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2016年6月

2016年6月20日 (月)

桶狭間への道…美濃路(清州~熱田)

永禄三年五月十九日は、言わずと知れた桶狭間合戦の日。現在の暦に直すと1560年の6月12日にあたります。
・・・という訳で2016年6月12日、456年前の織田信長と同じルートを辿るべく、清州から熱田までの美濃路を歩き通してみました。

美濃路は熱田で海路を往く東海道から分岐して、陸路を北西へ進んで名古屋や清州を経由し、垂井で中山道に合流していた江戸時代の街道です。
しかしその原型は古代から存在していたとも考えられており、織田信長の尾張統治時代には既に重要な交通路として機能していたものと思われます。

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清州城跡に建つ織田信長像

案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ候由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆、
岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、

(信長公記 首巻「今川義元討死の事」より。以下同)

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五月十九日の夜明け方、今川軍による鷲津・丸根砦攻撃開始の急報を受けた信長は、敦盛を舞い、慌ただしく準備を整えると、主従僅か六騎で清州城を飛び出しました。
・・・それでは、私の美濃路歩きもスタートです。

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美濃路清州宿本陣跡
明治天皇も小休されています。

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清州宿の中心地に建つ清涼寺。
清涼寺の前で美濃路は鉤型に折れ、往時は高札場が設けられていたことから「札の辻」と呼ばれていました。

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清涼寺前の札の辻

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五条川に架かる五条橋の袂に清州古城址の碑
奥の対岸に復興天守がチラッと覗いています。

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五条橋を渡って右折、美濃路はすぐに川沿いの道から逸れて左斜めへ入っていきます。

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ここからしばらくは、ひたすら南下します。

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沿道には今も、風情のある建物が所々に残っていました。

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この先で一旦、県道127号に合流します。

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127号に合流した辺りは「本町の松原」と呼ばれ、往時は多くの松が生い茂っていたそうですが・・・

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今となっては見る影も無し。

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127号との合流点から3~400mほど南下し、現在はコンビニや郵便局の並ぶ角を左→右と鉤型にクランクした先の美濃路。しばらく行くと・・・

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正覚寺があります。
左隅に写っているのは、須ヶ口の一里塚にあったと云う道標です。

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正覚寺境内にある今川塚

義元の頸同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ候なり。清洲より廿町南、須賀口熱田へ参り候海道に、義元塚とて築かせられ、弔の為にとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き候ひし。

桶狭間で今川義元を討ち取った織田信長は清州へ凱旋後、義元の首は駿河に送り届け、須ヶ口須賀口)に義元を弔う為の塚を築き、卒塔婆を建てて丁寧に供養しました。
写真の今川塚供養碑は寛文元年(1661)に建立され、1kmほど南に離れた個人の所有地にありましたが、2007年に正覚寺境内に移されています。
※信長が築かせた義元塚について、地元には更に別の伝承地もあるのだそうです。いずれにしても須ヶ口周辺であることに変わりはありませんが。

なお正覚寺には他に、松平忠吉とその母を供養する宝篋印塔もあります。

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引き続き美濃路を進みます。

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須ヶ口一里塚跡の碑

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一里塚跡を過ぎた辺りが、件の須ヶ口と呼ばれる地区になります。
旧街道の風情が割とよく残っています。

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新川を越えた先にある瑞正寺に建つ宝塔。高さ日本一の宝塔なのだそうです。
すぐ近くに尾張藩の処刑場があり、罪人たちを弔うために建てられました。

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ところでこの辺りの美濃路、左右に目を向けるとご覧のような地形になっていました。
こちらは西側で・・・

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こちらは東側。美濃路の部分だけが盛り上がっています。
すぐ近くを五条川や庄内川が流れているので、美濃路はその堤道のようになっていたのかもしれません。

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更に進みます。

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問屋記念館の前を過ぎ・・・

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庄内川に差し掛かる手前、岩倉街道との追分。
右:美濃路/左:岩倉街道

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枇杷島橋の欄干に架かっていました…尾張名所図会に描かれた江戸時代の枇杷島橋。

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現在の枇杷島橋と庄内川

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ところで欄干には他に、こんな絵図も展示されていました。
山車を曳いて盛り上がる祭りの様子ですね。

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ちょうど時期だったのか、町の至る所で絵図のような山車を整備している光景を目にしました。

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庄内川を越えた美濃路

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枇杷島という地名の由来となった由緒を持つ清音寺。
沿道にはこうして、歴史ある寺社が数多く点在しています。

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庄内用水を越えて・・・
(庄内用水については、コチラの記事でも少し取り上げました)

