでこの辺りの美濃路、左右に目を向けるとご覧のような地形になっていました。
こちらは西側で・・・

こちらは東側。美濃路の部分だけが盛り上がっています。
すぐ近くを五条川や庄内川が流れているので、美濃路はその堤道のようになっていたのかもしれません。

更に進みます。

問屋記念館の前を過ぎ・・・

庄内川に差し掛かる手前、岩倉街道との追分。
右:美濃路/左:岩倉街道

枇杷島橋の欄干に架かっていました…尾張名所図会に描かれた江戸時代の枇杷島橋。

現在の枇杷島橋と庄内川

ところで欄干には他に、こんな絵図も展示されていました。
山車を曳いて盛り上がる祭りの様子ですね。

ちょうど時期だったのか、町の至る所で絵図のような山車を整備している光景を目にしました。

庄内川を越えた美濃路

枇杷島という地名の由来となった由緒を持つ清音寺。
沿道にはこうして、歴史ある寺社が数多く点在しています。

庄内用水を越えて・・・
(庄内用水については、コチラの記事でも少し取り上げました)

ようやくここまで辿り着きました・・・榎白山神社。
桶狭間へ向かう信長が、熱田に至るまでの道中に立ち寄って戦勝祈願した地として伝わっています。

白山神社前の説明板。
美濃路についても書かれています。

信長は那古野(現名古屋城付近)を居城としていた時代、庄内川で川狩りや水練に励んでおり、その道筋にある白山神社にも幾度となく立ち寄っていたものと思われます。
或いは戦勝祈願と共に、そうした若かりし頃から共に励んで鍛え上げた在地の将兵たちを掻き集めていったのかもしれません。
白山神社は桶狭間戦勝後、信長から太刀を寄進されています。

更に東へ、名古屋城方向へ進みます。

とある店舗前にあった清州街道の碑。

さて、名古屋城の天守や石垣が見えてきました。
清州へ移る前に信長が居城とした那古野城もこの付近にありました。こうして見ても、美濃路が信長の拠点を結ぶ重要な街道であったことがよく分かります。

堀川にぶつかったら川を越えず、その手前を右折します。
※この辺りから名古屋城下を抜けるまでの区間は特に近世の改変が加えられていそうですが、今のところ他に信長時代の街道筋を確定する手掛かりもないので、近世の美濃路の通りに進みます。

五条橋は横目にスルー

伊藤家住宅など、古い街並みを残す堀川沿いの美濃路。

そして伝馬橋で堀川を東側へ渡ります。

江戸時代の伝馬橋と美濃路

しばらくオフィス街のような伝馬町通りを真っ直ぐ進み、大町通との交差点を右折して南下します。

父・信秀の菩提寺である萬松寺を過ぎ・・・

道なりに南西へカーブしながら進むと・・・

街道脇に日置神社があります。
こちらにも桶狭間合戦の際、信長が戦勝祈願に立ち寄ったとの伝承が残ります。

戦勝後、日置神社には松千本が寄進されたそうですが・・・今となっては、その名残を感じることはできませんでした。

また、近くには父・信秀の居城だった古渡城もありました。
ま、桶狭間合戦時には既に廃城になっていたようですが。
(碑は浄土真宗大谷派名古屋別院境内)

さて、美濃路はこの先で国道19号に合流します。

最後に迎えた国道に合流してから熱田までの約5kmが、旧街道の風情もへったくれもなく、気力的にも結構きつかった・・・。

ようやく見えてみた熱田神宮の杜。
しかしすぐには境内に入らず、西面に沿って南へと進み・・・

境内の南西角を左に曲がり・・・

正門前を南へ右折、遮る国道1号線を越えたあの先に・・・

美濃路の起点となる、東海道との分岐点があります。
写真左からきて、左に折れて右奥へと伸びているのが旧東海道です。

その分岐点に建つ道標
東)北 さやつしま/同 みのち 道
南)寛政二戌年
西)東 江戸かいとう/北 なこやきそ道
北)南 京いせ七里の渡し/是より北あつた御本社貳丁 道

そして、東海道との分岐点にあった説明板。
かつてここには、源太夫社(上知我麻神社)がありました。(現在は熱田神宮境内に移動)
※なお、左の江戸期の絵図には先ほどの道標も描かれています。
あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ候へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。
そう、熱田までやってきた信長が、鷲津・丸根砦から立ち上る煙を見上げ、その陥落を悟ったのも、まさにこの場所だったのです。

東海道側から美濃路との追分を見る。
突き当りから右へ伸びているのが美濃路で、正面が源太夫社跡になります。

源太夫社跡に残るほうろく地蔵の足元には、東海道の標識も。

源太夫社跡付近から、信長が立ち上る煙を見た鷲津・丸根砦方面の眺め・・・その456年後。
浜手より御出で候へば、程近く候へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸けさせられ、先づ、たんげの御取出へ御出で候
熱田を出た信長は、満潮で通行が困難な浜手(旧東海道/今川軍は信長が援軍を送りづらいよう、満潮のタイミングを狙って攻撃を開始した)を避け、北へ迂回するかみ道を急いで丹下砦、そして善照寺砦へと進軍しています。

熱田から鳴海、桶狭間方面へと続く浜手/旧東海道。
かみ道については一つ前の赤塚の戦いの記事でも少し触れましたが、もっと精査した上でいずれトライしてみたいと思います。
※桶狭間合戦については、コチラの記事もご参照ください。

熱田神宮境内に残る信長塀。
いうまでもなく桶狭間での戦勝後、信長によって寄進されたものです。

最後に・・・私も旅の無事を謝して熱田の神にお参り。
朝の8:30に清州を出発し、熱田で今回の歩き旅を終えたのは午後の3時前後。
あちこち寄り道しながらとはいえ、思いの外時間を要しました。
清州から熱田までの距離、太田牛一は信長公記の中で三里と記していますが、後で計測してみたところ、実際には優に16kmは超えていました・・・(^_^;)
本当にクタクタになりましたが、信長たちは熱田から更に桶狭間へ向かい、今川の大軍と戦って勝利を収め、そしてその日のうちに美濃路を引き返して清州まで凱旋しているのです・・・。
現代人の感覚からは想像もできない体力・・・恐れ入りました。
さて、今回の旅もこのあたりで〆とさせていただきたいと存じます。
次の信長旅は・・・来月、かな?