織田信長の雑賀攻め…雑賀戦地
地図1

二月十八日、佐野の郷に至りて御陣を移さる。廿二日、志立へ御陣を寄せられ、浜手・山方両手を分けて、御人数差し遣はさる。
(信長公記 巻十「雑賀御陣の事」より抜粋。以下同)
天正5年2月、紀州雑賀攻めに向かう織田信長は、信逹(志立)で軍勢を浜手・山方の二手に分けます。
→進軍経路編参照
地図2

山方へは根来杉之坊・三緘衆を案内者として、佐久間右衛門、羽柴筑前、荒木摂津守、別所小三郎、別所孫右衛門、堀久太郎、雑賀の内へ乱入し、端ゝ焼き払ふ。
山方の軍勢は、根来寺の杉之坊や中郷・南郷・宮郷の者らを案内に立て、風吹峠を越えて雑賀に攻め入りました。

風吹峠を越えた根来寺の南方から、紀の川と雑賀方面。
江戸期には田井ノ瀬の辺りに渡し場がありましたし、その先の太田城は宮郷に属して織田方についていましたので、その進攻ルートはおそらく、地図2のようであったと思います。
それでは、雑賀衆の拠点を観てまわります。

雑賀城
麓のお寺は養珠寺。紀州藩初代・徳川頼宣の母(お万の方/養珠院)の霊牌所として開かれました。

養珠寺脇の公園から城山(妙見山)に登ります。

ちょっと気になる石積みもありましたが・・・後世の土留めでしょうね。
北寄りの尾根筋に削平地らしきものもありましたが、それ以外はこれといって特に、お城としての遺構は見受けられませんでした。

山頂に建つ養珠寺妙見堂
雑賀城は、一向衆について織田信長と対立した時期の雑賀孫一と目される人物(鈴木重秀、或いは重朝?)の父とされる鈴木左太夫(重意)の築城と伝わります。
※なお、重朝は重秀の弟とする説と子とする説もあり、「孫一」の正体についても未だはっきりしたことは分っていません。
一説には重秀は「孫一」、重朝は「孫市」と称した(重朝の子孫も代々「孫市」を称している)とする考えもあるようですが・・・ややこしいので今後も「雑賀孫一」とのみ記して、あまり深く追及はしません。
さて、次は車で少しだけ北へ移動して・・・

弥勒寺城のあった弥勒寺山へ。
秋葉山、或いは本願寺法主・顕如が来て鷺森に移すまでの間、雑賀御坊がこの地にあったことから御坊山とも呼ばれています。

ちょっと読み取りづらいですが、弥勒寺山の石碑には天正5年の兵乱のことが書かれているようでした。

先ほどの石碑のすぐ横にある「雑賀衆ゆかりの地」案内板、とても分り易くていいですよ。雑賀めぐりをする方にはお薦め。

弥勒寺山山頂

顕如上人たく錫所碑
たく(「卓」の下半分が「木」)錫とは「杖を突く」の意で、顕如がこの地に足跡を残したことを記念しているようです。

紀伊国名所図会「秋葉山(弥勒寺山)合戦の図」
天正5年、織田信長の軍勢が侵攻してくると、雑賀衆は弥勒寺山を要塞化し、これに拠って織田勢に対抗しました。
城山の要害性を比しても、雑賀城より弥勒寺城の方により主力を集めて備えたのでしょう。

弥勒寺山頂から東の眺め・・・織田軍の山方勢が攻め寄せてきた方角です。ちょうど写真中央付近を、和歌川(小雑賀川)が横切っています。

その小雑賀川越しに見る弥勒寺城(奥の山)
御敵、小雑賀川を前にあて、川岸に外柵をつけ、相拘へ、堀久太郎人数、撞と打ち入り、向ふの川岸まで乗り渡し候ところ、岸高く候て、馬もあがらず。爰を肝要と、鉄炮を以て相拘へ候間、堀久太郎、能き武者数輩討たせ、引き退く。
織田山方勢先鋒、堀久太郎はこの和歌川(小雑賀川)を乗り越して待ち受ける雑賀衆に攻め掛かろうとしますが、対岸の岸が高くて馬も乗り上げられず、激しい抵抗を受けてやむなく撤退しています。
この時、雑賀衆は岸辺に柵や塹壕を設けるだけでなく、川底には桶壺などを沈めていたと云います。

