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2016年7月

2016年7月30日 (土)

岐阜城 山麓居館

岐阜の旅、夏。もラスト、岐阜城へ。

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藪々ですが…岐阜城の外堀。

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今回は山上には向かわず、発掘調査が進む山麓の居館跡へ。

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山麓居館の発掘現場

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当時の石垣も一部表出していて、見学することができました。
下段の大きな石で積まれているのが、信長時代からの遺構とか。(上段は公園整備時のもの)

ここで彼(信長)はしばらく私たちとともにおり、次のように言いました。「貴殿に予の邸を見せたいと思うが、他方、貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかも知れないので、見せたものかどうか躊躇する。だが、貴殿ははるか遠方から来訪されたのだから、予が先導してお目にかけよう」と。
(フロイス「日本史」より/以下同)

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平成27年度の調査で、庭園や池の跡が新たに確認されています。

この(宮殿一階の)前廊の外に、庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてはなはだ稀有なものであります。それらの幾つかには、一パルモの深さのがあり、その底には入念に選ばれた清らかな小石や眼にも眩い白砂があり、その中には泳いでいる各種の美しい魚が多数おりました。また池の中の巌の上に生えている各種の花卉や植物がありました。

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今は埋め戻されていますが、シートが掛けられている部分には巨石で積まれた石垣があり、足元の砂地が池の跡になります。
池の中、白い土嚢が置かれている部分からは景石が発掘されています。
フロイスが池の中の巌と記すものには、花や植物が生えていたとのことなので、今回発掘された景石や池とは大きさからして一致しなさそうですが、それでもこの場に立つと、彼が信長の案内で歩いていく姿がボンヤリと浮かんでくるような気がしました。

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そして、この池跡からは多数の金箔瓦が発見され、その出土範囲が限定されていることから池の背後、シートが掛けられた巨石列の上段こそ、この時フロイスが案内された宮殿の建っていた場所ではないかと推定されるに至っています。

ニ階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、きわめて新鮮な水が満ちた池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます。

ところで「日本史」の中では、この宮殿二階にあった部屋を「婦人damas/複数形)部屋」とのみ記していますが、フロイスが岐阜から京に戻った後に認めた「1569年7月12日付、都発信、ルイス・フロイス師の、ベルショール・デ・フィゲイレド師宛の書簡」(以下「フロイス書簡」)には、
奥方reynhaの私室と部屋、及び侍女たちdamas/婦人たち)の部屋
とあります。
このことから、山麓居館の二階にあったのは奥方=濃姫(帰蝶)の部屋ではないか?とも考えられています。

「日本史」の、本記事でも引用している第三八章の冒頭には;
本章は、司祭(フロイス)が美濃から帰った後、七月十二日付で豊後にいる司祭たちに宛ててしたためた書簡に基づいているので、その旅行中のことがいっそう明らかになるよう、この個所に引用する。
とあり、「日本史」の記述も先述の「フロイス書簡」に基づいていることは明白で、引用する際の写し間違いか、それとも意図して加えられた修正なのか・・・?

山麓居館を案内された翌日、フロイスは山上の主城にも招待されていて、その様子を次のように書き残しています。

上の城に登ると、入口の最初の三つの広間には、約百名以上の若い貴人がいたでありましょうか、彼らは各国の最高の貴人たちの息子らで、十二ないし十七歳であり、へ使命を届けたりもたらしたりして信長に奉仕していました。同所からは何ぴともさらに内部へは入れませんでした。なぜならば、彼は内部においては、貴婦人たちおよび、息子の王子たちによってのみ仕えられていたからであります。すなわち奇妙とお茶箋で、兄は十三歳、弟は十一歳くらいでありました。

信長に奉仕する各国の最高の貴人たちの息子らが、信長からの使命を(山麓)へ届けていたといいますし、二人の息子も山上に暮らしていた様子が窺えます。
また、若い貴人たちがいた広間より内部へは何ぴとも立ち入ること叶わず、その内部では貴婦人たちや息子らによってのみ仕えられていた、という表現からして、山上のこの場所こそすなわち、信長のプライベート空間である奥の間
これらから察するに、信長自身も日常から山上にいた(暮らしていた)と考えられるので、奥方の部屋だけが山麓にあったというのも、個人的には若干の違和感を覚えます。
まぁ、寵愛する側室(貴婦人)らは山上(奥)に置き、形式上の正室は「表」の山麓に遇していた、なんていう可能性もなくはないのでしょうが…(;・∀・)