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ようやくここまで辿り着きました・・・榎白山神社
桶狭間へ向かう信長が、熱田に至るまでの道中に立ち寄って戦勝祈願した地として伝わっています。

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白山神社前の説明板。
美濃路についても書かれています。

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信長は那古野(現名古屋城付近)を居城としていた時代、庄内川で川狩りや水練に励んでおり、その道筋にある白山神社にも幾度となく立ち寄っていたものと思われます。
或いは戦勝祈願と共に、そうした若かりし頃から共に励んで鍛え上げた在地の将兵たちを掻き集めていったのかもしれません。
白山神社は桶狭間戦勝後、信長から太刀を寄進されています。

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更に東へ、名古屋城方向へ進みます。

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とある店舗前にあった清州街道の碑。

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さて、名古屋城の天守や石垣が見えてきました。
清州へ移る前に信長が居城とした那古野城もこの付近にありました。こうして見ても、美濃路が信長の拠点を結ぶ重要な街道であったことがよく分かります。

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堀川にぶつかったら川を越えず、その手前を右折します。
※この辺りから名古屋城下を抜けるまでの区間は特に近世の改変が加えられていそうですが、今のところ他に信長時代の街道筋を確定する手掛かりもないので、近世の美濃路の通りに進みます。

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五条橋は横目にスルー

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伊藤家住宅など、古い街並みを残す堀川沿いの美濃路。

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そして伝馬橋で堀川を東側へ渡ります。

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江戸時代の伝馬橋と美濃路

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しばらくオフィス街のような伝馬町通りを真っ直ぐ進み、大町通との交差点を右折して南下します。

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父・信秀の菩提寺である萬松寺を過ぎ・・・

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道なりに南西へカーブしながら進むと・・・

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街道脇に日置神社があります。
こちらにも桶狭間合戦の際、信長が戦勝祈願に立ち寄ったとの伝承が残ります。

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戦勝後、日置神社には松千本が寄進されたそうですが・・・今となっては、その名残を感じることはできませんでした。

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また、近くには父・信秀の居城だった古渡城もありました。
ま、桶狭間合戦時には既に廃城になっていたようですが。
(碑は浄土真宗大谷派名古屋別院境内)

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さて、美濃路はこの先で国道19号に合流します。

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最後に迎えた国道に合流してから熱田までの約5kmが、旧街道の風情もへったくれもなく、気力的にも結構きつかった・・・。

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ようやく見えてみた熱田神宮の杜
しかしすぐには境内に入らず、西面に沿って南へと進み・・・

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境内の南西角を左に曲がり・・・

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正門前を南へ右折、遮る国道1号線を越えたあの先に・・・

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美濃路の起点となる、東海道との分岐点があります。
写真左からきて、左に折れて右奥へと伸びているのが旧東海道です。

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その分岐点に建つ道標
東)北 さやつしま/同 みのち 道
南)寛政二戌年
西)東 江戸かいとう/北 なこやきそ道
北)南 京いせ七里の渡し/是より北あつた御本社貳丁 道

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そして、東海道との分岐点にあった説明板。
かつてここには、源太夫社(上知我麻神社)がありました。(現在は熱田神宮境内に移動)
※なお、左の江戸期の絵図には先ほどの道標も描かれています

あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ候へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。

そう、熱田までやってきた信長が、鷲津・丸根砦から立ち上る煙を見上げ、その陥落を悟ったのも、まさにこの場所だったのです。

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東海道側から美濃路との追分を見る。
突き当りから右へ伸びているのが美濃路で、正面が源太夫社跡になります。

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源太夫社跡に残るほうろく地蔵の足元には、東海道の標識も。

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源太夫社跡付近から、信長が立ち上る煙を見た鷲津・丸根砦方面の眺め・・・その456年後。

浜手より御出で候へば、程近く候へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸けさせられ、先づ、たんげの御取出へ御出で候

熱田を出た信長は、満潮で通行が困難な浜手(旧東海道/今川軍は信長が援軍を送りづらいよう、満潮のタイミングを狙って攻撃を開始した)を避け、北へ迂回するかみ道を急いで丹下砦、そして善照寺砦へと進軍しています。

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熱田から鳴海、桶狭間方面へと続く浜手/旧東海道。

かみ道
については一つ前の赤塚の戦いの記事でも少し触れましたが、もっと精査した上でいずれトライしてみたいと思います。

※桶狭間合戦については、コチラの記事もご参照ください。

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熱田神宮境内に残る信長塀
いうまでもなく桶狭間での戦勝後、信長によって寄進されたものです。

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最後に・・・私も旅の無事を謝して熱田の神にお参り。

朝の8:30に清州を出発し、熱田で今回の歩き旅を終えたのは午後の3時前後。
あちこち寄り道しながらとはいえ、思いの外時間を要しました。

清州から熱田までの距離、太田牛一は信長公記の中で三里と記していますが、後で計測してみたところ、実際には優に16kmは超えていました・・・(^_^;)

本当にクタクタになりましたが、信長たちは熱田から更に桶狭間へ向かい、今川の大軍と戦って勝利を収め、そしてその日のうちに美濃路を引き返して清州まで凱旋しているのです・・・。
現代人の感覚からは想像もできない体力・・・恐れ入りました。

さて、今回の旅もこのあたりで〆とさせていただきたいと存じます。
次の信長旅は・・・来月、かな?

