国吉城…城友会2016④
城友会2016、2日目。
7時に起きて~(本当は5時起き)8時出発で~~♪
・・・という訳で8時に宿を出発(笑)、関峠を越えて若狭国へ。
向かった先は・・・

国吉城です。
■国吉城図

前年の金ヶ崎の退き口オフの際にも勿論立ち寄りましたが、あの時は城山には登らなかったので、今回が初登城になります。

麓の居館跡を抜けて登城口へ。

麓から山上の本丸までは、およそ500m。
しかし・・・

その道のりは急勾配の連続で、結構ハードです…(^_^;)

九十九折れの登山道で息を切らせ、やっとの思いで辿り着いた出丸跡。

土塁が綺麗に残っていました。
先端付近には虎口も。

虎口を抜けた先にも、削平地が広がっていました。
上の図を見てもお分かりの通り、この出丸の先端にも麓からの道が付いています。
虎口の位置からして、当時もお城へのルートの一つだったのでしょう。

出丸跡から主要部へは、ほぼ直登の急斜面。
よく整備されてはいますが歩幅が合わず、これが結構歩きづらい…(^_^;)

点々と残る石積みを眺めつつ、尾根上に登ると・・・

本丸下の堀切に出ます。
当時は橋が架けられていたのか、両サイドは石積みで固められていました。

この周辺からみつかったものなのか、堀切には石仏がいくつかまとめて置かれていました。
転用石として用いられていたのでしょうか。

堀切越しに見る本丸跡の切岸…凄い高低差です。

まずは北西側の段郭群へ向かいます。

・・・ちょいと振り返ると、石垣を見るため、大騒ぎしながら斜面を下ってる人が(≧艸≦)

(上から数えて)一段目より、二段目の郭を見下ろす。
ここでは左側に道が付いており、中央付近で窪んでいるのが二段目郭の虎口だと思われます。

二段目に降り、その虎口から一段目の切岸を見る。
この切岸、かなりの切り落としっぷりで、ロープがなければとても下りられそうにありませんでした。

三段目。
これまた結構な虎口が見えています。
二段目の虎口は左(南)に設けられ、三段目は右(北)…経路を左右に折って直進させない、セオリーに適ったもの。

しかも三段目の虎口は直角に折ってあり、枡形の形状が明瞭でした。

虎口を抜けた先に、四段目の削平地も見えています。
図によると更に五段目もあるようですが、私はここで引き返しました。
堀切まで戻り、本丸跡へ登ると・・・

ミニチュアの天守台石垣?!がお出迎えしてくれました。
よく出来ているなぁ~

本丸虎口
両サイドには石垣跡

この倒れている石は鏡石だったのではないか、と考えられているそうです。

本丸跡

本丸跡に建つ小さな石碑

そして、私が国吉城で一番楽しみにしていたもの・・・それは本丸からの、この光景です。
元亀元年(1570)、越前朝倉攻めに向かう織田信長はその道中、国吉城にも滞在しています。
そこで国吉城の立地や、城主・粟屋勝久が永禄年間に朝倉勢の侵攻を食い止め、籠城を続けてきた武勇を称えた上で、
向の河辺より城下へ真直に道を付、町を作り、在々の侍共を少々城下に置からば、万事の自由然るべし。
(国吉籠城記)
という言葉を残しています。(参考記事)
向の河とは現在の耳川(写真奥を横切る)のことと思われますし、城下には丹後街道(国道の左をほぼ並行する細い道)が走っています。
信長の言葉は、まさにこの光景を見ながら発せられたものでしょう。実際に己の目で確かめて・・・鳥肌がたちました。
※結果的に丹後街道が城下に通され、町が整備されたのは天正年間の木村氏時代になってからのようです。

国吉城下を通る丹後街道。

耳川

本丸跡から北へ目を転じると、若狭湾がすぐ近くまで迫ります。
右に見える尾根続きの小山には出城(岩出山砦)があったようで、更にその周囲には、朝倉軍の付城跡がいくつも残っているのだとか・・・永禄期の籠城戦の規模を物語るかのようです。

本丸跡に残るあちらの土塁の先を下ると・・・

ここにも堀切が残ります。
史跡指定されている範囲はこの堀切までで、上の図に描かれているのもここまでですが・・・

更に先にも堀切らしき痕跡が2本見えました。
ここは元々古墳だったそうですが、本丸防衛のため、尾根を分断する連続堀切を設けていた可能性もなくはないかな、と思います。
国吉城、なかなか見応えのある、いいお城でした。
※下山途中、パーンという音と共に大きな岩が落ちてくるというハプニングがありました。
幸い、すんでのところで事無きを得ましたが、山には危険がたくさん潜んでいることを改めて思い知らされました。
7時に起きて~(本当は5時起き)8時出発で~~♪
・・・という訳で8時に宿を出発(笑)、関峠を越えて若狭国へ。
向かった先は・・・

