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2016年9月

2016年9月18日 (日)

生田の森(生田神社)

神戸三宮への出張ついでにお仕事前の早朝、生田神社へ参拝してきました。

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楼門

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楼門の脇には梶原の井
寿永3年(1184)2月の一ノ谷の合戦に於いて生田は、攻め寄せる源範頼率いる源氏軍と、迎え撃つ平知盛・重衝率いる平氏軍との間で戦闘が繰り広げられた舞台でもあります。
その折、源氏の武将・梶原景季がこの井戸の水を汲んで生田の神に戦勝を祈ったとの伝承から、この名で呼ばれます。

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境内には平氏方の将・平敦盛が愛でたと云う敦盛の萩も。
敦盛は言うまでもなく、一ノ谷で熊谷直実に討たれた人物です。後にその遺子がこの萩の下で休んでいた時、夢に亡き父が現れたとか・・・。
私が訪れた時はステージのようなものが設営されていて、あまり近くには寄れませんでした。

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拝殿

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樹齢約500年の楠の御神木

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折鳥居と礎石
江戸時代初期、西国街道の脇に建てられた石鳥居で、安政の大地震で倒壊します。
以後、折れた石柱などがそのまま残されていましたが、昭和25年に新たに朱塗りの大鳥居が建立されることとなり、生田の森の片隅に移されました。

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それでは、生田の森へ。
一ノ谷の合戦では平氏軍が陣を構えたと云われます。

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このように、源平合戦の舞台として有名な生田の森ですが、実は織田信長の一代を記した太田牛一の「信長公記」にも、その名が登場しています。

滝川左近、惟住五郎左衛門両人差し遣はされ、西宮、いばら住吉、あし屋の里、雀ヶ松原、三陰の宿、滝山、生田森、陣を取り、御敵荒木志摩守、鼻熊に楯籠り候、人数を以て押へ置き、
(信長公記 巻十一「荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事」より抜粋)

天正6年(1578)10月、摂津有岡城の荒木村重の謀反が発覚します。
その直後に勃発した第2次木津川口の戦い(11月6日)で毛利水軍に勝利を収めた織田信長は、村重討伐を決断、軍勢を村重に与する高槻城(高山右近)や茨木城(中川清秀)などの諸方に差し向けました。
その一環で同11月下旬には、滝川一益や丹羽長秀等の軍勢を現在の神戸方面に遣わし、滝川らは村重の一族で重臣の荒木元清(荒木志摩守)が籠る花隈城鼻熊)の押さえとして数ヶ所に陣を置きますが、その一つに生田の森が含まれていたのです。

また、花隈城はこの2年後の天正8年7月2日、信長配下の池田恒興の軍勢に攻められて落城しますが、この時の攻防戦でもやはり、池田勢は生田の森にも陣を布いていました
本願寺との和睦が成立し、11年の長きに渡った石山戦争に終止符を打った信長は同年8月、重臣の佐久間信盛父子に対し、19ヶ条からなる折檻状を突き付けて追放に処していますが、この折檻状の中に次の一節があります。

一、丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申し付け、是れ又、天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事。
(信長公記 巻十三「佐久間・林佐渡・丹羽右近・伊賀伊賀守の事」より抜粋)

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生田の森には縁結びの水占いも・・・男一人でどうしろと?(笑)

いずれ近いうちに、これ以外の荒木村重包囲戦の関連地にも足を運んでいきたいですね。

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2016年9月 6日 (火)

織田信長の雑賀攻め…雑賀戦地

地図1
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二月十八日、佐野の郷に至りて御陣を移さる。廿二日、志立へ御陣を寄せられ、浜手・山方両手を分けて、御人数差し遣はさる。
(信長公記 巻十「雑賀御陣の事」より抜粋。以下同)

天正5年2月、紀州雑賀攻めに向かう織田信長は、信逹(志立)で軍勢を浜手・山方の二手に分けます。
進軍経路編参照

地図2
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山方へは根来杉之坊・三緘衆を案内者として、佐久間右衛門、羽柴筑前、荒木摂津守、別所小三郎、別所孫右衛門、堀久太郎、雑賀の内へ乱入し、端ゝ焼き払ふ。

山方の軍勢は、根来寺の杉之坊や中郷・南郷・宮郷の者らを案内に立て、風吹峠を越えて雑賀に攻め入りました。

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風吹峠を越えた根来寺の南方から、紀の川と雑賀方面。
江戸期には田井ノ瀬の辺りに渡し場がありましたし、その先の太田城は宮郷に属して織田方についていましたので、その進攻ルートはおそらく、地図2のようであったと思います。

それでは、雑賀衆の拠点を観てまわります。

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雑賀城
麓のお寺は養珠寺。紀州藩初代・徳川頼宣の母(お万の方/養珠院)の霊牌所として開かれました。

