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2016年6月19日 (日)

赤塚の戦い

6月11~12日は尾張への一人旅。
初日の11日は、天文二十一年(1552)四月十七日に勃発した赤塚の戦い関連地をめぐりました。

織田信長の父・信秀が死去して信長が家督を継ぐと程なく、鳴海城の山口教継教吉父子が今川方に寝返ります。

赤塚の戦い関連地図
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一、鳴海の城には子息山口九郎二郎を入れ置く。
一、笠寺取出要害を構へ、かづら山、岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎五人在城なり。
一、中村の在所を拵え、父山口左馬助楯籠る。

(信長公記 首巻「三の山赤塚合戦の事」より。以下同)

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まず最初に訪れたのは、桜中村城中村の在所)跡と伝わる桜公園。
しかし周辺の地形を観察すると四方になだらかな上り坂が続いており、公園は窪地の底のような場所にあります。一応、現在の山崎川と天白川に挟まれた台地上ではありますが、城の中心部はもっと別の場所だったのではないでしょうか・・・。
山口教継は桜中村城を要害に構え、自ら立て籠もりました。

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次に訪れたのは富部神社
1603年の創建と伝わり、1608年には松平忠吉によって本殿や回廊などが寄進されています。
一説にはこちらも、桜中村城跡の候補地の一つらしいのですが・・・

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境内には今年(平成28年4月)移築されたばかりの戸部城址碑や、戸部新左衛門政直の墓碑があります。

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戸部新左衛門政直の墓碑(中央)と戸部城址碑(左)
元々は富部神社から南へ1kmほどの戸部町3丁目の片隅に建っていて、その辺り一帯がこの時、岡部や飯尾らの駿河衆を引き入れた戸部(笠寺)城跡と考えられています。
戸部新左衛門もまた、信秀死後に織田から今川方へ寝返ったものと考えられ、後に(信長の謀略によって?)今川義元の疑心を招いて誅されているあたり、山口父子と経歴がそっくりです。
まぁ義元からしてみれば、腹背定まらない連中をいつまでも軍事境界線一帯に置いておくよりも、それらを廃して信頼する駿河衆に守らせたかったというのが、本音というか本当のところでしょうね。

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富部神社
写真の回廊は再建らしいのですが、奥に鎮座する本殿は創建当時のもので、国の重要文化財にも指定されています。

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富部神社の南から、西の方角を見た様子。
上の関連地図にも当時のおおよその海岸線を描き入れてみましたが、こうして見ると本当にすぐ近くまで海が迫っていた様子が地形からも分かります。

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赤塚の戦いからは少し逸れますが・・・雨ざらしになっていた観音様(笠寺観音)に笠を被せてあげたところを見初められ、藤原兼平と結ばれたと云う玉照姫の像を安置する泉増院に・・・

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その笠寺観音を祀る笠覆寺。観音様がるお・・・「笠寺」の地名の由来にもなっています。
天文18年には、松平竹千代(後の徳川家康)と織田信広人質交換の舞台になったことでも知られます。いかにこの地が織田×今川の境界線であったかを物語るようです。
ちなみに、目の前を通っているのは旧東海道

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そのまま旧東海道を南東方向へ進みます。
※関連地図紫ライン

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笠寺一里塚

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天白川を越えると・・・

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やがて三王山へ至ります。

か様に候ところ、四月十七日、
一、織田上総介信長公十九の御年、人数八百計りにて御発足、中根村をかけ通り小鳴海へ移られ、三の山へ御あがり候のところ、
一、御敵山口九郎二郎、廿の年、三の山の十五町東なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。九郎二郎人数千五百計りにて、赤塚へかけ出だし候。
(中略)
一、上総介信長、三の山より此のよしを御覧じ、則ち、あか塚へ御人数よせられ候。

山口父子の裏切りを知った信長は800の兵を率いて、桜中村や笠寺の城(砦)によって主街道を押さえられていたこともあり、中根(中根村)~古鳴海(小鳴海)を経由してこの三王山(三の山)へ上がり、鳴海城へと迫ります。
※関連地図赤ライン

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織田信長が陣取った三王山
また新たな造成が入るのか、山肌が削られて痛々しい姿になっていました。。。