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2016年6月19日 (日)

赤塚の戦い

6月11~12日は尾張への一人旅。
初日の11日は、天文二十一年(1552)四月十七日に勃発した赤塚の戦い関連地をめぐりました。

織田信長の父・信秀が死去して信長が家督を継ぐと程なく、鳴海城の山口教継教吉父子が今川方に寝返ります。

赤塚の戦い関連地図
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一、鳴海の城には子息山口九郎二郎を入れ置く。
一、笠寺取出要害を構へ、かづら山、岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎五人在城なり。
一、中村の在所を拵え、父山口左馬助楯籠る。

(信長公記 首巻「三の山赤塚合戦の事」より。以下同)

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まず最初に訪れたのは、桜中村城中村の在所)跡と伝わる桜公園。
しかし周辺の地形を観察すると四方になだらかな上り坂が続いており、公園は窪地の底のような場所にあります。一応、現在の山崎川と天白川に挟まれた台地上ではありますが、城の中心部はもっと別の場所だったのではないでしょうか・・・。
山口教継は桜中村城を要害に構え、自ら立て籠もりました。

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次に訪れたのは富部神社
1603年の創建と伝わり、1608年には松平忠吉によって本殿や回廊などが寄進されています。
一説にはこちらも、桜中村城跡の候補地の一つらしいのですが・・・

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境内には今年(平成28年4月)移築されたばかりの戸部城址碑や、戸部新左衛門政直の墓碑があります。

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戸部新左衛門政直の墓碑(中央)と戸部城址碑(左)
元々は富部神社から南へ1kmほどの戸部町3丁目の片隅に建っていて、その辺り一帯がこの時、岡部や飯尾らの駿河衆を引き入れた戸部(笠寺)城跡と考えられています。
戸部新左衛門もまた、信秀死後に織田から今川方へ寝返ったものと考えられ、後に(信長の謀略によって?)今川義元の疑心を招いて誅されているあたり、山口父子と経歴がそっくりです。
まぁ義元からしてみれば、腹背定まらない連中をいつまでも軍事境界線一帯に置いておくよりも、それらを廃して信頼する駿河衆に守らせたかったというのが、本音というか本当のところでしょうね。

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富部神社
写真の回廊は再建らしいのですが、奥に鎮座する本殿は創建当時のもので、国の重要文化財にも指定されています。

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富部神社の南から、西の方角を見た様子。
上の関連地図にも当時のおおよその海岸線を描き入れてみましたが、こうして見ると本当にすぐ近くまで海が迫っていた様子が地形からも分かります。

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赤塚の戦いからは少し逸れますが・・・雨ざらしになっていた観音様(笠寺観音)に笠を被せてあげたところを見初められ、藤原兼平と結ばれたと云う玉照姫の像を安置する泉増院に・・・

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その笠寺観音を祀る笠覆寺。観音様がるお・・・「笠寺」の地名の由来にもなっています。
天文18年には、松平竹千代(後の徳川家康)と織田信広人質交換の舞台になったことでも知られます。いかにこの地が織田×今川の境界線であったかを物語るようです。
ちなみに、目の前を通っているのは旧東海道

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そのまま旧東海道を南東方向へ進みます。
※関連地図紫ライン

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笠寺一里塚

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天白川を越えると・・・

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やがて三王山へ至ります。

か様に候ところ、四月十七日、
一、織田上総介信長公十九の御年、人数八百計りにて御発足、中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あがり候のところ、
一、御敵山口九郎二郎、廿の年、三の山の十五町東なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。九郎二郎人数千五百計りにて、赤塚へかけ出だし候。
(中略)
一、上総介信長、三の山より此のよしを御覧じ、則ち、あか塚へ御人数よせられ候。

山口父子の裏切りを知った信長は800の兵を率いて、桜中村や笠寺の城(砦)によって主街道を押さえられていたこともあり、中根(中根村)~古鳴海(小鳴海)を経由してこの三王山(三の山)へ上がり、鳴海城へと迫ります。
※関連地図赤ライン