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養珠寺脇の公園から城山(妙見山)に登ります。

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ちょっと気になる石積みもありましたが・・・後世の土留めでしょうね。
北寄りの尾根筋に削平地らしきものもありましたが、それ以外はこれといって特に、お城としての遺構は見受けられませんでした。

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山頂に建つ養珠寺妙見堂

雑賀城は、一向衆について織田信長と対立した時期の雑賀孫一と目される人物(鈴木重秀、或いは重朝?)の父とされる鈴木左太夫(重意)の築城と伝わります。
※なお、重朝は重秀の弟とする説子とする説もあり、「孫一」の正体についても未だはっきりしたことは分っていません。
一説には重秀は「孫」、重朝は「孫」と称した(重朝の子孫も代々「孫市」を称している)とする考えもあるようですが・・・ややこしいので今後も「雑賀孫一」とのみ記して、あまり深く追及はしません。

さて、次は車で少しだけ北へ移動して・・・

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弥勒寺城のあった弥勒寺山へ。
秋葉山、或いは本願寺法主・顕如が来て鷺森に移すまでの間、雑賀御坊がこの地にあったことから御坊山とも呼ばれています。

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ちょっと読み取りづらいですが、弥勒寺山の石碑には天正5年の兵乱のことが書かれているようでした。

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先ほどの石碑のすぐ横にある「雑賀衆ゆかりの地」案内板、とても分り易くていいですよ。雑賀めぐりをする方にはお薦め。

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弥勒寺山山頂

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顕如上人たく錫所
たく(「卓」の下半分が「木」)錫とは「杖を突く」の意で、顕如がこの地に足跡を残したことを記念しているようです。

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紀伊国名所図会「秋葉山(弥勒寺山)合戦の図
天正5年、織田信長の軍勢が侵攻してくると、雑賀衆は弥勒寺山を要塞化し、これに拠って織田勢に対抗しました。
城山の要害性を比しても、雑賀城より弥勒寺城の方により主力を集めて備えたのでしょう。

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弥勒寺山頂から東の眺め・・・織田軍の山方勢が攻め寄せてきた方角です。ちょうど写真中央付近を、和歌川小雑賀川)が横切っています。

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その小雑賀川越しに見る弥勒寺城(奥の山)

御敵、小雑賀川を前にあて、川岸に外柵をつけ、相拘へ、堀久太郎人数、撞と打ち入り、向ふの川岸まで乗り渡し候ところ、岸高く候て、馬もあがらず。爰を肝要と、鉄炮を以て相拘へ候間、堀久太郎、能き武者数輩討たせ、引き退く。

織田山方勢先鋒、堀久太郎はこの和歌川(小雑賀川)を乗り越して待ち受ける雑賀衆に攻め掛かろうとしますが、対岸の岸が高くて馬も乗り上げられず、激しい抵抗を受けてやむなく撤退しています。
この時、雑賀衆は岸辺に柵や塹壕を設けるだけでなく、川底には桶壺などを沈めていたと云います。

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付近の字名は「小雑賀」・・・きっと太田牛一が記した「小雑賀川」とは「小雑賀に流れる川」の意で、まさにこの地こそ、堀久太郎の手勢が雑賀衆と戦った場所ではないでしょうか。

一度撤退した山方勢は紀の川の渡しを押さえ、川を境に対陣を続けます。


浜手の方へ遣はされ候御人数、滝川左近、惟任日向、惟住五郎左衛門、永岡兵部大輔、筒井順慶、大和衆。谷の輪口より先は、道一筋にて、節所に候間、鬮取りにして、三手作つて、山と谷と乱入、中筋道通り、長岡兵部大輔、惟任日向守打ち入れられ候のところ、雑賀の者ども罷り出で、相支へ、一戦に及ぶ。

さて、一方の浜手勢は淡輪(谷の輪)を経由して、孝子峠後えで雑賀へ攻め入ります。

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淡輪に残る淡輪邸址
淡輪氏は源義経の家臣であった佐藤忠信の末裔とされ、水軍を率いていました。
詳しいことは分かりませんが、淡輪には特に織田勢によって焼き払われたといった伝承も聞きませんし、後に当主の娘が、この当時織田の家臣だった秀吉の甥・秀次の側室にもなっていますので、天正5年の雑賀攻めに際しても、水軍衆の一員として織田方に参じていたのではないでしょうか。

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今でも土塁は結構しっかり残っていました。

爰にても、究竟の者討ち捕り、所々焼き払ひ、中野の城取巻き、攻めさせられ候ひキ。

雑賀へ乱入した浜手勢は、抗戦する雑賀衆を撃退しつつ、中野城に攻め寄せ、これを包囲します。

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中野城跡…とても分かりづらい場所にあります…(^_^;)
正面の石垣は城の遺構とも目されているとか・・・