付近の字名は「小雑賀」・・・きっと太田牛一が記した「小雑賀川」とは「小雑賀に流れる川」の意で、まさにこの地こそ、堀久太郎の手勢が雑賀衆と戦った場所ではないでしょうか。
一度撤退した山方勢は紀の川の渡しを押さえ、川を境に対陣を続けます。
浜手の方へ遣はされ候御人数、滝川左近、惟任日向、惟住五郎左衛門、永岡兵部大輔、筒井順慶、大和衆。谷の輪口より先は、道一筋にて、節所に候間、鬮取りにして、三手作つて、山と谷と乱入、中筋道通り、長岡兵部大輔、惟任日向守打ち入れられ候のところ、雑賀の者ども罷り出で、相支へ、一戦に及ぶ。
さて、一方の浜手勢は淡輪(谷の輪)を経由して、孝子峠後えで雑賀へ攻め入ります。

淡輪に残る淡輪邸址
淡輪氏は源義経の家臣であった佐藤忠信の末裔とされ、水軍を率いていました。
詳しいことは分かりませんが、淡輪には特に織田勢によって焼き払われたといった伝承も聞きませんし、後に当主の娘が、この当時織田の家臣だった秀吉の甥・秀次の側室にもなっていますので、天正5年の雑賀攻めに際しても、水軍衆の一員として織田方に参じていたのではないでしょうか。

今でも土塁は結構しっかり残っていました。
爰にても、究竟の者討ち捕り、所々焼き払ひ、中野の城取巻き、攻めさせられ候ひキ。
雑賀へ乱入した浜手勢は、抗戦する雑賀衆を撃退しつつ、中野城に攻め寄せ、これを包囲します。

中野城跡…とても分かりづらい場所にあります…(^_^;)
正面の石垣は城の遺構とも目されているとか・・・

手前の畑は堀跡でしょうね。
二月廿八日、丹和まで、信長公御陣を寄せられ、これに依つて、中野の城降参申し、退散なり。則ち、秋田城介信忠御請け取り候て、御居陣なり。
2月28日、織田信長本隊が淡輪(丹和)まで寄せてきたことを知ると、中野城に籠る雑賀衆は抵抗を諦め、城を明け渡します。
中野城には織田信忠が入城し、これ以降、織田軍の一方の前線拠点となりました。
三月朔日、滝川、惟任、惟住、蜂屋、永岡、筒井、若狭衆に仰せつけられ、鈴木孫一が居城取り詰め、竹たばを以て攻め寄り、城楼を上げ、日夜、あらゝゝと攻められ、
中野城接収の報を受け、信長は浜手勢に対し更に、孫一の居城を攻めるよう命じています。
ここでいう「鈴木孫一が居城」ですが、彼の本拠地と伝わる平井城とする説が強いようです。

こちらの高台が平井城跡と云われています。
現地の案内板には沙也可の生誕地、と紹介されていました。
沙也可とは、豊臣秀吉の唐入りで加藤清正の軍勢に加わったものの、彼の地での豊臣軍の非道な振る舞いに憤り、朝鮮側に転じて豊臣軍と戦ったと云う人物で、現在もその子孫が当地に健在なのだとか。
現地に残されている鉄砲や伝承から、その出自は孫一の鈴木一族ではないかと目されているそうです。
(現地案内板より)

城跡から眺める孫一の本拠地・・・平井の郷
確かに「信長公記」に列挙された織田方の武将を見ても、浜手勢のみで山方勢が全く加わっていないし(弥勒寺城や雑賀城を指すのなら当然、山方勢も加わって然るべし)、浜手勢が攻略した中野城から平井までは、上淡路街道で僅か2~3kmの距離。
こののどか地で、それほどの大軍による攻城戦が展開されたのでしょうか・・・。
また、「信長公記」には攻め立てたところまでしか記述がないのですが、その結末も気になるところです。
・・・平井の郷を少し散策します。

こんな細い路地を通り・・・

蓮乗寺へ。

境内には孫一の墓と伝わる五輪塔があります。

側面には;
雑賀住

二月十八日、佐野の郷に至りて御陣を移さる。廿二日、志立へ御陣を寄せられ、浜手・山方両手を分けて、御人数差し遣はさる。
(信長公記 巻十「雑賀御陣の事」より抜粋。以下同)
天正5年2月、紀州雑賀攻めに向かう織田信長は、信逹(志立)で軍勢を浜手・山方の二手に分けます。
→進軍経路編参照
地図2

