織田信長の雑賀攻め…進軍経路
さて、記事の都合で順番が前後しましたが、和歌山旅の初日には泉南市~阪南市の旧街道歩きをしていました。
天正5年2月2日、雑賀五組(雑賀荘・十ヶ郷・中郷・南郷・宮郷)の内、中郷・南郷・宮郷の三組(三緘)、及び根来寺の杉ノ坊が織田方に通じてきたため、織田信長は直ちに雑賀征伐(雑賀荘・十ヶ郷)を決断します。
「信長公記」の記述に則れば、2月13日には早くも大軍を催して京都を出陣。岩清水八幡や若江を経由し、途中の貝塚では敵勢の籠る砦を攻略しつつ、18日には佐野(泉佐野市)に着陣。
・・・ここまでの進軍経路を鑑みるに、信長が軍勢を進めたのは主に紀州街道であろうと推定し、佐野から更に先の進攻ルートを探るため、紀州街道や周辺の旧道を歩いてみることにしました。
阪和線の新家駅で下車。そこから北上して紀州街道へ向かいます。
紀州街道に達したら一旦右折して、少し東へ進むと・・・

1615年の大坂夏の陣の緒戦、樫井の戦いで戦死した豊臣方の将・塙団右衛門の供養塔があります。
今回はここを起点に、まずは紀州街道を南西方向へ進みます。

紀州街道
塙団右衛門の供養塔のすぐ近くには・・・

同じく、樫井の戦いで戦死した淡輪六郎兵衛の供養塔も。
この淡輪氏、後ほど今回のテーマでもある「織田信長の雑賀攻め」にも関わってきます。
なお、こちらの供養塔は淡輪氏の末裔である会津藩士・本山三郎右衛門昌直という人物が寛永16年に建立しましたが、宝篋印塔の老朽化が進み、平成12年に現在のものに再建されました。左奥に見えているのが、建立当初の宝篋印塔だと思われます。
扱いが・・・(;・∀・)
更に進むと・・・

大坂夏之陣 樫井古戦場跡碑
樫井の戦いは1615年の大坂夏の陣に於いて、紀州浅野家への攻撃を目論んで紀州街道を南進する大野治房・塙団右衛門・淡輪六郎兵衛ら豊臣軍と、やはり紀州街道を大坂目指して北へ進軍していた徳川方の浅野軍との間で起きた合戦です。

明治大橋から見る樫井川
きっと、紀州街道を横切るこの樫井川を境に戦いが展開されたことでしょう。

樫井川を西へ越えた先の紀州街道

こちらは明治小橋
この先、少し坂を上ると・・・

海会寺跡があります。
特別予定はしていませんでしたが、折角なので休憩がてら立ち寄ることにしました。

復元された海会寺跡
海会寺は7世紀頃に建立された古代寺院で、発掘調査によって塔や金堂、講堂、回廊などが発見されています。
写真は塔跡から見た回廊(赤い杭)と講堂跡(右奥)

海会寺跡の東隣りからは掘立柱建物の跡も発見され、海会寺を建立した豪族の屋敷跡では?と考えられているそうです。

また、金堂跡には一岡神社が建っています。
拝殿も新しいし、特に気にも留めていなかったのですが・・・

何気なく案内板の由緒を読んでいて・・・ビックリ!
紛れもなく、「天正5年の織田信長の兵火に罹って焼失」と書いてあるではないですか・・・。
間違いなく織田信長の軍勢は、この紀州街道を進軍した・・・それを確信した瞬間でした。

こうした小さな発見も、現地を訪れたからこそ♪…ですね。

紀州街道へ戻ります。
紀州街道は、中世には熊野街道の名で呼ばれていた道でもあります。

旧街道特有の風情を感じさせる通り。
この先に江戸時代、宿場町として栄えた信逹宿があります。

信逹宿本陣跡
廿二日、志立へ御陣を寄せられ、浜手・山方両手を分けて、御人数差し遣はさる。
(信長公記 巻十「雑賀御陣の事」より抜粋。以下同)
信達(志立)まで進軍した織田信長は、ここで軍勢を浜手と山方の二手に分けています。
浜手は文字通り海岸線を西へ進み、淡輪を経由して孝子峠越えで雑賀へ攻め込むルートになります。
信達までは全軍で紀州街道を進み、ここから浜手勢が淡輪へ至るには、海岸線を通る浜街道に出る必要が生じます。
しかし紀州街道は、信達から先も浜街道から遠ざかるように南西へ進み、そのまま雄ノ山峠に差し掛かっていきます。
このままでは信達から淡輪へのルートを見失いそうになりますが、実は信達には「信長街道」と呼ばれる旧道が存在してるのです。
地図1

