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2016年8月

2016年8月25日 (木)

徳川美術館 「信長・秀吉・家康 -それぞれの天下取り-」展

急遽思い立ち、夏季休暇消化で取得していた平日休みを利用して名古屋まで出かけてきました…日帰りで。
そうまでして足を運んだ理由・・・

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それは、徳川美術館にあります。

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徳川美術館・蓬左文庫では現在、夏季特別展信長・秀吉・家康 -それぞれの天下取り-」が開催されています。
(2016年7月14日~9月11日)

この中で、織田信長所用と伝わる紺絲威胴丸具足(柏原織田家伝来)が展示されていることを知り、どうしても間近で拝観したくて我慢できなくなったのです(笑)
鍍金鍬形の中央に、黒漆塗金箔押しの織田木瓜紋をあしらった前立の兜とセットになっている“あの”甲冑です。
(写真でご紹介できないのが、なんとももどかしい・・・)
平日の午前中、それも大雨の中とあって来館者も少なく、落ち着いてじっくりと拝観することができました。織田信長がこれを着用して、じっとこちらを睨み据えている姿をイメージしながら・・・。

その他の展示品もとても充実した内容で、私が個人的に印象に残った主なものを挙げると;
大名物 唐物茶壺 銘 金花
「信長公記」にも;
せうくわの壺・きんくわの壺とて、隠れなき名物参り、御機嫌斜ならず。
(巻九「安土の御普請首尾仕るの事」より)

と出てくる茶器です。
この金花、そして松花(せうくわ)の壺を献上された信長の喜ぶ姿が目に浮かぶようです。

桶狭間之図(桶狭間古戦場図)
但し、説明パネルでは正面攻撃説を採用していたので、密かに「むむ・・・」となりましたけど…(;・∀・)

江州姉川陣図(姉川古戦場図)
先日、コチラの記事で触れた姉川の「高岸」については、文字のみで「高サ五尺」と書き込みがありました。五尺といえばせいぜい150㎝強…果たして、軍勢の進攻方向に影響を与えるほどのものなのか否か・・・。
それ以前に、たかだか150cmほどの高低差をそもそも「高岸」と表現するものでしょうか。
蓬左文庫にはこれとは別に、「高岸」を山、或いは崖のように描写した「姉川合戦図」もあるはずです。
件の「江州姉川陣図」は、「姉川合戦図」が描かれた際には残っていた「高岸」が、農地開拓などである程度均された後に作成されたものだったのでは?とも思えます。「姉川合戦図」を参考に踏査・作成したので、「江州姉川陣図」にも「高岸」という表現がそのまま継承されたのでは、と。
いずれにせよ、「姉川合戦図」もいつか是非観てみたいところです。

牡丹文飾り金箔瓦
菊花文飾り金箔瓦
上記2点とも、岐阜城山麓居館跡から出土した金箔瓦の一部です。

織田信長書状 おね宛(8/28まで)
今回で2度目の拝観になりました。詳しくはコチラの記事にて。

また、書状関連でいうと信長・秀吉・家康ら当人によるもののみならず;
斎藤高政(義龍)書状 織田武蔵守(信成)宛
武田信玄書状 朝倉左衛門督(義景)宛 (元亀3年)十一月十九日
武田信玄朱印状 越陣(朝倉義景)宛 (元亀3年)十一月拾九日
など、その周辺で彼ら3人の歩んできた歴史に深く関わった武将らのものも多く展示されていて、織田信長vs信成(信勝)による織田家家督争い、元亀騒乱のクライマックスへと向かう武田信玄の出陣など、有名な歴史的事象の裏で蠢いていた各々の心理などが垣間見えるようで、とてもいい試みだなと感心しました。

徳川家康三方ヶ原戦役画像(原本は8/31まで)
いわゆるしかみ像です。但し最近では三方ヶ原戦時のものではなく、後年に家康を神として祀るために描かれたものでは?との説が有力になっているようです。

長篠合戦図屏風 八曲一隻
長篠合戦については、コチラの記事も。

虎頭蓋骨 大小
朝鮮出兵時に、渡海した清正が捕獲した虎の頭蓋骨と伝わります。

太田和泉守記 太田牛一筆
慶長5年の会津征伐~関ケ原合戦を中心に記したもので、「信長公記」の作者・太田牛一の自筆になります。

etc……
他にも紹介しきれない貴重な史料、品々が盛りだくさんでした。
この特別展だけのために新幹線で往復したのですが、私にとっては充分にそれだけの、それ以上の価値ある時間になりました。

