遍照光寺城…今川氏オフ③
今川氏オフ2日目。
まずは、朝一番で藤枝市へ移動します。

遍照寺(藤枝市花倉)
遍照寺の前身は遍照光寺といい、駿河今川氏2代・範氏によって創建されました。
後に7代・氏親の子の玄広恵探も住していたことから、恵探は花蔵殿、花蔵御曹司などとも呼ばれていたそうです。
天文5年(1536)、8代・氏輝と次弟の彦五郎が同日に相次いで亡くなると、彼らの弟にあたる恵探と栴岳承芳(後の今川義元)の間で家督争い(花蔵の乱)が勃発します。
この戦禍で遍照光寺は焼失し、乱を制した義元の代に一度は復興されるものの、その死後、永禄11年(1568)に甲斐武田氏の侵攻を許すと再び灰燼に帰してしまいました。
元亀2~3年(1571~2)頃になり、名を遍照寺に改めて曹洞宗寺院として再興(元は真言宗)され、現在に至っています。
この遍照寺の裏山に遍照光寺城と呼ばれる城砦跡が眠っていることを知り、踏査してみる運びとなりました。
まずはお寺の許しを得て・・・

更に今川範氏、及びその嫡子・氏家の墓所にもご挨拶。
お邪魔いたします…(-人-)

それでは本堂裏手から、いざ!
※遍照光寺城の探索には必ず、お寺の許可を得てください。

細い道なりに進むと、東へ伸びる尾根の先端付近に出ます。
写真は城域北東端と思しき曲輪跡。

その背後(西)には、ざっくりと堀切が施されています。

なかなかの堀切です。

そのまま堀切を越え、藪を進みます。
すぐに南北に伸びる尾根とぶつかるので、それをまずは北へ。

すると再び堀切が。

更にもう1本。

こちらの堀切はそのまま、サイドを竪堀として落としていました・・・写真じゃ分からないですよね(笑)

今度は尾根を南へ。
この斜面を下った先にも・・・
※注)手前の方は飛ぼうとしている訳ではありません。

やはり堀切。丸太が横倒しになっている辺りです。

その堀底。
遍照光寺城の見所は、これらの堀切ですかね。

更に南端へ尾根を下って行きます。
※注)左の方は飛ぼうとしている訳ではありません←しつこいwww

尾根南端には腰曲輪状の削平地がありましたが・・・横堀どころか、特に切岸を落としている様子も見受けられなかったので、後世の通路か何かでしょう。

そのまま下山するチームと別れ、私は再度尾根を登り直し、そこから南東へ伸びる尾根へ。

その先端の曲輪らしき場所(←藪が酷くて地表面は全く確認できず)からの眺め。
遍照光寺城・・・堀切こそ程良い遺構でしたが、武田や北条の山城(砦)のような洗練された印象はありませんでした。
居住性もなく、いつの時代に誰が何の目的で築いたものか・・・謎です。印象としては、少し時代が古いのかなぁ~と。
しかし規模こそ違え、賤機山城とはどことなく似たような系統にも思えました。
・・・あくまでも個人的な直感ですが(^_^;)
まずは、朝一番で藤枝市へ移動します。

遍照寺(藤枝市花倉)
遍照寺の前身は遍照光寺といい、駿河今川氏2代・範氏によって創建されました。
後に7代・氏親の子の玄広恵探も住していたことから、恵探は花蔵殿、花蔵御曹司などとも呼ばれていたそうです。
天文5年(1536)、8代・氏輝と次弟の彦五郎が同日に相次いで亡くなると、彼らの弟にあたる恵探と栴岳承芳(後の今川義元)の間で家督争い(花蔵の乱)が勃発します。
この戦禍で遍照光寺は焼失し、乱を制した義元の代に一度は復興されるものの、その死後、永禄11年(1568)に甲斐武田氏の侵攻を許すと再び灰燼に帰してしまいました。
元亀2~3年(1571~2)頃になり、名を遍照寺に改めて曹洞宗寺院として再興(元は真言宗)され、現在に至っています。
この遍照寺の裏山に遍照光寺城と呼ばれる城砦跡が眠っていることを知り、踏査してみる運びとなりました。
まずはお寺の許しを得て・・・

更に今川範氏、及びその嫡子・氏家の墓所にもご挨拶。
お邪魔いたします…(-人-)

それでは本堂裏手から、いざ!
※遍照光寺城の探索には必ず、お寺の許可を得てください。

細い道なりに進むと、東へ伸びる尾根の先端付近に出ます。
写真は城域北東端と思しき曲輪跡。

その背後(西)には、ざっくりと堀切が施されています。

なかなかの堀切です。

そのまま堀切を越え、藪を進みます。
すぐに南北に伸びる尾根とぶつかるので、それをまずは北へ。

すると再び堀切が。

更にもう1本。

こちらの堀切はそのまま、サイドを竪堀として落としていました・・・写真じゃ分からないですよね(笑)

今度は尾根を南へ。
この斜面を下った先にも・・・
※注)手前の方は飛ぼうとしている訳ではありません。

やはり堀切。丸太が横倒しになっている辺りです。

その堀底。
遍照光寺城の見所は、これらの堀切ですかね。

更に南端へ尾根を下って行きます。
※注)左の方は飛ぼうとしている訳ではありません←しつこいwww

尾根南端には腰曲輪状の削平地がありましたが・・・横堀どころか、特に切岸を落としている様子も見受けられなかったので、後世の通路か何かでしょう。

そのまま下山するチームと別れ、私は再度尾根を登り直し、そこから南東へ伸びる尾根へ。

その先端の曲輪らしき場所(←藪が酷くて地表面は全く確認できず)からの眺め。
遍照光寺城・・・堀切こそ程良い遺構でしたが、武田や北条の山城(砦)のような洗練された印象はありませんでした。
居住性もなく、いつの時代に誰が何の目的で築いたものか・・・謎です。印象としては、少し時代が古いのかなぁ~と。
しかし規模こそ違え、賤機山城とはどことなく似たような系統にも思えました。
・・・あくまでも個人的な直感ですが(^_^;)
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