甲州道中(鳥沢→初狩)
7月2日、また甲州道中を歩いてみたくなって出かけてきました。
甲府へ向けて進軍する甲陽鎮撫隊は慶応四年三月二日、府中を出発して日野や八王子に立ち寄り、小仏峠を越えて相模湖畔の与瀬宿に泊まっています。(→参考記事)
そして・・・
三日、雨天。
一 与瀬宿出立、上野原宿昼飯、猿橋宿泊り。
(佐藤彦五郎日記)
翌三日には与瀬を発って上野原で休息した後、猿橋で宿を取りました。
本来であれば私も前回、高尾から小仏峠を越えて与瀬まで歩いていますので、その続きからスタートすればいいところですが、与瀬から猿橋までは30km弱と距離が長く、その間結構な山越えがあって電車のルートからも大きく逸れることから、7月という暑い時期を考慮して今回はひと山越えた先の鳥沢駅から歩き始めることにしました。
与瀬~鳥沢間もいずれ必ず、時期を選んで挑戦します。
甲州道中鳥沢宿
鳥沢宿は上下二つの宿場に分かれており、駅すぐ北の国道20号に沿っているこちらは上鳥沢宿になります。
明治天皇駐蹕地址の碑
駐蹕(ちゅうひつ)とは天皇が行幸の途中、一時乗り物を止めることをいうのだそうです。つまり、御休息されたということですね。
少し国道を進み、こちらの二股が出てきたら右へ。
旧道は深く切れ込んだ沢(谷)を迂回するように進みます。
写真右手のコーナー部分には・・・
馬頭観音
馬は移動や荷役の貴重な手段でしたので、旧街道にはよく見られます。今回のルートでも、この先多く出てきます。
なお、「馬頭観世音」「馬頭尊」などと文字だけ彫られたものは、愛馬への供養として祀られたものが多いのだそうです。
再び国道に合流します。
しばらくは国道沿いに、桂川の断崖上を進みます。
ここでまた甲州道中は少しだけ国道を離れ、正面奥のベージュ色の建物手前を右へ入ります。
旧道へ入ってすぐの二股は左へ。
二股の脇、民家の庭先にはやはり小さな馬頭観音が。
旧道はこの先、正面で行き止まりになりますが・・・
なんとか国道へ下りるための道が付けられていました。
国道から、下りてきた道を振り返る・・・道が付けられているとはいえ、急斜面で藪もきつく、結構躊躇しました(笑)
またしばらくは国道を進みます。
道端には常夜灯や稲荷社も。
「→小菅」の標識が出てきたら、その先で右斜めの道へ進みます。
この先にある・・・
日本三奇橋の一つ、猿橋で桂川を渡ります。
猿橋からの絶景・・・
いつ頃からこれほどの橋が架けられていたのか定かではありませんが、西暦600年頃に百済からの渡来人が、猿が互いに体を支え合って橋を作って桂川を渡っていくのを見て架橋に成功した、との伝説もあるのだそうです。
江戸時代に五街道が整備される、そのかなり以前から交通の要衝であったことは確かで、幾度か合戦の舞台にもなっているようです。
幕末、甲陽鎮撫隊が勝沼から敗走する際には、一部の兵が断崖絶壁の要害を利用して新政府軍の追撃を食い止めるため、猿橋を焼き落そうとしますが、その場にいた佐藤彦五郎が必死にこれを止めて、なんとか焼失を免れたというエピソードも伝わってます。(聞きがき新選組)
なお、現在の橋は昭和59年に架け替えられたものになります。
猿橋を南側へ渡った先に建つ、明治天皇御召換所址の碑
ちなみに明治天皇の山梨巡幸は、明治13年のことになります。
甲州道中は猿橋を渡り、少し進むとすぐにまた国道20号に合流します。
その先に・・・
甲陽鎮撫隊が宿泊した猿橋宿の町並みが連なります。
ここで意外な方と遭遇・・・まさか国道沿いでクワガタに出くわすとは!
