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2016年10月

2016年10月30日 (日)

「信長の馬・秀吉の馬」展(馬の博物館)

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横浜市中区根岸台に建つ馬の博物館

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2016年度の秋季特別展信長の馬・秀吉の馬を拝観してきました。

馬の頭部を保護する馬面や、金箔で装飾された馬鎧などの馬具に限らず、
甲冑・刀剣・武具類(木瓜紋が装飾され、裏に「天文十八年 己酉正月吉日 織田持用」と書かれた革箙など)、
織田信長豊臣秀吉らの周辺での馬の贈答に関する書状や、馬に関連する記述のある様々な古文書類(名古屋市博物館蔵版の信長公記も)
などが豊富で、規模は小さい割にとても興味深く見学させてもらいました。

毎年5月に競馬神事を催行している上賀茂神社(賀茂別雷神社)に関連する文書類も多く、中でも;

・天正2年(1574)に織田信長が賀茂競馬を見物に来た際の支出を記録した就信長御見物職中算用状(複製)

・本能寺の変翌日の天正10年6月3日に明智日向(光秀)へ1貫文を進上したのを皮切りに、弥平次(明智秀満)、内蔵助(斎藤利三)と続き、その後、御礼進上が御屋形様(不明…三法師?)、筑前殿(羽柴秀吉)、三七殿様(織田信孝)、五郎左衛門尉殿(丹羽長秀)、長束新三郎(正家)、池田勝三郎(恒興)、堀久太郎(秀政)へと移っていく乱入方職中算用状(六月晦日付/重要文化財)

の2点が目を惹きました。
特に後者は、本能寺の変(6月2日)から山崎合戦(同13日)へと続く京周辺での激動の歴史の舞台裏で、保全と生き残りを計る人々の葛藤がダイレクトに伝わってくるようで興奮しました。

私は今年(2016)の5月、賀茂競馬を見物してきました(関連記事)が、その際、これら賀茂別雷神社文書も公開されていたのに、混雑や競馬の催行時間などの兼ね合いで拝観叶わなかったので、尚更嬉しかったですね。

購入した図録も、展示品の一つ一つを写真と解説文で丁寧に掲載しているだけではなく、巻末には文書類の翻刻も掲載されている充実ぶりで、しかもたったの500円。
わざわざこの特別展のためだけに、電車で片道1時間半もかけてやって来ただけの甲斐はある、満足度の高い展示でした。

※なお、目玉展示の一つに馬の頭部をあしらった朱印が捺された織田信長伝馬朱印状がありました。
相模の使者へ伝馬7頭を供出することを命じたもので、同じ時期に滝川一益に対し、下野の皆川からの使者を相模へ送って彼地へ着くように手配し、その旨を相模(北条家)にも連絡するように命じた信長の朱印状も残っていることから、この伝馬朱印状も信長のものと推定されているようです。が・・・
信長の印判では他に例のない形で、しかも三遠の宿中に宛てていることからも、これを信長の朱印状とするには少し無理があるように感じました。
或いは信長の意を受けた徳川家中の誰かのもの、かもしれませんね。

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なお、馬の博物館はご覧のような高台の上に建っており、根岸駅から歩くとこの断崖を登ることになりますので、歩く際はほぼ同距離にある隣の山手駅からをお薦めします。
(それでも多少は登りになりますが…)

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2016年10月22日 (土)

平山季重の史跡

平山氏は武蔵七党の一つ、西党日奉氏の流れを汲む一族。
平山季重は保元・平治の乱、富士川の戦い、宇治川の戦い、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の戦い、奥州藤原氏征伐など、数々の合戦で源氏方として活躍した武将です。

そんな季重が生まれ、且つ平山氏が代々領した地が現在の東京都日野市平山。
今回は彼に関連する史跡をちょっとだけご紹介します。

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京王線平山城址公園駅ロータリーに建つ平山季重遺跡の碑。
この地には元々、由木永林寺の末寺・大福寺が建っていて(明治6年廃寺)、その昔は平山季重の居館跡だったと伝えられている場所です。
背後は平山城址公園に連なる丘陵。

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その丘陵の中腹に建つ宗印寺

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こちらの宗印寺に季重のお墓があります。
元々は大福寺に祀られていましたが、廃寺となったため移されました。