信長街道(地図1 紫のライン)
信達で紀州街道から分かれ、下出、黒田を通り、鳥取で浜街道と合流する旧道。織田信長が軍用道路として多少整備したとの伝承から、この名で呼ばれています。
まさに紀州街道と浜街道を繋げる道で、伝承からも淡輪を経由する浜手勢や、同じく一旦淡輪まで出向く信長本隊が通った道と解釈できます。

信逹宿本陣跡すぐ先の、紀州街道(直進)と信長街道(右)の分岐点

分岐点の目印は、角に並べられた常夜灯です。
なんと、平成4年までは現役で使われていたのだとか…!?

信長街道は、紀州街道からこの細い路地を右に入り・・・

直ぐにまた左へ曲がった先から伸びています。
さて、信長街道は後ほどじっくり歩くとして、まずは織田山方勢の気分で、そのまま紀州街道を直進します。

泉南石綿の碑
泉南地域は明治末期から石綿(いわゆるアスベスト)紡織産業が盛んだったようで、従事者やその家族に石綿被害が多発しました。
こちらの碑は2014年、最高裁判所で国の責任を認める判決を勝ち取った記念と、被害者の鎮魂、被害根絶を祈念して建立されたようです。

気持ちいいくらいに真っ直ぐ、一直線に伸びる紀州街道。

沿道に建つ大日寺往生院
天正13年の羽柴秀吉による紀州征伐(根来寺攻め)で全焼しているそうです。

しばらく進むと「大鳥居」という交差点に出ます。
ここは、紀州街道と根来街道の交差地点。
山方へは根来杉之坊・三緘衆を案内者として、佐久間右衛門、羽柴筑前、荒木摂津守、別所小三郎、別所孫右衛門、堀久太郎、雑賀の内へ乱入し、端ゝ焼き払ふ。
さて、信逹で二手に分かれた一方の山方勢が辿ったルートについては、根来寺の杉之坊が案内している点や、後に信長が本陣を波太神社に据えた際、堀久太郎らの諸将を配した場所について、「信長公記」は根来口と記していることなどを考え合わせて、私は紀州街道からここ「大鳥居」で根来街道に入り、風吹峠を越えたものと想定しています。
が、一方では、そのまま紀州街道を雄ノ山峠越えで雑賀へ向かったとする説も根強くあります。

根来街道(風吹峠方向)
紀州街道は中世以前から存在する道。紀伊と和泉を結ぶ最も主要な交通路でもあり、雄ノ山峠越えのルートも充分に考えられますが、雑賀衆の奇襲を警戒する中、より確実かつ迅速な進軍のためには、織田軍としては先導役も務める味方の根来寺が押さえるルート=根来街道を選択したのではないかと考えます。
(但し、戦時に於いて主要な街道へ何も手当てをしないとも考えづらいので、或いは一部の軍勢を紀州街道の雄ノ山峠の抑えに割くようなことはあったかもしれません)
※なお「大鳥居」の由来は信逹神社の鳥居があったからで、今は交差点のすぐ南寄りに移設されています。
私は「大鳥居」から根来街道を北上し、信長街道へ向かいます。

信長街道
ここからは信長街道をひたすら歩きます。

ズラリと並んだお地蔵さんが街道を見守る分岐点・・・ここは右へ。

なかなかいい感じのS字♪

県道63号を越えます。

信長街道から南の方角を仰ぎ見る・・・和泉⇔紀伊国境を分かつ山脈が聳えます。
織田軍の目指す雑賀(和歌山市)は、あの山の向こう側。

双子池

一段と道幅が狭まる信長街道。
電柱の足元には・・・

小さな道標もありました。

この辺りも趣を感じさせます。
このまま進むと・・・

男神社の参道に行き着きます。
折角なのでちょっと寄り道して参拝・・・

男神社(おたけびの宮)
参道が思いの外長くて驚きました。

境内に生える夫婦樟

男神社から再び信長街道へ

男神社の少し先で、信長街道は男里川に寸断されていますが・・・

川の対岸、堤防の縁から再開します。

真っ直ぐなようで、微妙な蛇行を繰り返す街道。

少なくとも、自動車のために築かれた道でないことは一目瞭然です。
何方へも懸け合せ能き様にと、おぼしめされ
三月二日、信長公、山方浜手両陣の中、とつとりの郷、若宮八幡宮へ御陣を移さる。
さて、一旦このまま淡輪まで進んだ織田信長は、先を行く浜手勢による敵方の中野城制圧の報に接すると、山方浜手いずれで事有ってもすぐ対処できるようにと、淡輪から引き返し、山方浜手両陣の中間にある波太神社に陣を据えています。
地図2