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池の水が流されていた水路跡

さて、これにて1泊2日の岐阜の旅、夏。オフも無事終了です。
思いの外涼しく、且つ雨も降らず、ゆったりと寛いだ気持ちで楽しめた旅になりました。
準備段階から当日まで、あらゆる面でお骨折りくださった方々には感謝に堪えません。ご一緒くださった方々もありがとうございました。

※参考:岐阜市歴史博物館 研究紀要 第22号 ルイス・フロイス「4種の記録」からみた岐阜城の構造(高橋方紀氏)

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武芸八幡宮

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関市武芸川町に鎮座する武芸(むげ)八幡宮
駐車場に車を停めて参道を覗くと、いきなり圧倒されるほどの荘厳な雰囲気が漂います。

写真手前に写る石造りの太鼓橋は元禄七年(1694)の建立。
しかし、私が以前からずっと武芸八幡宮を訪れたかった一番の目的は、太鼓橋の左奥にポツンと建つ・・・

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こちらの下馬標です。
1570年頃、なんとあの織田信長が建立したと伝えられているのです。
もしかすると信長自身も一度は参拝に訪れ、建てられたこの下馬標を満足げに眺めるようなことがあったかも・・・と思うと、なんだか興奮でゾクゾクしてきます。

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一直線に延びる参道を進みます。

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途中、参道脇に大きな石碑がありました。
八幡山神宮寺別当大聖寺遺蹟
とあります。
明治の神仏分離策で取り壊されましたが、境内には大聖寺というお寺も存在していました。
神宮寺を備えていることからしても、武芸八幡宮が相当な規模と格式を誇っていたことが偲ばれます。

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更に進むと、1本だけ抜きん出て太く大きな杉が・・・
樹齢はなんと、1000年ほどと推定されているようです。岐阜県の特別天然記念物。

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見事なまでに真っ直ぐ、天空を指して伸びていました。

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さ、社殿も見えてきました。

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武芸八幡宮拝殿

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当社は養老元年(717)の創建で、観応ニ年(1351)には、森乱丸の先祖にあたる森泰朝によって社殿を再興されています。

また、織田信長・信忠・信孝らの安堵状も残されています。

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織田信長安堵状⇒永禄十年十月
信忠⇒天正四年十二月
信孝⇒天正十年七月

信長が安堵状を発給した永禄十年十月は、稲葉山城を落として美濃を制圧した直後
信忠の天正四年十二月は、信長から家督と共に尾張や美濃を譲られた直後ですし、信孝もやはり本能寺の変~清洲会議を経て岐阜城に入城した直後に発給しています。
岐阜城から見ると鬼門(北東)の方角に鎮座しているためかもしれませんが、冒頭の下馬標の建立といい、織田父子から大切に保護されてきた歴史を垣間見る思いがします。
※地名が由来とはいえ、「武芸」という冠も、武将たちからの崇敬を集める一助になった・・・かも?

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大聖寺(神宮寺)が確かに存在していたことを示す鐘楼。
ただ、梵鐘は既に姿を消していました。

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参拝を終え、拝殿前から一直線の参道を見る。
この参道を引き返し、駐車場の更に南へ進むと・・・

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二の鳥居があり、更に今は車道に姿を変えた参道を下って行くと・・・

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一の鳥居が建っています。

念願だった武芸八幡宮参拝。
想像していた以上の静謐で荘厳な雰囲気に感動しましたし、神域の空気にも圧倒されました。

さて、岐阜の旅、夏。も大詰め。
ラストは岐阜城へ・・・

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2016年7月29日 (金)

関鍛冶伝承館

岐阜県関市といえば、やはり一度は関鍛冶の歴史にも触れておかなければ・・・

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というわけで、関鍛冶伝承館にお邪魔しました。

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永禄十年に美濃を手中に収めた織田信長は、関の鍛冶職人たちも保護しています。
写真は、奈良千手院鍛冶の系譜をひく奈良流派の惣領・兼常に与えられた信長の朱印状(永禄十三年付)です。