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宗印寺に安置される平山季重木造坐像
晩年には仏門に帰依したらしく、法体姿に彫られています。推定江戸初期の作。

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宗印寺境内

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続いて宗印寺の裏手へ回り込み、平山城址公園方面を目指して丘陵を登ります。

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視界の開けた場所からの眺め。

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最後にこの藪道を登ると・・・

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平山季重神社が鎮座します。
平山城址公園のある丘陵の北端に突き出た尾根上で、元は見張り台のような場所だったのかもしれません。

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まだまだ勉強不足で詳細を知りませんが、身近にこれだけ凄い武将の足跡が残っているのだから、もう少し勉強しないといけませんね。

※なお、平山季重の居館跡については、「新編武蔵風土記稿」に;
浅川北岸の丘の辺りに誰のものかは定かではないが館跡があり、里の者には平山武者所季重の居館跡と伝えられている。
とあることから、浅川の北岸にあたる日野市西平山1丁目の八幡神社一帯を比定する説もあるようです。
(碑の建つ駅ロータリーや城址公園は、浅川の南側)

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駿府城天守台発掘調査現場…今川氏オフ⑤

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今川氏オフ、ラストは駿府城へ。

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発掘調査が進む天守台の石垣を見学します。

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駿府城天守台石垣(西面)

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石材の大きさも、一辺の長さも相当な規模だったことが窺えます。

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現在の調査部分は天守台の西側で、今後数年をかけて全体を調査していくようです。

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天守台の北西角。
隅石の基台らしき石も見えています。

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見学通路の足元には、本丸堀外側の石垣も一部表出していました。

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並べられた石には矢穴や・・・

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刻印も…「吉」かな?

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こちらは「上」?

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駿府城の天守台は南北66m×東西57m。
江戸城の天守台よりも大きく、こうして見比べてみると往時の雄大さが偲ばれます。

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城域は逆に、江戸城と比べちゃうとこんなにも小さいのにね(笑)

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さて、こちらは四つ足御門跡に建つ「新中町ビル」の1階。
ビル建設などで四つ足御門の石垣は崩されてしまいましたが、ビルの外側には復元石垣を展示し、1階の床には石垣のあった場所を示す印が付けられています。
(金属の〇列)

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その配列からはイマイチ、具体的な石垣(御門の枡形)の形状を掴めませんでしたが、位置からして東向きに築かれていた四つ足御門の枡形の、南東側を形成していた石垣だったのでしょう。

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ラストの1枚は市立静岡病院に残る櫓台跡。

さて、1泊2日に渡る今川氏オフもこれにて無事終了。
念願だった臨済寺の特別公開を拝観し、嬉しいサプライズもあり、充実した歴旅になりました。

これまであまり深くは触れてこなかった駿河今川氏の歴史。
何かを語れるほどの知識の備蓄もありませんが、この2日間で感じたことは彼ら今川一族、そして太原雪斎足跡の濃密さと緻密さ、でしょうか。
緻密さでいうと有名な寺院や史跡に限らず、こんな山里の小さなお寺にまで?と思えるような場所(当然それも「歴史の必然」によるものですが…)にまで、彼らの存在した証がそこら中に残っていたことは、ちょっとした驚きでした。
それに加え、再確認させられたのは…雪斎の存在感(笑)
まだまだ奥が深そうですね・・・今後も折を見て訪れていきたいと思います。

最後に…、オフ会を主催してくださった幹事の方々、楽しい時間を共有できた参加者全員に感謝申し上げます。ありがとうございました。

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今川氏ゆかりのお寺めぐり(瀬戸谷、他)…今川氏オフ④

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遍照光寺城の後は、藤枝市本郷の高山寺へ。

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高山寺本堂
今でこそ小さなお寺ですが、1500年代前半頃までは七堂伽藍を備えた真言宗の大寺院であったと伝わります。
しかし天文5年(1536)の花蔵の乱に於いて、花倉城を追われた玄広恵探山伝いに高山寺へ逃げ込んだことから戦禍に飲まれ、隆盛を誇った伽藍は灰燼に帰してしまいました。
本堂裏手の畑には、この時の戦死者を祀ると考えられる石塔がいくつか残っているのだそうです。
※花倉城につきましては、コチラの記事をご参照ください。

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その後、元亀2年(1571)頃になって村人の協力もあり、曹洞宗寺院として再興されて現在に至っています。
この辺りの経緯は遍照寺とそっくりですね。