山方へは根来杉之坊・三緘衆を案内者として、佐久間右衛門、羽柴筑前、荒木摂津守、別所小三郎、別所孫右衛門、堀久太郎、雑賀の内へ乱入し、端ゝ焼き払ふ。
山方の軍勢は、根来寺の杉之坊や中郷・南郷・宮郷の者らを案内に立て、風吹峠を越えて雑賀に攻め入りました。

風吹峠を越えた根来寺の南方から、紀の川と雑賀方面。
江戸期には田井ノ瀬の辺りに渡し場がありましたし、その先の太田城は宮郷に属して織田方についていましたので、その進攻ルートはおそらく、地図2のようであったと思います。
それでは、雑賀衆の拠点を観てまわります。

雑賀城
麓のお寺は養珠寺。紀州藩初代・徳川頼宣の母(お万の方/養珠院)の霊牌所として開かれました。

養珠寺脇の公園から城山(妙見山)に登ります。

ちょっと気になる石積みもありましたが・・・後世の土留めでしょうね。
北寄りの尾根筋に削平地らしきものもありましたが、それ以外はこれといって特に、お城としての遺構は見受けられませんでした。

山頂に建つ養珠寺妙見堂
雑賀城は、一向衆について織田信長と対立した時期の雑賀孫一と目される人物(鈴木重秀、或いは重朝?)の父とされる鈴木左太夫(重意)の築城と伝わります。
※なお、重朝は重秀の弟とする説と子とする説もあり、「孫一」の正体についても未だはっきりしたことは分っていません。
一説には重秀は「孫一」、重朝は「孫市」と称した(重朝の子孫も代々「孫市」を称している)とする考えもあるようですが・・・ややこしいので今後も「雑賀孫一」とのみ記して、あまり深く追及はしません。
さて、次は車で少しだけ北へ移動して・・・

弥勒寺城のあった弥勒寺山へ。
秋葉山、或いは本願寺法主・顕如が来て鷺森に移すまでの間、雑賀御坊がこの地にあったことから御坊山とも呼ばれています。

ちょっと読み取りづらいですが、弥勒寺山の石碑には天正5年の兵乱のことが書かれているようでした。

先ほどの石碑のすぐ横にある「雑賀衆ゆかりの地」案内板、とても分り易くていいですよ。雑賀めぐりをする方にはお薦め。

弥勒寺山山頂

顕如上人たく錫所碑
たく(「卓」の下半分が「木」)錫とは「杖を突く」の意で、顕如がこの地に足跡を残したことを記念しているようです。

紀伊国名所図会「秋葉山(弥勒寺山)合戦の図」
天正5年、織田信長の軍勢が侵攻してくると、雑賀衆は弥勒寺山を要塞化し、これに拠って織田勢に対抗しました。
城山の要害性を比しても、雑賀城より弥勒寺城の方により主力を集めて備えたのでしょう。

弥勒寺山頂から東の眺め・・・織田軍の山方勢が攻め寄せてきた方角です。ちょうど写真中央付近を、和歌川(小雑賀川)が横切っています。

その小雑賀川越しに見る弥勒寺城(奥の山)
御敵、小雑賀川を前にあて、川岸に外柵をつけ、相拘へ、堀久太郎人数、撞と打ち入り、向ふの川岸まで乗り渡し候ところ、岸高く候て、馬もあがらず。爰を肝要と、鉄炮を以て相拘へ候間、堀久太郎、能き武者数輩討たせ、引き退く。
織田山方勢先鋒、堀久太郎はこの和歌川(小雑賀川)を乗り越して待ち受ける雑賀衆に攻め掛かろうとしますが、対岸の岸が高くて馬も乗り上げられず、激しい抵抗を受けてやむなく撤退しています。
この時、雑賀衆は岸辺に柵や塹壕を設けるだけでなく、川底には桶壺などを沈めていたと云います。