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関鍛冶伝承館では現在、若狭守を拝領して信長の御抱え鍛冶となった氏房の太刀や薙刀などが特別展示されています。(~8月末まで)
なお、こちらの薙刀は白鞘の墨書によると、柴田勝家遺愛のものとの伝承もあるそうです。

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独特の波紋が美しく、思わず惹き込まれる魅力を纏っていました。

一通り見学した後は、伝承館隣りの「関所茶屋」でランチ。
岐阜県名物「鶏ちゃん」、美味でござりました~♪

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日龍峯寺

岐阜の旅、夏。…2日目。
9:30に岐阜駅前に集合、まずは関市を目指します。

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到着したのは山深い地に建つ高澤観音、日龍峯寺
岐阜県最古のお寺になります。

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鐘楼

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鐘楼は上って鐘を撞くこともできます。

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尼将軍・北条政子によって建立された多宝塔。
国の重要文化財に指定されています。

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舞台造りの本堂。
こちらも本来は北条政子の建立でしたが、応仁・文明の乱の戦火で失われ、現在に残るものは寛文十年(1670)の再建です。
ま、それでも346年…!

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本堂の足元には、1600年の関ヶ原合戦に際して岐阜城主・織田秀信と共に西軍に属し、敗戦後、当寺に於いて自害した佐藤方政一党の墓石が並べられていました。

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本来はすぐ脇の山腹に葬られていたようなのですが、盗掘などで荒らされたため、現在は墓石を一ヶ所に集められています。

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それでは本堂に上がります。

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本堂の天井絵

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本堂の欄干から。
眼下に見えるは関市の天然記念物に指定される千本桧
ちなみに擬宝珠には「延享三丙寅歳 十一月吉日」の年次が刻まれていました。
※延享三年=1746年

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山深い地で、思わぬ歴史遺産に出会った気分です。
※本堂裏には源頼朝の供養墓もあったらしいのですが、私は見逃しました。

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帰りはルートを変え、草に覆われた直線状の参道を下ります。
この先に・・・

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これまた歴史を感じさせる山門が。

さて、次は「関といえば…?」な場所へ向かいます。

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長良川の鵜飼

岐阜の旅、夏。
メイン・イベントは長良川の鵜飼

永禄十一辰年六月上旬に甲州信玄公より信州伊奈、飯田城代秋山伯耆守を御使に被成美濃國岐阜の織田信長公へ御縁者御祝儀の御音信樽肴作法のごとく
(中略)
秋山伯耆、岐阜に於て信長公馳走被成七五三の御振舞初日には七度御盃出て七度ながら伯耆守に御引給り三日目に梅若太夫能を仕候て其後は岐阜の河にて鵜匠をあつめ鵜をつかはせ伯耆守にみせ給ふ伯耆守乗候舟をも信長のめし候舟のごとくになされみせ給ひ鮎の魚上中下を信長公御覧じよらせ伯耆守に仰渡され甲府へ御越被成候秋山伯耆守七月初に罷蹄信玄へ様子申上候以上
(「甲陽軍鑑」より抜粋)

足利義昭を奉じての上洛を控えた織田信長は、嫡男・信忠と、武田信玄の息女・松姫との婚約成立祝儀の使者として岐阜を訪れた武田家臣・秋山伯耆守虎繁(信友)を、酒宴や梅若太夫の能、そして長良川の鵜飼で盛大にもてなしています。
今回は我々も、そんな歴史と伝統ある長良川の鵜飼を、信長のもてなしを受ける気分で堪能しちゃいます♪

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風情ある川原町の古い町並み

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今回は「十八楼」さんの食事付きプランを利用しての鵜飼鑑賞となります。

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専用の地下小路を抜け・・・

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長良川畔へ。既に多くの座敷舟がスタンバイ。

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鵜匠さんによる解説を聞いた後、午後6時頃には早速乗船して出発です☆

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なかなか豪華なお食事。

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途中、小舟が漕ぎ寄せ、船上で焼いている鮎の塩焼きを届けてくれました。

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こちらもまた美味♪

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お食事の〆は鮎雑炊。
(デザートも出ました)

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踊り子たちを乗せた舟も来て、乗船客を楽しませてくれました。