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花倉城を脱し、山伝いに逃れてきた恵探・・・
おそらく、あの尾根を伝って来たのではないでしょうか。

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そして高山寺でも抗し切れなくなった彼は瀬戸谷を、高山寺の子院でもあった普門庵へと逃れてゆくことになるのです。

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こちらは高山寺から瀬戸谷(瀬戸川)を挟んだ対岸に建つ普門寺
花蔵の乱で焼失した普門庵を、後に太原崇孚雪斎が臨済宗寺院として再興したお寺です。

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長い石段をひたすら上ります。

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更に続く・・・

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この突当りの石垣の上に・・・

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普門寺
ここでサプライズが…!?

幹事さんが予め手配しておいてくれたお陰で特別に本堂へ上げていただき、ご住職と共に御本尊へ般若心経を上げた上で、御本尊裏に安置されている雪斎の木像位牌、更には;
當山開基遍照光寺殿玄広恵探大徳大居士
と彫られた恵探の位牌までをも拝観する機会に恵まれました。本当にありがたいことです。

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ところで、玄広恵探が最期を迎えることになった普門庵の跡地は、現在の普門寺から北東へ500m程の場所に位置しています。

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普門庵跡に佇む玄広恵探の墓碑

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或いは、こちらの壊れた宝篋印塔が彼のお墓では?との説もあるようですが・・・

花蔵の乱に敗れてその生涯を閉じた恵探。その享年は、僅かに二十歳であったと云われています。

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さてお次は、太原崇孚雪斎が晩年を過ごし、その生涯を閉じた長慶寺へ。
駿河今川氏3代・泰範の菩提寺でもあります。

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長慶寺でも普門寺ご住職の口利きもあり、特別に本堂へ上げていただけました。
やはり御本尊裏には雪斎の木像が鎮座し、その前には彼の位牌、更には今川泰範義元戒名が並記された位牌を拝観させていただきました。
泰範・義元の位牌は見た目にも相当年季が入っており、「陀蛻(へびのぬけがら)」の伝説にも登場することから、かなりの由緒を持つものと思われます。

■陀蛻(へびのぬけがら)の伝説
文化6年(1809)、「駿河記」の著者・桑原藤泰が長慶寺を訪れて今川泰範のお墓をお参りしたところ、五輪塔の上に蛇の抜け殻が掛かっていました。このことを寺の住職に告げると、住職からは次のような不思議な話を聞かされました。

先代住職の時、とある僧が長慶寺を訪れます。その際、先代は
「今川泰範の墓の中に、義元の分骨も合祀したという話がある。確かな古文書は残っていないが、この寺には泰範・義元合同の位牌もあるし、何か曰くがありそうだ。是非確認してみたい」

そこで2人は泰範の墓を調べてみることにし、五輪塔の笠石をどけてみると、塔の中央を丸い石柱が貫いていました。そして、この柱を引き抜くと蛇が巻き付いていて、2人に対して憤怒の形相を漲らせてきます。2人は恐れおののき、石柱や笠石を元に戻して退散しました。
ところがその夜、先代住職は体調に異変をきたし、医師を呼んでの服薬も虚しく亡くなってしまいました。

桑原が後日、宝積寺(静岡市焼津市)を訪れた際にこの話をすると、宝積寺住職は手を打って語りだしました。
「その時の客僧とは私のこと。やはり私もその夜に悪寒が走り、高熱が出たが、長慶寺住職も同じような症状を発していると聞き、これは今川泰範の墓を開けようとした祟りに違いないと思い、経を上げ、今川家の菩提供養を続けたら、なんとか持ち直すことができたのだ」

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太原崇孚雪斎の無縫塔(右)
左の五輪塔が、件の今川泰範のお墓になります。

墓碑記載の雪斎の戒名が「~大原孚大和尚」となっており、前に長慶寺を訪れた際の記事で、
「崇」が抜けているのでは?
という疑問を呈しましたが、これについてもご住職より「僧侶は戒名の3文字目を外すのが慣習」と教えていただきました。
確かに、本堂で拝観した雪斎の位牌にも「崇」の字はありませんでした。

普門寺に長慶寺、共にご住職の特別なご厚意で、大変に貴重な体験をさせていただきました。
手配してくださった幹事の方共々、感謝に堪えません。


さて、今川氏オフはまだまだ続きます。
静岡市へ移動し・・・
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見性寺へ。
輔苦離往生仏、通称「ぽっくりさん」で有名なお寺のようです。

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境内にそびえる高野槙の大木。

見性寺も今川氏歴代武田信玄徳川幕府らの庇護を受けており、お寺の資料室には今川氏や武田氏の禁制など、貴重な史料がたくさん展示されていました。
中には勝海舟や山岡鉄舟の書、弘法大師空海の真筆!?の軸、etc...

