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2016年10月22日 (土)

今川氏ゆかりのお寺めぐり(瀬戸谷、他)…今川氏オフ④

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遍照光寺城の後は、藤枝市本郷の高山寺へ。

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高山寺本堂
今でこそ小さなお寺ですが、1500年代前半頃までは七堂伽藍を備えた真言宗の大寺院であったと伝わります。
しかし天文5年(1536)の花蔵の乱に於いて、花倉城を追われた玄広恵探山伝いに高山寺へ逃げ込んだことから戦禍に飲まれ、隆盛を誇った伽藍は灰燼に帰してしまいました。
本堂裏手の畑には、この時の戦死者を祀ると考えられる石塔がいくつか残っているのだそうです。
※花倉城につきましては、コチラの記事をご参照ください。

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その後、元亀2年(1571)頃になって村人の協力もあり、曹洞宗寺院として再興されて現在に至っています。
この辺りの経緯は遍照寺とそっくりですね。

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花倉城を脱し、山伝いに逃れてきた恵探・・・
おそらく、あの尾根を伝って来たのではないでしょうか。

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そして高山寺でも抗し切れなくなった彼は瀬戸谷を、高山寺の子院でもあった普門庵へと逃れてゆくことになるのです。

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こちらは高山寺から瀬戸谷(瀬戸川)を挟んだ対岸に建つ普門寺
花蔵の乱で焼失した普門庵を、後に太原崇孚雪斎が臨済宗寺院として再興したお寺です。

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長い石段をひたすら上ります。

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更に続く・・・

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この突当りの石垣の上に・・・

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普門寺
ここでサプライズが…!?

幹事さんが予め手配しておいてくれたお陰で特別に本堂へ上げていただき、ご住職と共に御本尊へ般若心経を上げた上で、御本尊裏に安置されている雪斎の木像位牌、更には;
當山開基遍照光寺殿玄広恵探大徳大居士
と彫られた恵探の位牌までをも拝観する機会に恵まれました。本当にありがたいことです。

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ところで、玄広恵探が最期を迎えることになった普門庵の跡地は、現在の普門寺から北東へ500m程の場所に位置しています。

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普門庵跡に佇む玄広恵探の墓碑

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或いは、こちらの壊れた宝篋印塔が彼のお墓では?との説もあるようですが・・・

花蔵の乱に敗れてその生涯を閉じた恵探。その享年は、僅かに二十歳であったと云われています。

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さてお次は、太原崇孚雪斎が晩年を過ごし、その生涯を閉じた長慶寺へ。
駿河今川氏3代・泰範の菩提寺でもあります。

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長慶寺でも普門寺ご住職の口利きもあり、特別に本堂へ上げていただけました。
やはり御本尊裏には雪斎の木像が鎮座し、その前には彼の位牌、更には今川泰範義元戒名が並記された位牌を拝観させていただきました。
泰範・義元の位牌は見た目にも相当年季が入っており、「陀蛻(へびのぬけがら)」の伝説にも登場することから、かなりの由緒を持つものと思われます。

■陀蛻(へびのぬけがら)の伝説
文化6年(1809)、「駿河記」の著者・桑原藤泰が長慶寺を訪れて今川泰範のお墓をお参りしたところ、五輪塔の上に蛇の抜け殻が掛かっていました。このことを寺の住職に告げると、住職からは次のような不思議な話を聞かされました。

先代住職の時、とある僧が長慶寺を訪れます。その際、先代は
「今川泰範の墓の中に、義元の分骨も合祀したという話がある。確かな古文書は残っていないが、この寺には泰範・義元合同の位牌もあるし、何か曰くがありそうだ。是非確認してみたい」

そこで2人は泰範の墓を調べてみることにし、五輪塔の笠石をどけてみると、塔の中央を丸い石柱が貫いていました。そして、この柱を引き抜くと蛇が巻き付いていて、2人に対して憤怒の形相を漲らせてきます。2人は恐れおののき、石柱や笠石を元に戻して退散しました。
ところがその夜、先代住職は体調に異変をきたし、医師を呼んでの服薬も虚しく亡くなってしまいました。

桑原が後日、宝積寺(静岡市焼津市)を訪れた際にこの話をすると、宝積寺住職は手を打って語りだしました。
「その時の客僧とは私のこと。やはり私もその夜に悪寒が走り、高熱が出たが、長慶寺住職も同じような症状を発していると聞き、これは今川泰範の墓を開けようとした祟りに違いないと思い、経を上げ、今川家の菩提供養を続けたら、なんとか持ち直すことができたのだ」

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太原崇孚雪斎の無縫塔(右)
左の五輪塔が、件の今川泰範のお墓になります。

墓碑記載の雪斎の戒名が「~大原孚大和尚」となっており、前に長慶寺を訪れた際の記事で、
「崇」が抜けているのでは?
という疑問を呈しましたが、これについてもご住職より「僧侶は戒名の3文字目を外すのが慣習」と教えていただきました。
確かに、本堂で拝観した雪斎の位牌にも「崇」の字はありませんでした。

普門寺に長慶寺、共にご住職の特別なご厚意で、大変に貴重な体験をさせていただきました。
手配してくださった幹事の方共々、感謝に堪えません。


さて、今川氏オフはまだまだ続きます。
静岡市へ移動し・・・
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見性寺へ。
輔苦離往生仏、通称「ぽっくりさん」で有名なお寺のようです。

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境内にそびえる高野槙の大木。

見性寺も今川氏歴代武田信玄徳川幕府らの庇護を受けており、お寺の資料室には今川氏や武田氏の禁制など、貴重な史料がたくさん展示されていました。
中には勝海舟や山岡鉄舟の書、弘法大師空海の真筆!?の軸、etc...

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続いて駿河今川氏7代・氏親の菩提寺、増善寺へ。

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氏親の葬儀も増善寺で盛大に執り行われ、その頃に作られた等身大の氏親木像も安置されているそうです。

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参道脇に建つ氏親(増善寺殿)の墓所碑

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墓地には江戸期、駿府城代を務めた松平家の墓所も。

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その墓地最奥に、今川家霊廟
今川氏親が眠ります。

増善寺には今川家の人質だった竹千代(徳川家康)が訪れ、参道で鳥を獲っていると村人から「ここは殺生禁断の寺だ、けしからん」と叱られた、といった伝承なども残っているそうです。

また、背後の山は安倍城跡。
なかなか見応えのある遺構が残っているらしいので、いずれまた訪れたいと思います。

さて、今川氏オフもいよいよ大詰め。
最後は駿府城へ向かいます。

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