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手前の畑は堀跡でしょうね。

二月廿八日、丹和まで、信長公御陣を寄せられ、これに依つて、中野の城降参申し、退散なり。則ち、秋田城介信忠御請け取り候て、御居陣なり。

2月28日、織田信長本隊が淡輪(丹和)まで寄せてきたことを知ると、中野城に籠る雑賀衆は抵抗を諦め、城を明け渡します。
中野城には織田信忠が入城し、これ以降、織田軍の一方の前線拠点となりました。

三月朔日、滝川、惟任、惟住、蜂屋、永岡、筒井、若狭衆に仰せつけられ、鈴木孫一が居城取り詰め、竹たばを以て攻め寄り、城楼を上げ、日夜、あらゝゝと攻められ、

中野城接収の報を受け、信長は浜手勢に対し更に、孫一の居城を攻めるよう命じています。
ここでいう「鈴木孫一が居城」ですが、彼の本拠地と伝わる平井城とする説が強いようです。

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こちらの高台が平井城跡と云われています。
現地の案内板には沙也可の生誕地、と紹介されていました。
沙也可とは、豊臣秀吉の唐入りで加藤清正の軍勢に加わったものの、彼の地での豊臣軍の非道な振る舞いに憤り、朝鮮側に転じて豊臣軍と戦ったと云う人物で、現在もその子孫が当地に健在なのだとか。
現地に残されている鉄砲や伝承から、その出自は孫一の鈴木一族ではないかと目されているそうです。
(現地案内板より)

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城跡から眺める孫一の本拠地・・・平井の郷
確かに「信長公記」に列挙された織田方の武将を見ても、浜手勢のみで山方勢が全く加わっていないし(弥勒寺城や雑賀城を指すのなら当然、山方勢も加わって然るべし)、浜手勢が攻略した中野城から平井までは、上淡路街道で僅か2~3kmの距離
こののどか地で、それほどの大軍による攻城戦が展開されたのでしょうか・・・。
また、「信長公記」には攻め立てたところまでしか記述がないのですが、その結末も気になるところです。
・・・平井の郷を少し散策します。

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こんな細い路地を通り・・・

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蓮乗寺へ。

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境内には孫一の墓と伝わる五輪塔があります。

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側面には;
雑賀住
平井孫市郎藤原義兼
とありました。

こちらの供養塔は銘文によると、天正17年(1589)建立の墓碑を、当寺9世住職が天保3年(1832)に建て替えたものなのだそうです。
天正17年の建立、そして側面に刻まれた孫「市」を鑑みるに、これは鈴木重朝の墓碑ではないかと思われます。
※重朝の没年は天正17年(重秀の没年は不明)とされる。
※但し、重朝の兄弟(或いは叔父)に「義兼」の名も見え、注意が必要。

蓮乗寺には、孫一の守り本尊と伝わる握り仏も伝来しています。(非公開)


さて、孫一が居城への攻撃を命じた信長は、自らは淡輪を発ち、山方浜手のいずれで事あろうとも対処できるよう、両口の中間にあたる波太神社へ本陣を移します。(参照記事

雑賀表、多人数、永々御在陣。忘国迷惑を致し、土橋平次、鈴木孫一、岡崎三郎大夫、マツダ三大夫、宮本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫、巳上七人連署を以て、誓紙を致し、大坂の儀、御存分に馳走仕るべきの旨、御請け申すにつきて、御赦免なさる。
(信長公記 巻十「御名物召し置かるゝの事」より抜粋)

その後、戦線は膠着しますが、最終的には雑賀衆から誓紙を差し出し、信長も大坂(石山本願寺)に配慮するという条件を呑んで、赦免という形を以て戦いは一応の終結をみました。
周辺に不穏な政情を抱える信長と、長期対陣による消耗にも限度が見えている雑賀衆・・・それぞれの事情が絡み合っての赦免という結末ですが、郷を大軍勢から守り切ったという意味に於いてはやはり、天正5年の兵乱は雑賀衆の武名を高める結果になった、と言えるのではないでしょうか。
ただこの後、雑賀衆では反織田派と親織田派の対立が一層顕在化して内紛を引き起こしますし、そうした動きの中で孫一は徐々に織田信長へ接近していきます。この辺りにも、何かまだ裏がありそうな気も・・・考え過ぎですかね(^_^;)

陣を払った信長は、佐野に砦を築かせつつ、京都へ引き揚げました。
織田軍の引き揚げを知った雑賀衆は、矢玉で傷ついた足の痛みも構わずに喜び踊ったとか。
これが雑賀踊りの起源とも云われています・・・完。

