岐阜城 山麓居館
岐阜の旅、夏。もラスト、岐阜城へ。
藪々ですが…岐阜城の外堀。
今回は山上には向かわず、発掘調査が進む山麓の居館跡へ。
山麓居館の発掘現場
当時の石垣も一部表出していて、見学することができました。
下段の大きな石で積まれているのが、信長時代からの遺構とか。(上段は公園整備時のもの)
ここで彼(信長)はしばらく私たちとともにおり、次のように言いました。「貴殿に予の邸を見せたいと思うが、他方、貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかも知れないので、見せたものかどうか躊躇する。だが、貴殿ははるか遠方から来訪されたのだから、予が先導してお目にかけよう」と。
(フロイス「日本史」より/以下同)
平成27年度の調査で、庭園や池の跡が新たに確認されています。
この(宮殿一階の)前廊の外に、庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてはなはだ稀有なものであります。それらの幾つかには、一パルモの深さの池があり、その底には入念に選ばれた清らかな小石や眼にも眩い白砂があり、その中には泳いでいる各種の美しい魚が多数おりました。また池の中の巌の上に生えている各種の花卉や植物がありました。
藪々ですが…岐阜城の外堀。
今回は山上には向かわず、発掘調査が進む山麓の居館跡へ。
山麓居館の発掘現場
当時の石垣も一部表出していて、見学することができました。
下段の大きな石で積まれているのが、信長時代からの遺構とか。(上段は公園整備時のもの)
ここで彼(信長)はしばらく私たちとともにおり、次のように言いました。「貴殿に予の邸を見せたいと思うが、他方、貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかも知れないので、見せたものかどうか躊躇する。だが、貴殿ははるか遠方から来訪されたのだから、予が先導してお目にかけよう」と。
(フロイス「日本史」より/以下同)
平成27年度の調査で、庭園や池の跡が新たに確認されています。
この(宮殿一階の)前廊の外に、庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてはなはだ稀有なものであります。それらの幾つかには、一パルモの深さの池があり、その底には入念に選ばれた清らかな小石や眼にも眩い白砂があり、その中には泳いでいる各種の美しい魚が多数おりました。また池の中の巌の上に生えている各種の花卉や植物がありました。
今は埋め戻されていますが、シートが掛けられている部分には巨石で積まれた石垣があり、足元の砂地が池の跡になります。
池の中、白い土嚢が置かれている部分からは景石が発掘されています。
フロイスが池の中の巌と記すものには、花や植物が生えていたとのことなので、今回発掘された景石や池とは大きさからして一致しなさそうですが、それでもこの場に立つと、彼が信長の案内で歩いていく姿がボンヤリと浮かんでくるような気がしました。
そして、この池跡からは多数の金箔瓦が発見され、その出土範囲が限定されていることから池の背後、シートが掛けられた巨石列の上段こそ、この時フロイスが案内された宮殿の建っていた場所ではないかと推定されるに至っています。
ニ階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、きわめて新鮮な水が満ちた池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます。
ところで「日本史」の中では、この宮殿二階にあった部屋を「婦人(damas/複数形)部屋」とのみ記していますが、フロイスが岐阜から京に戻った後に認めた「1569年7月12日付、都発信、ルイス・フロイス師の、ベルショール・デ・フィゲイレド師宛の書簡」(以下「フロイス書簡」)には、
奥方(reynha)の私室と部屋、及び侍女たち(damas/婦人たち)の部屋
とあります。
このことから、山麓居館の二階にあったのは奥方=濃姫(帰蝶)の部屋ではないか?とも考えられています。
「日本史」の、本記事でも引用している第三八章の冒頭には;
本章は、司祭(フロイス)が美濃から帰った後、七月十二日付で豊後にいる司祭たちに宛ててしたためた書簡に基づいているので、その旅行中のことがいっそう明らかになるよう、この個所に引用する。
とあり、「日本史」の記述も先述の「フロイス書簡」に基づいていることは明白で、引用する際の写し間違いか、それとも意図して加えられた修正なのか・・・?