更に西へ進みます。
またまたお目に掛かりましたね、馬頭観音。
こちらには何と彫ってあったかなぁ?・・・忘れました。
このカーブの外側、阿弥陀寺の門前には・・・
猿橋一里塚跡の標柱がひっそりと立っていました。
文字も消えかかっているし…普通に歩いていたらまず気付きません。
猿橋一里塚跡付近から、西の方角の眺め。
暑さに霞んでいますが、右に見えているのは小山田氏の居城跡としても知られる岩殿山です。
猿橋一里塚跡を過ぎたら、甲州道中は右の細道へ。
萬延二年(1861)の日付が刻まれていた石・・・正面の文字は読み取れませんでした。
旧街道歩きはやはり、国道よりもこういった旧道の方が雰囲気があって楽しいですね。
今度は左上の歩道を上がって行きます。
坂を登ると中央本線の線路にぶつかり、甲州道中は踏切を越えて行きます。
踏切を越えると国道に出ますが、すぐにまた右の旧道へ。
この先、なだらかな坂を登って行くと・・・
甲州道中の宿場の一つ、駒橋宿があります。
駒橋宿の碑
坂を登りきったところで一旦国道に合流し、300mほど西へ進んだら、写真の場所で再び右に逸れます。
ここまで来ると、岩殿山が目の前にドーンとそびえています。
中央本線の南側を、線路に沿って西へ。しばらくすると大月駅のロータリーに出ます。
甲州道中はロータリーを横切るようにして、先へ続いています。
駅前だというのに、どうした訳か人通りの耐えた甲州道中を往く・・・。
駅を越えてしばらくしたら、国道に合流します。
大月宿本陣(溝口家)跡に建つ、明治天皇御召換所址の碑
本陣前のT字路を右折→中央本線の線路を越えたら今度はすぐに左折します。
写真はその、中央本線の線路を越えて左折した先に続く甲州道中。
歩いていたら、こんな供養碑も見かけました。
桂川を渡る中央本線(手前)に国道20号(奥)。その更に奥は・・・水門かな?
この先3~400mほどで、あちらの国道と合流します。
国道に合流して少し進むと、下花咲一里塚が見えてきます。
周辺から集められた馬頭観音や庚申塔が並べられていました。
一里塚
更に進むと・・・いよいよ見えてきました。
下花咲宿本陣(花咲宿名主・星野家)
日野、小原の本陣と共に、甲州道中では三軒だけ現存する本陣建物です。
こちらにも明治天皇花咲小休所の碑が建っていました。
四日、雨天。
一 同(猿橋)宿出立、花咲宿昼飯之処、真偽相不分、官軍体之人数、明五日頃甲府町え押来り候様子達し有之候ニ付、花咲宿より早追ニて大久保・内藤、其外兵隊相越し候ニ付、(以下略)
(佐藤彦五郎日記)
慶応四年三月四日、猿橋宿を発った甲陽鎮撫隊一行がここ花咲宿で昼食をとっているところへ、新政府軍が明日にも甲府に到着しそうだ、との情報が舞い込みます。
急ぎ確認を取ったところ、新政府軍が既に前日には甲府に入っていたことが判明し、甲陽鎮撫隊はこの日、この先の駒飼宿で進軍を止めています。
そして、佐藤彦五郎のご子孫が残した「聞きがき新選組」には;
大月(花咲カ)宿の星野源仲と云う医家に、宿舎を取った当夜、
※実際には花咲宿には泊まっていない。
という一節がありました。
大月市教育委員会による説明には下花咲宿本陣の星野家について、「幕末には薬の商いも行っていた」ともあり、医家に通じるものがあるように思えます。
つまり、こちらの下花咲宿本陣こそまさしく、近藤勇(大久保)や土方歳三(内藤)らが昼食に立ち寄っていた場所そのものである可能性も充分に考えられると思うのですが、いかがでしょうか・・・。
※その後、星野源仲は大月宿在住の医師・星野玄仲であると知りました。訂正いたします。
「聞きがき新選組」に記述があることから、星野玄仲家に泊まったのは鎮撫隊本隊ではなく、彦五郎率いる春日隊の一部だったのかもしれません。
さて、ここいらで暑さに蝕まれた私の体力も限界に近づき、折角なので本陣横の和食ファミレスで昼休憩を挟みました。
甲府へ向けて進軍する甲陽鎮撫隊は慶応四年三月二日、府中を出発して日野や八王子に立ち寄り、小仏峠を越えて相模湖畔の与瀬宿に泊まっています。(→参考記事)
そして・・・
三日、雨天。
一 与瀬宿出立、上野原宿昼飯、猿橋宿泊り。
(佐藤彦五郎日記)
翌三日には与瀬を発って上野原で休息した後、猿橋で宿を取りました。
本来であれば私も前回、高尾から小仏峠を越えて与瀬まで歩いていますので、その続きからスタートすればいいところですが、与瀬から猿橋までは30km弱と距離が長く、その間結構な山越えがあって電車のルートからも大きく逸れることから、7月という暑い時期を考慮して今回はひと山越えた先の鳥沢駅から歩き始めることにしました。
