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2016年9月18日 (日)

生田の森(生田神社)

神戸三宮への出張ついでにお仕事前の早朝、生田神社へ参拝してきました。

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楼門

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楼門の脇には梶原の井
寿永3年(1184)2月の一ノ谷の合戦に於いて生田は、攻め寄せる源範頼率いる源氏軍と、迎え撃つ平知盛・重衝率いる平氏軍との間で戦闘が繰り広げられた舞台でもあります。
その折、源氏の武将・梶原景季がこの井戸の水を汲んで生田の神に戦勝を祈ったとの伝承から、この名で呼ばれます。

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境内には平氏方の将・平敦盛が愛でたと云う敦盛の萩も。
敦盛は言うまでもなく、一ノ谷で熊谷直実に討たれた人物です。後にその遺子がこの萩の下で休んでいた時、夢に亡き父が現れたとか・・・。
私が訪れた時はステージのようなものが設営されていて、あまり近くには寄れませんでした。

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拝殿

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樹齢約500年の楠の御神木

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折鳥居と礎石
江戸時代初期、西国街道の脇に建てられた石鳥居で、安政の大地震で倒壊します。
以後、折れた石柱などがそのまま残されていましたが、昭和25年に新たに朱塗りの大鳥居が建立されることとなり、生田の森の片隅に移されました。

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それでは、生田の森へ。
一ノ谷の合戦では平氏軍が陣を構えたと云われます。

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このように、源平合戦の舞台として有名な生田の森ですが、実は織田信長の一代を記した太田牛一の「信長公記」にも、その名が登場しています。

滝川左近、惟住五郎左衛門両人差し遣はされ、西宮、いばら住吉、あし屋の里、雀ヶ松原、三陰の宿、滝山、生田森、陣を取り、御敵荒木志摩守、鼻熊に楯籠り候、人数を以て押へ置き、
(信長公記 巻十一「荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事」より抜粋)

天正6年(1578)10月、摂津有岡城の荒木村重の謀反が発覚します。
その直後に勃発した第2次木津川口の戦い(11月6日)で毛利水軍に勝利を収めた織田信長は、村重討伐を決断、軍勢を村重に与する高槻城(高山右近)や茨木城(中川清秀)などの諸方に差し向けました。
その一環で同11月下旬には、滝川一益や丹羽長秀等の軍勢を現在の神戸方面に遣わし、滝川らは村重の一族で重臣の荒木元清(荒木志摩守)が籠る花隈城鼻熊)の押さえとして数ヶ所に陣を置きますが、その一つに生田の森が含まれていたのです。

また、花隈城はこの2年後の天正8年7月2日、信長配下の池田恒興の軍勢に攻められて落城しますが、この時の攻防戦でもやはり、池田勢は生田の森にも陣を布いていました
本願寺との和睦が成立し、11年の長きに渡った石山戦争に終止符を打った信長は同年8月、重臣の佐久間信盛父子に対し、19ヶ条からなる折檻状を突き付けて追放に処していますが、この折檻状の中に次の一節があります。

一、丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎小身といひ、程なく花熊申し付け、是れ又、天下の覚えを取る。爰を以て我が心を発し、一廉の働きこれあるべき事。
(信長公記 巻十三「佐久間・林佐渡・丹羽右近・伊賀伊賀守の事」より抜粋)

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生田の森には縁結びの水占いも・・・男一人でどうしろと?(笑)

いずれ近いうちに、これ以外の荒木村重包囲戦の関連地にも足を運んでいきたいですね。

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