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2016年9月 5日 (月)

織田信長の雑賀攻め…進軍経路

さて、記事の都合で順番が前後しましたが、和歌山旅の初日には泉南市~阪南市の旧街道歩きをしていました。

天正5年2月2日、雑賀五組(雑賀荘・十ヶ郷・中郷・南郷・宮郷)の内、中郷・南郷・宮郷の三組(三緘)、及び根来寺の杉ノ坊が織田方に通じてきたため、織田信長は直ちに雑賀征伐(雑賀荘・十ヶ郷)を決断します。
「信長公記」の記述に則れば、2月13日には早くも大軍を催して京都を出陣。岩清水八幡や若江を経由し、途中の貝塚では敵勢の籠る砦を攻略しつつ、18日には佐野(泉佐野市)に着陣。

・・・ここまでの進軍経路を鑑みるに、信長が軍勢を進めたのは主に紀州街道であろうと推定し、佐野から更に先の進攻ルートを探るため、紀州街道や周辺の旧道を歩いてみることにしました。

阪和線の新家駅で下車。そこから北上して紀州街道へ向かいます。
紀州街道に達したら一旦右折して、少し東へ進むと・・・

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1615年の大坂夏の陣の緒戦、樫井の戦いで戦死した豊臣方の将・塙団右衛門の供養塔があります。
今回はここを起点に、まずは紀州街道を南西方向へ進みます。

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紀州街道
塙団右衛門の供養塔のすぐ近くには・・・

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同じく、樫井の戦いで戦死した淡輪六郎兵衛の供養塔も。
この淡輪氏、後ほど今回のテーマでもある「織田信長の雑賀攻め」にも関わってきます。
なお、こちらの供養塔は淡輪氏の末裔である会津藩士・本山三郎右衛門昌直という人物が寛永16年に建立しましたが、宝篋印塔の老朽化が進み、平成12年に現在のものに再建されました。左奥に見えているのが、建立当初の宝篋印塔だと思われます。
扱いが・・・(;・∀・)

更に進むと・・・
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大坂夏之陣 樫井古戦場跡碑
樫井の戦いは1615年の大坂夏の陣に於いて、紀州浅野家への攻撃を目論んで紀州街道を南進する大野治房・塙団右衛門・淡輪六郎兵衛ら豊臣軍と、やはり紀州街道を大坂目指して北へ進軍していた徳川方の浅野軍との間で起きた合戦です。

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明治大橋から見る樫井川
きっと、紀州街道を横切るこの樫井川を境に戦いが展開されたことでしょう。

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樫井川を西へ越えた先の紀州街道

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こちらは明治小橋
この先、少し坂を上ると・・・

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海会寺跡があります。
特別予定はしていませんでしたが、折角なので休憩がてら立ち寄ることにしました。

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復元された海会寺跡
海会寺は7世紀頃に建立された古代寺院で、発掘調査によって塔や金堂、講堂、回廊などが発見されています。
写真は塔跡から見た回廊(赤い杭)と講堂跡(右奥)

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海会寺跡の東隣りからは掘立柱建物の跡も発見され、海会寺を建立した豪族の屋敷跡では?と考えられているそうです。

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また、金堂跡には一岡神社が建っています。
拝殿も新しいし、特に気にも留めていなかったのですが・・・

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何気なく案内板の由緒を読んでいて・・・ビックリ!
紛れもなく、「天正5年の織田信長の兵火に罹って焼失」と書いてあるではないですか・・・。
間違いなく織田信長の軍勢は、この紀州街道を進軍した・・・それを確信した瞬間でした。

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こうした小さな発見も、現地を訪れたからこそ♪…ですね。

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紀州街道へ戻ります。
紀州街道は、中世には熊野街道の名で呼ばれていた道でもあります。

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旧街道特有の風情を感じさせる通り。
この先に江戸時代、宿場町として栄えた信逹宿があります。

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信逹宿本陣跡

廿二日、志立へ御陣を寄せられ、浜手山方両手を分けて、御人数差し遣はさる。
(信長公記 巻十「雑賀御陣の事」より抜粋。以下同)

信達(志立)まで進軍した織田信長は、ここで軍勢を浜手山方の二手に分けています。
浜手は文字通り海岸線を西へ進み、淡輪を経由して孝子峠越えで雑賀へ攻め込むルートになります。

信達までは全軍で紀州街道を進み、ここから浜手勢が淡輪へ至るには、海岸線を通る浜街道に出る必要が生じます。
しかし紀州街道は、信達から先も浜街道から遠ざかるように南西へ進み、そのまま雄ノ山峠に差し掛かっていきます。
このままでは信達から淡輪へのルートを見失いそうになりますが、実は信達には「信長街道」と呼ばれる旧道が存在してるのです。