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続いて駿河今川氏7代・氏親の菩提寺、増善寺へ。

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氏親の葬儀も増善寺で盛大に執り行われ、その頃に作られた等身大の氏親木像も安置されているそうです。

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参道脇に建つ氏親(増善寺殿)の墓所碑

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墓地には江戸期、駿府城代を務めた松平家の墓所も。

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その墓地最奥に、今川家霊廟
今川氏親が眠ります。

増善寺には今川家の人質だった竹千代(徳川家康)が訪れ、参道で鳥を獲っていると村人から「ここは殺生禁断の寺だ、けしからん」と叱られた、といった伝承なども残っているそうです。

また、背後の山は安倍城跡。
なかなか見応えのある遺構が残っているらしいので、いずれまた訪れたいと思います。

さて、今川氏オフもいよいよ大詰め。
最後は駿府城へ向かいます。

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2016年10月21日 (金)

遍照光寺城…今川氏オフ③

今川氏オフ2日目。
まずは、朝一番で藤枝市へ移動します。

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遍照寺(藤枝市花倉)
遍照寺の前身は遍照光寺といい、駿河今川氏2代・範氏によって創建されました。
後に7代・氏親の子の玄広恵探も住していたことから、恵探は花蔵殿花蔵御曹司などとも呼ばれていたそうです。

天文5年(1536)、8代・氏輝と次弟の彦五郎が同日に相次いで亡くなると、彼らの弟にあたる恵探と栴岳承芳(後の今川義元)の間で家督争い(花蔵の乱)が勃発します。
この戦禍で遍照光寺は焼失し、乱を制した義元の代に一度は復興されるものの、その死後、永禄11年(1568)に甲斐武田氏の侵攻を許すと再び灰燼に帰してしまいました。
元亀2~3年(1571~2)頃になり、名を遍照寺に改めて曹洞宗寺院として再興(元は真言宗)され、現在に至っています。

この遍照寺の裏山に遍照光寺城と呼ばれる城砦跡が眠っていることを知り、踏査してみる運びとなりました。
まずはお寺の許しを得て・・・

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更に今川範氏、及びその嫡子・氏家の墓所にもご挨拶。
お邪魔いたします…(-人-)

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それでは本堂裏手から、いざ!
※遍照光寺城の探索には必ず、お寺の許可を得てください。

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細い道なりに進むと、東へ伸びる尾根の先端付近に出ます。
写真は城域北東端と思しき曲輪跡。

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その背後(西)には、ざっくりと堀切が施されています。

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なかなかの堀切です。

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そのまま堀切を越え、藪を進みます。
すぐに南北に伸びる尾根とぶつかるので、それをまずは北へ。

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すると再び堀切が。

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更にもう1本。

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こちらの堀切はそのまま、サイドを竪堀として落としていました・・・写真じゃ分からないですよね(笑)

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今度は尾根を南へ。
この斜面を下った先にも・・・
※注)手前の方は飛ぼうとしている訳ではありません。

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やはり堀切。丸太が横倒しになっている辺りです。

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その堀底。
遍照光寺城の見所は、これらの堀切ですかね。

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更に南端へ尾根を下って行きます。
※注)左の方は飛ぼうとしている訳ではありません←しつこいwww

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尾根南端には腰曲輪状の削平地がありましたが・・・横堀どころか、特に切岸を落としている様子も見受けられなかったので、後世の通路か何かでしょう。

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そのまま下山するチームと別れ、私は再度尾根を登り直し、そこから南東へ伸びる尾根へ。

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その先端の曲輪らしき場所(←藪が酷くて地表面は全く確認できず)からの眺め。

