新田荘遺跡めぐり (群馬県太田市)
新田荘とは上野国新田郡(群馬県太田市)を中心とする地域に存在した荘園。源義重を祖とする新田氏が治めていました。有名な新田義貞は、義重から八代目に当たります。
新田荘遺跡は、この旧荘園域内に点在する11の遺跡をまとめて一つの国史跡として登録されたものです。
まずは世良田東照宮へ
徳川三代将軍家光によって日光東照宮の社殿が全面的に改築され、現在に誇る偉容を完成させると、日光山輪王寺と世良田の長楽寺住職を兼ねていた天海僧正は、日光東照宮の旧奥社拝殿などを長楽寺境内に移築し、東照宮を勧請しました。
これが世良田東照宮の始まりで、長楽寺はその別当寺となっています。
写真は東照宮創建時からある御黒門で、江戸期には平常閉ざされ、一般参拝者はこの門前からお参りしていたと云います。
御黒門を潜った先には上番所。
上下2つの番所が設置されていたようです。
鉄燈籠
元和4年(1618)に秋元越中守長朝によって作られ、明暦4年(1658)に当宮へ奉納されています。
当時としては高さ日本一の鉄燈籠であったとか。
手前からそれぞれ;
・宝暦13年(1763)前橋藩 松平朝矩
・寛政 8年(1796)川越藩 松平直恒
・天保15年(1844) 忍藩 松平忠国
によって奉納された石燈籠。
東照宮の隣りには長楽寺
開基は源(新田)義重の子で、徳川(得川)姓を称す義季。故に世良田は「徳川氏発祥の地」とされています。
そのまま奥へ抜けていくと、新田家累代墓の裏には横堀や土橋らしき痕跡があり・・・
伝新田義貞倚像(木像)を安置する総持寺
新田館跡に建つお寺で「館の坊」とも呼ばれてきました。
新田館は果たして誰の居館であったのか・・・新田義重や新田義貞など、諸説あるようです。
今でも一部、堀跡が残っているそうですが、私は事前に調べていなかったので確認しておりません。
あわよくば新田義貞の木像を・・・と訪れてみましたが、法要の最中だった模様で静かに退散致しました。
まぁ、どのみち無理だったでしょうね…(;´∀`)
新田荘歴史資料館前に建つ新田義貞銅像
勿論、資料館にも立ち寄りました。
※以上の世良田東照宮・長楽寺・総持寺・新田荘歴史資料館は全て太田市世良田町に所在。
車で少し移動し、こちらは太田市新田反町町に残る反町館跡
その南面の土塁…郭内側から。
東面の水堀。かなりの幅がありますが、これは道路改修の際に拡張されたようです。
途中で大きく屈折させてあります。
反町館にも新田義貞居館説があるようで、ご覧のような
新田義貞公古城跡
の石碑が建っていました。
中世関東武士居館の典型のような遺構を明瞭に見てとれて、なかなか楽しめました。
この日最後は、太田市新田上江田町の江田館跡
南面の横堀。手前は土橋。
江田館は新田義重の子・(徳川)義季四世の子孫、江田行義の館跡と伝えられています。
行義は新田義貞の鎌倉討伐にも従軍して、武功を挙げています。
その後、戦国期には太田金山城の出城として改修されていましたが、北条氏が進出してくると、江田館は逆に北条氏の金山城攻めの拠点となり、北条氏邦が滞在したこともあったようです。
天正18年(1590)北条氏が滅亡すると、江田館もその役目を終えて廃城となりました。
一瞬、土橋?畝??とも思いましたが、単なる土塁の崩落かもしれません。
居館西側の堀の外にはもう1つ、薄い土塁に囲まれた平坦地がありました。
現地案内板の復元イラストでは馬場のように描いていましたが、或いは二ノ丸的なものかもしれません。
江田館は当初ノーマークで、先に立ち寄った新田荘歴史資料館でたまたまその存在を知ったのですが、なかなかどうして、遺構も明瞭で状態の良い遺跡でした。
今回は下調べ不足で、帰りの渋滞も怖かったので早々に切り上げましたが、江田館跡周辺の宅地にも堀や土塁の痕跡が点在しているとの情報も・・・いずれ機会があれば、改めて訪れてみたいと思わせるものがありました。
まだまだ奥が深そうですね・・・新田荘。
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