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まさに「お・も・て・な・し」ですね♪

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食事後、午後7時30分の開始を予定している鵜飼までの間、しばし漕ぎ寄せた川原を散策。芸者さんを乗せた舟もありました。
そして・・・

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とっぷり日も暮れた定刻の午後7時30分、いよいよ鵜飼のスタートです。

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上流から下流に向かって5~6艘の鵜飼舟が、我々の乗る舟のすぐ近くを順々に、鵜を使いながら通り過ぎて行きます。
鵜匠の右手には、鮎を捕らえた鵜の姿も。

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思っていた以上にじっくりと鑑賞できて、感動的な光景でした。

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一旦通り過ぎた後、鵜飼舟は浅瀬の川原側を遡って引き返してきます。

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鵜たちは泳ぎ(引っ張られ?)ながら…(笑)

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最後は全鵜飼舟が列を組んで一斉に…!
「総がらみ」と呼ばれる漁法なのだそうです。これまた荘厳な光景でした。

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鵜飼鑑賞を終え、舟着き場へ引き返す際のひとコマ。山上にはライトアップされた岐阜城天守。

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とても楽しく、旅情気分満点な夜のひと時になりました。

この後はバスで駅前に戻って、ギフナイト☆
日付が変わるまで楽しく盛り上がりましたとさ!

2日目へつづく・・・

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2016年7月28日 (木)

橿森神社(御園の榎)

坂祝から岐阜市内に戻り、次に向かったのは・・・

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橿森神社です。

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鳥居前の大木は御園の榎
永禄十年に美濃を制圧した織田信長が「楽市楽座」の制札を与えた上加納村御園の、市神が祭られていた榎の三代目にあたり、明治の道路改修工事に際して現在地に移植されました。
宝永三年の古地図にも「御園には市立 市神として今に榎あり」と記されているそうです。

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境内には京都から分霊勧請された建勲神社(岐阜信長神社)も鎮座しています。

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橿森神社の石鳥居と、奥に拝殿。
背後の上加納山には・・・

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神人が駒に乗り、この地に降り立ったとの伝説に由来する「駒の爪」。

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ちなみに橿森神社前を横断するこちらの道は、御鮨街道
長良川の鵜飼で獲れた鮎で作った鮎鮨を、江戸の将軍家へ献上するための輸送路として使われた街道なのだそうです。

この後は円徳寺にも寄ってから一度ホテルにチェックイン…夜の鵜飼に備えました。

※円徳寺についてはコチラの記事を参照ください。
(楽市楽座についても記載しています)

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2016年7月27日 (水)

「坂祝」歴史散策

7月23日(土)の午前10時に岐阜駅前で集合した、2016年の岐阜の旅、夏。オフ。
最初の目的地は、参加者の一人が大ファンでもある仙石権兵衛秀久出生の地と伝わる美濃國加茂郡黒岩(現・坂祝町)です。

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ほんのりとレトロな雰囲気を醸し出す坂祝駅舎。

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坂祝駅前から仰ぎ見る猿啄城跡。
真夏なので今回は登りませんが、いずれ堂洞城などと絡めて訪れたいと思います。

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坂祝駅で全員集合し、まず向かったのは長蔵寺
先ほどの猿啄城を攻略した織田信長は、その戦いで功のあった河尻肥前守秀隆(鎮吉)を同城に据えています。
長蔵寺はその秀隆によって創建された、河尻家の菩提寺です。

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ちょうどお散歩に出ようとされていたお寺の奥様とお会いし、ご厚意で本堂を開けてご案内くださいました。
残念ながらご住職がご不在だったため、所蔵されている河尻肥前守肖像の軸は拝観叶いませんでしたが、ご親切には心から感謝。

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寺紋は揚羽蝶
平氏の家紋とされ、平氏を名乗った信長も好んで用いていました

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墓地の一角には河尻秀隆(手前)、及びその子息である直次や鎮行、旧家臣らのお墓が並びます。
甲府の河尻塚(→参照記事)があんまりな扱いだったので、ちゃんとしたお墓があって救われる思いです…(^_^;)