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という訳で最後は、名古屋をトンボ返りで離れる直前、新幹線ホームの「住よし」でいただいた定番のきしめん♪

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2016年8月14日 (日)

ボンの病院通い

3年ほど前に右後肢の前十字靱帯を痛めて以降、我が家の愛犬ボンは、毎月2回程度の通院を続けています。

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いつも家族がお出かけの準備を始めると、“また置いていかれるのかなぁ・・・”と不安そうにするボンですが、ハーネスを取りだすと“今回は自分も一緒に連れて行ってもらえる!”と理解して一気にテンションが上がります(笑)

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いつもの病院に到着し、受付を済ませに向かった母の背中を、運転席の窓から追うボン。
彼は決して一人でおとなしく車に乗ってくれないので、近場といえど、お出かけの際は運転手+お守役のおとな2人がかりです…(^_^;)

診察内容は靱帯の状態を触診し、関節の軟骨を補助する注射を打たれ、最後に爪を切ってもらって終了。
注射は割と平気なくせして、爪切りは大嫌い。だけど足を痛めて以来、お散歩にも行けていないのですぐに伸びるし、仕方ないよね・・・我慢。

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そんなこんなで結構疲れるみたいで、帰宅後はグタ~ww ま、寝てばかりなのはいつものことだけど(笑)

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早いものでもう満13歳。肢の怪我とはずーっと付き合っていかないとならないけど、長生きしてね♪ おやすみ☆

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2016年8月 5日 (金)

寛永寺 特別参拝

東叡山寛永寺特別参拝に参加してきました。
※特別参拝には所定の事前申込が必要です。詳しくは寛永寺さんのHPにてご確認ください。

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集合は午後1時40分、根本中堂前にて。
ちなみにこちらの根本中堂、川越の喜多院から本地堂を移築して再建されたものです。

寛永寺は元々、現在の上野公園全域を含む約30万坪の広大な寺域を誇り、根本中堂も本来は上野公園の噴水広場辺りに建っていました。
しかし、慶応四年(1868)の上野戦争で多くの伽藍と共に焼失し、広大な境内地も明治政府によって没収されるに至っています。
ようやく復興が許され、子院だった大慈院の跡地(現在地)に根本中堂が再建されたのは、明治十二年になってのことでした。
※参考記事:上野戦争の爪痕上野戦争めぐり

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根本中堂前に建つ上野戦争碑記

午後2時、まずは根本中堂内陣にて御本尊の薬師如来像に般若心経を唱え、寛永寺の由緒や歴史(寺名・山号の由来や、なぜ天台宗の寛永寺が浄土宗に帰依する徳川将軍家の廟所となったのか、etc...)に関するお話しがありました。

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その後、いよいよ葵の間へ移動となります。
本堂(左)からこの渡り廊下を抜けた先に、葵の間はありました。

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葵の間
寛永寺子院の一つ、大慈院にあった一間です。

慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った徳川慶喜は翌二月、新政府への恭順を唱えて自ら寛永寺大慈院に入って謹慎します。
この葵の間こそ、大慈院で謹慎する慶喜が過ごしていた部屋で、彼が再び大慈院を出て水戸へ向かうのは、江戸無血開城が成る同年四月十一日。上野戦争勃発の約二ヶ月前(この年は四月と五月の間に閏月を挟む)のことでした。

葵の間は現在、その大慈院跡地に再建された根本中堂の離れにありますが、これは大正三年に再建されたもの。その際、再利用に耐えうる旧材のみを用いたため、12畳半と12畳の二間だったものが⇒10畳と8畳に縮小されています。
位置も本来の場所とは若干ずれているようです。

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室内には徳川慶喜の陣羽織(家康公御遺訓/レプリカ)、「最後の輪王寺宮」公現法親王の書状なども展示されていました。
また、部屋の天井や壁には一面に二葉葵の紋が描かれています。

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最後は徳川家の御霊廟へ。
五代綱吉、八代吉宗、十三代家定&天璋院篤姫の霊廟にお参りさせていただきました。
写真は徳川綱吉霊廟の勅額門
各将軍の霊廟には本来、このような朱塗りの唐門を6基建てるのが慣例だったそうですが、吉宗の代になって財政上の理由から、6基のうちの4基を他の将軍のものと共有することにしたのだとか・・・。
吉宗は偏諱を受けた綱吉のものと共有したため、両者の霊廟は隣り合わせに祀られています。

霊廟への参拝を終えたところで解散となりました。
とても貴重な体験をさせていただき、有意義な一日でした。

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