与瀬~鳥沢間もいずれ必ず、時期を選んで挑戦します。
甲州道中鳥沢宿
鳥沢宿は上下二つの宿場に分かれており、駅すぐ北の国道20号に沿っているこちらは上鳥沢宿になります。
明治天皇駐蹕地址の碑
駐蹕(ちゅうひつ)とは天皇が行幸の途中、一時乗り物を止めることをいうのだそうです。つまり、御休息されたということですね。
少し国道を進み、こちらの二股が出てきたら右へ。
旧道は深く切れ込んだ沢(谷)を迂回するように進みます。
写真右手のコーナー部分には・・・
馬頭観音
馬は移動や荷役の貴重な手段でしたので、旧街道にはよく見られます。今回のルートでも、この先多く出てきます。
なお、「馬頭観世音」「馬頭尊」などと文字だけ彫られたものは、愛馬への供養として祀られたものが多いのだそうです。
再び国道に合流します。
しばらくは国道沿いに、桂川の断崖上を進みます。
ここでまた甲州道中は少しだけ国道を離れ、正面奥のベージュ色の建物手前を右へ入ります。
旧道へ入ってすぐの二股は左へ。
二股の脇、民家の庭先にはやはり小さな馬頭観音が。
旧道はこの先、正面で行き止まりになりますが・・・
なんとか国道へ下りるための道が付けられていました。
国道から、下りてきた道を振り返る・・・道が付けられているとはいえ、急斜面で藪もきつく、結構躊躇しました(笑)
またしばらくは国道を進みます。
道端には常夜灯や稲荷社も。
「→小菅」の標識が出てきたら、その先で右斜めの道へ進みます。
この先にある・・・
日本三奇橋の一つ、猿橋で桂川を渡ります。
猿橋からの絶景・・・
いつ頃からこれほどの橋が架けられていたのか定かではありませんが、西暦600年頃に百済からの渡来人が、猿が互いに体を支え合って橋を作って桂川を渡っていくのを見て架橋に成功した、との伝説もあるのだそうです。
江戸時代に五街道が整備される、そのかなり以前から交通の要衝であったことは確かで、幾度か合戦の舞台にもなっているようです。
幕末、甲陽鎮撫隊が勝沼から敗走する際には、一部の兵が断崖絶壁の要害を利用して新政府軍の追撃を食い止めるため、猿橋を焼き落そうとしますが、その場にいた佐藤彦五郎が必死にこれを止めて、なんとか焼失を免れたというエピソードも伝わってます。(聞きがき新選組)
なお、現在の橋は昭和59年に架け替えられたものになります。
猿橋を南側へ渡った先に建つ、明治天皇御召換所址の碑
ちなみに明治天皇の山梨巡幸は、明治13年のことになります。
甲州道中は猿橋を渡り、少し進むとすぐにまた国道20号に合流します。
その先に・・・
甲陽鎮撫隊が宿泊した猿橋宿の町並みが連なります。
ここで意外な方と遭遇・・・まさか国道沿いでクワガタに出くわすとは!
更に西へ進みます。
またまたお目に掛かりましたね、馬頭観音。
こちらには何と彫ってあったかなぁ?・・・忘れました。
このカーブの外側、阿弥陀寺の門前には・・・
猿橋一里塚跡の標柱がひっそりと立っていました。
文字も消えかかっているし…普通に歩いていたらまず気付きません。
猿橋一里塚跡付近から、西の方角の眺め。
暑さに霞んでいますが、右に見えているのは小山田氏の居城跡としても知られる岩殿山です。
猿橋一里塚跡を過ぎたら、甲州道中は右の細道へ。
萬延二年(1861)の日付が刻まれていた石・・・正面の文字は読み取れませんでした。
旧街道歩きはやはり、国道よりもこういった旧道の方が雰囲気があって楽しいですね。
今度は左上の歩道を上がって行きます。
坂を登ると中央本線の線路にぶつかり、甲州道中は踏切を越えて行きます。
踏切を越えると国道に出ますが、すぐにまた右の旧道へ。
この先、なだらかな坂を登って行くと・・・
甲州道中の宿場の一つ、駒橋宿があります。
駒橋宿の碑
坂を登りきったところで一旦国道に合流し、300mほど西へ進んだら、写真の場所で再び右に逸れます。
ここまで来ると、岩殿山が目の前にドーンとそびえています。
中央本線の南側を、線路に沿って西へ。しばらくすると大月駅のロータリーに出ます。
甲州道中はロータリーを横切るようにして、先へ続いています。
駅前だというのに、どうした訳か人通りの耐えた甲州道中を往く・・・。
駅を越えてしばらくしたら、国道に合流します。
大月宿本陣(溝口家)跡に建つ、明治天皇御召換所址の碑
本陣前のT字路を右折→中央本線の線路を越えたら今度はすぐに左折します。
写真はその、中央本線の線路を越えて左折した先に続く甲州道中。
歩いていたら、こんな供養碑も見かけました。
桂川を渡る中央本線(手前)に国道20号(奥)。その更に奥は・・・水門かな?