お寺の方々のお見送りを受け、次に向かうは・・・

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黒岩神社
仙石権兵衛出生の地・黒岩に祀られる神社で、前九年の役(1051~1062年)に際しては、陸奥へ向かう源義綱が戦勝祈願に訪れ、轡を奉納したと云います。
※但し轡は17年に一度の御開帳時のみ公開

写真の一の鳥居には・・・

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享保六辛丑年十月吉日
願主賀茂郡黒岩村
とあります。(享保六年=1721年)

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黒岩神社境内

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本殿
周辺には堀切や削平地のような痕跡も見受けられ、或いは仙石家の詰めの城だったのかも・・・?などと妄想を膨らませての参拝となりました(笑)

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ランチは近くのお蕎麦屋さんで。
お蕎麦もさることながら、最後に出された蕎麦の実の茶漬がまたなんとも美味でした♪

この後は岐阜市へ引き返します。

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2016年7月14日 (木)

姉川合戦に於ける信長軍の戦闘方向について

六月廿八日、卯の刻、丑寅へむかつて御一戦に及ばる。
(信長公記 巻三「あね川合戦の事」より)

これは元亀元年6月28日に勃発した姉川合戦の、開戦時の状況を描写した「信長公記」の一節です。
この合戦に於ける両軍の布陣を地図に落とし込むと、以下のようになります。

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「信長公記」に記された丑寅とは北東の方角になります。
しかし両軍の配置を見た時、浅井勢と対峙した織田軍にしろ、朝倉勢にあたったという徳川軍にしろ、地図で見る限りはどうしても戦闘方向が北東にはなりそうもなく、ずっと疑問を抱いていました。
ところが先日、「信長軍の合戦史」(吉川弘文館)に収められている太田浩司氏の「姉川合戦と戦場の景観」を拝読し、その疑問に一筋の答えを見出した思いがしました。

文中、尾張徳川家の旧蔵書を収めた蓬左文庫に伝来する姉川古戦場を描いた古絵図が掲載されているのですが、それを見ると朝倉勢が布陣した三田村の東から、浅井勢の野村南方にかけての姉川の北岸に小山、或いはのようなものが描かれているのです。
姉川ノ広サ二町余、但シ昔ハ龍鼻之山岸ヨリ野村ノ高岸此間皆河原也、今ハ川ヨケヲ仕ルニ付テ、川ノ流レ如此北ヘヨリ
との注釈も付されていて、野村の付近がやはり高岸になっていたことがわかりますし、合戦当時は信長が横山城包囲の本陣を置いていた龍ヶ鼻のすぐ近くまで、姉川の河原が迫っていたことが記されています。
明治期の地籍図で確認すると、姉川の南岸に沿った部分だけ耕地の区画が不規則になっていて、やはりかつては河原だったものと推定されるそうです。

これらの情報を先ほどの地図に落とし込むと、次のようになります。

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薄い水色で塗った部分が姉川の河原で、茶色は高岸)です。
ここから見えてくるもの・・・野村に布陣した浅井軍は、高岸に阻まれてそのまま南下することはできませんから、少し東へ迂回して信長の本陣と対峙したのではないでしょうか。

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このようにして・・・
河原周辺の平地は明治期の地籍図でも区画が整然と並んでおり、合戦当時にも田畑が広がっていたものと思われます。
そして前出の古絵図にも「三田村・野村・佐野村ノ辺合戦何レモ田ニ足不入」とある通り、互いにわざわざ足を取られる田圃に踏み入るようなことはせず、この広い河原で相まみえたことでしょう。

このように見ていくと、織田軍は見事に丑寅へむかつて攻めかかったことになり、「信長公記」の記述にも一層、信憑性が増してくるのです。


※ちなみに太田氏の論述では開戦へ至る経緯についても触れられており、曰く;
大依山に陣取った浅井・朝倉連合軍が(合戦前日の)六月廿七日の暁、陣払ひ仕ったため、織田勢は(浅井・朝倉連合軍が)罷り退き侯と存じ侯のところ、廿八日未明に三十町ばかりかゝり来たり、とあり、織田・徳川連合軍は完全に不意を衝かれていると思われる。
その証拠として開戦当初、織田勢では信長の馬廻や、僅かに西美濃三人衆のみが浅井の軍勢と戦っていることが「信長公記」や、合戦当日に信長自ら認めた書状(足利義昭側近宛)にも記されてる点を挙げられています。
(書状には他に、徳川家康と先陣をめぐって争った丹羽長秀・池田恒興を、徳川軍に付けて共に朝倉勢にあたらせた旨も書かれている)