遍照光寺城・・・堀切こそ程良い遺構でしたが、武田や北条の山城(砦)のような洗練された印象はありませんでした。
居住性もなく、いつの時代に誰が何の目的で築いたものか・・・謎です。印象としては、少し時代が古いのかなぁ~と。
しかし規模こそ違え、賤機山城とはどことなく似たような系統にも思えました。
・・・あくまでも個人的な直感ですが(^_^;)

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賤機山城、竜雲寺(寿桂尼墓所)…今川氏オフ②

今川氏オフ初日。
午前の臨済寺拝観を終え、午後は賤機山城へ。

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賤機山へは静岡浅間神社からアプローチします。

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南北に細長く伸びる尾根を最南端から登り、しばらくは北へ向かって尾根道を進みます。
途中、午前に拝観した臨済寺を見下ろすこともできます。

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尾根上を15~20分ほども進み、観音像の立つピークを越えた先に現れる堀切。
ここから北側に、賤機山城の城域が続きます。
なお、賤機山城に関しては前回訪問時の記事にもUPしていますので、今回は重複する部分はサクッと流します。

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賤機山城主郭

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主郭北側の尾根に続く2段ほど削平地。
前回は日没の関係でここで引き返していますので、今回は更に進みます。

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途中、西側へ大きく落とされた竪堀もありましたが・・・写真だと何のことやら(;^ω^)

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城域北端は畑に。
この手前にも小さな堀切がありました。

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下山後は、浅間神社境内に建つ静岡市文化財資料館にも立ち寄り、今川氏ゆかりの地を紹介した映像などでお勉強。
写真は駿府城公園に建つ銅像と同じ型で鋳造された徳川家康像・・・間近で見ると思っていた以上の大きさ。

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この日ラストは竜雲寺へ。

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竜雲寺は今川義元の母で、氏親(夫)・氏輝(子)・義元・氏真(孫)の4代に渡って今川家の政務を補佐し、女戦国大名とも称された寿桂尼の菩提寺です。
写真の板碑中央に見えるのは、彼女が用いていたと云う「」(とつぐ)の印判。

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その寿桂尼墓所への道は、結構な藪り具合・・・(;・∀・)
先駆けの六文銭が走る(笑)

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あの先に・・・

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寿桂尼墓所
彼女は死に際し、永く今川家を守護することを願い、今川館の鬼門に建つ竜雲寺に葬るよう遺命したと云われています。
左右いずれの五輪塔(或いはこれらの背後にある小さな石塔)が寿桂尼のものか、今となっては定かではないらしいです。

さて、今川氏オフも初日はこれにて終了。

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この後は一旦宿へ入り、静岡駅前で懇親会☆
2次会から〆のラーメンまで、楽しく飲み・食べ・語り、そして・・・酔いました(笑)

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夜、街中を歩いていると偶然通りかかったので・・・
徳川慶喜屋敷跡「浮月楼

オフ会は2日目へ・・・

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2016年10月20日 (木)

臨済寺の特別公開…今川氏オフ①

10月15~16日は今川氏オフ
静岡市や藤枝市に残る駿河の戦国大名、今川氏所縁の地をめぐるオフ会に参加させていただきました。

初日、朝9:30に静岡駅で集合し、まず向かった先は臨済寺
すると・・・?

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なんと、いきなり今川さんがお出迎えしてくれました☆
この日は年に2日(今川義元命日の5/19と摩利支天祈祷会の10/15)しかない臨済寺の特別公開日
幸運にも今年(2016)は、10/15が土曜日に当たったためにオフ会もこれに合わせて企画されたのですが、折角の日に今川さんも頑張って出張してくれたようです♪

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臨済寺今川氏親が、出家させた子・栴岳承芳(後の今川義元)のために京の妙心寺から太原崇孚雪斎を招き、自らの母・北川殿の別邸跡に建立させた善徳院がその前身です。
その後、氏親の後継・氏輝が天文5年(1536)に急死すると、その跡目を巡って勃発した花蔵の乱を制して家督を継承した義元は、兄・氏輝を善徳院に葬り、名を臨済寺と改めました。

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さすがに年2回の特別公開日、それも週末の土曜日とあってかなりの混雑ぶり。

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臨済寺境内。左が本堂(大方丈)です。

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順路に従って座禅堂から拝観し、続いてお隣の開山堂へ。
開山堂では雪斎の木像とご対面。右奥は雪斎の師にあたる開山・大休宗休像。