付近の字名は「小雑賀」・・・きっと太田牛一が記した「小雑賀川」とは「小雑賀に流れる川」の意で、まさにこの地こそ、堀久太郎の手勢が雑賀衆と戦った場所ではないでしょうか。
一度撤退した山方勢は紀の川の渡しを押さえ、川を境に対陣を続けます。
浜手の方へ遣はされ候御人数、滝川左近、惟任日向、惟住五郎左衛門、永岡兵部大輔、筒井順慶、大和衆。谷の輪口より先は、道一筋にて、節所に候間、鬮取りにして、三手作つて、山と谷と乱入、中筋道通り、長岡兵部大輔、惟任日向守打ち入れられ候のところ、雑賀の者ども罷り出で、相支へ、一戦に及ぶ。
さて、一方の浜手勢は淡輪(谷の輪)を経由して、孝子峠後えで雑賀へ攻め入ります。

淡輪に残る淡輪邸址
淡輪氏は源義経の家臣であった佐藤忠信の末裔とされ、水軍を率いていました。
詳しいことは分かりませんが、淡輪には特に織田勢によって焼き払われたといった伝承も聞きませんし、後に当主の娘が、この当時織田の家臣だった秀吉の甥・秀次の側室にもなっていますので、天正5年の雑賀攻めに際しても、水軍衆の一員として織田方に参じていたのではないでしょうか。

今でも土塁は結構しっかり残っていました。
爰にても、究竟の者討ち捕り、所々焼き払ひ、中野の城取巻き、攻めさせられ候ひキ。
雑賀へ乱入した浜手勢は、抗戦する雑賀衆を撃退しつつ、中野城に攻め寄せ、これを包囲します。

中野城跡…とても分かりづらい場所にあります…(^_^;)
正面の石垣は城の遺構とも目されているとか・・・

手前の畑は堀跡でしょうね。
二月廿八日、丹和まで、信長公御陣を寄せられ、これに依つて、中野の城降参申し、退散なり。則ち、秋田城介信忠御請け取り候て、御居陣なり。
2月28日、織田信長本隊が淡輪(丹和)まで寄せてきたことを知ると、中野城に籠る雑賀衆は抵抗を諦め、城を明け渡します。
中野城には織田信忠が入城し、これ以降、織田軍の一方の前線拠点となりました。
三月朔日、滝川、惟任、惟住、蜂屋、永岡、筒井、若狭衆に仰せつけられ、鈴木孫一が居城取り詰め、竹たばを以て攻め寄り、城楼を上げ、日夜、あらゝゝと攻められ、
中野城接収の報を受け、信長は浜手勢に対し更に、孫一の居城を攻めるよう命じています。
ここでいう「鈴木孫一が居城」ですが、彼の本拠地と伝わる平井城とする説が強いようです。

こちらの高台が平井城跡と云われています。
現地の案内板には沙也可の生誕地、と紹介されていました。
沙也可とは、豊臣秀吉の唐入りで加藤清正の軍勢に加わったものの、彼の地での豊臣軍の非道な振る舞いに憤り、朝鮮側に転じて豊臣軍と戦ったと云う人物で、現在もその子孫が当地に健在なのだとか。
現地に残されている鉄砲や伝承から、その出自は孫一の鈴木一族ではないかと目されているそうです。
(現地案内板より)

城跡から眺める孫一の本拠地・・・平井の郷
確かに「信長公記」に列挙された織田方の武将を見ても、浜手勢のみで山方勢が全く加わっていないし(弥勒寺城や雑賀城を指すのなら当然、山方勢も加わって然るべし)、浜手勢が攻略した中野城から平井までは、上淡路街道で僅か2~3kmの距離。
こののどか地で、それほどの大軍による攻城戦が展開されたのでしょうか・・・。
また、「信長公記」には攻め立てたところまでしか記述がないのですが、その結末も気になるところです。
・・・平井の郷を少し散策します。