そして、この波太神社の近くには、地元でやはり「信長街道」と伝えられている道が、既出の信長街道とは別にもう1本あります。
※地図2 青ライン=仮に伝信長街道とする。

信長街道から見た、伝信長街道との分岐点
伝信長街道は緑のフェンス(用水路)に沿って左へ伸びています。

伝信長街道
ここは後ほど歩くとして、ひとまず信長街道を浜街道との合流点まで進みます。

南海本線、鳥取ノ荘駅近くを通る信長街道。

駅前を200mほども過ぎると、ようやく浜街道との合流点に到達します。

淡輪へと続く浜街道
浜手勢や信長本隊が進んでいった道です。

さて、それでは伝信長街道へ戻ります。
「信長公記」にも、とつとりの郷と出てくる「鳥取」交差点。ここから南東方向へ。

伝信長街道には8年後の天正13年、羽柴秀吉の紀州征伐に際し、秀吉軍に抵抗して処刑された波有手(阪南市鳥取)の道弘寺他、周辺寺院の僧らを供養すると伝わる首斬り地蔵も残り、引き続き軍用道として用いられていた形跡が窺えます。

首斬り地蔵
今は一ヶ所に集められて、蓮池の堤の北端角に祀られています。
いずれの「信長街道」も、伝承通りに信長の軍勢が通行したものとすると;
・信長街道は淡輪へ向かう際に整備・通行した道
・伝信長街道は淡輪から戻った織田信長が波多神社に本陣を置く際、浜街道と波多神社、そして紀州街道を繋げた道
となるでしょうか。いずれも紀州街道と浜街道を繋げている、という点に於いては共通しています。
こうして見ると波太神社は、浜手(淡輪口)と山方(根来口)、そして雄ノ山峠からの紀州街道にも睨みを利かせた選地と言えるのかもしれません。

それではこの日最後の行程、波太神社へ。

とつとりの郷、若宮八幡宮・・・波太神社
織田信長本陣

本殿は寛永15年(1638)の再建で、波太宮(鳥取氏の祖と伝えられる角凝命)と八幡宮(応神天皇)の二柱を祀っています。
なお、「若宮八幡宮」の呼称ですが、
①宇佐八幡や岩清水八幡、鶴岡八幡の若宮を勧請したもの
②八幡神たる応神天皇の若宮・仁徳天皇を祀るもの
③八幡宮本宮から迎えた新宮
などに用いられる場合が多いようです。
③の意味がイマイチ掴みかねますが、応神天皇を祀る波太神社は①か③ということになるのでしょう。
※波太神社の八幡宮は指出森神社(阪南市貝掛)の八幡宮を合祀したもの。

拝殿正面に建つ石灯籠は、片桐且元の寄進と伝わり・・・

背面には;
慶長五年十一月吉日
の銘があります。

その正面側;
波多(ママ)大明神
八幡大□□
□□の部分は削られていて読み取れませんでしたが、意図的なものを感じますので、或いは「菩薩」となっていたのかもしれません。明治の神仏分離で削られたか・・・?
→八幡大菩薩:神仏習合思想下に於ける八幡神に奉進された称号
さて、織田信長本陣まで辿り着いたところで、この日の踏査は終了です。
炎天下の中、本当によく歩きました…と言っても、最寄りの駅までまだ2㎞歩かないとなりませんが…(´-∀-`;)