地図1
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信長街道(地図1 紫のライン
信達で紀州街道から分かれ、下出、黒田を通り、鳥取で浜街道と合流する旧道。織田信長が軍用道路として多少整備したとの伝承から、この名で呼ばれています。
まさに紀州街道と浜街道を繋げる道で、伝承からも淡輪を経由する浜手勢や、同じく一旦淡輪まで出向く信長本隊が通った道と解釈できます。

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信逹宿本陣跡すぐ先の、紀州街道(直進)と信長街道(右)の分岐点

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分岐点の目印は、角に並べられた常夜灯です。
なんと、平成4年までは現役で使われていたのだとか…!?

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信長街道は、紀州街道からこの細い路地を右に入り・・・

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直ぐにまた左へ曲がった先から伸びています。

さて、信長街道は後ほどじっくり歩くとして、まずは織田山方勢の気分で、そのまま紀州街道を直進します。

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泉南石綿の碑
泉南地域は明治末期から石綿(いわゆるアスベスト)紡織産業が盛んだったようで、従事者やその家族に石綿被害が多発しました。
こちらの碑は2014年、最高裁判所で国の責任を認める判決を勝ち取った記念と、被害者の鎮魂、被害根絶を祈念して建立されたようです。

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気持ちいいくらいに真っ直ぐ、一直線に伸びる紀州街道。

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沿道に建つ大日寺往生院
天正13年の羽柴秀吉による紀州征伐根来寺攻め)で全焼しているそうです。

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しばらく進むと「大鳥居」という交差点に出ます。
ここは、紀州街道根来街道の交差地点。

山方へは根来杉之坊・三緘衆を案内者として、佐久間右衛門、羽柴筑前、荒木摂津守、別所小三郎、別所孫右衛門、堀久太郎、雑賀の内へ乱入し、端ゝ焼き払ふ。

さて、信逹で二手に分かれた一方の山方勢が辿ったルートについては、根来寺の杉之坊が案内している点や、後に信長が本陣を波太神社に据えた際、堀久太郎らの諸将を配した場所について、「信長公記」は根来口と記していることなどを考え合わせて、私は紀州街道からここ「大鳥居」で根来街道に入り、風吹峠を越えたものと想定しています。
が、一方では、そのまま紀州街道を雄ノ山峠越えで雑賀へ向かったとする説も根強くあります。

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根来街道(風吹峠方向)
紀州街道は中世以前から存在する道。紀伊と和泉を結ぶ最も主要な交通路でもあり、雄ノ山峠越えのルートも充分に考えられますが、雑賀衆の奇襲を警戒する中、より確実かつ迅速な進軍のためには、織田軍としては先導役も務める味方の根来寺が押さえるルート根来街道を選択したのではないかと考えます。
(但し、戦時に於いて主要な街道へ何も手当てをしないとも考えづらいので、或いは一部の軍勢を紀州街道の雄ノ山峠の抑えに割くようなことはあったかもしれません)
※なお「大鳥居」の由来は信逹神社の鳥居があったからで、今は交差点のすぐ南寄りに移設されています。

私は「大鳥居」から根来街道を北上し、信長街道へ向かいます。

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信長街道
ここからは信長街道をひたすら歩きます。

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ズラリと並んだお地蔵さんが街道を見守る分岐点・・・ここは右へ。

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なかなかいい感じのS字♪

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県道63号を越えます。

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信長街道から南の方角を仰ぎ見る・・・和泉⇔紀伊国境を分かつ山脈が聳えます。
織田軍の目指す雑賀(和歌山市)は、あの山の向こう側。

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双子池

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一段と道幅が狭まる信長街道。
電柱の足元には・・・

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小さな道標もありました。

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この辺りも趣を感じさせます。
このまま進むと・・・

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男神社の参道に行き着きます。
折角なのでちょっと寄り道して参拝・・・

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男神社(おたけびの宮)
参道が思いの外長くて驚きました。

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境内に生える夫婦樟

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男神社から再び信長街道へ

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男神社の少し先で、信長街道は男里川に寸断されていますが・・・

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川の対岸、堤防の縁から再開します。

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真っ直ぐなようで、微妙な蛇行を繰り返す街道。

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少なくとも、自動車のために築かれた道でないことは一目瞭然です。

何方へも懸け合せ能き様にと、おぼしめされ
三月二日、信長公、山方浜手両陣の中とつとりの郷、若宮八幡宮へ御陣を移さる。


さて、一旦このまま淡輪まで進んだ織田信長は、先を行く浜手勢による敵方の中野城制圧の報に接すると、山方浜手いずれで事有ってもすぐ対処できるようにと、淡輪から引き返し、山方浜手両陣の中間にある波太神社に陣を据えています。