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三王山頂上

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三王山から南、山口教吉が籠る鳴海城や、後に桶狭間の戦いで重要な舞台となる丹下・善照寺・中島などの各砦を一望に見渡す光景。
※つまりこの時、信長が三王山まで至ったルートは、後の永禄三年五月に桶狭間の戦いで彼が清州城を出陣し、熱田から丹下砦まで向かった「かみ道」でもあると思われます。

信長が三王山に陣取ると、鳴海城の山口教吉が1,500の兵を率いて鳴海の北15~6町、三王山の東15町赤塚まで押し出してきました。
この様子を三王山から御覧じていた信長も、すぐさま兵を繰り出します。

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残念ながら現在では東、赤塚方面は民家に遮られて全く眺望が効きませんでしたが・・・

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そうそう、三王山にはこんなものもありました。
松尾芭蕉ゆかりの千鳥塚。芭蕉存命中に建てられたものとしては唯一なのだそうです。

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三王山から東へ向かって進むと、“赤塚”古墳跡があります。

ところで、この後両軍が激突した戦場がどこだったのか、現在に至るまで具体的には特定されていません。
信長公記が記す「三の山の十五町東」「なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町」(1町=約109m/十五町でおよそ1.6km強)には「赤塚」に該当する地がないのです。
しかし三王山の東5~600m、新海池の西側に「赤塚」の地名を見ることができます

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現在の「赤塚」から新海池を望む。

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新海池
江戸時代に築かれた人工の溜池で、赤塚の戦いがあった当時は三王山から連なる稜線と、奥(新海池の東)に見える高台とに挟まれた鞍部だったものと思われます。

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東側の高台から、新海池越しに三王山方面を見る。
宅地開発で分かりづらいのですが、三王山は反対の西側こそ高低差もハッキリとした「山」ですが、東側は緩やかな地形で、こうして見ると新海池東側の高台と殆ど高低差がありません

前出の関連地図で見ると、桜中村城や戸部(笠寺)城、鳴海城などと共に、信長が布陣した三王山をすっぽりと包み込むような位置取りになります。
信長の三王山着陣を見た鳴海城の山口教吉は、信長軍包囲を目論み、この辺りまで進出してきたのではないでしょうか。
それを確認した信長は、迷うことなく赤塚の教吉勢への攻撃を決断し、両軍は(信長公記の記述とは距離が一致しませんが)新海池の辺りで激突した・・・

巳の刻より午の刻までみだれあひて、扣き合ひては退く。又、まけじおとらじと、かゝつては扣き合ひゝゝ、鎗下にて敵方討死、萩原助十郎、中島又二郎、祖父江久介、横江孫八、水越助十郎。あまり手近く候間、頸は互に取り候はず。
(中略)
入り乱れて、火花をちらし相戦ひ、四間、五間をへだて、折り敷いて数刻の戦に、九郎二郎は、うわやりなり。其の比、うわやり、下鎗と云ふ事あり。いづれも、みしりかへしの事なれば、互に、たるみはなかりけり。折り立ての事にて、馬共は皆敵陣へかけ入るなり。是れ又、少しもちがひなく、かへし進上候なり。いけどりもかへゝゝなり。さて、其の日、御帰陣候なり。

戦いは午前10時頃から正午頃まで続けられ、火花を散らす激戦になりました。あまりの接近戦だったため、互いに首を獲ることもなかったとか。
信長軍800に対し、山口勢は1,500。しかし信長の率いる800は、この後も尾張各地での戦いに活躍することになる虎の子の親衛隊。倍近い敵にも後れを取ることなく戦い、結局勝敗はつかずに双方兵を引き上げています。
元々は同じ織田家配下。顔見知りも多かったことから、敵陣に逃げ込んだ馬はお互いに返し、生け捕りになった将兵も交換して、その日のうちに帰陣しました。。。

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三王山の1.5km南、天神社に建つ鳴海城址

この後はボランティアガイドのIさんとお約束していたこともあり、電車で移動して豊明市の桶狭間古戦場へ。
「桶狭間合戦 奇襲の真実」などの著書で知られる太田輝夫先生をご紹介いただき、2時間近くも時の経つのを忘れ、ここではオープンにできないような貴重なお話もたくさんお聞きすることができました。

更に、一旦名古屋のホテルに落ち着いた後、夜には岐阜まで移動。
ゆっきー&流星☆さんと楽しいギフナイト☆ってことで、愉快な宴になりました。

一人旅とはいえ、初日はこうして人に恵まれたいい旅になりました♪
ありがとうございます。

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