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2016年9月 4日 (日)

粉河寺、根来寺

8月27~29日は紀州雑賀(和歌山市)の旅。
記事の構成上、実際の訪問順とは異なりますが、ぼちぼちご紹介していきます。

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まずは粉河寺から。
朱が鮮やかな大門。宝永4年(1706)頃の建立。

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粉河寺は宝亀元年(770)開創の古刹。
根来寺や雑賀衆と共に羽柴秀吉に敵対する動きを見せていた粉河寺は、天正13年(1585)3月、その秀吉による紀州征伐で攻撃を受け、偉容を誇った堂塔伽藍の多くを焼失しました。
現在の姿に再興されたのは、江戸時代中期以降の事です。

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中門
こちらは天保3年(1832)の建立で、扁額の「風猛山」は紀州10代藩主・徳川治宝の直筆。

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本堂
享保5年(1720)建立。
本堂前には、国の名勝に指定されている庭園も。

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本堂前の高低差を埋める土留めとして、且つ手前の広場から本堂を仰ぎ見る前景として築かれた石組み。

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踞木地のクスノキ

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踞木地とは、粉河寺の開祖・大伴孔子古がこの木に踞り、下を通る鹿を狙ったという故事に由来しています。
ということは、もしかすると樹齢1200年以上・・・(゜o゜)


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さて、お次は根来寺へ。

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根来寺は大治5年(1130)の創建。
織田信長と石山本願寺・雑賀衆が対立した元亀・天正年間の石山戦争に於いては、一貫して織田方に味方した根来寺でしたが、信長の死後に秀吉が台頭してくると雑賀衆と結び、秀吉の本拠地である大坂の背後ともいえる岸和田を攻撃するなど、秀吉に敵対する動きを見せます。
これに業を煮やした秀吉は、小牧長久手の戦いも一応の落着を見た天正13年3月、根来寺攻めを決定し、紀州征伐の火蓋が切って落とされたのでした。
千石堀城などの泉南地区に築いた防衛線を突破された根来寺は、衆徒が各地の前線に出払っていたこともあり、ほぼ無抵抗で秀吉軍に制圧され、原因は不明ですが出火によって多くの伽藍を失いました。

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大塔(国宝)
天文16年(1547)の建立で、高さは40mを誇ります。
すぐ横に建つ大師堂(写真左端にチラッと屋根が・・・/1391年建立)に次ぐ古さで、現在に残る伽藍の中では、共に紀州征伐の兵火を免れた貴重な建築です。(その時の弾痕も残るそうなのですが…分りませんでした)
特にこの大塔は、根来寺といえば・・・な存在ですよね。

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大塔と本堂(大伝法堂/1826年建立)

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新義真言宗の宗祖・覚鑁上人の眠る奥の院

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本坊大玄関

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本坊の庭園

資料館にも立ち寄った後、車で少し移動して・・・

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最後に大門
根来寺の総門で、嘉永5年(1852)の建立。

粉河寺に根来寺・・・長い歴史を噛みしめながらの拝観になりました。

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