私も同意で、多くの有力武将の名前がまるで出てこないあたりに、不意を衝かれて背後を取られ、南方の横山城包囲の後方に布いたはずの本陣(龍ヶ鼻)が、突如として合戦の最前線に立たされた事情が垣間見えるように思えます。
※現地には戦闘のさなか、信長の本陣に紛れ込んできたところを、竹中重矩に討ち取られたという遠藤直経の墓がありますが、戦闘開始時の信長本陣と伝わる陣杭の柳の300mも後方に位置しています。
この辺りにも、奇襲を受けて押し込まれる信長の苦境を現しているようで、とても興味深いです。

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2016年7月 3日 (日)

甲州道中(鳥沢→初狩)

7月2日、また甲州道中を歩いてみたくなって出かけてきました。

甲府へ向けて進軍する甲陽鎮撫隊は慶応四年三月二日、府中を出発して日野や八王子に立ち寄り、小仏峠を越えて相模湖畔の与瀬宿に泊まっています。(→参考記事
そして・・・

三日、雨天。
一 与瀬宿出立、上野原宿昼飯、猿橋宿泊り。

(佐藤彦五郎日記)

翌三日には与瀬を発って上野原で休息した後、猿橋で宿を取りました。

本来であれば私も前回、高尾から小仏峠を越えて与瀬まで歩いていますので、その続きからスタートすればいいところですが、与瀬から猿橋までは30km弱と距離が長く、その間結構な山越えがあって電車のルートからも大きく逸れることから、7月という暑い時期を考慮して今回はひと山越えた先の鳥沢駅から歩き始めることにしました。
与瀬~鳥沢間もいずれ必ず、時期を選んで挑戦します。

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甲州道中鳥沢宿
鳥沢宿は上下二つの宿場に分かれており、駅すぐ北の国道20号に沿っているこちらは上鳥沢宿になります。

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明治天皇駐蹕地址の碑
駐蹕(ちゅうひつ)とは天皇が行幸の途中、一時乗り物を止めることをいうのだそうです。つまり、御休息されたということですね。

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少し国道を進み、こちらの二股が出てきたら右へ。

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旧道は深く切れ込んだ沢(谷)を迂回するように進みます。
写真右手のコーナー部分には・・・

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馬頭観音
馬は移動や荷役の貴重な手段でしたので、旧街道にはよく見られます。今回のルートでも、この先多く出てきます。
なお、「馬頭観世音」「馬頭尊」などと文字だけ彫られたものは、愛馬への供養として祀られたものが多いのだそうです。

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再び国道に合流します。

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しばらくは国道沿いに、桂川の断崖上を進みます。

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ここでまた甲州道中は少しだけ国道を離れ、正面奥のベージュ色の建物手前を右へ入ります。

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旧道へ入ってすぐの二股は左へ。

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二股の脇、民家の庭先にはやはり小さな馬頭観音が。

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旧道はこの先、正面で行き止まりになりますが・・・

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なんとか国道へ下りるための道が付けられていました。

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国道から、下りてきた道を振り返る・・・道が付けられているとはいえ、急斜面で藪もきつく、結構躊躇しました(笑)

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またしばらくは国道を進みます。

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道端には常夜灯や稲荷社も。

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「→小菅」の標識が出てきたら、その先で右斜めの道へ進みます。
この先にある・・・

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日本三奇橋の一つ、猿橋で桂川を渡ります。

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猿橋からの絶景・・・

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いつ頃からこれほどの橋が架けられていたのか定かではありませんが、西暦600年頃に百済からの渡来人が、猿が互いに体を支え合って橋を作って桂川を渡っていくのを見て架橋に成功した、との伝説もあるのだそうです。
江戸時代に五街道が整備される、そのかなり以前から交通の要衝であったことは確かで、幾度か合戦の舞台にもなっているようです。