阪南I.C.付近から眺める雄ノ山峠方面。
伝信長街道と紀州街道もこの付近で合流していたものと思います。織田の軍勢が目指す雑賀は、あの山の向こう・・・。

やっとの思いで辿り着いたJR和泉鳥取駅。
新家駅を出発したのが正午少し前でしたので、約5時間の街道歩きとなりました。
さ、和歌山市内に確保した宿へ向かい、翌日に備えます。
※「雑賀戦地」編へつづく
天正5年2月2日、雑賀五組(雑賀荘・十ヶ郷・中郷・南郷・宮郷)の内、中郷・南郷・宮郷の三組(三緘)、及び根来寺の杉ノ坊が織田方に通じてきたため、織田信長は直ちに雑賀征伐(雑賀荘・十ヶ郷)を決断します。
「信長公記」の記述に則れば、2月13日には早くも大軍を催して京都を出陣。岩清水八幡や若江を経由し、途中の貝塚では敵勢の籠る砦を攻略しつつ、18日には佐野(泉佐野市)に着陣。
・・・ここまでの進軍経路を鑑みるに、信長が軍勢を進めたのは主に紀州街道であろうと推定し、佐野から更に先の進攻ルートを探るため、紀州街道や周辺の旧道を歩いてみることにしました。
阪和線の新家駅で下車。そこから北上して紀州街道へ向かいます。
紀州街道に達したら一旦右折して、少し東へ進むと・・・

1615年の大坂夏の陣の緒戦、樫井の戦いで戦死した豊臣方の将・塙団右衛門の供養塔があります。
今回はここを起点に、まずは紀州街道を南西方向へ進みます。

紀州街道
塙団右衛門の供養塔のすぐ近くには・・・

同じく、樫井の戦いで戦死した淡輪六郎兵衛の供養塔も。
この淡輪氏、後ほど今回のテーマでもある「織田信長の雑賀攻め」にも関わってきます。
なお、こちらの供養塔は淡輪氏の末裔である会津藩士・本山三郎右衛門昌直という人物が寛永16年に建立しましたが、宝篋印塔の老朽化が進み、平成12年に現在のものに再建されました。左奥に見えているのが、建立当初の宝篋印塔だと思われます。
扱いが・・・(;・∀・)
更に進むと・・・

大坂夏之陣 樫井古戦場跡碑
樫井の戦いは1615年の大坂夏の陣に於いて、紀州浅野家への攻撃を目論んで紀州街道を南進する大野治房・塙団右衛門・淡輪六郎兵衛ら豊臣軍と、やはり紀州街道を大坂目指して北へ進軍していた徳川方の浅野軍との間で起きた合戦です。

明治大橋から見る樫井川
きっと、紀州街道を横切るこの樫井川を境に戦いが展開されたことでしょう。

樫井川を西へ越えた先の紀州街道

こちらは明治小橋
この先、少し坂を上ると・・・

海会寺跡があります。
特別予定はしていませんでしたが、折角なので休憩がてら立ち寄ることにしました。

復元された海会寺跡
海会寺は7世紀頃に建立された古代寺院で、発掘調査によって塔や金堂、講堂、回廊などが発見されています。
写真は塔跡から見た回廊(赤い杭)と講堂跡(右奥)

海会寺跡の東隣りからは掘立柱建物の跡も発見され、海会寺を建立した豪族の屋敷跡では?と考えられているそうです。

また、金堂跡には一岡神社が建っています。
拝殿も新しいし、特に気にも留めていなかったのですが・・・

何気なく案内板の由緒を読んでいて・・・ビックリ!
紛れもなく、「天正5年の織田信長の兵火に罹って焼失」と書いてあるではないですか・・・。
間違いなく織田信長の軍勢は、この紀州街道を進軍した・・・それを確信した瞬間でした。

こうした小さな発見も、現地を訪れたからこそ♪…ですね。

紀州街道へ戻ります。
紀州街道は、中世には熊野街道の名で呼ばれていた道でもあります。

旧街道特有の風情を感じさせる通り。
この先に江戸時代、宿場町として栄えた信逹宿があります。

信逹宿本陣跡
廿二日、志立へ御陣を寄せられ、浜手・山方両手を分けて、御人数差し遣はさる。
(信長公記 巻十「雑賀御陣の事」より抜粋。以下同)
信達(志立)まで進軍した織田信長は、ここで軍勢を浜手と山方の二手に分けています。
浜手は文字通り海岸線を西へ進み、淡輪を経由して孝子峠越えで雑賀へ攻め込むルートになります。
信達までは全軍で紀州街道を進み、ここから浜手勢が淡輪へ至るには、海岸線を通る浜街道に出る必要が生じます。
しかし紀州街道は、信達から先も浜街道から遠ざかるように南西へ進み、そのまま雄ノ山峠に差し掛かっていきます。
このままでは信達から淡輪へのルートを見失いそうになりますが、実は信達には「信長街道」と呼ばれる旧道が存在してるのです。
地図1