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本堂の前廊にでーんと広げられた、山岡鉄舟の書。
幕末、江戸無血開城に先立って鉄舟が、征討大総督府参謀の西郷隆盛との交渉に当たったのが駿府の地でしたし、彼は維新後には徳川宗家16代の家達に従って一時期、駿府に移り住んでもいます。

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本堂内では雪斎(写真)や今川義元、徳川慶喜らの書が至る所に掲げられ・・・

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今川義元の木像にも拝観叶いました。
右は義元の兄・氏輝。

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更には、貴重な古文書の数々も。
今川義元の判物は無論のこと・・・

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義元嫡子・氏真や・・・

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その氏真を追いやって駿河を奪うことになる武田信玄の判物まで・・・。
それこそ「所狭し」といった感じで並べられていました。
※「林済寺」と表記されることも多かったようですね。

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展示品の中には、雪斎の陣中袈裟まであったり・・・。
左奥には竹千代(徳川家康)使用の硯も。

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その竹千代の手習いの間
師は勿論、雪斎と伝わっています。

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茶室・夢想庵は、整理券まで配るほどの混雑で断念。

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最後に墓所へ。
臨済寺2代目住職、太原崇孚雪斎のお墓。

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そして、今川家廟所。
今川氏輝を中心に、今川家関係者が祀られています。
影になっていますが、左手前は義元夫人のお墓。

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更に中村一氏夫妻の墓所も。
一氏は天正18年(1590)の小田原北条氏滅亡後、関東へ移封となった徳川家康の跡を受け、豊臣秀吉の命で駿府に入国しています。
中村家の駿府統治は、慶長5年(1600)の関ケ原合戦後の論功まで続きました。
(関ヶ原での功績により、中村家は米子へ加増移封)

いつかチャンスがあれば拝観したいと願っていた臨済寺の特別公開。
想像以上の寺宝の数々に驚かされました。

今川氏めぐり=雪斎めぐりでもある…そう思わせるに充分な、オフ会のスタート。
この後は近くのお店で蕎麦をいただき、午後は賤機山城へ登ります。

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2016年10月12日 (水)

新田荘遺跡めぐり (群馬県太田市)

新田荘とは上野国新田郡(群馬県太田市)を中心とする地域に存在した荘園。源義重を祖とする新田氏が治めていました。有名な新田義貞は、義重から八代目に当たります。
新田荘遺跡は、この旧荘園域内に点在する11の遺跡をまとめて一つの国史跡として登録されたものです。

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まずは世良田東照宮
徳川三代将軍家光によって日光東照宮の社殿が全面的に改築され、現在に誇る偉容を完成させると、日光山輪王寺と世良田の長楽寺住職を兼ねていた天海僧正は、日光東照宮の旧奥社拝殿などを長楽寺境内に移築し、東照宮を勧請しました。
これが世良田東照宮の始まりで、長楽寺はその別当寺となっています。
写真は東照宮創建時からある御黒門で、江戸期には平常閉ざされ、一般参拝者はこの門前からお参りしていたと云います。

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御黒門を潜った先には上番所。
上下2つの番所が設置されていたようです。

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世良田東照宮拝殿
日光東照宮奥社の旧拝殿を移築したものです。

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鉄燈籠
元和4年(1618)に秋元越中守長朝によって作られ、明暦4年(1658)に当宮へ奉納されています。
当時としては高さ日本一の鉄燈籠であったとか。

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手前からそれぞれ;
・宝暦13年(1763)前橋藩 松平朝矩
・寛政 8年(1796)川越藩 松平直恒
・天保15年(1844) 忍藩 松平忠国
によって奉納された石燈籠。

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東照宮の隣りには長楽寺
開基は源(新田)義重の子で、徳川(得川)姓を称す義季。故に世良田は「徳川氏発祥の地」とされています。

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太鼓門

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太鼓門の奥には新田義貞や一族・従臣の供養塔・・・

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そして開山堂の裏には、新田家累代墓もありました。

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これ以上は近づけませんでしたが・・・

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そのまま奥へ抜けていくと、新田家累代墓の裏には横堀や土橋らしき痕跡があり・・・

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更に進んだ先の芝生広場にも・・・何でしょうね?

