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2016年9月 4日 (日)

紀伊太田城

天正13年、紀州に攻め入って根来寺や粉河寺を制圧した羽柴秀吉は、その勢いのまま、雑賀攻略に兵を差し向けます。
郷を蹂躙され、なおも抵抗を続ける雑賀衆の残党は、太田左近を大将に太田城へ立て籠り、徹底抗戦の構えを見せます。
これに対し秀吉は、太田城へ降伏勧告の使者を派遣しますが拒否されたため、同城を水攻めにしました。
(なお、この時の使者の一人に、天正10年の信長横死後、雑賀を出奔していた孫一の姿があったと云います)

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太田城水攻めのため、秀吉が築かせた堤跡
城跡の北東、出水地区に一部が残存しています。

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樹木に覆われて見えづらいですが、その形状は紛れもなく土塁です。

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堤の内側の地勢・・・奥のマンションなど、城へ向かって低くなっているのが見て取れます。
これだと確かに、水を貯めやすかったかもしれません。

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来迎寺
太田城はこちらの来迎寺や、すぐ隣りの玄通寺を中心とした東西250m×南北200mの範囲に築かれていました。

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来迎寺境内に建つ太田城址碑
裏には天正13年の戦いの顛末が刻まれていました。

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不思議な形状の灯篭も。

籠城側は約1ヶ月に渡って頑強に抵抗を続けましたが、最後は太田左近をはじめ、主だった53名の首を差し出して降伏開城しました。

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太田城水攻遺蹟 小山塚
自刃した太田左近らを葬った塚は全部で48あったそうですが、これはその一つ。

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最後に・・・来迎寺の西方1km、大立寺の山門。
こちらは太田城大門の移築と伝わります。

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