幕末、甲陽鎮撫隊が勝沼から敗走する際には、一部の兵が断崖絶壁の要害を利用して新政府軍の追撃を食い止めるため、猿橋を焼き落そうとしますが、その場にいた佐藤彦五郎が必死にこれを止めて、なんとか焼失を免れたというエピソードも伝わってます。(聞きがき新選組)
なお、現在の橋は昭和59年に架け替えられたものになります。

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猿橋を南側へ渡った先に建つ、明治天皇御召換所址の碑
ちなみに明治天皇の山梨巡幸は、明治13年のことになります。

甲州道中は猿橋を渡り、少し進むとすぐにまた国道20号に合流します。
その先に・・・

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甲陽鎮撫隊が宿泊した猿橋宿の町並みが連なります。

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ここで意外な方と遭遇・・・まさか国道沿いでクワガタに出くわすとは!

更に西へ進みます。

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またまたお目に掛かりましたね、馬頭観音。

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こちらには何と彫ってあったかなぁ?・・・忘れました。
このカーブの外側、阿弥陀寺の門前には・・・

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猿橋一里塚跡の標柱がひっそりと立っていました。
文字も消えかかっているし…普通に歩いていたらまず気付きません。

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猿橋一里塚跡付近から、西の方角の眺め。
暑さに霞んでいますが、右に見えているのは小山田氏の居城跡としても知られる岩殿山です。

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猿橋一里塚跡を過ぎたら、甲州道中は右の細道へ。

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萬延二年(1861)の日付が刻まれていた石・・・正面の文字は読み取れませんでした。

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旧街道歩きはやはり、国道よりもこういった旧道の方が雰囲気があって楽しいですね。

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今度は左上の歩道を上がって行きます。

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坂を登ると中央本線の線路にぶつかり、甲州道中は踏切を越えて行きます。

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踏切を越えると国道に出ますが、すぐにまた右の旧道へ。
この先、なだらかな坂を登って行くと・・・

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甲州道中の宿場の一つ、駒橋宿があります。

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駒橋宿の碑

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坂を登りきったところで一旦国道に合流し、300mほど西へ進んだら、写真の場所で再び右に逸れます。

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ここまで来ると、岩殿山が目の前にドーンとそびえています。

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中央本線の南側を、線路に沿って西へ。しばらくすると大月駅のロータリーに出ます。

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甲州道中はロータリーを横切るようにして、先へ続いています。

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駅前だというのに、どうした訳か人通りの耐えた甲州道中を往く・・・。
駅を越えてしばらくしたら、国道に合流します。

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大月宿本陣(溝口家)跡に建つ、明治天皇御召換所址の碑

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本陣前のT字路を右折→中央本線の線路を越えたら今度はすぐに左折します。
写真はその、中央本線の線路を越えて左折した先に続く甲州道中。

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歩いていたら、こんな供養碑も見かけました。

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桂川を渡る中央本線(手前)に国道20号(奥)。その更に奥は・・・水門かな?
この先3~400mほどで、あちらの国道と合流します。

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国道に合流して少し進むと、下花咲一里塚が見えてきます。
周辺から集められた馬頭観音や庚申塔が並べられていました。

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一里塚

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更に進むと・・・いよいよ見えてきました。

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下花咲宿本陣(花咲宿名主・星野家)
日野、小原の本陣と共に、甲州道中では三軒だけ現存する本陣建物です。

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こちらにも明治天皇花咲小休所の碑が建っていました。

四日、雨天。
一 同
(猿橋)宿出立、花咲宿昼飯之処、真偽相不分、官軍体之人数、明五日頃甲府町え押来り候様子達し有之候ニ付、花咲宿より早追ニて大久保・内藤、其外兵隊相越し候ニ付、(以下略)
(佐藤彦五郎日記)

慶応四年三月四日、猿橋宿を発った甲陽鎮撫隊一行がここ花咲宿で昼食をとっているところへ、新政府軍が明日にも甲府に到着しそうだ、との情報が舞い込みます。
急ぎ確認を取ったところ、新政府軍が既に前日には甲府に入っていたことが判明し、甲陽鎮撫隊はこの日、この先の駒飼宿で進軍を止めています。

そして、佐藤彦五郎のご子孫が残した「聞きがき新選組」には;