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伝新田義貞倚像(木像)を安置する総持寺
新田館跡
に建つお寺で「館の坊」とも呼ばれてきました。
新田館は果たして誰の居館であったのか・・・新田義重や新田義貞など、諸説あるようです。
今でも一部、堀跡が残っているそうですが、私は事前に調べていなかったので確認しておりません。

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あわよくば新田義貞の木像を・・・と訪れてみましたが、法要の最中だった模様で静かに退散致しました。
まぁ、どのみち無理だったでしょうね…(;´∀`)

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新田荘歴史資料館前に建つ新田義貞銅像
勿論、資料館にも立ち寄りました。

※以上の世良田東照宮・長楽寺・総持寺・新田荘歴史資料館は全て太田市世良田町に所在。

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車で少し移動し、こちらは太田市新田反町町に残る反町館跡
その南面の土塁…郭内側から。

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同じく南面の土塁を外側から。居館を囲む水堀も残ります。

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東面の水堀。かなりの幅がありますが、これは道路改修の際に拡張されたようです。
途中で大きく屈折させてあります。

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反町館にも新田義貞居館説があるようで、ご覧のような
新田義貞公古城跡
の石碑が建っていました。

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西面の堀は蓮に埋もれ・・・

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反町館跡は現在、照明寺の境内になっています。

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本堂脇を抜け、北面の堀も確認。

中世関東武士居館の典型のような遺構を明瞭に見てとれて、なかなか楽しめました。

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この日最後は、太田市新田上江田町の江田館跡

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南面の横堀。手前は土橋。

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郭内から見る土橋。

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横堀に囲まれた居館跡はかなりの広さがあります。

江田館は新田義重の子・(徳川)義季四世の子孫、江田行義の館跡と伝えられています。
行義は新田義貞の鎌倉討伐にも従軍して、武功を挙げています。
その後、戦国期には太田金山城の出城として改修されていましたが、北条氏が進出してくると、江田館は逆に北条氏の金山城攻めの拠点となり、北条氏邦が滞在したこともあったようです。
天正18年(1590)北条氏が滅亡すると、江田館もその役目を終えて廃城となりました。

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東面の堀と土塁。
屈折がなかなか見事です。

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一瞬、土橋?畝??とも思いましたが、単なる土塁の崩落かもしれません。

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南西角から西面の堀と土塁。

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こちら側の折も見事です。

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居館西側の堀の外にはもう1つ、薄い土塁に囲まれた平坦地がありました。
現地案内板の復元イラストでは馬場のように描いていましたが、或いは二ノ丸的なものかもしれません。

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その最外郭の城塁。

江田館は当初ノーマークで、先に立ち寄った新田荘歴史資料館でたまたまその存在を知ったのですが、なかなかどうして、遺構も明瞭で状態の良い遺跡でした。

今回は下調べ不足で、帰りの渋滞も怖かったので早々に切り上げましたが、江田館跡周辺の宅地にも堀や土塁の痕跡が点在しているとの情報も・・・いずれ機会があれば、改めて訪れてみたいと思わせるものがありました。
まだまだ奥が深そうですね・・・新田荘。

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2016年10月11日 (火)

大光寺旧総門の弾痕

10月10日、ちょっと天候も回復した祝日に、埼玉と群馬の県境辺りへ気晴らしにドライブしてきました。

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まずは埼玉県上里町にある大光寺へ。

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大光寺境内

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見透灯篭
近くを流れる神流川の渡し場に、夜間の道標として設置されていたものです。明治になって大光寺へ移設されました。

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また、大光寺境内地は武蔵七党の流れを汲む勅使河原氏の居館跡でもあったようです。
大光寺はその勅使河原氏によって、建保3年(1215)に創建されています。

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勅使河原直重・貞直・光重父子の墓と伝わる親子地蔵(左)と、室町期の勅使・藤原何某の供養石幢(右)

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こちらは大光寺を創建した勅使河原有直を祀る開基廟

館跡なら土塁でも残っているのでは?と思い、周囲を探ってみると・・・
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お!?と思わせる雰囲気がありましたが、立て看板には;
旧境内地
明治四十二年四月高崎線の排煙にて焼失
これより北に江戸時代からの大光寺伽藍があった。「土塁」あとではない

とご丁寧に書かれていました…(;^ω^)

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しかし、大光寺を訪れた一番の目的はこちら・・・本堂裏に移設されている旧総門です。