国吉城です。
■国吉城図

前年の金ヶ崎の退き口オフの際にも勿論立ち寄りましたが、あの時は城山には登らなかったので、今回が初登城になります。

麓の居館跡を抜けて登城口へ。

麓から山上の本丸までは、およそ500m。
しかし・・・

その道のりは急勾配の連続で、結構ハードです…(^_^;)

九十九折れの登山道で息を切らせ、やっとの思いで辿り着いた出丸跡。

土塁が綺麗に残っていました。
先端付近には虎口も。

虎口を抜けた先にも、削平地が広がっていました。
上の図を見てもお分かりの通り、この出丸の先端にも麓からの道が付いています。
虎口の位置からして、当時もお城へのルートの一つだったのでしょう。

出丸跡から主要部へは、ほぼ直登の急斜面。
よく整備されてはいますが歩幅が合わず、これが結構歩きづらい…(^_^;)

点々と残る石積みを眺めつつ、尾根上に登ると・・・

本丸下の堀切に出ます。
当時は橋が架けられていたのか、両サイドは石積みで固められていました。

この周辺からみつかったものなのか、堀切には石仏がいくつかまとめて置かれていました。
転用石として用いられていたのでしょうか。

堀切越しに見る本丸跡の切岸…凄い高低差です。

まずは北西側の段郭群へ向かいます。

・・・ちょいと振り返ると、石垣を見るため、大騒ぎしながら斜面を下ってる人が(≧艸≦)

(上から数えて)一段目より、二段目の郭を見下ろす。
ここでは左側に道が付いており、中央付近で窪んでいるのが二段目郭の虎口だと思われます。

二段目に降り、その虎口から一段目の切岸を見る。
この切岸、かなりの切り落としっぷりで、ロープがなければとても下りられそうにありませんでした。

三段目。
これまた結構な虎口が見えています。
二段目の虎口は左(南)に設けられ、三段目は右(北)…経路を左右に折って直進させない、セオリーに適ったもの。

しかも三段目の虎口は直角に折ってあり、枡形の形状が明瞭でした。

虎口を抜けた先に、四段目の削平地も見えています。
図によると更に五段目もあるようですが、私はここで引き返しました。
堀切まで戻り、本丸跡へ登ると・・・

ミニチュアの天守台石垣?!がお出迎えしてくれました。
よく出来ているなぁ~

本丸虎口
両サイドには石垣跡

この倒れている石は鏡石だったのではないか、と考えられているそうです。

本丸跡

本丸跡に建つ小さな石碑

そして、私が国吉城で一番楽しみにしていたもの・・・それは本丸からの、この光景です。
元亀元年(1570)、越前朝倉攻めに向かう織田信長はその道中、国吉城にも滞在しています。
そこで国吉城の立地や、城主・粟屋勝久が永禄年間に朝倉勢の侵攻を食い止め、籠城を続けてきた武勇を称えた上で、
向の河辺より城下へ真直に道を付、町を作り、在々の侍共を少々城下に置からば、万事の自由然るべし。
(国吉籠城記)
という言葉を残しています。(参考記事)
向の河とは現在の耳川(写真奥を横切る)のことと思われますし、城下には丹後街道(国道の左をほぼ並行する細い道)が走っています。
信長の言葉は、まさにこの光景を見ながら発せられたものでしょう。実際に己の目で確かめて・・・鳥肌がたちました。
※結果的に丹後街道が城下に通され、町が整備されたのは天正年間の木村氏時代になってからのようです。

国吉城下を通る丹後街道。

耳川

本丸跡から北へ目を転じると、若狭湾がすぐ近くまで迫ります。
右に見える尾根続きの小山には出城(岩出山砦)があったようで、更にその周囲には、朝倉軍の付城跡がいくつも残っているのだとか・・・永禄期の籠城戦の規模を物語るかのようです。

本丸跡に残るあちらの土塁の先を下ると・・・

ここにも堀切が残ります。
史跡指定されている範囲はこの堀切までで、上の図に描かれているのもここまでですが・・・

更に先にも堀切らしき痕跡が2本見えました。
ここは元々古墳だったそうですが、本丸防衛のため、尾根を分断する連続堀切を設けていた可能性もなくはないかな、と思います。
国吉城、なかなか見応えのある、いいお城でした。
※下山途中、パーンという音と共に大きな岩が落ちてくるというハプニングがありました。
幸い、すんでのところで事無きを得ましたが、山には危険がたくさん潜んでいることを改めて思い知らされました。
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