地図2
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そして、この波太神社の近くには、地元でやはり「信長街道」と伝えられている道が、既出の信長街道とは別にもう1本あります。
※地図2 青ライン=仮に伝信長街道とする。

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信長街道から見た、伝信長街道との分岐点
伝信長街道は緑のフェンス(用水路)に沿って左へ伸びています。

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伝信長街道
ここは後ほど歩くとして、ひとまず信長街道を浜街道との合流点まで進みます。

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南海本線、鳥取ノ荘駅近くを通る信長街道。

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駅前を200mほども過ぎると、ようやく浜街道との合流点に到達します。

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淡輪へと続く浜街道
浜手勢や信長本隊が進んでいった道です。

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さて、それでは伝信長街道へ戻ります。
「信長公記」にも、とつとりの郷と出てくる「鳥取」交差点。ここから南東方向へ。

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伝信長街道には8年後の天正13年、羽柴秀吉の紀州征伐に際し、秀吉軍に抵抗して処刑された波有手(阪南市鳥取)の道弘寺他、周辺寺院の僧らを供養すると伝わる首斬り地蔵も残り、引き続き軍用道として用いられていた形跡が窺えます。

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首斬り地蔵
今は一ヶ所に集められて、蓮池の堤の北端角に祀られています。

いずれの「信長街道」も、伝承通りに信長の軍勢が通行したものとすると;
信長街道は淡輪へ向かう際に整備・通行した道
伝信長街道は淡輪から戻った織田信長が波多神社に本陣を置く際、浜街道と波多神社、そして紀州街道を繋げた道
となるでしょうか。いずれも紀州街道と浜街道を繋げている、という点に於いては共通しています。
こうして見ると波太神社は、浜手(淡輪口)と山方(根来口)、そして雄ノ山峠からの紀州街道にも睨みを利かせた選地と言えるのかもしれません。

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それではこの日最後の行程、波太神社へ。

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とつとりの郷、若宮八幡宮・・・波太神社
織田信長本陣


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本殿は寛永15年(1638)の再建で、波太宮(鳥取氏の祖と伝えられる角凝命)と八幡宮(応神天皇)の二柱を祀っています。
なお、「若宮八幡宮」の呼称ですが、
①宇佐八幡や岩清水八幡、鶴岡八幡の若宮を勧請したもの
②八幡神たる応神天皇の若宮・仁徳天皇を祀るもの
③八幡宮本宮から迎えた新宮
などに用いられる場合が多いようです。
③の意味がイマイチ掴みかねますが、応神天皇を祀る波太神社は①か③ということになるのでしょう。
※波太神社の八幡宮は指出森神社(阪南市貝掛)の八幡宮を合祀したもの。

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拝殿正面に建つ石灯籠は、片桐且元の寄進と伝わり・・・

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背面には;
慶長五年十一月吉日
の銘があります。

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その正面側;
波多(ママ)大明神
八幡大□□

□□の部分は削られていて読み取れませんでしたが、意図的なものを感じますので、或いは「菩薩」となっていたのかもしれません。明治の神仏分離で削られたか・・・?
→八幡大菩薩:神仏習合思想下に於ける八幡神に奉進された称号

さて、織田信長本陣まで辿り着いたところで、この日の踏査は終了です。
炎天下の中、本当によく歩きました…と言っても、最寄りの駅までまだ2㎞歩かないとなりませんが…(´-∀-`;)

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阪南I.C.付近から眺める雄ノ山峠方面。
伝信長街道紀州街道もこの付近で合流していたものと思います。織田の軍勢が目指す雑賀は、あの山の向こう・・・。

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やっとの思いで辿り着いたJR和泉鳥取駅。
新家駅を出発したのが正午少し前でしたので、約5時間の街道歩きとなりました。
さ、和歌山市内に確保した宿へ向かい、翌日に備えます。

※「雑賀戦地」編へつづく

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2016年9月 4日 (日)

紀州街道山中宿

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旅の道中、紀州街道山中宿にも立ち寄りました。

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紀州街道は熊野街道の名でも呼ばれていました。

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紀州街道山中宿

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山中宿本陣跡

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とても江戸情緒の残る風情です。

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山中宿のすぐ南には関所跡があり・・・

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更に紀州街道を2kmほど南下した境川に架かる境橋には、日本最後の仇討ち場の碑があります。
安政4年(1857)に父を斬り殺された広井岩之助は、幕府から仇討ちの免状を得て、紀伊加太に潜んでいた仇(棚橋三郎)を発見します。
そこで紀州藩に仇討ちの許可を申請すると、紀州藩からは、三郎を国払いとして境橋より追放するので、和泉川側に出たところですべし、との回答を得ます。
ここは「境川」「境橋」の名が示す通り、紀伊と和泉の国境。
(じゃあ、和泉側の許しを得ないと駄目じゃん?とも思うけど・・・)
文久3年(1863)、境橋で三郎を待ち受けた岩之助は、見事本懐を遂げました。これは、日本で許された最後の仇討ちと云われています。