大月(花咲カ)宿の星野源仲と云う医家に、宿舎を取った当夜、
※実際には花咲宿には泊まっていない。

という一節がありました。
大月市教育委員会による説明には下花咲宿本陣の星野家について、「幕末には薬の商いも行っていた」ともあり、医家に通じるものがあるように思えます。
つまり、こちらの下花咲宿本陣こそまさしく、近藤勇(大久保)や土方歳三(内藤)らが昼食に立ち寄っていた場所そのものである可能性も充分に考えられると思うのですが、いかがでしょうか・・・。

※その後、星野源仲大月宿在住の医師・星野玄仲であると知りました。訂正いたします。
「聞きがき新選組」に記述があることから、星野玄仲家に泊まったのは鎮撫隊本隊ではなく、彦五郎率いる春日隊の一部だったのかもしれません。

さて、ここいらで暑さに蝕まれた私の体力も限界に近づき、折角なので本陣横の和食ファミレスで昼休憩を挟みました。
汗だくで来店した私の姿を見た店員さん、他に客も殆どいなかったことからエアコンの設定温度をこっそり下げてくれました。こういうさり気ない気遣い、嬉しいものですねぇ…ありがとうございました。

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お陰で体力も少し回復し、甲州道中歩きを再開します。
国道20号、「上花咲」バス停の次は・・・

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「花折」…なんだか情緒を感じる地名ですね。由来が気になります。

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国道20号の97.8kmポスト付近。
この辺りでは本来、甲州道中は線路を挟んだ山裾側を通っていたらしく、実際に道の痕跡らしきものも見えていました。
このトンネルを潜って線路の向こう側へ行けるようなのですが・・・ひどい藪に加え、道がどこまで残っているのか覚束ないので、勿論冒険はしません(笑)
しかし、後で出てくるので「甲州道中が本当は、国道に対して線路の向こう側を通っていた」ということは覚えておいてください。

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真木橋から歩いてきた方角を振り返る。
この区間はひたすら一直線で日陰も全くなく、気力/体力とも本当にきつかった・・・。

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線路を挟んだ対岸の斜面中腹、甲州採石初狩鉱業所(以下:採石所)に架かる橋と同じ高さに1本の道が付けられているのがわかりますか?

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橋の上から…右の斜面に、線路と平行するように筋が走っていますよね?

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これが先ほど97.8kmポスト付近で冒険を回避した、線路向こう側の古道から続く甲州道中の名残と思われます。

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採石所のゲート前を通過し、古道はさらに西へ続いています。
左は採石所の敷地に入ってしまいますので、当然私も写真正面の道を行きます。

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獣の類が怖いので、懸命に音を立てながら・・・(^_^;)

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やがて砂利道は採石所の施設下を潜り・・・

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舗装路に出ます。

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道端には小さなお地蔵さんなど。

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そのまま進んで踏切を越えると、聖護院道興歌碑があります。
道興は関白近衛家の出身で仏門に入り、天台宗寺門派修験宗の総本山・聖護院の座主を務めた人物。
諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ねて「廻国雑記」を著していますが、その中で猿橋についても触れています。
なお、この辺りが下初狩宿になるようです。

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先には小さな馬頭観音も。

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やがて、採石所前から離れていた国道20号と再合流します。
ここまで来たら本日のゴールも近い・・・ラストスパート!

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国道に合流してからはダラダラと上り勾配が続きます。
すぐに初狩駅前の交差点がありますが、一旦通り過ぎます。沿道には常夜灯も。

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大月市武道館前に建つ中初狩宿の碑を過ぎ・・・

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こちらが本日のゴール、初狩宿本陣(小林家)
やはり門前には明治天皇御小休遺跡の碑が。

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今もご子孫がお住まいとお見受けした家屋。
甲州道中の現存本陣は三軒だけなので、こちらは現存ではないのでしょうが、歴史と風格を漂わせる雰囲気がありました。

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さて、これにて今回の甲州道中歩きは終了です。帰りは初狩駅から。

鳥沢駅を出発してここまで約5時間。国道20号の標識では14kmほどでしたが、実際には甲州道中の痕跡を辿って何度も旧道に逸れたりしているので、もう少し長かったかと・・・。
なにより遮るもののない日差しと、容赦ない暑さが堪えました・・・。次はもう少し時期を選んで、ですね(^_^;)

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