上里町一帯は天正10年(1582)6月、本能寺の変による織田信長の横死をきっかけに織田方の滝川一益と、それまでは織田家と協調関係にあった北条家との間で起きた神流川の戦いの舞台となっています。
※神流川の戦いについてはコチラを参照

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大光寺の旧総門は鎌倉期の創建
神流川の戦いで大光寺は、殆どの伽藍を焼失(明治42年に高崎線の排煙で焼失したという伽藍は、その後に再建されていたもの)していますが、この総門だけは辛うじて延焼を免れました。
しかしその柱には、この時の戦いによるものと伝わる銃弾痕が残っていたのです。

その痕跡をしっかりと目に焼き付け、次は群馬県太田市に点在する新田荘遺跡をめぐります。

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2016年10月 8日 (土)

花隈城

2016年10月4~6日は先月に引き続き、今年に入って早3度目の神戸三宮への出張。
史跡めぐりをする時間はありませんでしたが、それでも手ぶらで帰る訳にはいかない!?・・・ということで、台風18号が過ぎ去った6日の早朝、散歩がてらホテルから1.5kmほどの距離にある花隈城跡へ行ってきました。

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三宮から西へ向かって歩き、城跡に近づくとご覧の地形に出くわしました。
参考にした「摂津花熊之城図」で類推するに、位置からして本丸~ニ丸にかけての東側、侍町・足軽町との間を隔てる堀跡ではないかと推察しました。

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まずは福徳寺

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福徳寺山門前には、花隈城天主閣之址の石碑が建ちます。

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そういえば、お寺の建物もどことなく天守閣っぽい(笑)

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福徳寺脇に部分的に残っていた石積み・・・。
積み方からしても城の遺構ではないのでしょうが、どうしてこんな形で一部分だけ残ったのか、ちょっと気にはなります。

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山門前の段差・・・これは天守(摂津花熊之城図では「殿守」)西側の堀の痕跡では・・・?

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足元からグッと下り、横切る道路を越えてすぐにまたせり上がる・・・こうして見ると堀跡にしか思えません。

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花隈公園
模擬石垣が築かれています。
福徳寺(天守)との位置関係からすると、本丸の東隅に当たりますでしょうか。

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花隈城は後世の開発による改変が著しく、往時の姿を正確に把握するのは困難ですが、それでもこうした極端な高低差を見ると、海に向かってせり出した高台の先端部に築かれた城だった様子が偲ばれます。

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その築城時期について、公園内の説明板では;
永禄10年(1567)織田信長が中国へ勢力を伸ばす手段として、この土地に、摂津の有力な武将荒木村重に命じて築かせた城である。
と書かれていましたが、永禄10年は織田信長がようやく美濃を制圧した年。まだ上洛も果たしていない段階で中国地方云々は考えられないし、その勢力はまだ近畿にも及んでいません。
荒木村重にしたって、この段階ではまだ池田氏の家臣という立場ですしね。
村重が築いたにしても実際はもう少し後、信長が上洛を果たして本願寺と対立するようになり、その対応や中国方面への足がかりとして、西国街道を睨むこの地に築かせたのではないでしょうか。

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前記事の「生田の森(生田神社)」でも書きましたが、花隈城は荒木村重の謀反(天正6年)に連なって織田勢と対峙することになりますが、天正8年、織田方の池田恒興の軍勢に攻められて落城します。
花隈城攻略の功によってこの地を与えられた恒興は、新たに兵庫城を築いたため、花隈城は廃城となりました。(兵庫城築城にあたっては、花隈城の石垣などの部材が転用された、とも)

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花隈公園から南の方角
ポートタワーがチラッと頭を覗かせていました。

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花隈公園内に建つ花隈城址
左は東郷井碑です。
ロシアのバルチック艦隊を撃滅(日本海海戦/1905)したことで知られる東郷平八郎は、1885~1887の間、神戸小野浜造船所に於いて戦艦建造に携わり、花隈に滞在しています。
この碑は、この間に彼が使用していた井戸を記念して建てられたもののようです。
実際に井戸があったという場所へ行ってみると・・・

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もはや見る影もなし・・・。

今回は仕事での神戸訪問でしたのでこの辺りで切り上げますが、いずれ荒木村重謀反に始まる一連の有岡城の戦い関連地をめぐりたいと思います。

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