武芸八幡宮

関市武芸川町に鎮座する武芸(むげ)八幡宮
駐車場に車を停めて参道を覗くと、いきなり圧倒されるほどの荘厳な雰囲気が漂います。
写真手前に写る石造りの太鼓橋は元禄七年(1694)の建立。
しかし、私が以前からずっと武芸八幡宮を訪れたかった一番の目的は、太鼓橋の左奥にポツンと建つ・・・

こちらの下馬標です。
1570年頃、なんとあの織田信長が建立したと伝えられているのです。
もしかすると信長自身も一度は参拝に訪れ、建てられたこの下馬標を満足げに眺めるようなことがあったかも・・・と思うと、なんだか興奮でゾクゾクしてきます。

一直線に延びる参道を進みます。

途中、参道脇に大きな石碑がありました。
八幡山神宮寺別当大聖寺遺蹟
とあります。
明治の神仏分離策で取り壊されましたが、境内には大聖寺というお寺も存在していました。
神宮寺を備えていることからしても、武芸八幡宮が相当な規模と格式を誇っていたことが偲ばれます。

更に進むと、1本だけ抜きん出て太く大きな杉が・・・
樹齢はなんと、1000年ほどと推定されているようです。岐阜県の特別天然記念物。

見事なまでに真っ直ぐ、天空を指して伸びていました。

さ、社殿も見えてきました。

武芸八幡宮拝殿

当社は養老元年(717)の創建で、観応ニ年(1351)には、森乱丸の先祖にあたる森泰朝によって社殿を再興されています。
また、織田信長・信忠・信孝らの安堵状も残されています。

織田信長安堵状⇒永禄十年十月
信忠⇒天正四年十二月
信孝⇒天正十年七月
信長が安堵状を発給した永禄十年十月は、稲葉山城を落として美濃を制圧した直後。
信忠の天正四年十二月は、信長から家督と共に尾張や美濃を譲られた直後ですし、信孝もやはり本能寺の変~清洲会議を経て岐阜城に入城した直後に発給しています。
岐阜城から見ると鬼門(北東)の方角に鎮座しているためかもしれませんが、冒頭の下馬標の建立といい、織田父子から大切に保護されてきた歴史を垣間見る思いがします。
※地名が由来とはいえ、「武芸」という冠も、武将たちからの崇敬を集める一助になった・・・かも?

大聖寺(神宮寺)が確かに存在していたことを示す鐘楼。
ただ、梵鐘は既に姿を消していました。

参拝を終え、拝殿前から一直線の参道を見る。
この参道を引き返し、駐車場の更に南へ進むと・・・

二の鳥居があり、更に今は車道に姿を変えた参道を下って行くと・・・

一の鳥居が建っています。
念願だった武芸八幡宮参拝。
想像していた以上の静謐で荘厳な雰囲気に感動しましたし、神域の空気にも圧倒されました。
さて、岐阜の旅、夏。も大詰め。
ラストは岐阜城へ・・・
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