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仇討のあった和泉(大阪府)側から見た境橋(…と、電車を待ち受ける鉄ww)。
橋を渡った先は和歌山県(紀伊)。

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また、紀州街道を北へ下った大阪府阪南市の波太神社境内に祀られている鳥取神社は、元は山中宿に祀られていたもので、峠越えをする旅人が健脚祈願をしたことから「足神さん」と親しまれてきたのだそうです。

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矢宮神社、鷺森別院

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矢宮神社
天正5年の織田信長による雑賀攻めで古文書類を焼失したため、詳しい由緒・縁起は不明ですが、八咫烏を祀ります。

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その天正5年の兵乱では、雑賀衆は弥勒寺城に拠って頑強に抵抗しています。
最終的に誓紙を差し出し、「赦免」という形で和議が成立して織田軍が撤退すると、雑賀衆は矢玉で傷ついた足の痛みも構わず、矢宮神社で欣喜雀躍したとか・・・これが「雑賀踊り」の起源とも伝わっています。

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確かに弥勒寺山のすぐ麓(西麓)という立地。
山から下りてきた雑賀衆が踊りに興じる賑やかな様子が、目に浮かんでくるような。。。


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さて、お次は本願寺鷺森別院へ。
本願寺第11世・顕如の指示で弥勒寺山(御坊山)から当地へ移された雑賀御坊で、天正8年(1580)、11年の長きに渡った織田信長との石山戦争終結後、石山を退去した顕如が移り住んだ地でもあります。
以降、顕如が貝塚に移る天正11年7月までの間、一向宗の総本山ともなりました。

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本堂にも上げていただき、御本尊にお参りさせていただきました。

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紀三井寺

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紀三井寺
宝亀元年(770)の創建と伝わります。元々は真言宗山階派に属していましたが、1948年に独立して救世観音宗総本山を名乗ります。
天正13年、紀州征伐に乗り出した羽柴秀吉は、根来寺を制圧した後に雑賀にも攻め寄せますが、紀三井寺に対しては禁制を与え、自身も参拝に訪れたと云います。

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結縁厄除坂
この前日に訪れた紀州東照宮の108段の石段も凄かったけど・・・こちらは1枚目の写真にある楼門下の石段も含めると231段
途中にいくつか踊り場のような場所があり、男女の厄年(25・33・42)と還暦の段数で区切られているそうです。

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石段の途中には、寺名の由来にもなった三井水の一つ「清浄水」

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それにしても見事な石垣です。

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雨で滑りやすい中、どうにか登りきって振り仰ぐ眺め。
写真中央やや右寄りに雑賀城で、右ヘ順に紀州東照宮、弥勒寺城。

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大千手十一面観世音菩薩像(平成25年落慶)
総漆金箔寄木造りで、木造の立像仏としては国内最大なのだとか。

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天正16年(1588)建立の鐘楼

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そして本堂(宝暦9年/1759)・・・木に隠れて見えない(笑)

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本堂では内陣も拝観させていただきました。

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そして、私が紀三井寺を訪れた一番の理由・・・それは本堂横の石段を登った先にあります。

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石段を登ると多宝塔
文安6年(1449)建立。

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多宝塔と並ぶ開山堂前の坂を更に登ります。
この辺りから墓域に入ります。しばらく進み、最も奥まった辺りに・・・

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佐々木只三郎の墓所があります。
幕末、京都見廻組を率いた幕臣で、近江屋での坂本龍馬暗殺の指揮を執ったとも云われる人物です。
慶応4年(1869)1月、山崎~楠葉での新政府軍との戦闘(参照記事)で被弾し、敗走した当地で死去しました。

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墓石の側面には、その戦死に至る経緯も刻まれています。

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紀州東照宮

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紀州征伐からは離れますが・・・折角なので紀州東照宮にもお参りしました。

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鉤型に折れる不思議な参道

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そして・・・ドーンと聳える108段の石段…(^_^;)
煩悩だらけの身には堪える…(笑)

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ようやく楼門が近付いてきました・・・

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石段を登りきった場所から、和歌浦の眺め。

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権現造りの拝殿
巫女さんの案内で拝殿内部も拝観いたしました。
左甚五郎の様々な彫刻や、狩野派絵師による壁画など・・・見事の一言です。

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日光は無論のこと、久能山に比べても規模は小さめですが、それでもさすがは御三家のお膝元、と思わせる荘厳さでした。