この先3~400mほどで、あちらの国道と合流します。
国道に合流して少し進むと、下花咲一里塚が見えてきます。
周辺から集められた馬頭観音や庚申塔が並べられていました。
一里塚
更に進むと・・・いよいよ見えてきました。
下花咲宿本陣(花咲宿名主・星野家)
日野、小原の本陣と共に、甲州道中では三軒だけ現存する本陣建物です。
こちらにも明治天皇花咲小休所の碑が建っていました。
四日、雨天。
一 同(猿橋)宿出立、花咲宿昼飯之処、真偽相不分、官軍体之人数、明五日頃甲府町え押来り候様子達し有之候ニ付、花咲宿より早追ニて大久保・内藤、其外兵隊相越し候ニ付、(以下略)
(佐藤彦五郎日記)
慶応四年三月四日、猿橋宿を発った甲陽鎮撫隊一行がここ花咲宿で昼食をとっているところへ、新政府軍が明日にも甲府に到着しそうだ、との情報が舞い込みます。
急ぎ確認を取ったところ、新政府軍が既に前日には甲府に入っていたことが判明し、甲陽鎮撫隊はこの日、この先の駒飼宿で進軍を止めています。
そして、佐藤彦五郎のご子孫が残した「聞きがき新選組」には;
大月(花咲カ)宿の星野源仲と云う医家に、宿舎を取った当夜、
※実際には花咲宿には泊まっていない。
という一節がありました。
大月市教育委員会による説明には下花咲宿本陣の星野家について、「幕末には薬の商いも行っていた」ともあり、医家に通じるものがあるように思えます。
つまり、こちらの下花咲宿本陣こそまさしく、近藤勇(大久保)や土方歳三(内藤)らが昼食に立ち寄っていた場所そのものである可能性も充分に考えられると思うのですが、いかがでしょうか・・・。
※その後、星野源仲は大月宿在住の医師・星野玄仲であると知りました。訂正いたします。
「聞きがき新選組」に記述があることから、星野玄仲家に泊まったのは鎮撫隊本隊ではなく、彦五郎率いる春日隊の一部だったのかもしれません。
さて、ここいらで暑さに蝕まれた私の体力も限界に近づき、折角なので本陣横の和食ファミレスで昼休憩を挟みました。
汗だくで来店した私の姿を見た店員さん、他に客も殆どいなかったことからエアコンの設定温度をこっそり下げてくれました。こういうさり気ない気遣い、嬉しいものですねぇ…ありがとうございました。
お陰で体力も少し回復し、甲州道中歩きを再開します。
国道20号、「上花咲」バス停の次は・・・
「花折」…なんだか情緒を感じる地名ですね。由来が気になります。
国道20号の97.8kmポスト付近。
この辺りでは本来、甲州道中は線路を挟んだ山裾側を通っていたらしく、実際に道の痕跡らしきものも見えていました。
このトンネルを潜って線路の向こう側へ行けるようなのですが・・・ひどい藪に加え、道がどこまで残っているのか覚束ないので、勿論冒険はしません(笑)
しかし、後で出てくるので「甲州道中が本当は、国道に対して線路の向こう側を通っていた」ということは覚えておいてください。
真木橋から歩いてきた方角を振り返る。
この区間はひたすら一直線で日陰も全くなく、気力/体力とも本当にきつかった・・・。
線路を挟んだ対岸の斜面中腹、甲州採石初狩鉱業所(以下:採石所)に架かる橋と同じ高さに1本の道が付けられているのがわかりますか?
橋の上から…右の斜面に、線路と平行するように筋が走っていますよね?
これが先ほど97.8kmポスト付近で冒険を回避した、線路向こう側の古道から続く甲州道中の名残と思われます。
採石所のゲート前を通過し、古道はさらに西へ続いています。
左は採石所の敷地に入ってしまいますので、当然私も写真正面の道を行きます。
獣の類が怖いので、懸命に音を立てながら・・・(^_^;)
やがて砂利道は採石所の施設下を潜り・・・
舗装路に出ます。
道端には小さなお地蔵さんなど。
そのまま進んで踏切を越えると、聖護院道興歌碑があります。
道興は関白近衛家の出身で仏門に入り、天台宗寺門派修験宗の総本山・聖護院の座主を務めた人物。
諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ねて「廻国雑記」を著していますが、その中で猿橋についても触れています。
なお、この辺りが下初狩宿になるようです。
先には小さな馬頭観音も。
やがて、採石所前から離れていた国道20号と再合流します。
ここまで来たら本日のゴールも近い・・・ラストスパート!