山麓居館を案内された翌日、フロイスは山上の主城にも招待されていて、その様子を次のように書き残しています。
上の城に登ると、入口の最初の三つの広間には、約百名以上の若い貴人がいたでありましょうか、彼らは各国の最高の貴人たちの息子らで、十二ないし十七歳であり、下へ使命を届けたりもたらしたりして信長に奉仕していました。同所からは何ぴともさらに内部へは入れませんでした。なぜならば、彼は内部においては、貴婦人たちおよび、息子の王子たちによってのみ仕えられていたからであります。すなわち奇妙とお茶箋で、兄は十三歳、弟は十一歳くらいでありました。
信長に奉仕する各国の最高の貴人たちの息子らが、信長からの使命を下(山麓)へ届けていたといいますし、二人の息子も山上に暮らしていた様子が窺えます。
また、若い貴人たちがいた広間より内部へは何ぴとも立ち入ること叶わず、その内部では貴婦人たちや息子らによってのみ仕えられていた、という表現からして、山上のこの場所こそすなわち、信長のプライベート空間である奥の間。
これらから察するに、信長自身も日常から山上にいた(暮らしていた)と考えられるので、奥方の部屋だけが山麓にあったというのも、個人的には若干の違和感を覚えます。
まぁ、寵愛する側室(貴婦人)らは山上(奥)に置き、形式上の正室は「表」の山麓に遇していた、なんていう可能性もなくはないのでしょうが…(;・∀・)
池の水が流されていた水路跡
さて、これにて1泊2日の岐阜の旅、夏。オフも無事終了です。
思いの外涼しく、且つ雨も降らず、ゆったりと寛いだ気持ちで楽しめた旅になりました。
準備段階から当日まで、あらゆる面でお骨折りくださった方々には感謝に堪えません。ご一緒くださった方々もありがとうございました。
※参考:岐阜市歴史博物館 研究紀要 第22号 ルイス・フロイス「4種の記録」からみた岐阜城の構造(高橋方紀氏)
池の中、白い土嚢が置かれている部分からは景石が発掘されています。
フロイスが池の中の巌と記すものには、花や植物が生えていたとのことなので、今回発掘された景石や池とは大きさからして一致しなさそうですが、それでもこの場に立つと、彼が信長の案内で歩いていく姿がボンヤリと浮かんでくるような気がしました。
そして、この池跡からは多数の金箔瓦が発見され、その出土範囲が限定されていることから池の背後、シートが掛けられた巨石列の上段こそ、この時フロイスが案内された宮殿の建っていた場所ではないかと推定されるに至っています。
ニ階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、きわめて新鮮な水が満ちた池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます。
ところで「日本史」の中では、この宮殿二階にあった部屋を「婦人(damas/複数形)部屋」とのみ記していますが、フロイスが岐阜から京に戻った後に認めた「1569年7月12日付、都発信、ルイス・フロイス師の、ベルショール・デ・フィゲイレド師宛の書簡」(以下「フロイス書簡」)には、
奥方(reynha)の私室と部屋、及び侍女たち(damas/婦人たち)の部屋
とあります。
このことから、山麓居館の二階にあったのは奥方=濃姫(帰蝶)の部屋ではないか?とも考えられています。
「日本史」の、本記事でも引用している第三八章の冒頭には;
本章は、司祭(フロイス)が美濃から帰った後、七月十二日付で豊後にいる司祭たちに宛ててしたためた書簡に基づいているので、その旅行中のことがいっそう明らかになるよう、この個所に引用する。
とあり、「日本史」の記述も先述の「フロイス書簡」に基づいていることは明白で、引用する際の写し間違いか、それとも意図して加えられた修正なのか・・・?
山麓居館を案内された翌日、フロイスは山上の主城にも招待されていて、その様子を次のように書き残しています。
上の城に登ると、入口の最初の三つの広間には、約百名以上の若い貴人がいたでありましょうか、彼らは各国の最高の貴人たちの息子らで、十二ないし十七歳であり、下へ使命を届けたりもたらしたりして信長に奉仕していました。同所からは何ぴともさらに内部へは入れませんでした。なぜならば、彼は内部においては、貴婦人たちおよび、息子の王子たちによってのみ仕えられていたからであります。すなわち奇妙とお茶箋で、兄は十三歳、弟は十一歳くらいでありました。
信長に奉仕する各国の最高の貴人たちの息子らが、信長からの使命を下(山麓)へ届けていたといいますし、二人の息子も山上に暮らしていた様子が窺えます。
また、若い貴人たちがいた広間より内部へは何ぴとも立ち入ること叶わず、その内部では貴婦人たちや息子らによってのみ仕えられていた、という表現からして、山上のこの場所こそすなわち、信長のプライベート空間である奥の間。
これらから察するに、信長自身も日常から山上にいた(暮らしていた)と考えられるので、奥方の部屋だけが山麓にあったというのも、個人的には若干の違和感を覚えます。
まぁ、寵愛する側室(貴婦人)らは山上(奥)に置き、形式上の正室は「表」の山麓に遇していた、なんていう可能性もなくはないのでしょうが…(;・∀・)
池の水が流されていた水路跡
さて、これにて1泊2日の岐阜の旅、夏。オフも無事終了です。
思いの外涼しく、且つ雨も降らず、ゆったりと寛いだ気持ちで楽しめた旅になりました。
準備段階から当日まで、あらゆる面でお骨折りくださった方々には感謝に堪えません。ご一緒くださった方々もありがとうございました。
※参考:岐阜市歴史博物館 研究紀要 第22号 ルイス・フロイス「4種の記録」からみた岐阜城の構造(高橋方紀氏)