こんな細い路地を通り・・・

蓮乗寺へ。

境内には孫一の墓と伝わる五輪塔があります。

側面には;
雑賀住
平井孫市郎藤原義兼
とありました。
こちらの供養塔は銘文によると、天正17年(1589)建立の墓碑を、当寺9世住職が天保3年(1832)に建て替えたものなのだそうです。
天正17年の建立、そして側面に刻まれた孫「市」を鑑みるに、これは鈴木重朝の墓碑ではないかと思われます。
※重朝の没年は天正17年(重秀の没年は不明)とされる。
※但し、重朝の兄弟(或いは叔父)に「義兼」の名も見え、注意が必要。
蓮乗寺には、孫一の守り本尊と伝わる握り仏も伝来しています。(非公開)
さて、孫一が居城への攻撃を命じた信長は、自らは淡輪を発ち、山方浜手のいずれで事あろうとも対処できるよう、両口の中間にあたる波太神社へ本陣を移します。(参照記事)
雑賀表、多人数、永々御在陣。忘国迷惑を致し、土橋平次、鈴木孫一、岡崎三郎大夫、マツダ三大夫、宮本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫、巳上七人連署を以て、誓紙を致し、大坂の儀、御存分に馳走仕るべきの旨、御請け申すにつきて、御赦免なさる。
(信長公記 巻十「御名物召し置かるゝの事」より抜粋)
その後、戦線は膠着しますが、最終的には雑賀衆から誓紙を差し出し、信長も大坂(石山本願寺)に配慮するという条件を呑んで、赦免という形を以て戦いは一応の終結をみました。
周辺に不穏な政情を抱える信長と、長期対陣による消耗にも限度が見えている雑賀衆・・・それぞれの事情が絡み合っての赦免という結末ですが、郷を大軍勢から守り切ったという意味に於いてはやはり、天正5年の兵乱は雑賀衆の武名を高める結果になった、と言えるのではないでしょうか。
ただこの後、雑賀衆では反織田派と親織田派の対立が一層顕在化して内紛を引き起こしますし、そうした動きの中で孫一は徐々に織田信長へ接近していきます。この辺りにも、何かまだ裏がありそうな気も・・・考え過ぎですかね(^_^;)
陣を払った信長は、佐野に砦を築かせつつ、京都へ引き揚げました。
織田軍の引き揚げを知った雑賀衆は、矢玉で傷ついた足の痛みも構わずに喜び踊ったとか。
これが雑賀踊りの起源とも云われています・・・完。
とありました。
こちらの供養塔は銘文によると、天正17年(1589)建立の墓碑を、当寺9世住職が天保3年(1832)に建て替えたものなのだそうです。
天正17年の建立、そして側面に刻まれた孫「市」を鑑みるに、これは鈴木重朝の墓碑ではないかと思われます。
※重朝の没年は天正17年(重秀の没年は不明)とされる。
※但し、重朝の兄弟(或いは叔父)に「義兼」の名も見え、注意が必要。
蓮乗寺には、孫一の守り本尊と伝わる握り仏も伝来しています。(非公開)
さて、孫一が居城への攻撃を命じた信長は、自らは淡輪を発ち、山方浜手のいずれで事あろうとも対処できるよう、両口の中間にあたる波太神社へ本陣を移します。(参照記事)
雑賀表、多人数、永々御在陣。忘国迷惑を致し、土橋平次、鈴木孫一、岡崎三郎大夫、マツダ三大夫、宮本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫、巳上七人連署を以て、誓紙を致し、大坂の儀、御存分に馳走仕るべきの旨、御請け申すにつきて、御赦免なさる。
(信長公記 巻十「御名物召し置かるゝの事」より抜粋)
その後、戦線は膠着しますが、最終的には雑賀衆から誓紙を差し出し、信長も大坂(石山本願寺)に配慮するという条件を呑んで、赦免という形を以て戦いは一応の終結をみました。
周辺に不穏な政情を抱える信長と、長期対陣による消耗にも限度が見えている雑賀衆・・・それぞれの事情が絡み合っての赦免という結末ですが、郷を大軍勢から守り切ったという意味に於いてはやはり、天正5年の兵乱は雑賀衆の武名を高める結果になった、と言えるのではないでしょうか。
ただこの後、雑賀衆では反織田派と親織田派の対立が一層顕在化して内紛を引き起こしますし、そうした動きの中で孫一は徐々に織田信長へ接近していきます。この辺りにも、何かまだ裏がありそうな気も・・・考え過ぎですかね(^_^;)
陣を払った信長は、佐野に砦を築かせつつ、京都へ引き揚げました。
織田軍の引き揚げを知った雑賀衆は、矢玉で傷ついた足の痛みも構わずに喜び踊ったとか。
これが雑賀踊りの起源とも云われています・・・完。
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