花隈城
2016年10月4~6日は先月に引き続き、今年に入って早3度目の神戸三宮への出張。
史跡めぐりをする時間はありませんでしたが、それでも手ぶらで帰る訳にはいかない!?・・・ということで、台風18号が過ぎ去った6日の早朝、散歩がてらホテルから1.5kmほどの距離にある花隈城跡へ行ってきました。
三宮から西へ向かって歩き、城跡に近づくとご覧の地形に出くわしました。
参考にした「摂津花熊之城図」で類推するに、位置からして本丸~ニ丸にかけての東側、侍町・足軽町との間を隔てる堀跡ではないかと推察しました。
まずは福徳寺へ
福徳寺山門前には、花隈城天主閣之址の石碑が建ちます。
そういえば、お寺の建物もどことなく天守閣っぽい(笑)
福徳寺脇に部分的に残っていた石積み・・・。
積み方からしても城の遺構ではないのでしょうが、どうしてこんな形で一部分だけ残ったのか、ちょっと気にはなります。
山門前の段差・・・これは天守(摂津花熊之城図では「殿守」)西側の堀の痕跡では・・・?
足元からグッと下り、横切る道路を越えてすぐにまたせり上がる・・・こうして見ると堀跡にしか思えません。
花隈公園
模擬石垣が築かれています。
福徳寺(天守)との位置関係からすると、本丸の東隅に当たりますでしょうか。
花隈城は後世の開発による改変が著しく、往時の姿を正確に把握するのは困難ですが、それでもこうした極端な高低差を見ると、海に向かってせり出した高台の先端部に築かれた城だった様子が偲ばれます。
その築城時期について、公園内の説明板では;
永禄10年(1567)織田信長が中国へ勢力を伸ばす手段として、この土地に、摂津の有力な武将荒木村重に命じて築かせた城である。
と書かれていましたが、永禄10年は織田信長がようやく美濃を制圧した年。まだ上洛も果たしていない段階で中国地方云々は考えられないし、その勢力はまだ近畿にも及んでいません。
荒木村重にしたって、この段階ではまだ池田氏の家臣という立場ですしね。
村重が築いたにしても実際はもう少し後、信長が上洛を果たして本願寺と対立するようになり、その対応や中国方面への足がかりとして、西国街道を睨むこの地に築かせたのではないでしょうか。
前記事の「生田の森(生田神社)」でも書きましたが、花隈城は荒木村重の謀反(天正6年)に連なって織田勢と対峙することになりますが、天正8年、織田方の池田恒興の軍勢に攻められて落城します。
花隈城攻略の功によってこの地を与えられた恒興は、新たに兵庫城を築いたため、花隈城は廃城となりました。(兵庫城築城にあたっては、花隈城の石垣などの部材が転用された、とも)
花隈公園から南の方角
ポートタワーがチラッと頭を覗かせていました。
花隈公園内に建つ花隈城址碑
左は東郷井碑です。
ロシアのバルチック艦隊を撃滅(日本海海戦/1905)したことで知られる東郷平八郎は、1885~1887の間、神戸小野浜造船所に於いて戦艦建造に携わり、花隈に滞在しています。
この碑は、この間に彼が使用していた井戸を記念して建てられたもののようです。
実際に井戸があったという場所へ行ってみると・・・
もはや見る影もなし・・・。
今回は仕事での神戸訪問でしたのでこの辺りで切り上げますが、いずれ荒木村重謀反に始まる一連の有岡城の戦い関連地をめぐりたいと思います。
史跡めぐりをする時間はありませんでしたが、それでも手ぶらで帰る訳にはいかない!?・・・ということで、台風18号が過ぎ去った6日の早朝、散歩がてらホテルから1.5kmほどの距離にある花隈城跡へ行ってきました。
三宮から西へ向かって歩き、城跡に近づくとご覧の地形に出くわしました。
参考にした「摂津花熊之城図」で類推するに、位置からして本丸~ニ丸にかけての東側、侍町・足軽町との間を隔てる堀跡ではないかと推察しました。
まずは福徳寺へ
福徳寺山門前には、花隈城天主閣之址の石碑が建ちます。
そういえば、お寺の建物もどことなく天守閣っぽい(笑)
福徳寺脇に部分的に残っていた石積み・・・。
積み方からしても城の遺構ではないのでしょうが、どうしてこんな形で一部分だけ残ったのか、ちょっと気にはなります。
山門前の段差・・・これは天守(摂津花熊之城図では「殿守」)西側の堀の痕跡では・・・?
足元からグッと下り、横切る道路を越えてすぐにまたせり上がる・・・こうして見ると堀跡にしか思えません。
花隈公園
模擬石垣が築かれています。
福徳寺(天守)との位置関係からすると、本丸の東隅に当たりますでしょうか。
花隈城は後世の開発による改変が著しく、往時の姿を正確に把握するのは困難ですが、それでもこうした極端な高低差を見ると、海に向かってせり出した高台の先端部に築かれた城だった様子が偲ばれます。
その築城時期について、公園内の説明板では;
永禄10年(1567)織田信長が中国へ勢力を伸ばす手段として、この土地に、摂津の有力な武将荒木村重に命じて築かせた城である。
と書かれていましたが、永禄10年は織田信長がようやく美濃を制圧した年。まだ上洛も果たしていない段階で中国地方云々は考えられないし、その勢力はまだ近畿にも及んでいません。
荒木村重にしたって、この段階ではまだ池田氏の家臣という立場ですしね。
村重が築いたにしても実際はもう少し後、信長が上洛を果たして本願寺と対立するようになり、その対応や中国方面への足がかりとして、西国街道を睨むこの地に築かせたのではないでしょうか。
前記事の「生田の森(生田神社)」でも書きましたが、花隈城は荒木村重の謀反(天正6年)に連なって織田勢と対峙することになりますが、天正8年、織田方の池田恒興の軍勢に攻められて落城します。
花隈城攻略の功によってこの地を与えられた恒興は、新たに兵庫城を築いたため、花隈城は廃城となりました。(兵庫城築城にあたっては、花隈城の石垣などの部材が転用された、とも)
花隈公園から南の方角
ポートタワーがチラッと頭を覗かせていました。
花隈公園内に建つ花隈城址碑
左は東郷井碑です。
ロシアのバルチック艦隊を撃滅(日本海海戦/1905)したことで知られる東郷平八郎は、1885~1887の間、神戸小野浜造船所に於いて戦艦建造に携わり、花隈に滞在しています。
この碑は、この間に彼が使用していた井戸を記念して建てられたもののようです。
実際に井戸があったという場所へ行ってみると・・・
もはや見る影もなし・・・。
今回は仕事での神戸訪問でしたのでこの辺りで切り上げますが、いずれ荒木村重謀反に始まる一連の有岡城の戦い関連地をめぐりたいと思います。
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