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2016年8月 5日 (金)

寛永寺 特別参拝

東叡山寛永寺特別参拝に参加してきました。
※特別参拝には所定の事前申込が必要です。詳しくは寛永寺さんのHPにてご確認ください。

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集合は午後1時40分、根本中堂前にて。
ちなみにこちらの根本中堂、川越の喜多院から本地堂を移築して再建されたものです。

寛永寺は元々、現在の上野公園全域を含む約30万坪の広大な寺域を誇り、根本中堂も本来は上野公園の噴水広場辺りに建っていました。
しかし、慶応四年(1868)の上野戦争で多くの伽藍と共に焼失し、広大な境内地も明治政府によって没収されるに至っています。
ようやく復興が許され、子院だった大慈院の跡地(現在地)に根本中堂が再建されたのは、明治十二年になってのことでした。
※参考記事:上野戦争の爪痕上野戦争めぐり

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根本中堂前に建つ上野戦争碑記

午後2時、まずは根本中堂内陣にて御本尊の薬師如来像に般若心経を唱え、寛永寺の由緒や歴史(寺名・山号の由来や、なぜ天台宗の寛永寺が浄土宗に帰依する徳川将軍家の廟所となったのか、etc...)に関するお話しがありました。

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その後、いよいよ葵の間へ移動となります。
本堂(左)からこの渡り廊下を抜けた先に、葵の間はありました。

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葵の間
寛永寺子院の一つ、大慈院にあった一間です。

慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った徳川慶喜は翌二月、新政府への恭順を唱えて自ら寛永寺大慈院に入って謹慎します。
この葵の間こそ、大慈院で謹慎する慶喜が過ごしていた部屋で、彼が再び大慈院を出て水戸へ向かうのは、江戸無血開城が成る同年四月十一日。上野戦争勃発の約二ヶ月前(この年は四月と五月の間に閏月を挟む)のことでした。

葵の間は現在、その大慈院跡地に再建された根本中堂の離れにありますが、これは大正三年に再建されたもの。その際、再利用に耐えうる旧材のみを用いたため、12畳半と12畳の二間だったものが⇒10畳と8畳に縮小されています。
位置も本来の場所とは若干ずれているようです。

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室内には徳川慶喜の陣羽織(家康公御遺訓/レプリカ)、「最後の輪王寺宮」公現法親王の書状なども展示されていました。
また、部屋の天井や壁には一面に二葉葵の紋が描かれています。

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最後は徳川家の御霊廟へ。
五代綱吉、八代吉宗、十三代家定&天璋院篤姫の霊廟にお参りさせていただきました。
写真は徳川綱吉霊廟の勅額門
各将軍の霊廟には本来、このような朱塗りの唐門を6基建てるのが慣例だったそうですが、吉宗の代になって財政上の理由から、6基のうちの4基を他の将軍のものと共有することにしたのだとか・・・。
吉宗は偏諱を受けた綱吉のものと共有したため、両者の霊廟は隣り合わせに祀られています。

霊廟への参拝を終えたところで解散となりました。
とても貴重な体験をさせていただき、有意義な一日でした。

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