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織田信長が陣取った三王山
また新たな造成が入るのか、山肌が削られて痛々しい姿になっていました。。。

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三王山頂上

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三王山から南、山口教吉が籠る鳴海城や、後に桶狭間の戦いで重要な舞台となる丹下・善照寺・中島などの各砦を一望に見渡す光景。
※つまりこの時、信長が三王山まで至ったルートは、後の永禄三年五月に桶狭間の戦いで彼が清州城を出陣し、熱田から丹下砦まで向かった「かみ道」でもあると思われます。

信長が三王山に陣取ると、鳴海城の山口教吉が1,500の兵を率いて鳴海の北15~6町、三王山の東15町赤塚まで押し出してきました。
この様子を三王山から御覧じていた信長も、すぐさま兵を繰り出します。

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残念ながら現在では東、赤塚方面は民家に遮られて全く眺望が効きませんでしたが・・・

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そうそう、三王山にはこんなものもありました。
松尾芭蕉ゆかりの千鳥塚。芭蕉存命中に建てられたものとしては唯一なのだそうです。

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三王山から東へ向かって進むと、“赤塚”古墳跡があります。

ところで、この後両軍が激突した戦場がどこだったのか、現在に至るまで具体的には特定されていません。
信長公記が記す「三の山の十五町東」「なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町」(1町=約109m/十五町でおよそ1.6km強)には「赤塚」に該当する地がないのです。
しかし三王山の東5~600m、新海池の西側に「赤塚」の地名を見ることができます

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現在の「赤塚」から新海池を望む。

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新海池
江戸時代に築かれた人工の溜池で、赤塚の戦いがあった当時は三王山から連なる稜線と、奥(新海池の東)に見える高台とに挟まれた鞍部だったものと思われます。

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東側の高台から、新海池越しに三王山方面を見る。
宅地開発で分かりづらいのですが、三王山は反対の西側こそ高低差もハッキリとした「山」ですが、東側は緩やかな地形で、こうして見ると新海池東側の高台と殆ど高低差がありません

前出の関連地図で見ると、桜中村城や戸部(笠寺)城、鳴海城などと共に、信長が布陣した三王山をすっぽりと包み込むような位置取りになります。
信長の三王山着陣を見た鳴海城の山口教吉は、信長軍包囲を目論み、この辺りまで進出してきたのではないでしょうか。
それを確認した信長は、迷うことなく赤塚の教吉勢への攻撃を決断し、両軍は(信長公記の記述とは距離が一致しませんが)新海池の辺りで激突した・・・

巳の刻より午の刻までみだれあひて、扣き合ひては退く。又、まけじおとらじと、かゝつては扣き合ひゝゝ、鎗下にて敵方討死、萩原助十郎、中島又二郎、祖父江久介、横江孫八、水越助十郎。あまり手近く候間、頸は互に取り候はず。
(中略)
入り乱れて、火花をちらし相戦ひ、四間、五間をへだて、折り敷いて数刻の戦に、九郎二郎は、うわやりなり。其の比、うわやり、下鎗と云ふ事あり。いづれも、みしりかへしの事なれば、互に、たるみはなかりけり。折り立ての事にて、馬共は皆敵陣へかけ入るなり。是れ又、少しもちがひなく、かへし進上候なり。いけどりもかへゝゝなり。さて、其の日、御帰陣候なり。

戦いは午前10時頃から正午頃まで続けられ、火花を散らす激戦になりました。あまりの接近戦だったため、互いに首を獲ることもなかったとか。
信長軍800に対し、山口勢は1,500。しかし信長の率いる800は、この後も尾張各地での戦いに活躍することになる虎の子の親衛隊。倍近い敵にも後れを取ることなく戦い、結局勝敗はつかずに双方兵を引き上げています。
元々は同じ織田家配下。顔見知りも多かったことから、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返し、生け捕りになった将兵も交換して、その日のうちに帰陣しました。。。

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三王山の1.5km南、天神社に建つ鳴海城址

この後はボランティアガイドのIさんとお約束していたこともあり、電車で移動して豊明市の桶狭間古戦場へ。
「桶狭間合戦 奇襲の真実」などの著書で知られる太田輝夫先生をご紹介いただき、2時間近くも時の経つのを忘れ、ここではオープンにできないような貴重なお話もたくさんお聞きすることができました。

更に、一旦名古屋のホテルに落ち着いた後、夜には岐阜まで移動。
ゆっきー&流星☆さんと楽しいギフナイト☆ってことで、愉快な宴になりました。

一人旅とはいえ、初日はこうして人に恵まれたいい旅になりました♪
ありがとうございます。

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