信長街道(地図1 紫のライン)
信達で紀州街道から分かれ、下出、黒田を通り、鳥取で浜街道と合流する旧道。織田信長が軍用道路として多少整備したとの伝承から、この名で呼ばれています。
まさに紀州街道と浜街道を繋げる道で、伝承からも淡輪を経由する浜手勢や、同じく一旦淡輪まで出向く信長本隊が通った道と解釈できます。

信逹宿本陣跡すぐ先の、紀州街道(直進)と信長街道(右)の分岐点

分岐点の目印は、角に並べられた常夜灯です。
なんと、平成4年までは現役で使われていたのだとか…!?

信長街道は、紀州街道からこの細い路地を右に入り・・・

直ぐにまた左へ曲がった先から伸びています。
さて、信長街道は後ほどじっくり歩くとして、まずは織田山方勢の気分で、そのまま紀州街道を直進します。

泉南石綿の碑
泉南地域は明治末期から石綿(いわゆるアスベスト)紡織産業が盛んだったようで、従事者やその家族に石綿被害が多発しました。
こちらの碑は2014年、最高裁判所で国の責任を認める判決を勝ち取った記念と、被害者の鎮魂、被害根絶を祈念して建立されたようです。

気持ちいいくらいに真っ直ぐ、一直線に伸びる紀州街道。

沿道に建つ大日寺往生院
天正13年の羽柴秀吉による紀州征伐(根来寺攻め)で全焼しているそうです。

しばらく進むと「大鳥居」という交差点に出ます。
ここは、紀州街道と根来街道の交差地点。
山方へは根来杉之坊・三緘衆を案内者として、佐久間右衛門、羽柴筑前、荒木摂津守、別所小三郎、別所孫右衛門、堀久太郎、雑賀の内へ乱入し、端ゝ焼き払ふ。
さて、信逹で二手に分かれた一方の山方勢が辿ったルートについては、根来寺の杉之坊が案内している点や、後に信長が本陣を波太神社に据えた際、堀久太郎らの諸将を配した場所について、「信長公記」は根来口と記していることなどを考え合わせて、私は紀州街道からここ「大鳥居」で根来街道に入り、風吹峠を越えたものと想定しています。
が、一方では、そのまま紀州街道を雄ノ山峠越えで雑賀へ向かったとする説も根強くあります。

根来街道(風吹峠方向)
紀州街道は中世以前から存在する道。紀伊と和泉を結ぶ最も主要な交通路でもあり、雄ノ山峠越えのルートも充分に考えられますが、雑賀衆の奇襲を警戒する中、より確実かつ迅速な進軍のためには、織田軍としては先導役も務める味方の根来寺が押さえるルート=根来街道を選択したのではないかと考えます。
(但し、戦時に於いて主要な街道へ何も手当てをしないとも考えづらいので、或いは一部の軍勢を紀州街道の雄ノ山峠の抑えに割くようなことはあったかもしれません)
※なお「大鳥居」の由来は信逹神社の鳥居があったからで、今は交差点のすぐ南寄りに移設されています。
私は「大鳥居」から根来街道を北上し、信長街道へ向かいます。

信長街道
ここからは信長街道をひたすら歩きます。

ズラリと並んだお地蔵さんが街道を見守る分岐点・・・ここは右へ。

なかなかいい感じのS字♪

県道63号を越えます。

信長街道から南の方角を仰ぎ見る・・・和泉⇔紀伊国境を分かつ山脈が聳えます。
織田軍の目指す雑賀(和歌山市)は、あの山の向こう側。

双子池

一段と道幅が狭まる信長街道。
電柱の足元には・・・

小さな道標もありました。

この辺りも趣を感じさせます。
このまま進むと・・・

男神社の参道に行き着きます。
折角なのでちょっと寄り道して参拝・・・

男神社(おたけびの宮)
参道が思いの外長くて驚きました。

境内に生える夫婦樟

男神社から再び信長街道へ

男神社の少し先で、信長街道は男里川に寸断されていますが・・・

川の対岸、堤防の縁から再開します。

真っ直ぐなようで、微妙な蛇行を繰り返す街道。

少なくとも、自動車のために築かれた道でないことは一目瞭然です。
何方へも懸け合せ能き様にと、おぼしめされ
三月二日、信長公、山方浜手両陣の中、とつとりの郷、若宮八幡宮へ御陣を移さる。
さて、一旦このまま淡輪まで進んだ織田信長は、先を行く浜手勢による敵方の中野城制圧の報に接すると、山方浜手いずれで事有ってもすぐ対処できるようにと、淡輪から引き返し、山方浜手両陣の中間にある波太神社に陣を据えています。
地図2