国道に合流してからはダラダラと上り勾配が続きます。
すぐに初狩駅前の交差点がありますが、一旦通り過ぎます。沿道には常夜灯も。
大月市武道館前に建つ中初狩宿の碑を過ぎ・・・
こちらが本日のゴール、初狩宿本陣(小林家)
やはり門前には明治天皇御小休遺跡の碑が。
今もご子孫がお住まいとお見受けした家屋。
甲州道中の現存本陣は三軒だけなので、こちらは現存ではないのでしょうが、歴史と風格を漂わせる雰囲気がありました。
さて、これにて今回の甲州道中歩きは終了です。帰りは初狩駅から。
鳥沢駅を出発してここまで約5時間。国道20号の標識では14kmほどでしたが、実際には甲州道中の痕跡を辿って何度も旧道に逸れたりしているので、もう少し長かったかと・・・。
なにより遮るもののない日差しと、容赦ない暑さが堪えました・・・。次はもう少し時期を選んで、ですね(^_^;)
お陰で体力も少し回復し、甲州道中歩きを再開します。
国道20号、「上花咲」バス停の次は・・・
「花折」…なんだか情緒を感じる地名ですね。由来が気になります。
国道20号の97.8kmポスト付近。
この辺りでは本来、甲州道中は線路を挟んだ山裾側を通っていたらしく、実際に道の痕跡らしきものも見えていました。
このトンネルを潜って線路の向こう側へ行けるようなのですが・・・ひどい藪に加え、道がどこまで残っているのか覚束ないので、勿論冒険はしません(笑)
しかし、後で出てくるので「甲州道中が本当は、国道に対して線路の向こう側を通っていた」ということは覚えておいてください。
真木橋から歩いてきた方角を振り返る。
この区間はひたすら一直線で日陰も全くなく、気力/体力とも本当にきつかった・・・。
線路を挟んだ対岸の斜面中腹、甲州採石初狩鉱業所(以下:採石所)に架かる橋と同じ高さに1本の道が付けられているのがわかりますか?
橋の上から…右の斜面に、線路と平行するように筋が走っていますよね?
これが先ほど97.8kmポスト付近で冒険を回避した、線路向こう側の古道から続く甲州道中の名残と思われます。
採石所のゲート前を通過し、古道はさらに西へ続いています。
左は採石所の敷地に入ってしまいますので、当然私も写真正面の道を行きます。
獣の類が怖いので、懸命に音を立てながら・・・(^_^;)
やがて砂利道は採石所の施設下を潜り・・・
舗装路に出ます。
道端には小さなお地蔵さんなど。
そのまま進んで踏切を越えると、聖護院道興歌碑があります。
道興は関白近衛家の出身で仏門に入り、天台宗寺門派修験宗の総本山・聖護院の座主を務めた人物。
諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ねて「廻国雑記」を著していますが、その中で猿橋についても触れています。
なお、この辺りが下初狩宿になるようです。
先には小さな馬頭観音も。
やがて、採石所前から離れていた国道20号と再合流します。
ここまで来たら本日のゴールも近い・・・ラストスパート!
国道に合流してからはダラダラと上り勾配が続きます。
すぐに初狩駅前の交差点がありますが、一旦通り過ぎます。沿道には常夜灯も。
大月市武道館前に建つ中初狩宿の碑を過ぎ・・・
こちらが本日のゴール、初狩宿本陣(小林家)
やはり門前には明治天皇御小休遺跡の碑が。
今もご子孫がお住まいとお見受けした家屋。
甲州道中の現存本陣は三軒だけなので、こちらは現存ではないのでしょうが、歴史と風格を漂わせる雰囲気がありました。
さて、これにて今回の甲州道中歩きは終了です。帰りは初狩駅から。
鳥沢駅を出発してここまで約5時間。国道20号の標識では14kmほどでしたが、実際には甲州道中の痕跡を辿って何度も旧道に逸れたりしているので、もう少し長かったかと・・・。
なにより遮るもののない日差しと、容赦ない暑さが堪えました・・・。次はもう少し時期を選んで、ですね(^_^;)
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