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紀伊太田城

天正13年、紀州に攻め入って根来寺や粉河寺を制圧した羽柴秀吉は、その勢いのまま、雑賀攻略に兵を差し向けます。
郷を蹂躙され、なおも抵抗を続ける雑賀衆の残党は、太田左近を大将に太田城へ立て籠り、徹底抗戦の構えを見せます。
これに対し秀吉は、太田城へ降伏勧告の使者を派遣しますが拒否されたため、同城を水攻めにしました。
(なお、この時の使者の一人に、天正10年の信長横死後、雑賀を出奔していた孫一の姿があったと云います)

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太田城水攻めのため、秀吉が築かせた堤跡
城跡の北東、出水地区に一部が残存しています。

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樹木に覆われて見えづらいですが、その形状は紛れもなく土塁です。

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堤の内側の地勢・・・奥のマンションなど、城へ向かって低くなっているのが見て取れます。
これだと確かに、水を貯めやすかったかもしれません。

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来迎寺
太田城はこちらの来迎寺や、すぐ隣りの玄通寺を中心とした東西250m×南北200mの範囲に築かれていました。

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来迎寺境内に建つ太田城址碑
裏には天正13年の戦いの顛末が刻まれていました。

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不思議な形状の灯篭も。

籠城側は約1ヶ月に渡って頑強に抵抗を続けましたが、最後は太田左近をはじめ、主だった53名の首を差し出して降伏開城しました。

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太田城水攻遺蹟 小山塚
自刃した太田左近らを葬った塚は全部で48あったそうですが、これはその一つ。

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最後に・・・来迎寺の西方1km、大立寺の山門。
こちらは太田城大門の移築と伝わります。

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粉河寺、根来寺

8月27~29日は紀州雑賀(和歌山市)の旅。
記事の構成上、実際の訪問順とは異なりますが、ぼちぼちご紹介していきます。

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まずは粉河寺から。
朱が鮮やかな大門。宝永4年(1706)頃の建立。

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粉河寺は宝亀元年(770)開創の古刹。
根来寺や雑賀衆と共に羽柴秀吉に敵対する動きを見せていた粉河寺は、天正13年(1585)3月、その秀吉による紀州征伐で攻撃を受け、偉容を誇った堂塔伽藍の多くを焼失しました。
現在の姿に再興されたのは、江戸時代中期以降の事です。

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中門
こちらは天保3年(1832)の建立で、扁額の「風猛山」は紀州10代藩主・徳川治宝の直筆。

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本堂
享保5年(1720)建立。
本堂前には、国の名勝に指定されている庭園も。

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本堂前の高低差を埋める土留めとして、且つ手前の広場から本堂を仰ぎ見る前景として築かれた石組み。

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踞木地のクスノキ

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踞木地とは、粉河寺の開祖・大伴孔子古がこの木に踞り、下を通る鹿を狙ったという故事に由来しています。
ということは、もしかすると樹齢1200年以上・・・(゜o゜)


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さて、お次は根来寺へ。

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根来寺は大治5年(1130)の創建。
織田信長と石山本願寺・雑賀衆が対立した元亀・天正年間の石山戦争に於いては、一貫して織田方に味方した根来寺でしたが、信長の死後に秀吉が台頭してくると雑賀衆と結び、秀吉の本拠地である大坂の背後ともいえる岸和田を攻撃するなど、秀吉に敵対する動きを見せます。
これに業を煮やした秀吉は、小牧長久手の戦いも一応の落着を見た天正13年3月、根来寺攻めを決定し、紀州征伐の火蓋が切って落とされたのでした。
千石堀城などの泉南地区に築いた防衛線を突破された根来寺は、衆徒が各地の前線に出払っていたこともあり、ほぼ無抵抗で秀吉軍に制圧され、原因は不明ですが出火によって多くの伽藍を失いました。

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大塔(国宝)
天文16年(1547)の建立で、高さは40mを誇ります。
すぐ横に建つ大師堂(写真左端にチラッと屋根が・・・/1391年建立)に次ぐ古さで、現在に残る伽藍の中では、共に紀州征伐の兵火を免れた貴重な建築です。(その時の弾痕も残るそうなのですが…分りませんでした)
特にこの大塔は、根来寺といえば・・・な存在ですよね。

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大塔と本堂(大伝法堂/1826年建立)

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新義真言宗の宗祖・覚鑁上人の眠る奥の院

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本坊大玄関

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本坊の庭園

資料館にも立ち寄った後、車で少し移動して・・・

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最後に大門
根来寺の総門で、嘉永5年(1852)の建立。

粉河寺に根来寺・・・長い歴史を噛みしめながらの拝観になりました。

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