そして、この波太神社の近くには、地元でやはり「信長街道」と伝えられている道が、既出の信長街道とは別にもう1本あります。
※地図2 青ライン=仮に伝信長街道とする。

信長街道から見た、伝信長街道との分岐点
伝信長街道は緑のフェンス(用水路)に沿って左へ伸びています。

伝信長街道
ここは後ほど歩くとして、ひとまず信長街道を浜街道との合流点まで進みます。

南海本線、鳥取ノ荘駅近くを通る信長街道。

駅前を200mほども過ぎると、ようやく浜街道との合流点に到達します。

淡輪へと続く浜街道
浜手勢や信長本隊が進んでいった道です。

さて、それでは伝信長街道へ戻ります。
「信長公記」にも、とつとりの郷と出てくる「鳥取」交差点。ここから南東方向へ。

伝信長街道には8年後の天正13年、羽柴秀吉の紀州征伐に際し、秀吉軍に抵抗して処刑された波有手(阪南市鳥取)の道弘寺他、周辺寺院の僧らを供養すると伝わる首斬り地蔵も残り、引き続き軍用道として用いられていた形跡が窺えます。

首斬り地蔵
今は一ヶ所に集められて、蓮池の堤の北端角に祀られています。
いずれの「信長街道」も、伝承通りに信長の軍勢が通行したものとすると;
・信長街道は淡輪へ向かう際に整備・通行した道
・伝信長街道は淡輪から戻った織田信長が波多神社に本陣を置く際、浜街道と波多神社、そして紀州街道を繋げた道
となるでしょうか。いずれも紀州街道と浜街道を繋げている、という点に於いては共通しています。
こうして見ると波太神社は、浜手(淡輪口)と山方(根来口)、そして雄ノ山峠からの紀州街道にも睨みを利かせた選地と言えるのかもしれません。

それではこの日最後の行程、波太神社へ。

とつとりの郷、若宮八幡宮・・・波太神社
織田信長本陣

本殿は寛永15年(1638)の再建で、波太宮(鳥取氏の祖と伝えられる角凝命)と八幡宮(応神天皇)の二柱を祀っています。
なお、「若宮八幡宮」の呼称ですが、
①宇佐八幡や岩清水八幡、鶴岡八幡の若宮を勧請したもの
②八幡神たる応神天皇の若宮・仁徳天皇を祀るもの
③八幡宮本宮から迎えた新宮
などに用いられる場合が多いようです。
③の意味がイマイチ掴みかねますが、応神天皇を祀る波太神社は①か③ということになるのでしょう。
※波太神社の八幡宮は指出森神社(阪南市貝掛)の八幡宮を合祀したもの。

拝殿正面に建つ石灯籠は、片桐且元の寄進と伝わり・・・

背面には;
慶長五年十一月吉日
の銘があります。

その正面側;
波多(ママ)大明神
八幡大□□
□□の部分は削られていて読み取れませんでしたが、意図的なものを感じますので、或いは「菩薩」となっていたのかもしれません。明治の神仏分離で削られたか・・・?
→八幡大菩薩:神仏習合思想下に於ける八幡神に奉進された称号
さて、織田信長本陣まで辿り着いたところで、この日の踏査は終了です。
炎天下の中、本当によく歩きました…と言っても、最寄りの駅までまだ2㎞歩かないとなりませんが…(´-∀-`;)

阪南I.C.付近から眺める雄ノ山峠方面。
伝信長街道と紀州街道もこの付近で合流していたものと思います。織田の軍勢が目指す雑賀は、あの山の向こう・・・。

やっとの思いで辿り着いたJR和泉鳥取駅。
新家駅を出発したのが正午少し前でしたので、約5時間の街道歩きとなりました。
さ、和歌山市内に確保した宿へ向かい、翌日に備えます。
※「雑賀戦地」編へつづく
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